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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
五章
90/208

迷いの森の赤ずきん 【15】

 長いと感じる夜が明けた。

 明けない夜はないというように、朝は望まない現実を連れて訪れた。


(私は、部外者だった)


 ヴィンセントとディアナを止める術もなくクロエが絶望した時、二発の銃声が響いた。

 硝煙が(くゆ)る銃を持つのはヴィンセントではなく、その場に現れた第三者――メルシエだ。

 両手に大きさの違う銃を持ったメルシエは発砲した。

 大きい方の銃から飛び出た弾は掠りもせず壁に穴を空け、小さい方の銃口から放たれた(ダート)は、ヴィンセントの腕に深々と突き刺さっていた。


『待ちな、ヴィンセント。死んで終わりにするなんて許さないよ』

『魔女……!』


 ディアナを壊れ物を扱うように床に横たえ、腕から矢を引き抜いたヴィンセントは忌々しげな目でメルシエを射た。

 矢を投げ捨てた手には既にナイフがあり、即座に放たれる。切っ先はメルシエへ吸い込まれるように迫る。

 しかし、喉を狙った刃は一発の銃声と共に弾かれた。


『またお前は俺の夢の邪魔をするのか……?』

『この子の人生奪って、母親まで奪おうっていうのかい? そんなの許されるはずないだろ』

『俺は他人の許しなんか求めちゃいないんだよ』

『そうだね。あんたに話が通じないのは分かってるよ。あんたは自分の主観しか持たない』


 床に落ちたナイフに目をくれることもなく、ヴィンセントはただメルシエを睨む。


『レイも、あたしも、この子も、あんたが大切で仕方ないと思っているディアナも結局は道具なんだろ』

『黙れ! ディアナは道具じゃない』

『あんたが本当にディアナのことを一人の人間として見ているのなら、あの時、あたしの話を最後まで聞いたはずだ』

『殺されたくないなら黙れと言ったはずだ』

『あんたはあたしと同じ、臆病者だよ』


 メルシエがそう言った瞬間、ヴィンセントは唇を歪めて笑った。


『ああ……やっぱりお前は殺したいな。見逃してやろうと思ったけど殺して逝こうか』


 口許に冷たい笑みを刻み付けたままヴィンセントはゆっくりと立ち上がり、前へ出る。

 足音は広間全体に響く。狂気と凶器を携え迫る男を前に、メルシエは一歩も引かない。

 その時、異変が起きた。


『これ……何さ……? ただの空気銃じゃないわけ……?』

『麻酔さ。猛獣も三秒で落ちるとっておきのね。外法に効きは悪いようだけど』


 会話で時間稼ぎをさせてもらったのだと言って、メルシエは銃を腿に括り付けたホルスターに戻した。

 ナイフを取り落としたヴィンセントはよろめき、その場に(うずくま)る。

 ヒールがカツカツと床を打つ。


『その場の勢いってのは良くないよ、何事もね。これからどう振舞うか、夢の中で暫く考えな』


 胸倉を掴み、ヴィンセントを引き上げたメルシエは猫のようににんまりと笑う。次の瞬間、獲物を狩る猛獣ような険しい表情で頬を殴った。

 加減は一切なかったようでヴィンセントは飛ぶように床に倒れる。殴った方も痛かったらしく、メルシエも痛めた手を振っている。


『……殴る必要はあったのか?』


 小銃を下ろし、物陰から出てきたエルフェは暫し無言で惨状を眺めた。


『良いだろ、これくらいしたって。あたしは平凡な人生をこいつに奪われたんだ』


 気が済んだと晴れやかな笑顔で手をひらひらと振るメルシエの前で、エルフェは深く溜め息をついた。

 それからクロエはメルシエに連れられて、【Jardin Secret】へ戻ってきた。


「人形にもなりきれない、出来損ない……」


 ベッドに横になったクロエは唇だけで呟く。

 クロエを送り届けたメルシエはすぐに出ていき、エルフェは帰ってきていない。母屋にいるのだろうレヴェリーはこちらへくる様子はない。


(私はひとりだよ)


