Belle et Bete 【2】
何の変哲もない、すりりんご。
風邪を引けば母親が作ってくれるだろう珍しくもないもの。
林檎は母親を思い起こさせるものだからか、それとも誰かが自分の為に用意してくれたものを食べることがあまりなかったからか、胸にくる。ルイスが持ってきたそれを口にした瞬間、クロエはまた涙を流してしまった。
ルイスはクロエを宥める心積もりはないようで、ティースプーンでカップの中身をかき混ぜて冷ましていた。
あんまりといえばあんまりだが、クロエは慰められると却って棘が出たり、涙が出る性質だ。ルイスの素っ気ない態度に涙が引っ込んでいく気がして、ぬるい茶を飲む頃には気持ちも落ち着いていた。
「これって何のお茶?」
「セント・ジョーンズワートとラズベリーリーフのブレンドティー。冷めても味は悪くならないはずだよ」
「……うん、おいしい。それにきれい」
柔らかな甘みと苦味が混ざった独特の風味は癖になるかもしれない。
ハーブティーポットとカップはガラス製で、ポットの中で花葉からじんわりと広がる色に水が染まっていく様は何とも綺麗だった。
香りに癒されながらゆっくりハーブティーを味わっているクロエに、ルイスは暇潰しにとあるものを渡した。
「水彩色鉛筆!」
五十色の水彩色鉛筆はクロエにとっては宝石のように価値のあるものだ。
大好きな青い色鉛筆が何種類もある。しかし、素直には喜べない。こういった画材はとても高価なのだ。
「あの、お金は?」
「キミが描いた絵を見せてもらえればそれで良い」
「え……!」
「オレは本を読んでいるから」
戸惑うクロエを余所にルイスは本を開いてしまった。
彼が勉強をしているなら自分は庭の写生でもしていると言ったことがあるが、実践されるとは思わなかった。
クロエは茶を飲み終え一息吐くと、机の引き出しからスケッチブックを取り出した。
久し振りに触る紙の質感を指先で確かめ、窓から外を望む。
硝子越しに見える空は美しい。気持ちが幾らか慰められたクロエは中庭を見下ろす。目を向けたのは、雪を割るようにしなやかに伸びた白い花だ。十一月に植えた水仙は、今が丁度開花時期だった。
クロエはベッドの縁に座り、色鉛筆を手に取って描き始めた。
咲いたばかりの時は淡黄色をしている副花冠の花色は、外側から徐々に白へと変わっていく。丁寧にグラデーションを描いていく様子を、いつの間にかに本を置いたルイスが見ていた。
「あの、あんまり見られると描きづらいんだけど……」
「どうして」
「下書きは適当なの。ぼかしてからが本番というか……、見ていてもあまり面白くないと思うの」
「どういう過程で生み出されるのか分からないと価値が分からないだろ」
以前、ルイスは美しいものが分からないのだと言っていた。
あれはまだ出会ったばかりの頃だ。雪を眺めながら芸術の価値が分からないと呟いた彼の瞳は硝子のようだった。
そんなことはないとクロエは思う。
芸術を楽しむ心がなければ創作はできない。好きでなければ音色を奏でることなどしないはずだ。あの時から感じていた違和感がまた鮮やかになる。
(夢を諦めたの?)
美しいものを美しくないと思い込み、好きなものを嫌いだと切り捨て、辛いことを平気だと飲み下し、自分の心を凍て付かせて壊死させる。その末に己の価値を殺す。ルイスはそうやって全てを諦めている節がある。
本当は【分かる】のに、【分からない】振りをしている。それがクロエの感じた違和感の正体だ。
(貴方はどうして……)
問いたいことは沢山あった。
想いを口で伝えることは難しく、クロエは言葉の代わりに色鉛筆を動かす。ルイスは本を読み、時折、絵の中の花の話をした。
柔らかな午後の日射しが降りてくる部屋で声のない言葉を紡ぐ。
静かな時間はゆるやかに過ぎていった。
飴色の明かりが灯る部屋にあたたかな食事の煙が立ち上る。
ふわりと鼻孔を擽る甘酸っぱい香りは、何とも食欲を擽る。ベッドサイドテーブルに並べられた食事を口にしたクロエは思わず溜め息をついた。
「料理できたんだね」
貴族は家事をしない。それ故に母親の手料理を知らない双子もまた料理をする人間ではない。そうして侮っていた結果がこれだ。
用意されたのは林檎と鶏ササミのクリームソースを和えたショートパスタに、コンソメ味のオニオンスープ。パスタとスープの両方にオニオンを使っているところが無駄がない。薄味で量も少量だったが、質素な生活に慣れているクロエはそれが却って懐かしく感じられた。
「誰に教えてもらったの?」
「誰だったかな」
ルイスはクロエの詮索を拒むようにはぐらかし、ナイフを使って林檎の皮を剥き始めた。
