Belle et Bete 【4】
「本当に良い天気」
開け放った窓から吹き込んでくる風はひんやりと爽やかだ。
雪の匂いに混じって緑の香りがする。何処から漂ってくるのだろうと探して、自分が持ってきた花から発せられたものだと気付いたクロエは苦笑いする。
「あとひと月もすれば林檎の花も咲くね」
白いシーツの敷かれたベッドの上には女性が横たわっている。
青白い頬に、輪郭をなぞる金の髪、紅を引かずとも血のように赤い唇。重たく閉じた瞼を飾る睫毛は長く濃い影を落としている。クロエのものより少しだけ色が強い蜜柑色の髪に、窓から射し込んだ光が綺麗な輪を作り上げていた。
「また一緒に見にいきたいね」
今は無理でもいつか行けたら良いよね、とクロエは眠るディアナに話し掛けた。
「ねえ、お母さん……、ディアナさん」
透き通るような青白い顔をして眠るディアナに向かい、呼び掛ける。
ここにいるのは間違いなく母親のダイアナであり、ディアナという別の人物でもある。
どちらの名を呼べば応えてくれるのだろう。どちらが彼女を揺さぶる、魂に刻まれた名前なのだろう。クロエは母親であるディアナのことを何も知らなかった。
幼き日に別れたからというのは言い訳にはならない。再会してから語らう時間はあった。
親がろくでもないと子供が辛い思いをすること、綺麗なままでは生きられないこと、そして男が信じられないこと。耳を傾ければ、彼女の悲痛な叫びが聞こえたはずなのだ。
けれど、クロエは彼女を突き放した。汚らわしい、おぞましいと心の扉に蓋をするだけで、ディアナの言葉を何も聞こうとしなかった。
あの時は余裕がなかった。今だって受け入れられないことばかりだ。もし今、話をしても分かり合えない可能性の方が高い。それでも出てくる言葉は一つだった。
「目を覚まして」
クロエはディアナの手を握る。
手を繋いで林檎の森を散歩した。あたたかくて大きな掌に手を包まれると、それだけで胸がぽかぽかした。
(冬は春がお休みしているのと同じで、お母さんも休んでいるんだよね……)
ディアナは今まで辛いことばかりを背負ってきたから、今は幸せな夢を見て休んでいるのだ。
きっとそうだと――そんな救いがあっても良いのではないかと、クロエは願わずにはいられない。
「また花、持ってくるね」
またすぐに会いにくるね、と微笑み掛ける。
クロエは窓を閉じ、レースカーテンを引くとディアナの眠る部屋を後にした。
人気のない廊下を進んでゆく。こつこつ、と足音が響く。
その足音は規則正しいようでいて、たまに調子を崩した。クロエが足を止めるからだ。
これから会うのがヴィンセントだと考えると、足が重くなる。
怖いのだ。
あの夜、ヴィンセントはナイフを突き付けながらこう言った。死ねば良かった――生まれてこなければ良かった、と。
侮蔑にまみれた言葉はまだ耳に残っている。立ち上がろうとする度によみがえり、心を砕くかのように響く。その度にクロエは悪寒に襲われ、闇に囚われそうになる。
「そんなことない」
肯定することは容易い。不屈を訴え、刃向かうよりもずっと優しい。
それでもクロエが諦めないのは【生かされた】から。そして、醜い人間なりの意地があるからだ。
「絶対、ない」
生まれてこなければ良かったと他人に決め付けられたくない。そう言い聞かせて、クロエは扉を開いた。
厳重隔離をされている、かの部屋の主はベッドヘッドに背を預けてぼんやりと掌を見つめていた。その手には懐中時計と思しきものがあり、彼はそれを飽くことなく眺めていた。
「何しにきたのかな」
「お見舞いです」
「手土産ないみたいだけど」
「ここは持ち込み禁止だったので」
「へえ、そう。まあ、食えない花を持ってこられるくらいなら、ない方が良いかな」
興味がなさそうな返事をする彼にクロエは一歩、また一歩と歩み寄る。
「お加減は如何ですか?」
「気分? まあまあだよ」
「そうですか。良かったです」
「ああ……でもね、まあまあだったけど、忌々しい子供の顔を見たから今は最悪の気分だ」
ぐるり、と首を擡げられると、赤い双眸にクロエの恐怖に歪んだ顔が映った。
