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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
五章
94/208

Belle et Bete 【3】


「私がお母さんの娘だって初めから知っていたんですか?」


 自らへ誓いの通り、外へと出たクロエはエルフェを呼んだ。

 話をしたい意思を伝えると、エルフェはメルシエを伴って帰ってきた。

 常世からやってきたような陰鬱な気配を纏った彼を前に、クロエは初めて会った時のように気圧される。目を合わせれば、心臓が潰れてしまうかもしれない。

 だけど、逃げない。絶対に逃げてはいけないと自らを奮い立たせる。

 クロエはメルシエを一瞥し、エルフェと視線を合わせる。

 エルフェはメルシエを連れてきたのは飽くまでもこの席の監督をさせる為だと語ったが、彼女へも話を聞かせたい様子だった。


「ああ、全て知った上でのことだ」

「つまり、私を利用する為ですか? 道具として価値があったからここに置いてくれたんですよね」

「否定するつもりはない。俺はヴィンセントの提案を受け、お前を生かした」


 うっすらと感じていた気後れのような感情の正体をクロエは漸く知る。

 エルフェはクロエを傷付けることはなかったが、同時に守ることもなかった。いつも遠くから見ているだけだった。薄情だと周りから詰られるほどに傍観の姿勢を貫いていた。クロエを利用する為に生かし、接していたのだ。まともな人間なら罪悪感を覚えて当然だ。

 犯罪の片棒を担いだという罪悪感がクロエとの間に氷の壁を作り上げ、関わりを避けさせていた。彼は好きで傍観していたのではなく、そうせざるを得なかったのだ。

 エルフェから受けた優しさは罪の意識からくるもの以上に、父親と母親に捨てられた娘への哀れみだったのかもしれないとクロエは思う。


「お母さんを見付けてどうするつもりだったんですか?」


 ディアナへ焦がれている訳でもないだろうエルフェが何故、ヴィンセントに協力したのか。

 エルフェの中立を貫く姿勢はクロエに関することだけではない。そんな彼が肩入れするのは一体どんな理由があってのことかが気になり、クロエは訊ねた。


「俺はヴィンセントとディアナにやり直してもらいたかった。やり直すことが不可能でも、仲違いをしたままでいて欲しくなかった。ディアナが見付かればあの頃のように、全てが元通りになるのではないかと思った。……そのようなことなどないと、頭では分かっていたんだがな」


 エルフェは呻くように語ると、髪を掻き上げた。

 隙なく纏められていた髪が崩れ、青み掛かった銀髪が額へと掛かる。普段上げている前髪を下ろすと印象が変り、随分若く映る。

 エルフェは若くして肉体の加齢を止めさせ、二人の友をなくした時に心も止めてしまった。苦悩が見え隠れする瞳は、この三十年が彼にとってどんな人生だったのかを窺わせていた。


「メルシエの人生を潰したのはあいつじゃない」

「な、何言ってるんだよ……?」

「こいつの人生を狂わせたのは俺だ」


 離れた場所で話を聞いていたメルシエは席を立つ。その勢いで椅子が倒れた。

 派手な音を立てて倒れる椅子をメルシエは起こさない。


「理由はどうであれ、俺はお前を利用しようとした。そして、こいつに償いをしていない。俺は人でなしと詰られても仕方ない人間だ」


 ヴィンセントは既に一人の女の人生を潰しているから信用するな、とエルフェは言ったことがある。あれはそのままエルフェ自身へ返る言葉だった。

 ヴィンセントはディアナがエルフェのことを好きだと勘違いしていた。だから、邪魔な存在であるメルシエを殺そうとした。クロエは彼等から聞いた断片的な話から想像するしかない。


「あたしは……あんたのことを恨んでない。本当だよ」

「だが、お前は俺の所為で家と――」

「縁談断った時から、あたしはメルカダンテ家に要らない存在だったんだから……。別に、こんな風になったから家を出されたんじゃないよ」


 ヴィンセントが言っていることが真実なら、メルシエはエルフェを慕っている。

 その想いをエルフェは知っているのだろうか。クロエは二人の横顔を窺ったが、そこから読み取ることができたのは長く降り積もった悲しみだけだった。

 クロエは暫し考えてから、想いを言葉にする。


「私も……エルフェさんを恨みません。エルフェさんはただ友達のことを考えていただけで、皆でまた仲良く過ごしたかったんですよね」


 もし今回のことで過去を共有する彼等の間にあったわだかまりが氷解し、春のあたたかな陽射しの下で笑い合えるとしたら、クロエはそれを嬉しいと思う。結局、クロエは彼等を恨むことなどできないのだ。


