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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
五章
98/208

Belle et Bete 【7】


(あと、三日が過ぎたら)


 出て行くことを決めてしまったからだろうか、毎日が空虚に感じてしまう。

 行ってらっしゃいと誰かが送り出してくれて、お帰りなさいと誰かが迎えてくれる。皆で賑やかに食卓を囲む。そんな日常が終わってしまう。

 辛いことも沢山あったけれど、クロエはここでの生活に安息を感じていたのだ。


(私のばか! 意気地なし!)


 外の世界に出て自分を試すのだ。そういう前向きな気持ちなのに、どうしてこうも悲しくなるのだろう。

 ばしりと両頬を叩いて気合いを入れる。力が入りすぎて痛い思いをした。

 熱っぽい痛みに促されるように目頭が熱くなる。大丈夫と思えるまでクロエは頬を押さえていた。

 そんな時、部屋の扉が開かれる。クロエはびくりと肩を揺らす。


「レヴィくん、どうしたの?」

「エルフェさんがオレ等に話あるってさ」


 窓から見える空は赤らんでいる。時計に目をやると丁度、店を閉めた時間だった。

 クロエがレヴェリーと共にリビングへ向かうと、既にソファでエルフェとルイスが向き合っていた。


「レヴィとメイフィールドに話がある」

「なら、オレは何故呼ばれたんですか?」

「お前は二人の兄弟のようなものだろう。許可を貰いたい」


 ただ事ではない雰囲気だった。席に着いたクロエは緊張から思わず唾を飲み込む。

 身を乗り出したクロエを一瞥し、それからレヴェリーを見据えたエルフェは言った。


「レヴェリー、メイフィールド。俺と家族にならないか」


 その瞬間、世界が止まった。

 クロエの世界がというよりはこの場の空気が凍り付いた。レヴェリーはぎょっとして立ち上がる。


「け……結婚!? オレ、そっちの趣味ねーんだけど! つーか、クロエもか!? 二人か!? あんた何考えてるんだよ、他にプロポーズする相手いるだろ!?」

「ドレヴェスでは同性婚と一夫多妻が認められているから問題ないよ」

「余計なことを言うな、ルイス」


 ルイスの冷静な指摘にエルフェもまた冷静に切り返すが、クロエの混乱は収まらない。


「あ、あの、私もちょっと困ります……。べ、別にエルフェさんが嫌いとかそういうのじゃないんです。でも年齢差とか……いえ、私も三十路のようなものですけど、やっぱり良くないというか……! 私とエルフェさんじゃ不釣り合いですし、お嫁さんはレヴィくんだけにして下さいっ」