ヴィンセントは苛立ちを隠しもせず、けれど表情だけは飽くまで笑顔を保っている。禍々しい笑みに、クロエの肩がびくりと震え上がった。
「どの面下げて俺に会いにくるんだよ……?」
血色の双眸は殺意に濡れ光る。
クロエは身を抱くように腕を組み、震える喉から声を絞り出す。
「貴方が心配できたんです」
「心配? つまり可哀想ってこと? 俺が? あははははは……!」
ヴィンセントは大袈裟に笑い出す。
「何なの、お前。俺のことを嘲笑いにきたわけ? 死ねずに今も生きている俺をお前が……ディアナの娘の肩書きを取ったら何の価値もないお前如きが愚弄するのか?」
「そ、そんなつもりじゃありません」
「お前がそういうつもりなら俺も考えを変えないとなァ」
そう言うなりヴィンセントは手を伸ばし、クロエの胸をまさぐった。
何をするのだ……と睨もうとして、クロエはヴィンセントが意図することに気付き、凍り付く。
彼は左胸を掴んでいた。早鐘を打つ心臓を握るように。
普通の人間にそうされたなら羞恥が勝るだろう。しかしクロエの胸を掴むのは、爪の鋭く尖った凶器だ。少しでも力を込めれば爪はクロエの薄い胸を破り、心臓を掴み取る。そして、いとも容易く握り潰すだろう。
「得物がなくても人間なんて殺せるんだ」
声が出ない。足が竦んで動けない。呼吸が細く短くなる。
倒れてしまいそうだった。クロエは己を奮い立たせ、意識と足をその場に繋ぎ止める。
恐怖で身が凍ろうとも逃げることはできない。目を逸らすこともしない。意地というよりも、そうしなければ命がないということが本能的に理解できていた。
「何をしにきたんだよ」
「お見舞いに……」
「そんな建前要らないんだよ。答えろ」
「貴方と、話がしたくて……きました」
一歩でも足を動かせば、膝から崩れ落ちてしまいそうだ。
だが、今ここで逃げてはならない。殺されることよりも、ここで逃げることが怖かった。
ここで逃げたら、これから自分は一生逃げ続けることになる。
ヴィンセントは手を離すと、残忍な双眸でクロエを見据えたまま言った。
「目覚めなければ良かったのに」
「ローゼンハインさん……」
「お前があのまま目覚めなければ、こんな厄介なことにならなかった。ディアナが【あの時】そのまま死んでいれば、俺は間違わずに済んだ」
死ねば良かったのに、とヴィンセントは繰り返した。
「俺も死んでいれば楽になれたのにな」
「どうして性急に終わらせようとするんですか? 生きていれば幾らだってやり直せるんですよ」
「やり直す? あと十年やそこらでディアナは死ぬんだ。そんな短い時間で何をしろっていうんだよ」
「何でもです」
「どうせ死ぬなら全てが無意味だ」
クロエはヴィンセントの性急な生き方の根底にあるものを知る。
外法はとても長い時を生きるのだという。外法のヴィンセントは人間のディアナに置いていかれる運命だ。
永遠は存在せず、時は流れてゆく。長過ぎる時は停滞を呼び、停滞は腐敗を齎す。
ヴィンセントは絶望している。でも、とクロエは口を開く。
「無意味ならどうしてお母さんを探したんですか? 無意味じゃないってそう思っているから、探したんじゃないんですか」
諦めきれないから、あれほど必死になってディアナを追い求めたはずだ。
だからこそ、クロエはヴィンセントの【夢】を壊す。
間違い続けた三十年の夢を、妄執を打ち壊す。苦しんでいる彼を救う為に、【彼】を殺す。
「ローゼンハインさん、永遠なんてないんですよ。でも、私たちは心があります。大切なことを思い出という形にして残すんです、ずっと」
永遠はないのだとクロエは絶望した。自分はまた独りになってしまうのだと、夜な夜な泣いた。
だけど、思い出があるのだと気付いた。
独りになったとしても思い出が――例えまやかしの団欒だったとしても、皆と過ごした日々がある。それを支えに生きていくことができるのではないかと思った。
「貴方がエルフェさんとお母さんを幸せにしたかったというのは、そういうことなんですよね……?」
愛した女が天寿を全うするのを見届けてから自分の身を土へ還すという彼の望みは、綺麗な思い出を刻み付け、それを永遠にしたいという心の表れだ。クロエは一晩考えて、そういう結論を出した。
