Belle et Bete 【5】
「ヴィンセントとはちゃんと話せたの?」
「はい、話せたと思います。私が色々言ってきちゃっただけですけど……」
また機会を見て話すことができたらと思うものの、侮られているままでは本当の意味でヴィンセントと語らうことはできないだろう。
食後の後片付けをしながらクロエはメルシエと話していた。
メルシエもクロエを騙していた大人の一人だが、全うな人生を奪われたという点では仲間だ。クロエはメルシエを慕っていた。真実を知って、より身近に感じたくらいだ。
「自分の為って何なんでしょうね」
被害者仲間のような気安さからクロエはつい愚痴をこぼしてしまう。
「ヴィンセントはあれはあれで潔いよね」
「自分をしっかり持っていますもんね。自分を信じられるのって凄いと思います」
「ディアナの気持ちなんかお構い無しってところがね。自信家の癖にどうしてああなるんだか」
ヴィンセントの陰湿かつ粘着質な面と、自信家の面の落差に呆れたらしいメルシエは遠慮なく溜め息をつき、続けた。
「自分の為といえば、ヴァレンタインのご令息もだね。面倒臭いというかすかしているというか、話していて胃が痛くなる」
「でも、言っていることは正論なんですよ」
「そうなの?」
「他人の為と言って他の人に責任を押し付けたくないのは私も分かります」
クロエが良しと思えないだけでルイスは正しいことを言っている。正しいから、いつも言い負かされる。
その彼自身が【自分の為】と言いながら、自分を蔑ろにして他人のことばかりだから、クロエは今こんな気分になっている。
「あのさ……、多分それは違うよ」
布で水気を拭き取った食器を棚に戻したメルシエは躊躇うように言った。
何に対して違うと言われたのか分からず、クロエは食器を洗う手を止める。
「あの子が言っている【自分の為】っていうのは、自己責任ってことだよ。あんたが思っているような意味じゃない」
他人に責任を押し付けたくないという意味ではないと、メルシエはクロエの解釈を否定する。
「あの、それはどういう……」
「自分のことだけを考えて生きているってのは遣ること成すこと、そしてその結果も全て自分のものなんだよ。誰かが傷付いても自分の所為だから誰かを恨まずに済むし、自分の所為だから後悔できる訳もない。大切な人が傷付いて死んでも、自分の所為だから仕方ないんだ」
それは絶望的な考え。謙虚さとは掛け離れた、とても自罰的なものだ。
どんな時も自分の為だと言っていたのは、他人に負担を掛けない為だったのだろうか。本当は、自分が他人に何か影響を与えてしまうことが恐ろしくて、全て背負おうとしていたのではないのだろうか。
クロエは指先から凍えるような感覚に囚われた。
「自業自得だって諦めて心を殺すと楽なんだ。何にも痛くないから、何でも乗り越えられる」
「そんなの、間違っています」
「間違ってないよ。そうすれば壊れずに済むんだから」
「メルシエさん……」
「あたしが自分の人生を壊した奴と普通に話せるのも、都合の良い時だけ頼ってくるあいつを許せるのも、割り切って諦めたからなんだ」
思いの外、強い調子で返され、クロエは思わず身を抱くように腕を組んだ。
どうしてメルシエはルイスの気持ちが分かるのだろうと疑問に思ったが、それは明かされた。
メルシエ自身がそうして全てを諦めてきたのだ。そうしてきたからこそ、ルイスに同じ匂いを嗅ぎ取った。
「……ごめん、これは年寄りの考えだよ。それも臆病者のね。あたしは三十年前のことだから整理が付いてるんだ。今悩んでるあんたたちとは違うよね」
怯えるクロエの様子を見て、これは悪い見本だというように話を切ったメルシエは後片付けに戻った。
クロエはその後ろ姿をじっと見つめる。
女性にしては広い背中はそれだけ大きなものを背負ってきた証なのだろうか。肩口で揺れる短い髪を見て、クロエはいつかの会話を思い出した。
髪をなくしてしまったのだと――女を捨ててしまったのだという、悲しい告白を。
「メルシエさんは臆病じゃないです」
「あたしのことまで慰めてくれなくて良いんだよ」
