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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
五章
92/208

Belle et Bete 【1】

Belle et Bete / 美しいものと獣

 涙が止まらない。あとからあとから溢れてくる。

 感情の(たが)が緩んで外れ、胸から溢れる涙は雨のように止むことを知らない。クロエは駄々をこねる子供のようにしゃくりあげた。

 細くて華奢な手に頭を撫でられ、腕に背中を包まれる。慰めるわけでもなく、叱るわけでもない、ただ寄り添う気配に余計に涙が止まらなくなる。

 クロエはずっと怖かった。自分を平凡だと言いながらも、自分の中にある確かな非凡さを恐れていた。

 誰かを想うことも想われることも怖かった。失うくらいならいっそ、と諦めてきた。

 それなのに、求めた。

 赤い傷痕が幾つも走る腕に縋りついて、行かないで欲しいと訴えた。

 今だけは、今夜だけは。そう言い訳してクロエは泣きじゃくる。

 吐息が白くなるほど凍える部屋の中でクロエは寄り添う彼に打ち明けた。


「私、夢があったの……」

「夢って?」


 胸の鼓動を聞くようにぴたりと寄り添ったクロエのことを抱えながら、ルイスは相槌を打った。

 真っ暗なので、目を開けていても表情は良く分からない。ただでさえ読みにくい彼の表情が全く分からない。それが少しだけ怖い。

 クロエはルイスの上衣を掴む。すると、促すように髪を撫でられる。

 血の巡りが悪そうな彼の身体は触れ合っていてもあまりあたたかくはないが、包み込まれる感じだけでほっとする。それだけで、とてもあたたかく感じる。


「ずっと家族が欲しかったの」


 クロエが誰に訊ねられても答えられなかった本当の夢は、家族が欲しいということ。

 優しい父親と母親が欲しい。兄弟や姉妹が欲しい。祖父母も欲しい。価値観を共有する恋人がいて、可愛い子供がいるのも良い。クロエは自分に近しい家族が欲しかったのだ。


「叶わないって分かっているから、高望みしてた」

「どうして叶わないと思うんだ? それはキミらしい平穏な望みじゃないか」

「私が【平凡】じゃないから。私は家族ができてもきっと不幸にする……。酷いこと、するもの……」


 幼少より虐待を受けてきた者は、親になったら自分の子供を高確率で虐待するという。クロエのような人間は幸福な家庭を持つことができないのだ。


「統計では出ているね。オレたちみたいな施設育ちは【普通】じゃない」


 言わんとしたことを察したらしいルイスは髪を撫でていた動作を止め、服を掴んでいるクロエの手にそっと自分の手を重ねた。

 優しい手で、慈しむ指で、触れられる。それだけでクロエの胸に小さな明かりが灯り、頬やうなじの辺りがぽかぽかしてくる。

 けれど、触れ合っている彼の手から戸惑いが伝わってくる。震えているのだ。


「施設育ちは親の愛情を知らない出来損ないだから信用ならないって良く言われるよ」

「……だから……ね、人に迷惑を掛けないように独りでいなきゃ駄目だって……」


 虐待が虐待を呼ぶというならクロエもそうなのだ。

 親から暴力を受けたクロエはいずれ自分の周りの者に暴力を振るう。それは恐らく自分の肉親に向かう。自分の命よりも大切にしなければならないはずの、自分の子供を愛せなくなる。

 子供を不幸にするリスクを背負ってまで、子供を作るのは愚かだ。だからクロエは一生家族を持つことはできない。ずっと独りで生きていくしかない。

 結局、クロエは自分も他人も怖いのだ。

 自分は人を愛すことはないし、愛されることもない。恋をするということも一生ないだろう。嫌われるくらいなら終わらせた方が良いと感じるような激情も、きっと人非人(ひとでなし)の証だ。