「それに私は皆さんと暮らしていて楽しかったです。エルフェさんみたいなお父さんが欲しかったって今も思っています」


 例え罪の意識からきた感情だとしても、エルフェはクロエにとって理想の父親だった。

 クロエの告白にエルフェは面食らったような顔をし、それから大仰に溜め息をついた。


「それは……下手に詰られるよりきついな……」

「好い気味だよ、全く」


 がっくりと肩を落として鬱ぎ込むエルフェをメルシエは慰める。

 何十年も傍にいるからこそ彼は彼女に弱味を見せることができ、彼女も弱い彼を許してやることができる。そんな友人二人を見つめているクロエは鈍い胸の痛みに唇を噛む。


(いつまでも一緒にいられることなんてないんだよね……)


 皆互いのことを想って行動したはずなのに、それが裏目に出てしまう。そして、離れてしまう。

 人にはそれぞれの人生がある。エルフェにもメルシエにもヴィンセントにも。クロエにもだ。

 ずっと今のままではいられない。永遠なんて存在しない。

 ならば、いつまでこうしていられるのだろう。

 エルフェとメルシエにクロエを処分しようという思いはないようだが、クロエ自身はそうはいかない。ディアナの身代わりで人質という存在意義をなくしたら、もうここにはいられない。

 今日明日にでも自分はまた独りになってしまうかもしれない。

 クロエは身体の芯が冷たくなってしまった。






 これから自分はどうなるのか、どうするべきなのか。そうしたことをクロエは今はまだ考えたくない。

 だらしないと思いつつ、ベッドにごろりと横になったクロエは瞬きを繰り返す。

 クロエは目覚める直前まで夢を見ていた。施設にいた頃のことだ。

 他人を恨んではいけないと説いた先生のこと、外の世界が怖いと語った姉のこと、そして神が嫌いだと罰当たりなことを言った外の世界の娘のこと。


「運命なんて……」


 孤独の運命なんて壊せるはずがない。

 そう考えた途端、冷たい汗が一気に吹き出した。突然の悪寒にクロエは咄嗟に起き上がり、シーツを掻き寄せる。そして心の中で叫んだ。

 誰がここにきて、傍にいて。

 けれど、応える声はない。誰も傍にいない。クロエは独りだ。


「……だめ……だな……」


 後ろ向きなことを考えていると、胸にできた虚ろな穴がじわじわと大きくなっていく。

 これではいけないと頭では分かっているのに、心はさっぱり従わない。クロエは自分の意気地のなさに嫌気が差す。


(しっかりしなきゃ)


 クロエは再び外に出た。

 風に乗って雪がふわりと降りてくる。春の雪はすぐに頬の上で溶けてなくなる。冷たさは余韻となって肌に残る。髪や服の裾を翻す風は冷たい。冷たいと、寒いと感じる。そのことで自分は生きているのだという至極当然なことに気が付く。

 雲の向こうにある朧な太陽から視線を外したクロエは、そこで止まる。夜の色を見付けた。

 二階の窓から中庭を眺めていたらしいルイスと目が合ったクロエは言葉を探す。


「こ、こんにちは。良い天気ですね」

「……ああ」


 ルイスは興味がないとばかりに視線を外して部屋に引っ込んでしまった。

 愛想の欠片もない、いつも通りの反応だ。本当に何もなかったことにされてしまった。

 閉め切られた二階の窓を暫く見つめ、クロエは覚悟を決めた。

 ヴィンセントと話さなければいけない。それに、やはりルイスの厚意に甘える訳にもいかない。


(逃げたら、進めないもの)