「私は自分が言ったことを他人がどう受け取るかを考えると、本当の気持ちを口に出すのは怖いです。諦めたから辛くないなんてこともないです」
受け入れてもらえずに殴られた。泣けば、笑われた。クロエは諦めることと作り笑いを覚えた。運命を受け入れてしまった後は一見穏やかな毎日だったけれど、心に闇を抱えていた。
クロエは平凡に生きればこの空虚が埋まって消えてくれるのだと、ずっと願っていた。
「……あんたには間違えて欲しくないな」
振り返ったメルシエは強張っていた表情を崩すように苦笑を浮かべた。
「あたしはもう燃えかすみたいなもんだけど、あんたの人生はこれからなんだ。何かを諦めたり我慢するのは大人になってからで良いんだよ」
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
夜が更ける。
メルシエとレヴェリーは、エルフェに呼び出されて出掛けてしまった。
後片付けを済ませたクロエは離れへと戻り、寝支度をした。
身体が冷えない内に眠るつもりでベッドに入った。けれど、幾ら経っても眠気は訪れず、寝間着の上にショールを羽織ると母屋へ戻った。
人気のないキッチンに立ったクロエはカップと蜂蜜を用意し、湯を沸かし始める。蜂蜜湯を作るつもりだった。
昨日レヴェリーに作ってもらい、久方ぶりに口にしたそれは施設で飲んでいた飲み物だ。ほんのりと甘いあたたかな湯を飲むと心が落ち着いたものだ。
「懐かしいな」
その懐かしさは最近は薄らいでいたはずの孤独すらも呼び寄せる。
独りが怖い。もう独りは嫌だと、堪えられないとあの時、思ってしまった。一度溶けて崩れてしまった心は中々元の形には戻らず、些細なことで揺らいでしまう。
心が震える感覚に、クロエは思わずカップを強く掴む。
クロエも今の自分に余裕がないことは分かっているのだ。
憎みながらも、心の何処かで信じていた父親と母親という家族。それが虚像だったと知らされ、クロエは世界を奪われた。
実の父親が分からないというだけで、これほど地に足が着かないような不安定な感覚になるとは思わなかった。
(やっぱり嫌いだよ)
人に好かれる為にはまず自分のことを好きならなければと思っているけれど、クロエは自分が嫌で仕方ない。
こんな自分をどうしたら愛せるのか。
こんな自分がどうして他人を好いて良いのか。
どうして誰かに傍にいて欲しいと願って良いというのだろう。
こんなことではヴィンセントを認めさせることなど一生できない。それこそ永遠に、価値のないつまらない人間だと笑われ続けてしまう。
「…………あ」
背後で扉が開いたことに驚き、クロエは振り返る。手からカップが滑り落ちた。
派手な音と共に破片が飛び散る。
クロエは暫く動けなかった。その時、水が沸騰したことを知らせるケトルの音を聞いてはっとする。慌ててケトルのスイッチを切り、塵取りを探そうとする。それよりも先にルイスが破片を拾った。
「私が片付けますから――」
破片を横から取ろうと手を伸ばした瞬間、引っ掻かれたような嫌な感触がした。直後、熱っぽい痛みがやってきてクロエは顔を歪ませる。
手の甲に裂傷ができていた。切り裂かれた傷口から途端に血が溢れ出す。流れる血を見てショックを受けたのは傷を負ったクロエよりも、ルイスだった。
ルイスは己の手が他人を傷付けたのだという事実に凍り付き、そのまま破片を握り締めていた。指の間という間からぼたぼたと鮮血が零れ落ちる。
「は、離して」
「……ごめん」
「お願いだから、離して!」
強張っている指を開かせて、どうにか破片を取り出す。
手も破片も血まみれだった。
クロエは茫然自失とするルイスを引き摺るように連れていき、水で傷口を洗い流す。
「ごめんなさい」
最善のことをしようとしてそれが全て裏目に出てしまう。
クロエとルイスの【最善】はいつも噛み合わず、優しさは鋭い刃物となって両者を傷付けた。
手当ての最中、ルイスは逃げなかった。
