Belle et Bete 【6】
一日一日、その足音が近付いてくる。
夜に降った雪も最近は朝になるとすぐに溶けてしまう。風に緑の匂いを感じ、雪から覗く土に新芽を見付けられる。芽吹きの季節はもう訪れていた。
ヴィンセントとの対話から幾日かが経ったある日、クロエは長かった前髪を切った。
眉下の長さで、目には掛からない長さ。中途半端なようだがそれだけで視界は広くなった。
(つまらない顔だって良いの)
クロエはここを出て行くつもりだった。
行く先は定まっていない。旅立つ日もまだ決めていない。
考えているのは、自分の在り方だ。
未だに目を覚まさないディアナは今後も政府の管理下に置かれるようだが、ヴィンセントやファウストがいるのだから悪いようにはならないだろう。エルフェにもメルシエがいる。レヴェリーとルイスにも居場所がある。ここで役割がないのはクロエだけだ。
勿論、そのような後ろ向きな理由で出て行こうとしている訳ではない。
クロエはこれまでずっと世界との関わりを避けていて、それを自分でも許していた。その甘えを止めようと思った。
誰かに傍にいて欲しいなら自分から傍にいれば良い。孤独を破る答えは、そんな簡単なことだった。それを理解した瞬間にクロエは己が独りではないことに気付き、クロエが子供であった日々は終わった。
そうしてクロエは旅支度を始めた。
トランクケースを用意し、ものを詰めた。少しずつ買い集めた花の本や、ぬいぐるみ。スケッチブックに色鉛筆。ここでの思い出が詰まったものたち。
数日掛けて一通りの支度を済ませ、あとは衣類といったものを詰めるだけになった。最後の用意を始める前に、クロエは髪を切った。
鏡の中のつまらなそうな顔をしっかり見て化粧を施し、髪を整える。そこでクロエは髪型はどうしようかと悩んだ。
たまに気分で髪を下ろすことはあっても、家政婦という立場に甘んじていたクロエは髪を後ろで一つに纏めてしまう癖があった。これからその立場がなくなる自分はどういう風にするべきなのだろう。
クロエは思いきって髪を下ろしたままにする。それだけでは味気ないから左側の髪を一房掴み、三つ編みを作った。
やはりというべきか、地味な顔にどれだけ化粧を施してもぱっとしない。
だが、嘆く気持ちはない。
「ちゃんと笑うの」
つまらなく見えるのなら、そう見えないように微笑もう。俯いても泣いても良いけれど、そうした後はその分だけ前を向いて笑えるようにするのだ。
それが、自己嫌悪ごと己の全てを呑み下したクロエが決めた誓いだった。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
アフタヌーンティーを準備をしていると丁度帰宅した人物がいる。
肺炎の経過を看る為に病院へ行っていたルイスだ。クロエは駆け寄った。
「お帰りなさい。結果はどうでした?」
「特に問題はなかった」
「良かったです。丁度四時なんですけど、お茶飲まれますか?」
「紅茶なら貰う」
先日のことで観念したらしく、ルイスはクロエから逃げるようなことはなかった。
ルイスは泣き喚くことにも怒ることにも疲れて眠ってしまった子供のようだ。今の彼のうっすらと寂寥を纏った雰囲気は、出会った頃のものに似ている。
だからこそ、クロエは訊きたくなった。
「ずっと訊きたいことがあったんです」
「何を?」
「私のこと、恨んでいますか?」
彼は私を恨んでいるのだろうか。
彼を不幸にしながらも安穏と眠り続け、今もこうして生きている存在を疎ましく思っているのだろうか。
「どういう意味で言っている? 問われた意味によって答えが変わる」
「私の所為でそんな傷ができたんですよね……? だから……その、私が生かされたことによって貴方が嫌な思いをして、そのことを恨んでいるかということです」