 ほんの少しの擦れ違いや行き違いで、人生はまるで違うものになってしまう。人と人との繋がりで何もかもが変わってしまう。

 では、自分はどうなのだろう。心の底に封じていた疑問が湧き上がってきた。

 自分という存在が他者に与えた因果を考え、クロエは胸が詰まるような気持ちになる。

 父親と母親のこと、ヴィンセントとディアナのこと、エルフェとメルシエのこと。彼等の不幸にクロエは直接的に関係している。そして、間接的に関係していることもある。

 もしクロエが生まれてこず、ヴィンセントと出会うようなことがなければ、ルイスが辛い思いをすることはなかったかもしれない。

 棘が食い込んだ胸からは血が流れてゆく。

 己が全ての不幸の原因だとしても、償いようがない。償うことができないなら去ることが最善だと思っているのに、クロエは大人たちへの親愛もルイスへの願いにも似た感情も消えない。だから、感謝をしていることだけは伝えようと思った。それを最後の甘えにするのだと決めて、クロエは二階の角部屋の扉を開いた。

 室内は冷気に満ちていた。クロエは部屋の主の様子を窺った。

 ルイスは窓の方を向くようにしてベッドに横になっていた。寝間着姿で、首にアイスピローを当てていることから、あまり体調が良くないことが読み取れる。

 クロエは自分のことで手一杯ですっかり忘れていたが、ルイスは退院してひと月も経っていないのだ。

 じわり、と胸の痛みが増した。


「起きていますか?」


 背に問い掛けても返事はない。

 起きているのか、眠っているのかは分からない。クロエはルイスの肩に毛布を掛けてやる。出会った頃から彼は己に無頓着で、他人のことばかりだ。


「済みません、じゃあ独り言にしますね」


 起きていたらいつものように嫌な顔をするのだろうなと考えながら、クロエは話を切り出した。


「さっきエルフェさんと話しました。やっぱり私は道具だったみたいです」


 自分の心を整理する為にクロエは想いを言葉にする。


「でも、エルフェさんはローゼンハインさんと私のお母さんを仲直りさせたかっただけで……、また皆で過ごせたらって思っていただけなんです。私、外に出て良かったです」


 事実を知ることができてすっきりした。

 道具だという現実に納得できた。

 生きていて、良かった。

 虚勢かもしれないが、何も知らずに死ぬよりはこの結果は遥かに救われているとクロエは思っていた。


「つまり、何が言いたいんだ?」


 まるで寝言だと言うようにルイスは瞼を伏せたまま口を開いた。


貴方が言って(ジュ・ヌブリェレ・)くれたこと、(ジャメ・ス・ク・)忘れないよ(テュ・マ・ディ)


 クロエは自分の分かる言葉で精一杯告げた。貴方にしていただいたことは決して忘れません、と。

 ルイスはその答えに失望したように長い溜め息をついた。

 呆れて当然だろう。この感謝はクロエの身勝手な思いで、彼にとっては不本意極まりないものだ。クロエは背を向ける。そうして去ろうとした時、突如手首を掴まれた。


「どうして自分の首を絞める? 忘れた方が楽じゃないか」


 衣服越しにも伝わるほどの指先の冷たさに、クロエはびくりとする。

 寝台の上で身を起こしたルイスは淀みない眼差しでクロエを見上げた。


「寝た振りなんて悪趣味ですよ……」

「質問に答えて欲しい。どうしてキミは莫迦ばかりするんだ?」

「……それは……」

「自分に不都合なことはなかったことにする。人はそういうものだ。嫌なことも醜い自分もなかったことにした方が楽じゃないか」


 ルイスの言葉はどうしてこうも痛いのだろう。

 これ以上の言葉を交わすことは、半日掛けて作り上げた虚勢を崩すことに繋がりかねない。


「は、離して!」

「離せ? 話したら離すよ」


 普段は傍にいさせてくれないどころか追い返そうとする癖に、こういう時に限って繋ぎ止められる。


「私は……器用じゃないんです」

「そういう問題じゃない」

「じゃあ、貴方は私の為に忘れて下さるというんですか?」

「違う。自分の為だ」

「自分の為だって、昨日も言いましたよね……。でも、同情じゃなかったら私を助ける意味なんてあったんですか? 私に優しくしたって何もありません。煮ても焼いても食べられませんし、絞ったって何も出ませんよ?」