「だけど、辛い目に遭ってきたからといって、他の誰かを傷付けて良いということにはなりません。自分の望みの為に他人を傷付けるなんていけないです。貴方の遣り方は間違えています」
「へえ……? そういうお前は経験から学んだっていう顔だな? つまり、痛みを伴わない教訓には意味がないってことか」
「私、その言葉は嫌いです。痛みを伴うものにしか意味がないというなら、痛みを知らない人間全てが愚かだということになります。私はそんな風に思いたくないんです」
経験から学ぶということは確かにあるが、クロエはそれを肯定的に見ることはできなかった。
「ローゼンハインさんが今までどんな寂しい思いをしてきたのかは私は分かりません。間違えているというのだけは確かです」
「お前に俺の何が分かるんだ」
「分かりませんよ。……理解しようと思いましたけど、全てを理解することは無理です。私はローゼンハインさんじゃありません。ローゼンハインさんも私じゃないから、私のことは分からないはずです」
「都合が悪くなると開き直るのか」
「貴方とまともに話ができるなんて私はもう考えていませんから」
ヴィンセントの価値観はクロエの価値観と相容れない位置にあり、理解することが不可能だ。
ここが、クロエが譲歩できる最大の地点だった。
「私は今日、貴方と仲直りをしにきたんじゃないんです。三つ言いたいことがあってきました」
クロエの屹然と相手を睨む。その視線を受け止めるヴィンセントは、冷笑と共に血色の瞳を細めた。
赤い瞳の中心にある暗い瞳孔が細く長く開かれる。クロエは思わず息を呑む。本音を包み隠せないその態度に、ヴィンセントは冷たい笑みを深くする。
「言いたいこと? 聞いてやるから言ってみろよ」
「貴方には……生きて欲しいんです」
ディアナが身売りをしていた事実を認めることはできないし、そんな状態で好きな男と関係を持ったことも可笑しいと思う。だが、恨むべきはディアナではなくヴィンセントなのだと、クロエの中で結論は出ていた。
だから、生きて欲しい。
死なないことがヴィンセントにとって最も辛い罰であり、生きることが救いにも繋がるはずだ。
「私は貴方のことを恨みません。でも、お母さんとエルフェさんとメルシエさん、それからルイスくん、沢山の人の人生を滅茶苦茶にしたんですから、生きて償って下さい」
「お前への償いはしなくて良いんだ?」
「私に対して申し訳ないと思うなら、お母さんを仲直りして下さい」
「もし目覚めたディアナが俺を拒絶して、死ねと言ったらどうする?」
「その時はその時で考えます」
「ふうん……。二つ目は?」
すぐさま切り返したクロエに、ヴィンセントは先を促す。
冷たく鋭い微笑を真正面に見据えてクロエは告げた。
「つまらない人生だって……生まれてこなければ良かったって……、その言葉を取り消して下さい」
「嫌だね」
即答したヴィンセントをクロエは睨む。
「そんなみっともない顔をしている子供にそんなことを命じられてもまるで説得力がないからなあ」
「どうしても駄目なんですか……?」
「言っただろう? 醜く生きて、幸福になってみろ。その結果が俺が納得できるようなものだったなら、あの言葉は撤回してやるよ」
顔を歪ませるクロエの前でヴィンセントはにこりと笑った。
それは艶やかな邪さを秘めた笑い。人の業を愛でる悪魔のようであり、人の罪を許す天使のような明るい笑みだった。
「それで、最後は何だ? つまらない言葉なら殺すかもな」
「……生かしてくれて、有難う御座います」
クロエにしたら嫌味もない一言だった。
けれど、ヴィンセントは顔を歪ませた。整った目立ちの容貌に刻まれていた笑みが消える。双眸は信じられないというように見開かれていた。
「辛いことも傷付いたことも沢山あります。死にたいと思ったことも……。だけど、楽しいことも、嬉しいこともありました。有難う御座いました……!」
これが一番言いたかったことだ。
ヴィンセントに一撃食らわせることができたことを、クロエを愉快とも痛快とも思わない。クロエの心はもうヴィンセントという大人から解き放たれていた。
「……変な奴だよ、お前」
「私は貴方より特異じゃありません」