十年前にクロエを生かしたのはヴィンセントだが、それはルイスの犠牲の上に成り立っていることだ。
売ったのだというあの言葉を聞いた時からクロエは怖くて仕様がなかった。
今だって怖い。こんなことを訊いたらまた仲違いをして、そのまま凍り付いてしまいそうで怖い。
「キミが負い目を感じる必要なんてないだろ」
「あります」
「どうして」
「どうしてもです。常識的に考えて下さい」
「キミに常識を説かれる意味が分からない。それにオレはこれについて詮索を受けたくない」
ルイスの過去は彼だけの領域だ。クロエも己の領域に踏み込まれたくない気持ちは人一倍強いので、踏み込んではならないとは理解している。
クロエはカップの中の赤い紅茶を見つめた。
「私は貴方と違って平和呆けしているし、面白くは思いませんよね……」
「そうだね。そうやって妙な理由で落ち込んでいられるのは不愉快だ」
「だ、だって……!」
「恨んでないよ。寧ろ、良かったと思っている」
返ってきた言葉は悲しいほどに予想通りのものだった。
今ルイスの顔を見たら泣いてしまいそうだ。クロエは紅茶を睨むことでじっと耐えた。
「何の役にも立てず、他人の重荷になるだけのオレに価値を見い出した人がいて、そのことでキミの役に立てていた。そう考えたら、生きていた意味もあるのかと少しは救われる気がする」
「か、かっこつけないで下さい!」
「つけてないよ」
「つけてます」
「じゃあ、仮に恨んでいると言ったら?」
「それは……償うしかないじゃないですか。貴方の気が済むまで何でもします」
「例えば、あの男のように奴隷として一生尽くせと言ったらどうする?」
「そ、それは……」
それは確かに物騒だが、あのご主人様を自称する悪党に仕えるよりは心身の衛生状態は遥かに良い。それに、この危なっかしい人を傍で見守ることができるのなら、それはそれで良さそうだ。
そこまで考えてクロエは愕然とする。
(……って、良くない。全然良くないよ)
この半年で奴隷としてしっかり調教されてしまったような気がして、クロエはふるふると頭を振った。
「何でもして良いということは、オレがされたことをキミにしても良いということになる。……悪意を持っている奴だっているんだ。軽率なことは言わない方が良い」
「ごめんなさい……」
「この前も言ったけど、嫌いとか怒っている訳じゃない。キミは洋梨だから憎めない」
「え……と、洋梨? 洋梨が好きなの?」
洋梨に似ているから嫌いではないというのは喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。
一体どの辺りが洋梨に似ているのだろうとクロエは真面目に考える。
(雰囲気……容姿……体型……?)
体型は洋梨や林檎というほど豊満なつもりはないのだが、洋梨の表面のようにつるんとはしている。容姿も体型も見事なまでにつるんと地味だ。つまり、つまらないから嫌う価値もないということか。
そうして自虐的な自問自答をして渋面を作っているクロエに、ルイスは呆れたように言った。
「シューリスで洋梨は愚かな人の比喩に使う」
「す、素直に莫迦と言われた方が傷付きませんよ!?」
「意地悪と言われないように遠回しで言ったつもりなんだけど……」
「そんな微妙な優しさ要りません」
クロエは泣きたい気持ちも忘れてルイスを睨んだ。
「お人好しは嫌いじゃない」
「えーとるぼんぼんって何です? 洋酒入りのお菓子とか林檎飴のような響きですけど、話の流れからして莫迦とかそういう意味ですよね……」
「それで合ってるよ、大体は」
藪蛇になりそうだったのでクロエは大人しく引いた。ただ、心までは素直に従わずにささくれた気分になる。
「私が分からない言葉を使うなんて意地悪です」
「そういう最低の奴に感謝していると莫迦なことを言ったのは?」
「私です」
低く鋭く言い放たれた素っ気ない言葉にクロエはむう、と唇を尖らせる。