「オレを生け贄にするのかよ!?」

「だ、だだ、だってレヴィくんはエルフェさんとずっと一緒に暮らしてきたんでしょ? やっぱりこういうことって、長い時間を掛けて考えた方が良いと思うの」

「恋愛は量より質だろ! オレは男は御免だッ!!」

「少しは話を聞け」


 結婚はお断りだと震えるクロエとレヴェリーの前で、エルフェの硬質な顔がどんどん歪んでいく。雷が落ちる寸前の空気にレヴェリーは着席する。

 エルフェは怒りと呆れを粗く混ぜたような渋面のまま、告げた。


「俺が言っているのは婚姻ではなく、義親子の関係を結ばないかということだ」

「恐れながら、レイフェルさん。養子縁組ができるのは二十五歳以上の夫婦に限られています」

「ヴァレンタイン侯爵もお前を引き取った時は十代だっただろう。細かいことはどうとでもなる」


 間髪を容れずに投げ掛けられる問いに答えたエルフェは手を組むと、黙って二人を見た。彼は返答を待っているようだった。


「あー……、オレはそれでも別に良いっつーか……。元々、あんたのこと親だと思って暮らせってファウスト先生に言われていたから、抵抗とかはねーし。でもさあ……」


 視線を彷徨せていたレヴェリーは横目でルイスを窺う。


「レイヴンズクロフトに入ることで普通の生活ができるようになるんですか? 悪の貴族に組することで厄介なことに巻き込まれませんか?」

「正直、そこは保証しかねる。だが、俺の家はそう言われるように裏社会ではそれなりの発言権を持っている。【死人】の二人が動き易い環境にはなるだろう」


 エルフェの話を聞くルイスの双眸には不穏な色がある。もしレヴェリーに何かあれば、銃を向けることも辞さないという物騒な色合いだ。

 けれど、彼なりの考えがあったのか、最終的には反対しないと言った。

 ルイスの許しを得たレヴェリーには最早拒む理由はなく、エルフェの提案に応じた。残るはクロエだけだ。


「無理強いをするつもりはないが、どうだ?」

「申し出は嬉しいです。でも、私はエルフェさんにそうしてもらえるような存在じゃないです。私はここにいる意味がなくて……、だから出て行かなきゃ……」


 そこまで言ったところで、クロエは我に返る。本音を吐き出してしまった唇は涙で潤んでいた。

 涙が出た理由は分かっている。結局クロエはルイスの指摘通り、自棄になっていたのだ。空元気で立っていたに過ぎなかった。


「勢いで飛び出して生きていけるほど世の中は甘いか?」

「……いいえ」

「親と思わなくて良い。俺のことは利用するものだと考えろ。生きていく為に利用しろ」


 出て行くとしても、足場を固めてからの方が良いはずだとエルフェは諭す。

 エルフェは友の過ちを止められなかったことは己の罪だと言いたげだったが、罪悪感だけでここまではしない。

 瞬きで涙を弾き飛ばし、エルフェの目を見返したクロエは、やがてこくりと頷いた。


「もう暫く、お世話になります」


 考える時間をくれと請うこともできた。

 答えを先延ばしにして惰性でずるずると居座っているくらいなら、思い切って決断してしまった方が潔い。エルフェの言うように、生きていく為に縋る。普通に戻る為に何でも利用する。


(ううん、言い訳かな)


 クロエはこのぬくもりを捨てられなかったのだ。

 差し伸べられたものが蜘蛛の糸のように細く儚いものだとしても、手を伸ばさずにはいられなかった。

 本当に、意気地がない。未練がましいにも程がある。こんなどうしようもない自分を好きになることができるのかと不安になる。


「私、出て行くつもりで荷造りしていたんです。無駄になっちゃいました」


 クロエは泣き言の代わりにそんなことを白状した。

 すると、エルフェは不思議なことを言う。


「荷造りなら続けて良い。元々させるつもりだった」

「え……、え?」

「引越しするんだってさ。何回目だよ」


 エルフェもヴィンセントも外見上の老化がないので、周囲に不審がられないように一ヶ所に留まらないのだ。

 レヴェリーは慣れているようだが、それでも言いたいことはあるようで目は据わっている。


「引越しって何処へですか?」

「【ロートレック】の三区画だ」

「檸檬畑ですか!?」

「ああ。そのテーシェル市だ」


 クロエが目を輝かせたのには理由がある。【ロートレック】三区画テーシェルは、湖畔の町だ。檸檬の名産地であり、その檸檬を使って焼き上げたレモンパイを投げ合う祭りが毎年行われている。

 一人立ちするにしても、そんな自然に囲まれた場所で暮らしていけたら幸せだろう。

 田舎に引越すことにうんざりしているレヴェリーとは裏腹に、クロエは期待に胸を膨らませる。

 ふと、ルイスはこのことをどう思っているのだろうと窺う。彼は素っ気ない目をしていた。


「あの、手紙書かなくて良くなったみたいです」

「もっと厄介なことになった気がするけど」

「そう、ですか?」

「何度も言うけど、軽率だよ。レヴィもレイフェルさんもだ」


 クロエがこそりと話し掛けると、ルイスは面白くなさそうに応えた。






 窓の向こうに見える空は暗い。

 時計を見れば、もう夜の十一時だ。今日は色々あった所為か目は冴えていた。このまま横になっても眠気はやってきそうにない。ベッドの上で膝を抱えていたクロエはサンダルを履いた。

 母屋へ入るとまだ明かりが点いていて、リビングの方から話し声が聞こえてきた。クロエは無性に誰かと言葉を交わしたくなり、姿を探してしまう。


「確かにあの人たちの人権を考えろと言いました。でも、ああいう意味で言ったんじゃない」

「ならばクラインシュミットの遺児として隠していくのか」


 廊下へ踏み出すと、声がはっきり聞こえた。

 リビングから続く廊下の奥にはエルフェの部屋がある。クロエはシャワーの音がするバスルームを通り越し、エルフェの部屋の前へ立つ。


「俺は俺ができる最良を選んだ」

「悪の貴族の養子にすることの何が最良なんだ」

「少なくとも、政府は手出しできないはずだ。あちらも教会とは揉めることを望んでいないからな」


(エルフェさんとルイスくん……?)