 こんなことが言いたい訳ではなかった。

 ここにいるのは必要なことだとルイスは言った。クロエはその意味を知りたいと思ったが、答えは知れている。

 ルイスは【そういう人間】だ。見返りを求めず他人の為に尽くし、己が傷付くことを恐れない。それを承知しながらもこんな嫌なことを言ったのは、クロエがそんな彼を【怖い】と感じたからだ。

 彼の親切はいきすぎている。クロエは彼がいつか他人の為に命を投げ出してしまいそうで怖いのだ。


「この前だってそうじゃないですか。私の所為で病気なのに無理して……入院して……。今回も無理して私に付き合っていたんじゃないですか?」

キミには(セ・ヌ・ヴ・)関係ないだろ(ルガルドゥ・パ)

「私の分かる言葉で言って下さい」


 クロエは自分の手首を掴むルイスの腕を掴み返した。

 拘束を解く為というよりは、ここで逃げられて堪るかという思いがあった。

 クロエはルイスと言い争いたい訳ではない。彼を責めるつもりもない。ただ、譲れないのだ。


「オレの理由なんてキミには関係ない。そんなことを訊いてどうする?」

「気になるんです。貴方が私の莫迦な理由を知りたいのと同じです」

「優しく慰めて欲しいならレヴィに頼めよ。オレにそういう期待をしているなら見当違いも甚だしい」

「そ、そういうことじゃなくて……! だって……責任、感じるじゃないですか。私の為に……じゃなくて、ええと……私に関係あることで誰かが負担を背負うのは嫌なんです」

「オレだって自分が他人の重荷になるのは嫌だ」


 クロエもルイスも悟る。これは何処までいっても平行線だ。互いに押し問答だと気付いている。


「兎に角、忘れるんだ」

「嫌です」

「じゃあ、離せ。オレは物分かりの良くない相手と話したくない」

「離せ? 貴方が掴んでいるんじゃないですか」

「違う。キミが掴んでいるんだ」


 もうどちらがどちらを掴み、引き剥がそうとしていたのか、それとも捕まえようとしていたのか分からなくなっていた。ただ、どちらも憤っていた。


(どうしてこの人は……!)


 クロエは自分のことを棚に上げ、内心で詰りながら手に力を込める。すると、ルイスの表情が引き攣る。手首を掴む力が緩んだのを良いことに、クロエは益々力を強める。

 クロエの強硬な狂行に、遂にはルイスはたじろいで身を引いた。

 つい先ほどまで見せていた強気な姿勢が鳴りを潜める。彼の顔色は真っ青だった。流石にクロエも違和感に気付く。

 感触を確かめてみれば、シャツの下の腕はごわついている。気になって袖を捲ると、そこにはうっすらと血の滲む包帯があった。


「な、何なんですかこの傷は……!?」


 ふた月前に負った傷はもう塞がったはずだ。手当てをしていたクロエはその経過を見ている。


「どうしたんです、これ」

「知らない」


 即答したルイスをクロエは睨む。


「答えて」

「キミが絞るから古傷が開いたんじゃないか」

「はぐらかさないで答えて下さい」

「……不良と揉めた」


 ルイスは傷を隠すように腕を組むとそう答えた。

 黒いシャツの肩の上で髪が揺れる。彼の紫色の双眸はクロエを見ていない。

 ぶちっと何かが切れる音を、とても近くで聞いた。


「吐くならもっとまともな嘘にして……というか、不良なのはルイスくんでしょ!!」


 レヴェリーが、ルイスは嘘をつく時は腕を組む癖があると言ったが本当だ。

 そういえば先日も彼が腕組みしている姿を見た気がする。彼の【嘘の嘘】はいつから始まっていたのだろう。


「貴方は何を考えているんです?」

「オレのことはどうだって良い。キミは自分と、自分の大切な人のことだけを考えていれば良いんだ」


 聞き取りづらいほどに低い一言と共に、ルイスはクロエの手を振り切った。

 今まで手加減していたとばかりの乱暴な手つきによろめき、クロエは寝台に手をつく。


「私は……自分のことを蔑ろにする人に助けられたって嬉しくない」

「だから、オレはキミを助けたのではなく、自分の為に――」

「面倒臭いです! 貴方と喋っていると本当に疲れます。胸が痛くて仕様がないです。色々考えて眠れなくなります!」

「どうしてキミに責められなきゃならないんだ? オレはキミに悪いことをしたつもりはない。大体、疲れるなら関わらなければ良いだろ。キミがしているのは逆切れというやつだ。見苦しい」