破片を握り込んだ為に指も掌も切れていた。血は止まり、骨が露出するようなこともなかったが、皮下組織を損傷していないとは限らない。クロエができる処置は滅菌ガーゼを当てて包帯を巻くだけだった。
手当ての後、気持ちを落ち着かせる為に蜂蜜湯を用意したものの、ルイスは手を付けなかった。クロエも味や香りを楽しむ余裕はなく、蜂蜜の甘い香りも鬱いだ気持ちを払うには至らない。
「さっきのことは謝る。でも、昨日のことを謝るつもりはないから」
間違ったことを言ったつもりはないと、ルイスは引く姿勢を見せなかった。
「……はい、貴方は正しいことを言っているだけです。腹立たしいけど、貴方から言われたことって尤もだなって反省していたんです」
手付かずのカップを見下ろしたままクロエは呟いた。
意地や虚勢を張っても拗れるだけだと理解した。もう感情を吐露して、楽になってしまいたかった。
「私みたいなのに世話を焼かれたら嫌なのは当たり前だし、自分のこともちゃんとできていないのに何様だって思うし……」
「待ってくれ。オレはそういうことを言っているんじゃない」
「私は私が嫌いです。皆に優しくしてもらえたのが申し訳なくて、そんなことを思う自分がもっと嫌です」
「厚意を受けるのだとすれば、それはキミの優しさに対する相応の見返りだ」
「違います。私は優しくないです。私だって下心くらいあります」
優しくして欲しいと考えているのかと問われ、否定したが嘘だ。クロエは醜い本心に気付いていた。
一晩考えて、気付いてしまった。
「貴方に関わったのは、貴方が救われてくれればって……私の代わりに幸せになって欲しいなと思ったのもあります。でも、私が寂しいから一緒に頑張ってくれる人が欲しかっただけです」
自分と似たところを感じる彼に救われて欲しかった。
だがそれ以上に、心の何処かで見返りを求めていたのだ。認めて欲しい、と。
「貴方が言った通り、私はどうしようもなくてみっともない奴です」
無償で尽くすほど清らかな人間ではない。
優しくされたから、優しくしたくなっただけ。与えられたから与え、もっと欲しくなっただけだ。
何も持っていないからこそ、本当のクロエは欲深だ。そんな自分の醜さを恥入るしかない。
「もしもの話を良いかな……」
己の卑劣さを告白し俯くクロエに、ルイスは切り出す。
「誰かがキミの為に親切をしたとする。もしそうだったらキミは負担に思うだろ? 誰かが自分の為に行動した事実を申し訳なく思う。引け目を感じて借りを返そうとする。キミは感謝と義務を混同させて、そいつに関わろうとするはずだ」
ルイスは、クロエの自分が他人の厚意を受けるに値をしないという気持ちを酌んだ上で話した。
「キミはただでさえ自分のことで手一杯なんだ。それなのにオレに気を遣ったら潰れてしまう」
ルイスは【誰か】ではなく、【自分】と言った。
クロエぼんやりと顔を上げる。すると、視線が合うことを厭うルイスは眼差しを下げる。
「オレはキミが毟られる姿を見たくない。潰れる姿も嫌だ。だから、オレの為にもキミは自分のことだけを考えて生きて欲しい。もう莫迦なことはしないでくれ」
ルイスが冷たい言葉で突き放すのは、相手を守る為だったのだろうか。
違う、とクロエは首を振る。
「何ですか、それ……! 勝手に決め付けないで!」
「キミは他人のことまで構う余裕はない」
「私の気も知らないで勝手に決め付けて……。だから、なかったことにしようというんですか」
「それ以外に何があるというんだ? オレはあの時、言ったはずだ。後腐れがないように嘘にしようと」
ルイスは何でもないことのように答えるが、クロエの心は穏やかではない。
そんなことを一言一句覚えていられるほどあの時のクロエはまともではなかった。そんな状況で深読みすることなど不可能だ。
「私は、嘘にしようっていうのはつまり負担ということで……、私が貴方の重荷になったんじゃないかって……。忘れたいくらいに私のこと嫌いなんだって……」
「嫌いなんて一言も言ってない」
「じゃあ、話して下さいよ」
「話すことでキミが余計な負担を増やしたらどうするんだ」
「ですから勝手に決め付けないで下さい!」
「でも事実だろ」