 エルフェとルイスは養子の件の話をしているようだった。

 クロエは扉の前に立ったまま、動けなくなる。


「謝れば終わりか? 償えば終わりなのか? あんたのしていることは何の解決にもならないじゃないか」

「では、お前はどうすることが最善だと考える?」

「質問に質問を返すな。オレはあんたに訊いているんだ」

「達者な口を利くが、社会的に何の地位もない子供(おまえ)にも何もできないはずだ」

「黙れ。あんたの話をしていると言っているだろ」

「あ……あの、夜中に揉めないで下さい……!」


 延々と続きそうな陰険な会話を聞いていられず、クロエは部屋に踏み込んだ。

 こうしたやり取りになるとルイスは譲らないとクロエは知っていた。


「エルフェさんも……貴方も、落ち着いて。お願いですから、落ち着いて下さい」


 突然割り込んだクロエに両者から視線が突き刺さる。

 クロエはエルフェに食って掛かろうとしていたルイスを止めようとして、その眼差しに戸惑った。

 邪魔をするなと咎める目ならまだ分かる。だが、ルイスは戸惑いの目をしていた。


「何があったんですか?」

「何でもないよ。気にしなくて良い」

「気になりますよ」

「キミに対しては怒っていないから」


 クロエの声を遮るようにルイスは言う。それから彼は機嫌を損ねたような仕種で顔を背け、身を翻した。


あんたが(セ・ティナドミッ)したことを(スィブル・ス・ク・)許さない(テュ・ア・フェ)

「ああ、それで良い。感謝する」

「……良くも(テュ・オズ・ム・)そんなことを(フェール・サ)


 ルイスは乾いた声色で言い放ち、一度エルフェを睨むと部屋を出た。

 閉じられた扉の向こうで足音が遠ざかっていく。完全に音が聞こえなくなると、エルフェは渋面を作った。


「そういう格好で出歩くな」

「ごめんなさい」


 長椅子に構えた部屋の主はゆっくりと足を組む。その彼と相対するクロエはうなだれた。

 ここが寝室であることは分かっている。クロエは寝間着姿で、その上にショールを羽織っただけだ。淑女がそのような軽装で異性の部屋を訪ねてはいけない。

 出直すべきだろうか、とクロエは考える。

 日を改めて、心を整理してから話した方が良いのかもしれない。だが今、話をしたかった。クロエは腹を括って顔を上げる。


「何の用だ?」

「エルフェさんはローゼンハインさんとお母さん、どうなると思いますか」

「どうとは?」

「その、仲直りというか……上手くいくのかなって」


 これから先の二人の関係がどうなるのかはクロエも気になるところだ。

 【ダイアナ】ではなく、【ディアナ】を知るエルフェがどのように考えているのかを聞きたくなった。


「ディアナはやらかし放題だったが、あれで筋を通すところがある」

「や、やらかし放題……」

「どちらもプライドだけは高い。折れるとは思えない」

「それなのにローゼンハインさんの話に乗ったんですか?」

「それは……」

「エルフェさんって意外と適当ですよね」


 公平といえば聞こえは良いかもしれないが、自主性がないのではないだろうか。

 悪気なくトラウマを引っ掻かれたエルフェは押し黙る。その様子にクロエははっとする。


「す、す、済みません! 別に私はエルフェさんを苛める訳じゃないです」

「苛めか……」

「い、いえ、苛めじゃなくて……その、責めにきたんじゃないんです! 私、お礼をしにきたんです」


 エルフェはしっかりしているようで、うっかりしている。序でに内面がか弱い。

 クロエは繊細で傷付き易いエルフェを刺激しないように、静かに切り出した。


「私に【理由】をくれて有難う御座います」


 エルフェは半年前も店の手伝いという理由を与えてくれた。その理由がなければ、クロエはただ借金返済の為に捕らわれているだけの存在だった。少しずつでもここでの生活に馴染んでいけたのは、役割があったからだ。


