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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
五章
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迷いの森の赤ずきん 【16】

 柔らかな陽射しが降りてくる午後の礼拝堂は揺りかごのよう。

 蜂蜜色の時間に意識を埋没させてしまいそうになるクロエの耳に、ふと女の細い声が届いた。


『神様は乗り越えられない試練を与えないというけれど、それは人間の勝手な解釈よね』


 ラベンダーブルーのドレスの女は語る。クロエより二つ三つ上の女だ。

 色鮮やかなその瞳は壁に掛けられた磔刑の御子の像をじっと見上げている。長い髪を結い纏めた小さな顔には、青い繻子(サテン)のリボンと白薔薇のコサージュのついた花帽子(ボンネット)を被っていた。


『創世記二章、失楽園。アダムとエヴァは蛇の誘惑によって禁断の林檎を食べてしまう。彼等は一度神の命令に背くものの、自らの罪を認め、己の罪の報いを自らの意思によって受け止めた。つまり、彼等の末裔である私たちは与えられる罰や試練を粛々と受け止めなければならないということになるわ』


 フリルの飾る袖から伸びた細い腕は聖書を捲る。その動きがぴたりと止まる。


『楽園を去る前、神様は女に産みの苦しみを与えた。神様は罰を与えたのではなく、恵みを与えた。自分が蒔いた種を刈り取る辛さを私たちに恵みとして与えてくれたのだと神父様は語っているわ。けれど、私は神様はそんなに慈悲深い御方ではないと思うの。……乗り越えられない試練も与えるわ。神様は残酷な御方ですもの』


 怖れ、嫉妬したのよ、と何処か辿々しいおっとりとした口調で言って女は睫毛を伏せた。

 蝶の羽ばたきほどの音を奏でそうな重たげな睫毛は下瞼に濃い影を落とす。


『恵みにはならないものも与えられる。乗り越えられず、潰れてしまう人もいる。例え他の人は大丈夫でも、平気ではない人は必ずいるもの……』


 でもね、と女は続ける。


『私は運命とかいって全てを決め付けられるのは嫌よ。そんな運命、糞食らえ。絶対ぶち壊してやるわ』


 くそくらえ。ぶちこわす。

 花弁のように慎ましく可憐な淑女の唇から、そのような低俗な(えげつない)言葉が出てくるとは思いもしなかったクロエはぎょっとする。

 女は淡い空色の手袋をつけた手を口許に添え、にこやかに笑った。

 すると、不意に鐘が鳴る。街の大聖堂の鐘だ。


『あら、もうこんな時間。あの人が待っているわ』


 そう呟くと女は長椅子から立つ。そして、パラソルを持ってくるりと身を翻す。

 水色のドレスと、金にも映える薄茶色の髪が軽やかに揺れた。


『ごきげんよう、青い瞳のお嬢さん』


 花帽子から長く垂れたレースの陰で青い瞳を細め、うっとりと笑った女は踵を返す。

 斜めに射す陽の光に映えたその横顔は、夢のように美しかった。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