奇特だとか、莫迦だとか。もう一人の問題児に常々言われているクロエは動じない。
ヴィンセントは先を続けるか悩むような素振りを見せ、結局観念した風に頭を振って嘆息した。
「そして大莫迦者だ」
その夜、クロエは憮然たる面持ちをしていた。
一世一代の対決を終え、いざもう一人とも試合おうと意気込んでいたというのに、それは叶わなかった。
ルイスが部屋の扉に鍵を掛けて出てこない。先日のクロエのように引きこもってしまった。大人げない、とメルシエは呆れている。
苛立たしいような、悔しいような、歯痒いような例の言い様のない感情が込み上げ、そうして最悪な気分のまま夕食の時間となり、クロエはむつけた顔をして黙々と食事を取っていた。
「クロエ、急いで食うと消化に悪いぞ?」
「お腹空いてるの」
「昼も食ってなかった?」
「体力付けないとあの人たちと戦えないの」
「ふ、ふーん……」
「食べなきゃ人間、生きていけないもの」
問題児を相手にするには腹拵えだと飯を咀嚼するクロエに、レヴェリーは痛ましげな視線を投げ掛けた。
クロエがいつになく積極的に食べているので、レヴェリーもメルシエもぽかんとする。
「えーと、お代わり要る?」
「貰います。アップルパイを下さい」
エルフェは今回の件の後始末で出ているらしく、今日の家事はメルシエが引き受けていた。
夕食はアップルパイ、豚肉のステーキ、メーリッヒという水分が少なく溶けやすいジャガイモを使ったスープだ。
料理は大皿に盛り付けられ、テーブルの中央に置かれる。そこから各自好きなだけ取るというのがドレヴェス風の家庭料理らしい。
甘く煮た林檎がぎっしり詰まったさくさくのアップルパイを頬張るクロエに、レヴェリーは話し掛ける。
「あのさ、ルイが帰ってきた日あるだろ? あの時何してたんだ?」
その質問に、クロエは林檎の塊を噛まずに飲み込んでしまう。
林檎の欠片が胸に詰まり、息が止まる。クロエは慌てて胸を叩き、茶を飲んだ。
「…………話して、いたんだよ。あと、薬飲んだりとか……」
寂しさに負けて一晩中くっついて泣いていたなんて口が裂けても言えない。
嘘にしないと言ったことは、間違いなくクロエ自身の首を絞めていた。
「だよなー。変なことになってたら嫌だと思って放置したけど、杞憂だよなー」
「変なことってなに……?」
もしやメルシエのような誤解をしているのかと、クロエはレヴェリーをじっと見る。食べ物を吹き出したり、喉に詰まらせないように食事の手はきちんと止める。
「それは勿論【これ以上、苦しむくらいなら、いっそお前を殺して俺も死ぬ!】的な感じっつーか。扉開けて一面血の海だったら嫌だし、様子見に行けなかったんだよ」
「レヴィ、あんたはドラマの見すぎだよ。というか、もしそうなっていたら救わないと本当に手遅れになるんじゃないの?」
「救える自信ねーし」
「薄情者だね。そんなんだとレイやヴィンセントみたいになるよ」
「げ……っ、それは嫌だ!」
「反面教師が二人もいて良かったね。ほら、もっと食べな」
やれやれと呆れたように言いながら、メルシエはレヴェリーの皿にステーキを取り分けた。
「まあ、ヴィンス以上に悪趣味な奴なんていねーよな」
レヴェリーは本人がいないのを良いことに言いたい放題だが、悪趣味ということに関してはクロエも同意だ。
愛し合いならぬ殺し合いだとか、殺して自分のものにするだとか、相手を殺して死ぬだとか。そんな物騒な付き合いをして喜んでいるヴィンセントとディアナは悪趣味だ。
悪趣味だからこそ共にいたのかと思ってしまう。似た者同士だからこそ惹かれたのか、と。
(分からなくはないけど)
自分と近いかもしれない人が気になるというのはクロエも分からなくはない。
(……って、私はお母さんとは違うけど!)
ルイスのことはどうしようもない人物だから放っておけないだけだ。そうして自分を納得させようとしてみると、昨日負った胸の傷が強く疼いた。
痛みの理由は明確に分かっているのに、胸に刺さった棘は抜けない。その痛みももどかしさも全てが腹立たしくて、どうしようもない。
兎に角、今は腹を満たすことが先決だ。クロエはフォークを動かすことに集中した。