「私は他人に迷惑を掛けてまで生きている価値がない……」


 お前は生まれてこなければ良かった、と母を大切に想っている男に言われた。

 こんなことを聞かされてもルイスは困るだけだろう。クロエも見苦しい弱音だということは理解している。

 だけど、歪んだ頬が元に戻らない。

 優しさに溶けてしまった心は建前をも流し去り、胸の奥の本音を露にしてしまう。

 クロエは心の痺れが手に伝わり、震えてしまうのを悟られないようにするのが精一杯だった。


「気休めは言いたくないけど、キミはそうはならないと思う」

「気休めだよ……」

「だから気休めだと言った」


 あんまりな言葉に、悲しみも忘れるほどにクロエは放心した。

 慰めを気休めだと態々言う人が何処にいるというのだろう。ルイスの素直さはたまに可笑しい。

 クロエは身を捩り、顔を上げる。雲の切れ間から僅かに射す月の光では、やはり彼の表情は分からない。

 闇の中で銀と藍玉の耳飾りだけがきらきらと輝いている。

 ぼんやりとするクロエにルイスは問うた。


「殴られたら痛いことを知っているのに、それを自分より弱い存在にできるのか?」

「でも……私は撲ったよ。貴方とローゼンハインさんを……」


 ルイスのことを一度、そしてヴィンセントのことを三度撲った。

 言葉で伝えることをせずに手を上げてしまったのは、つまりそういうことではないのだろうか。

 思えば、昔も継母に包丁を向けている。あの時から他人を傷付ける兆候は出ていたということだ。百歩譲ってヴィンセントと継母については正当防衛で片付けられても、ルイスへは一方的に手を上げた。

 自分が堪らなく恐ろしくなり、吹き出した恐怖に身を強張らせる。すると肩を叩かれる。クロエはびくりと震えた。


「撲ちたくて撲ったんじゃないことくらいは分かるから」


 今にも平静を欠きそうになるクロエに、ルイスは言い聞かせるように語る。

 静かに宥めてくる声にクロエはほっとする。身体の強張りも自然とほどけた。


「自分がされて嬉しかったことと悲しかったことを忘れずにいれば、大丈夫だよ」

「……そ……かな……」

「もし撲っても謝れば良い。キミは反省することは得意そうだ」


 必要以上に後悔したり反省したりという卑屈なところを短所だとクロエは考えているが、ルイスはそれを長所と受け取ったようだった。

 クロエも不思議と大丈夫という気分になってくる。


「そう……だね。ちゃんと謝って、抱き締めれば良いんだよね……」


 もし激情にかられて撲った時はきちんと謝る。そして、抱き締める。痛みを忘れるくらいに愛するのだ。

 だからまずは――――。


「酷いことしてごめんね」

「クロエさん……」


 力いっぱい抱き締められたルイスは困惑した様子でクロエの肩を掴む。


「ごめんなさい……」

「オレは怒っていないし、傷付いてもいないよ」

「でも、ごめんね……」


 いっそ哀れになるほどに謝罪するクロエを前にルイスは溜め息をこぼしたが、クロエを引き離そうとはしなかった。

 そうしてクロエの抱擁を甘んじていたルイスもまた、何を思ったか謝罪を口にする。


「ごめん。さっきの全部他人の受け売りなんだ」

「誰の受け売り?」

「尊敬してるひと」

「どんなひと?」

「オレに優しくしてくれたひと」


 きっと父親か母親――もしくはその二人のことなのだろうなとクロエは思う。

 優しい両親に育てられたからルイスは優しい人間に育った。虐待に遭いながらもクロエにはない優しさを持っているのは、愛情を知っているからだろう。

 似ていると感じることすらおこがましい、別世界の人間。そんな人を前にしてもクロエは惨めな気持ちにはならず、憧憬にも似た感情を持ってしまう。


(……駄目なのに……ね……)


 この腕の中は揺りかごのようだ。このまま幸福感を抱いて眠ってしまいたくなる。

 彼の優しさに付け込んではいけない。そう頭では理解しているのに、心はそれに従おうとしない。

 本当にどうしようもないくらいに自分は未練がましい。

 懺悔と救いを求めながら、クロエはぬくもりに甘えていた。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 まともに顔を合わせられない。

 視線が合えば居た堪れない気分になる。だから、背を向けている。

 クロエはあれからルイスを離さなかったのだ。月が沈んで、また太陽が昇るまで。つまり一晩中だ。

 罪を自覚しているクロエは萎みきっているが、ルイスも決まり悪そうなのは彼も責任を感じているからだろう。クロエもルイスもそれぞれ猛省していた。

 だが、いつまでもそうしていることはできない。

 結局は沈黙に心が折れ、ぽつりぽつりと降り出したばかりの雨のようにどちらともなく会話を始めた。


「ねえ、外は……皆はどうしてるの?」


 クロエは毛布を頭から被り、その隙間から窓の外を眺めていた。

 朝になって一度母屋に戻ったルイスは外の様子を知っている。この数日、外との関わりを断っていたクロエは訊かずにはいられなかった。


「どうして訊くんだ?」

「それは……気になるから」

「外のことが知りたいならここから出れば良いだろ」


 厳しい言葉にクロエは黙り込む。

 ルイスの言うことは尤もだ。クロエにはそれが冷たく感じられてしまう。


(正論だけど……私は……)