「気が付いた?」


 秋の夜に吹く風のような声が響く。

 誰だろうと視線を巡らせて、クロエはベッドに寝ていることに気付いた。


「いまはいつ……?」

「三月の末日。夕方だよ」


 レースのカーテン越しに蜂蜜色の光が射し込んでいた。

 午後の柔らかな陽射しはあたたかい。穏やかに流れていく空気の優しさに抱かれて眠ってしまいたくなる。

 まだ頭がぼんやりとする。起きたくなくて、寝返りをうつ。そうして覚醒を待つ。その間に、ルイスはテーブルの上に置かれていたグラスに水を注ぐ。


「落とさないよう気を付けて」


 のろのろと身を起こし、差し出されたグラスを受け取ったクロエは口をつける。

 一口飲むと、口の中がすうっとした。

 この心地好い風味は何だろう。水差しを見やると、皮を剥いたレモンをスライスしたものが水に浮かんでいた。

 ゆっくり水を飲み干したクロエに、ルイスは傷を見るように言う。

 寝間着の袖を捲り、包帯を止めていたクリップを外す。一回りほど解けばうっすらと血が滲み、更に解けば色は濃くなる。クロエは無惨な生傷を見ることになるのを覚悟する。

 包帯の下にある肌は傷跡こそまだ残っているものの、血は止まっていた。


「本当に、薬だったんだ……」

「良かった」


 疑ってしまったことを恥じるクロエを前に、ルイスは安堵したような息をつく。

 彼は真新しい包帯を巻いていった。


「このまま治ると思うけど、何かあったらすぐに医者に診て貰うんだ」


 再びベッドに横になったクロエはブランケットを掛けられ、髪に触れられる。

 ひんやりとした手が、熱のある額を冷やしてくれる。先ほど口にしたレモン水のように涼しくて、気持ち好い。心が落ち着く。目を閉じると、手は離れていった。

 消えてしまったぬくもりが名残惜しくて、クロエは咄嗟に起き上がる。その時にはもうルイスは扉に手を掛けていた。


「じゃあ……さよなら(アデュー)


 それは、再会することを約束する意味での挨拶ではなく、もう二度と会わない人物への別れの言葉。

 低い囁きが鼓膜を通り越して身体にじかに響く。その余韻が消える前に扉は閉じた。

 クロエは再び、独りになる。

 だが、悲しむことはない。

 最初から独りだったのだ。今までずっとそうだったのだから、これからだって平気に決まっている。それなのに心は痛み、クロエは部屋を飛び出していた。

 木張りの床を、階段を、駆け降りる。そのまま裸足で外へ出る。

 裸足の足で雪を踏みしめると、小さな氷の破片が突き刺さるような痛みが走る。それと共に、残り香のように薄らいでいた痛みがはっきりとよみがえる。


「……まって…………」


 傷付くのが嫌だから独りで良い。クロエはそうやって自分を守りながら、ずっと怯えていた。

 本当は、良くなんてなかった。

 独りは嫌だ。傍にいて欲しい。

 涙さえ焦がしてしまうほどのその痛みを、これでもかというほどに実感している。


「待って……!」


 必死に駆けて、遠ざかる背に追い付いたクロエはルイスの上衣の裾を掴んで膝をついた。

 ルイスは足を止め、振り返る。


「……やだ…………いやだ……っ」


 彼がどんな顔をしているかが怖くて見上げられない。クロエはうなだれ、震えるしかない。

 このようなことをされたら迷惑に思うに決まっている。

 利口な子供なら、見舞いにきてくれた親を引き止めない。重荷に思われるのが――嫌われるのが嫌だから、平気な振りをする。大人しく待つのが賢い子供だ。他人の顔色を窺って生きてきたクロエはそのことを知っている。