 ルイスの理性的かつ冷静な言い回しは、今のクロエには火に油を注いでいるようなものだ。

 一気に高まるフラストレーションをクロエは爆発させる。


「貴方みたいな人、放っておける訳ないじゃない!」

「人の世話を焼きたいなら、自分のみっともない様をどうにかしてからにしろよ。オレは構って欲しいなんて言ってないんだ」

「だったら大丈夫って思わせてよ。貴方はふらふらしすぎだよ。それにいつも理屈ばっかりで……でもたまに変なこと言うし……、訳が分からないよ」

「感情的なようで理性的なのはあんただろ。大泣きしている癖に冷静に自己分析していたじゃないか」

「貴方だけには理屈っぽいとか言われたくない」

「オレもあんたにだけは訳が分からないとは言われたくない」

「あ、あんたってまた……!」


 もう互いに伝えたかったはずの譲れない意思など忘れていた。ただ、今まで湿った雪のように重く積もり、凍り付いていた相手への不満を口にした。どちらも病み上がりだということを忘れ、本気で言い争っていた。

 その時、突如部屋の扉が開かれる。


「立ち聞きしてあれだと思うけどさ、どっちも面倒臭いよ」


 横から浴びせられた冷ややかな言葉にクロエもルイスもはっとする。

 扉の前に立っていたメルシエは呆れ顔で、遠慮なく大きな溜め息をついた。

 冷静さを欠いていたクロエは我に返る。言い訳することができないほど頭に血が上っていた。


「貴方と話すのはローゼンハインさんと決着をつけてからにします。少し時間を下さい」

「だったらその前に出て行くよ」

「何なんですか!」

「オレがいなければキミは疲れずにぐっすり眠れるんだろ。オレもキミの口喧しい寝事を聞かずに済む。互いに幸福になることができて何よりだ」


 クロエは火を吹く勢いで睨む。ルイスは冷めた様子でそれを無視し、乱れた襟や袖を正した。

 確かに話すと疲れると言ってしまったが、これは完全な当て付けだ。ここで彼に去られたら喧嘩別れをしたようで寝目覚めが悪い。

 クロエはくれぐれも去らないようにと釘を刺し、メルシエへ向き直る。


「あの、それでメルシエさん。何か用ですか? もしかしてそんなに煩かったですか?」

「ヴィンセントが目覚めたっていうから知らせとこうと思ってね」

「え……」

「麻酔で眠っていただけだし、明日には面会できると思うよ」


 メルシエは労りを含んだ眼差しを向けてきた。

 心配を掛けてしまって申し訳ない。情けないと思うものの、今日はエルフェと話すだけで精一杯だった。クロエは全ては明日と決めて、頷く。


「明日、ローゼンハインさんとちゃんと話してきます」

「なら、オレは今日中に出て行くよ」

「え……あの、待って」

「もうキミに面倒は掛けないから」


 お前は大切な人のことだけを考えていれば良いと言いたげな声色だった。

 急に遠退いてしまった気配にクロエは傷付く。

 クロエはルイスに嫌な思いをさせたい訳ではなかった。ただ感謝をしていることと、その優しさを自分自身へ向けて欲しいと伝えたかっただけだ。

 剥き出しの肌に小さな棘が刺さった時のような、痛み。それよりも鋭い感覚が胸を抉った。

 うなだれたクロエの肩に優しく手が添えられる。


「安心して行ってきなよ。小侯爵のことはおばさんがちゃんと見張っているから」

「メルシエさん……」

「何故、貴女が口を挟むんですか?」

淑女レディーから逃げるのは紳士の風上に置けないよ。やり逃げなんてヴィンセントと同じだ」


 メルシエは飽くまでも女の味方だった。

 しかし、クロエは凍り付く。

 何やらとんでもない誤解を受けているのではないだろうか。そのことに気付いて様子を窺うと、ルイスは苦虫を噛んだような顔をする。そしてクロエと視線が合うと、目を眇めた。


「キミは一度、自分の軽率さをきちんと考えた方が良いよ」


 ルイスは感情の宿らない冷めた声で言った。

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