 足が痛くて歩けないというのは言い訳でしかない。

 クロエは怖いのだ。

 用済みとなった自分を皆がどういう目で見て、どんな言葉を掛けてくるのかが怖い。

 生まれてから今まで散々染み付いた記憶が心にブレーキを掛ける。ここを出れば傷付く、と。

 身体の奥底から震えがやってきて、クロエは毛布の中の闇で足を抱えた。


「ごめん、きつく言った。そうできないからこうしているのは分かっているんだ。ただ、このままここにいて何かが変わるか?」

「……変わら……ない。私が臆病なだけ……、ただの我が侭だよ」

「……そう。分かっているなら良いんだ」


 ベッドのスプリングが微かに軋む。すぐ傍にあった気配が遠ざかってゆく。

 あまりに子供染みた振る舞いに呆れてしまったのだろうか。

 昨日から失望されて当然のことばかりをしているクロエは諦め、浅く息をつく。そのうなだれた背に思いもしない声が掛けられた。


「何か暇を潰せるものと食べられそうなものを探してくるよ。あと、様子も見てくる」


 クロエは思わず振り返る。その拍子に毛布がずるりと肩から落ちた。

 泣き明かした所為で目は腫れていた。髪の毛も散々なことになっている。身形だって最悪だ。最低の姿を見せたくなくて背を向けていたのに、そんなことも忘れるほどに驚いた。

 ルイスは何故、クロエが閉じこもるのを助長するようなことをしようとするのか。


「ど……どうして……? 私がこうしているの良くないって、そう怒ったのに……」

「キミが自分のことを理解しているなら、こちらから何かを言う必要はないから」


 癖で前髪を押さえながら訊ねるクロエに、ルイスは静かな口調で言い切る。


(どうして?)


 優しいかと思えば意地悪で、冷たいかと思えば優しい。彼の不安定さは知っているが、戸惑う。

 やはり何か裏があるのではないかと構え、クロエは困惑の眼差しでルイスを見上げる。


「ねえ……、どうして……」


 同情ではないというなら、どうして優しくしてくれるのだ。そう言い掛けたクロエは、はっとする。

 何故優しくしてくれるのかと訊ねることに何の意味があるだろう。

 クロエが傍にいてと望んだから、優しいルイスはそれを叶えてくれただけ。ルイスをこの場所に縛っているのはクロエの感情だ。

 理由を訊ねることは即ち、自分の醜さを指摘されることに繋がる。

 どうしてなどと訊ねられる立場ではない。彼の好意に甘えているのはこの自分だ。

 最低で、最悪だ。


「……クロエさん」


 言葉を紡ぎ掛けたクロエの唇は凍り付いたように動かなくなり、後は戦慄(わなな)くばかり。

 ルイスは遠慮がちに声を掛けるが、クロエは頭を上げる気力すら持てなかった。

 両手を握り締め、騒ぐ感情を押し殺す。これ以上の醜態を晒さないよう自分を律する。いっそこのまま凍り付いてしまった方が楽だと思った。

 その時、突然クロエの前髪が持ち上げられる。


「……な……、な…………っ!?」


 視界が清々しいほどに開かれ、クロエは目を剥いた。

 狼藉を働いたルイスはしれっとしてクロエの乱れた髪を掻き分ける。その手つきは昨晩、髪を撫でていた時と同じ優しいものだが、クロエの心の中には怒りが湧き起こる。


「な、何するの!」

「起きているみたいで良かった」

「起きてなかったら喋れないよ!?」

「キミは病み上がりなんだ。寝言の可能性もあるだろ」

「幾ら私でも寝言で会話できない!」


 クロエにとって前髪というのは父親に疎まれた顔を隠すものであり、額の傷を覆うもの。そして、他人の視線を避けるためのものだ。

 一体何をするのだと、クロエはきつく睨んだ。ルイスは眉一つ動かさない。


「オレは必要とあらば、いつでも膝を折るよ」

「え……?」


 曇りのない声にクロエは顔を上げた。ルイスは手を退けると片膝をつく。

 淑女の前に頭を垂れるのは紳士として当たり前の行動だと知っていても、女性として扱われることに慣れていないクロエは、ルイスが視線を合わせようと膝を折ることに驚いてしまう。


「それに、オレがここにいるのは必要だと思ったことだから」


 ルイスは颯爽と立ち上がると、背を向けて部屋を出ていく。クロエは呼び止めることもできなかった。


「……必要なことって何が……?」


 優しい人間だから、その博愛の心で傍にいてくれるのだろうか。それとも、情けを掛ける程度の友情は感じてもらえていると自惚れても良いのだろうか。

 ルイスの言葉は難しい。一の言葉に百の意味を込めていそうな気さえする。

 クロエは例え自分が彼に嫌われていないとしても、好かれてもいないと思っている。

 ただ、分かち合った温度は百の言霊よりもずっと深く胸に沁みた。

 あのぬくもりだけは信じたい。そう願う自分はきっと愚かだ。

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