「私、半年前から全然進歩していなくて駄目なままです。こんな風だから心配掛けてしまったんですよね」

「同情のつもりはない。少なくとも、今度は」


 答えるエルフェの声は低く響く。クロエは頷いた。


「すぐにお父さんと呼ぶのは無理かもしれません。私にとって親はメイフィールドの父だけですから」

「ああ」

「でも、いつか……気持ちに余裕ができて、色々考えられるようになって、そうすることができたら良いなとも思うんです。だから、私のことも名前で呼んで下さい」


 今はまだできないけれど、いつかそうできたら幸せなことだとクロエは思う。

 血の繋がりがなくても家族のようになれたら、それは素敵なことだ。


「言いたかったのはそれだけです。では、失礼します」


 お休みなさい、と言葉を残したクロエは一礼して部屋を去った。

 主のみが残された部屋にカチコチと時を刻む音が響く。


「……メル」


 冷たい夜の静寂に抗うようにエルフェはその名を呟く。

 憎まれた方が楽だというのに、クロエもメルシエも決してそうはしない。エルフェにとって何よりの罰だ。

 漸くヴィンセントの気持ちを理解することができたエルフェは、思い出の時計をきつく握り締める。傍らでは大時計が時を刻み続けていた。






 リビングへ戻ると、風呂から上がったレヴェリーが濡れた髪を拭いていた。

 テーブルの上にはミルクの入ったグラスと、黄金色の蜜が詰まった小瓶がある。

 蜂蜜入りのミルクを飲めばさぞや良い夢が見られるだろう。クロエはレヴェリーに倣ってミルクを温め始めた。


「今日のことで無理してないか?」

「どうして?」

「オレは十年暮らしてきたけど、クロエはそうじゃないだろ」


 クロエが目をぱちぱちと(しばたた)かせると、レヴェリーは答えた。

 レヴェリーはグラスに注いだミルクを一口味わい、こう続けた。


「今更だけどさ、オレ等って感覚可笑しいんだよ。今日のことも突然で、オレやエルフェさんに流されて頷いたんじゃねーかなって」

「ううん、そんなことないよ。私なりにちゃんと考えて決めたことだから安心して」

「それなら良いけどさ」


 レヴェリーはグラスに残っていたミルクを飲み干し、不味い……と唸った。

 クロエは猫のように丸まってしまう背をぽんぽんと叩いてやる。

 レヴェリーはあまりミルクが好きではない。それでも毎晩欠かさずに飲むのはある目的があるからだ。


「男の子は二十歳を過ぎても身長伸びるっていうし大丈夫だよ」

「そうかなあ……」

「それにレヴィくんは今のままで充分可愛いと思うよ」

「クロエ……、性格悪くなってねえ……?」

「そんなことないよ。人は外見よりも心が大切だもの」


 弟に身長を抜かされたままでは兄としての立場がないとレヴェリーは焦っているが、クロエは気にすることでもないと思うのだ。


「実際、中身より外身だろ? 第一印象で決まるし」

「そうだけど、夢くらい見たいの」

「クロエの夢って?」

「秘密って前に言ったでしょ」


 林檎の木のある家で沢山の家族に囲まれて暮らしたい、なんて言ったら笑われてしまう。

 あんな裏切りに遭いながらもまだ家族という繋がりを欲している。自分でも可笑しな夢だと苦笑いしてしまいそうになる。

 クロエはそんなどうしようもない夢を自分で嘲らないよう、自分を認められるようになりたい。まずはそれが目標だ。


「夢は心の中に仕舞っておくから夢なの」

「ふーん」


 クロエはミルクパンで暖めたミルクをマグカップへ注ぐと席に着いた。ドングリ型のハニースプーンを伝って黄金色の蜜がミルクに沈んでいった。

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