「負担なんかじゃないです……! 幻滅しないって言ってくれたのも、私の話をいつも聞いてくれて……傍にいてくれるって言ってくれたのも嬉しくて……、貴方は私の寄す処だったんです」
悲しい気持ちで北風に当たっていた時、声を掛けてもらえたのが嬉しかった。
嫌いな金髪を、綺麗な蜂蜜色だと言ってもらえて嬉しかった。
興味もないだろう花の話を聞いてくれて、知らない話を聞かせてもらえるのが嬉しかった。
始まりはそんな些細なことだった。
彼は幻滅しないと言った。平気ではないことに気付いてくれて、傍にいてくれた。
「そうだから……嫌なんだ……」
クロエの告白を聞いたルイスは怯えを滲ませた目をしていた。
「あの火傷を見た時から、オレはずっとキミが嫌だった」
服を剥かずとも、袖を捲っただけでクロエの非凡さは明らかになってしまう。思えばルイスがクロエに反抗的になったのもあれからだ。
やはり気持ち悪いと思われていたのかとクロエは泣きたくなる。だけど、ルイスはそれすらも許さない。
「キミが悪いんじゃない。オレがキミの優しさに……弱さに付け込んでいたんだ」
「え……?」
クロエは瞬きも忘れて、目の前の相手を呆然と見つめた。
「嫌われようと思えば幾らだって方法はあったんだ。まどろこしいことをしなくても、もっと簡単な方法があった。結局一人になるのが嫌だから、突き放しきれなかっただけだ」
酷い目に遭わせたくないから心に入れず、けれどたまに戯れ合いたいから本気で突き放したりはしない。ルイスは穏やかな時と辛辣な時の差が激しく、その不安定さにクロエは苦しめられてきた。
「虫がいいだろ……。オレはそういうろくでもない奴なんだ」
それはクロエの中にあった高潔な人物像を崩す、生々しいとさえ感じる告白だった。
目の前にいるこの彼の素顔を初めて見る。
クロエはぼんやりとした心地のまま腕を伸ばし、上衣を掴んだ。
捕まえられたルイスは驚いたように目を見張り、けれど鉄の自制心を以てその手を振り払う。そして、そのまま席を立つ。逃げるように踵を返す彼の背にクロエは飛びつく。
縋るのではなく、捕まえた。
抱き締めて、分かる。あの夜、自分を抱えていてくれた彼がとても華奢なことに。
何か声を掛けたいのに、言葉がちっとも見付からない。彼がそうしてくれたように抱き締めるしかない。
「離してくれ」
「嫌です……」
「オレが最低の奴だと分かっただろ。オレはキミに感謝されるような人間じゃない」
「嫌です離れません」
「頼むから、離してくれ」
「だったら私に嫌われることでもすれば良いじゃないですか!」
嫌なら突き飛ばして殴れば良いのだ。起き上がる気もなくなるほどに拒絶すれば良い。そうすれば諦める。
いや、きっと諦めない。
クロエは自己嫌悪も全て呑み込むつもりでルイスを捕まえた。
「オレの傍にいると皆不幸になる。あの人たちみたいに死ぬんだ」
「お父さんとお母さんのことですか……?」
「そうだよ。あの人たちはオレの所為で死んだ。オレがもっと早く帰っていれば死ななかった」
「貴方に……子供に何ができるっていうんですか。可笑しな夢を見ないで下さい」
十年前の彼――まだ幼い子供に何ができるというのだろう。救うどころか共に殺されるだろう。
そんな幻想を抱いていては苦しいだけだ。クロエにできることはルイスを否定することだけだった。
「私は貴方のお父さんでもお母さんでもないです。ちゃんと生きています。貴方に助けてもらったんです」
「でもオレは、キミを傷付けた……」
「大丈夫です。そうしたくてしたんじゃないって、分かりますから」
不器用なものが触れ合えば傷付け合うこともある。
彼に差し込まれたのは氷の棘だ。いつかは溶け、あたたかな水になる。
クロエは彼に傍にいて欲しいのではなく、傍にいたいと思った。
自分から他人に触れて、孤独の運命を作り上げているのは自分自身なのだと気付いた。
「……痛いな……」
うなじに滲んだ涙が沁みて適わないとルイスは弱音を吐く。
クロエは涙を拭おうとするが、その手は押し留められた。クロエはルイスを抱き締めたまま、彼の肩に顔を埋めた。