「林檎はこれ以上食べられないんだけど……」
「二日何も食べていないんだ。無理してでも食べるんだ」
林檎攻めに絶望感が胸に満ちてゆく。そんなクロエにルイスはあるものを見せた。
「それは?」
「林檎と桃の蜂蜜漬けだよ」
林檎と桃を瓶に詰めて、蜂蜜とブランデーで漬けたものという説明に、クロエは思わず生唾を呑み込んでしまう。
林檎と桃と蜂蜜だ。こんなに素敵なものが詰まった瓶の中味はさぞや甘いに違いない。クロエは好物が詰まりにつまった瓶を食い入るように見る。
「これはそれを食べ終えたらだ」
「わ、分かった」
明らかに誘導されていたが、気にしなかった。
まるで風邪薬を飲まない子供が菓子で釣られるようにクロエは食事を全て平らげた。
やっと口にできた蜜漬けの林檎は想像したよりもしゃきりとした食感が残っており、微かな酸味が蜂蜜の濃厚な甘さを引き立てている。
桃は口に入れた瞬間、ほろりと崩れてしまうような柔らかさで、今まで口にした何よりも甘美だった。
菓子の甘さとは違う、花の蜜と果実の瑞々しい甘さだ。世の中にこんなに甘い食べ物が存在するのかとうっとりしてしまう。
「調子に乗って食べると酔うから気を付けて」
甘さに惑わされた先に待ち受けているのは酩酊だ。
だが適度な飲酒は心身の緊張を和らげ、ストレスを解消する効果がある。深い安堵感に満たされたクロエはぼんやりと外を眺めた。
「外の様子だけど、今話しても平気か?」
「あ……うん、大丈夫。お願いします」
機会を見計らったように切り出された言葉に、クロエは頷く。
果実の甘さに心はすっかりほどけていたが、頭の芯は冷静だった。
「ヴィンセント・ローゼンハインはダイアナ・フロックハートと共に上層部の施設に収容されている。どちらも治療を受けているから数日中に目を覚ます。レイフェルさんも上にいるみたいで、ここには帰ってきていないみたいだ」
「うん……。レヴィくんはどうしているの?」
「餓えないように菓子は与えてきたけど」
「私のことは良いから、レヴィくんにちゃんとしたものを食べさせてあげて」
「もうすぐ十九にもなるのに、何もできないような奴のことは知らない」
普段から菓子以外のものを率先して食べないレヴェリーだ。監督者のエルフェがいなければ、まともな食事を取っているはずがない。
「二人は今月が誕生日なんだよね」
「どうだったかな」
「……どうしてそういうことを言うの?」
「本当に知らないんだ。便宜上の誕生日ならレヴィに訊けば教えてくれるんじゃないか」
生まれた日を祝うことに何の意味があるのか。そう笑うように視線を外したルイスは後片付けを始めた。
施設に置き去りにされた双子は両親が分からず、生まれた日すら知らない。
彼等はクロエよりも辛い境遇にある。それなのにこうして慰めてくれている。
自分がいかに甘えているのかを突き付けられたクロエは、そこでやっと決心することができた。
「じゃあ……訊く為にも外に出ないとです」
言葉を常の肩肘張ったものに正したクロエに、紫眼の一瞥が返る。
「明日になったらちゃんとします。このまま立ち止まっていても仕方ないですから」
「……ああ」
「ここでこうしていれば嫌なこともないです。楽しいことばかり話したり、考えているのも夢のようです。でも、それはやっぱり私じゃないからちゃんと現実に戻ります」
クロエは夢の中を生きるつもりはない。
心を決めたクロエにルイスはある提案をする。
「今日は四月の魚だ。全て嘘だったということにすれば良い」
「うそ……ですか?」
「キミがしたことも、オレが言ったことも嘘だ。そうすれば何の後腐れもないよ」
莫迦みたいに縋りついたのも、情けなく弱音を吐いたのも、惨めに泣き喚いたのも嘘にする。
それは己の恥を隠し、自尊心を保つ意味では魅惑的な提案だが、同時にルイスから受けた厚意を偽りに変えるということでもあった。
あのぬくもりを嘘にするなんてできるはずがない。
けれど、ルイスが嘘にすることを望んでいるというならクロエは従うしかない。
「今日はもう休んだ方が良い。明日から忙しくなるんだろ?」
「そうですね……。じゃあ、お休みなさい」
「ああ、お休み」
【嘘】という魔法が解ければルイスはもうクロエに触れようとはしなかった。
ルイスはクロエの眼差しを振り切るように踵を返し、そのまま振り返ることもなく部屋から出ていった。
扉の向こうの足音が完全に聞こえなくなると、クロエは祈るように手を組んだ。
「……大丈夫」
明日から前を向いて立つことがきっとできる。もううなだれたりはしない。
もう愚行の限りは尽くしたのだから、せめてここからは潔く在ろうと誓った。