今まで反抗的だった人間が急に丸くなる訳もなく、ルイスの言動は冷たい。これくらいで丁度良いのかな、とクロエは思った。
彼との距離がなくなり本当に仲良くなってしまったら、ここを動けなくなってしまう。
乳白色のカップに溜まった紅茶は赤く澄んでいる。その色合いはクロエの生を否定する、かの人物の双眸と何処か似ている。クロエはじっと見つめるばかりだった液体をゆっくりと飲む。
話し込んでいる間にすっかり冷めてしまい、紅茶はぬるくなっていた。
湯がぬるければ茶葉は開かず、かといって熱過ぎても味は楽しめない。丁度良い熱さというのは難しい。クロエは冷めてしまった紅茶にミルクを注ぐ。
少し多めにミルクを入れた紅茶を一口飲み、内心自嘲するクロエにルイスは声を掛けた。
「何か余計なこと考えていないか?」
「……え……ま、まさか!」
声は見事に裏返った。
ルイスは見抜いている。クロエは動揺に気付かれないよう声を潜めた。
「ここを出て行こうなんて考えていません」
「キミはここを出て行こうと考えているのか」
「……あ」
これは鎌を掛けられたのだろうか。そうだとすれば、見事に墓穴を掘った。
ルイスは呆れたような顔をしていた。必要以上に茶葉が開き、えぐみが出てしまった紅茶を飲んだような表情だ。
自分も同じような顔をしているのだろうなと考えたクロエは、わざとらしいほどに明るい声で白状する。
「ばれてしまったのなら仕方ありません! まだ皆には内緒ですよ。準備が済んだら私から言いますから」
「皆、薄々気付いてる」
「そ、そんな……っ」
「キミは分かり易いよ」
騒ぐ心をどうにか鎮めたクロエは、カップを指先で撫でた。
「別に……行方を眩まそうとかそういう後ろ向きなのじゃないですよ。お母さんのことがあるから、ローゼンハインさんたちとはこれからも関わっていかなきゃいけないですし」
「だったらここに居候していた方が何かと楽なんじゃないか」
「できませんよ。私がここにいられる理由はなくなっちゃったんですもん」
「キミは被害者なんだ。生活を補償される権利はある」
「……私にそこまで図々しくなれというんですか?」
「ああ」
クロエは心の中で訴える。そんなことを簡単に言わないで、と。
彼等に借金を支払うつもりはない。拘束される理由はなく、道具という価値もなくなったクロエはここにいる必要がない。
そんな事実に寂しくなりながらも興味半分、期待半分で訊ねてみた。
「貴方は引き留めてくれるんです?」
ルイスはクロエから視線を外し、素っ気なく答える。
「キミが本当に思ってそうするのなら止めないよ。出て行って野垂れ死にしようがそれは自己責任だ」
「またそういうことを……」
「出て行きたいのならご自由に。オレもキミがいない方が楽だ」
ルイスに悪意はないのだろう。クロエは精彩の消えた横顔を見る。
孤高で在ろうとするルイスはある意味でヴィンセントと似ているのかもしれない。だが、彼は【永遠】はないのだと理解している。
ルイスは喪失を恐れている。そして、両親を殺した相手を深く恨んでいる。
安住できる場所を作らないのは自分という刃を磨ぐ為だ。彼は自分を脆くする存在と、何かの弾みで傷付けてしまうかもしれない存在を減らそうとしている。その生き方は潔いというよりは、ただ痛々しい。
「そうだ! 手紙書きますからお家の住所を教えて下さい」
「鬱陶しいから止めてくれ」
「返事なんて期待しませんよ。私が満足するだけです」
「自分の満足感を満たす為に一方的に送り付けるなんてどうかしている」
クロエの方向性を間違えた押しの強さにルイスは引いていた。
けれど、クロエは気にしない。孤独を破る為には自分から他人に関わらなければならないのだから。
「私はこの際、細かいことなんて気にしません」
「オレが気になるんだ。大体、オレはキミが生きているとか幸せかどうかなんてどうだって良い。興味ない。関係ない。キミがどうなろうが――」