「い……や…………」


 最後は最早言葉にもならず、クロエは力なく腕を下ろした。

 ここでルイスが去っても、クロエには追う術がない。棘で傷付いた足はもうまともに動かなかった。


「見たくない……」


 雪の上に膝をつくクロエの姿は余程惨めに見えるのか、ルイスは沈痛な顔をして膝をついた。


「そんな顔、見たくない。そんな顔をさせる為に出て行くんじゃない」


 だったら傍にいて欲しい。

 もしかすると、ヴィンセントとディアナもこのような気持ちだったのかもしれない。

 だが、決定的に違う点がある。彼等は互いを想っていたが、自分と彼はそうではない。クロエはルイスに嫌われている。

 そうして鬱いでいると、ルイスは突如二本の腕でクロエの身体を抱き上げた。あまりのことにクロエは意識が飛びそうになる。


「え……わっ、あ……の……」

「暴れると落ちるけど」


 落ちるという言葉に、慌てて肩にしがみつく。何をされたのかという戸惑いよりも、落下の恐怖が勝った。

 そのまま石像のように固まっている内に部屋に運ばれる。

 放心するクロエをベッドに降ろすとルイスも隣に腰掛け、深く息をついた。


「……ごめん、なさい……」


 ルイスのそのとても疲れた様子に、クロエは自分を二階まで運ばせたことを申し訳なく思う。


「あの……本当に、済みません……。さっきの……冗談です、ただの甘えです……。寝惚けていたから、つい寝言を言ってしまいました。今までありがとうございます」


 クロエはうなだれているルイスに礼を言う。


「色々ありましたけど、貴方と会えて幸福(しあわせ)でした」

「しあわせ……?」

「今まで私の話を聞いてくれようとする人はいなかったから、つい浮かれてしまうくらい嬉しかったです。――だから、ありがとう」


 こんな状況で夢も恋もないと否定していたが、やはり何処かで浮かれていたのだろう。

 自分と似たものを感じる存在を見付けて、気になった。切り捨てられなくて、嬉しかった。救ってもらったから、自分も何かできたらと思った。

 それなのにクロエはルイスを疑い、傷付けた。

 これでは誰かの心を望めるはずもない。嫌われたくない(すかれたい)なんて、分不相応な想いだった。

 独りは寂しいから傍にいる。

 あの約束は、自分の為のもの。ルイスにとっては何の意味もあることではなかった。

 上手く笑えている自信はなかったけれど精一杯微笑む。そして、永久の別れを告げるその一言を言おうとして、クロエはできなかった。

 本当に、未練がましい。潔くないにもほどがある。

 思いを捩じ伏せ、唇に言葉を乗せようとする。その瞬間、クロエの世界が止まった。


「――――――」


 隣にいた彼がすぐ傍にいる。背に腕を回される。先ほどまで肩に触れていた手が、背を包む。

 クロエは驚いた。声も出ないほどに驚き、そして怯えた。

 この抱擁も偽りかもしれない。誰かの身代わりかもしれない。これは、まやかしのぬくもり。そんな予感にクロエは身体が固まる。すると、一層強く抱き締められる。

 期待してはいけない。そう自らにきつく言い聞かせる。

 銀細工の耳飾りのついた耳朶のすぐ傍で、クロエは問い掛ける。


「……どう……じょう…………?」

「オレはキミに同情できるほど、まともな人間じゃない」


 訊ねたその言葉は自らの胸にもきつく沁みる。クロエはまた震えた。

 そうしている間にあたたかなものがじわりと伝わってきた。

 とくり、とくり、と鼓動が伝わってくる。

 感じるのは、やわらかな熱。自分は彼に嫌われているのではないかという考えを溶かしてくれるぬくもり。

 このぬくもりに縋っても良いのかと、自惚れたくなる。

 ルイスは何度も頭を撫でてくれる。その優しさに悲しみを溶かされて、溶けた心が涙となり溢れてくる。


「……う…………、こわ……い……」

「うん」

「さび、しい……」

「……そうだね」

「もう……ひとりは、いや……」


 抱き締められたこのぬくもりを、このままずっと離したくない。

 彼の上衣を掴む手は、みっともないくらいに必死で力を込めていた。


「平気になるまで、いるよ。キミが望むなら、傍にいるから」


 平気になることなんてないだろうとクロエは思う。

 この孤独をもう独りで耐えきれる自信がない。独りで抱えられない想いがあるのだと、初めて気付いた。

 だとすれば、永遠に離せないかもしれない。

 溢れた想いに震える手を彼の背に回して、きつく抱き締める。堪えきれない哀しみを込めて求めたその腕は、同じ熱と共に叶えられた。

 ずっと張りつめていた気持ちが緩み、あたたかな雫となって溢れていく。

 優しさは、心を幼くさせる。

 今だけと自分に言い聞かせ、クロエは堪えていた涙を溢す。

 今はただ、雨は止みそうにない。

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