いつものように苛烈に突き放そうとしてルイスは止めた。
容赦したのか諦めたのかは分からない。ただ、その言葉は本心であり嘘でもあるということだけは分かる。
「大丈夫ですよ。貴方が素直じゃない人なんだってことは分かりましたから」
クロエが弱音を吐いていられないと思ったのは、ルイスの本音を聞いてしまったからだ。
ルイスも余裕があった訳ではないのだ。クロエが寄す処と感じていた優しさは、彼がぎりぎりのところから絞り出した、なけなしの愛情だった。
それなのにどうして自分ばかりが甘えていられるというのだろう。
クロエは前髪に隠れていない瞳で真っ直ぐ見つめる。その青い瞳を見たルイスは嘆息混じりに言う。
「引き留めるつもりもないけど、勧めるつもりもない。ただ、自棄になっているなら止めた方が良い。その髪もそうだけど、キミはいつも極端だ」
「そう、かな」
「そうだよ。序でに思い込みも激しい」
「同じ言葉を返しますよ……?」
ルイスにクロエは同じ言葉を返す。
そうして二杯目の紅茶を淹れながら会話をしていると、レヴェリーがやってきた。
「混ざって良い?」
「うん、紅茶で良い? そのケーキはどうしたの?」
クロエはレヴェリーが切り分け始めるホールケーキを見た。
スポンジにチョコレートクリームを塗り、ストロベリーとオレンジを飾り付けたシンプルなケーキは恐らくレヴェリーの作ったものだ。
「バースデーケーキの試作だよ。味見頼むわ」
「悪いけど、レヴィが作った菓子は食べたくない」
「悪いと思うなら食えよ。お前、オレが作ったものが食えないっていうのか?」
「キミのだから食べたくないんだ」
「何でだよ。愛情たっぷり込めて作ったんだぞ」
「気持ち悪い」
「良いから黙って食え!」
男兄弟が作った菓子なんて食べたくないと言いたげなルイスにレヴェリーはがなる。そんな戯れ合う双子を見て、クロエは思い出す。
「レヴィくん、誕生日っていつ?」
「四月十四日。何かくれんの?」
「……どうしてレヴィは簡単に教えるのかな」
隠していたはずの誕生日をあっさりと打ち明けられ、ルイスは嘆いた。
(七日後なんだ。私もお祝いしたいな)
ここを出る日は決めていないが、その日までいることは決まった。
「ふたりとも、何か食べたいものはない? 好きな料理があったら言って」
「んー……ケーキはエルフェさんに作ってもらうし、シチューだな。前に作ってくれたパスタ入った辛いやつ」
「キャセロールだね。簡単だから今日作れるよ」
「マジで? あとトマトに肉詰めたやつも食いたい!」
これから毎日双子の好きなものを作るつもりのクロエは早速、今日と明日の夕食を決める。
レヴェリーから希望を聞いたクロエは、ルイスにも訊ねた。
「ルイスくんは食べたいものありませんか?」
「オレはクリームティーで良い」
「クリームティー? どんな料理?」
「料理つーか、スコーンにクロテッドクリームとジャムつけたの食いながら、茶を飲むことじゃね」
クリームティーとはアフタヌーンティーと同じようなもので、スコーンを食べるティータイムのことだ。スコーンに乗せるジャムはストロベリーが主で、マーマレードや蜂蜜を使うこともあるとレヴェリーは教えてくれた。
(苺に、甘橙に、蜂蜜)
レヴェリーの好きなものも、ルイスの好きなものも、クロエの好きなものも満たされている。クロエはクリームティーとは素晴らしいものだと感動してしまう。
「じゃあ、これから誕生日まで毎日クリームティーをしましょう」
「毎日かよ!?」
「毎日なんだ……」
双子の誕生日は施設に預けられた日だという。つまり、誕生日を迎えるまでの数日に本当に生まれた日がある可能性が高い。そうとなれば毎日祝うまでだ。
本当の両親を持たず、母親の手料理を知らない彼等にクロエは何かしてあげたかった。