 彼等はディアナを確保する為、娘のクロエを利用しようとした。

 ディアナを手に入れたからもう用なしなのか。自分は結局、それだけの価値の存在だったのか。そう思うと悔し涙が溢れてきた。

 エルフェもレヴェリーもメルシエもそんな人ではないと信じたいのに、今まで生きてきた世界を尽く覆されたクロエの心は暗い(うろ)に沈んでゆく。


「わたしは、なに……? どうして、わたしは…………」


 誰もこない部屋で、クロエは自問自答を繰り返す。

 二度太陽が沈み、二度目の月が空に昇ろうともクロエは離れを出ることができなかった。

 朝も昼も夜もなく眠り、ただ寝たり起きたりの自堕落な時間を過ごす。

 眠るだけなので身形は拘らない。髪は結わず、服装も寝間着のままだ。だが腕はすぐ血で汚れて気持ちが悪いので、シャワーだけは浴びた。

 あちこちが痛くて、傷が染みることもどうでも良く感じてしまう。

 熱い湯を頭から浴びても身体はちっとも暖まらない。湯気の中に自分の体温も溶けているようだ。


(死ぬなら、痛くない方が良いな……)


 高い場所から落ちて痛い思いをしたり、息を止められて苦しい思いをするのは嫌だ。それに、できれば綺麗に死にたい。

 今までみっともなく生きてきたから、最期くらいは見苦しくならないように美しく終わりたい。


「……う…………っ」


 そんなことを考える自分が堪らなく嫌で、恐ろしくて、身体の底から震えがやってくる。

 ふと排水溝に目やると、赤い湯が流れていた。はっとして傷に手を当てると、べったりと血が付く。完全に開いてしまった傷口を見てクロエは酷い目眩と吐き気を感じ、うずくまった。

 濡れた髪や身体から落ちた水滴が浴槽の中で跳ねる。そこに赤が混じる。

 用済みの道具として処分されるか、身体の血が抜けて朽ちるかは分からないが、終わりはそう遠くない位置にあることは確かだ。






 痛む足を引き摺りながら部屋に戻ったクロエはベッドに倒れ込んだ。

 このまま静かに腐り、朽ちていけたらどれだけ楽だろう。そんなことを考えて目を閉じる。

 眼裏の闇は優しいものだけではないと知りつつもそれに浸るのは、現実より遥かに優しいものだから。

 月溜まりのベッドに横になりながら、クロエは浅い微睡みに身を委ねる。

 すると、ノックの音が響いた。


「クロエさん」


 聞こえてきたその声は思いもしないものだ。クロエは息を呑む。

 返事をしないでいると、もう一度扉が叩かれる。彼は何も言わない。クロエも言葉を返さない。

 こうして黙っていれば去ってくれるはずだ。もう誰とも関わりたくないクロエは殻へ閉じこもるように足を抱えた。その時、扉が押し開かれる。

 現れたのは、黒衣の青年だ。クロエは青冷め、咄嗟に毛布を引き寄せた。


「か……勝手に入ってこないで」


 頬を引き攣らせるクロエを前に、後ろ手に扉を閉めたルイスは平坦な声で答えた。


「ごめん。でも、それが嫌なら閉じ籠るような真似はしない方が良い」

「それ、は……」


 この籠に鍵などはなく、閉じこもっているのはクロエの勝手だ。

 クロエは勝手に押し入られても文句は言えない振る舞いをしている。黙り込むクロエの傍へきたルイスは膝を折り、右手を取った。

 震えるクロエの掌に、遮光瓶が置かれた。


「これを飲めば腕の傷は治る」


 クロエは手の上の瓶をじっと見つめる。

 月光の中、深い青に輝く瓶の中身は彼の言うように薬なのだろう。クロエに死を与える、魔法の薬。


「毒ですか」

「……毒? 何が?」


 クロエはルイスに自責を感じている。強く抵抗できないことを知って彼を寄越したとすれば、残酷だ。それともこれは慈悲なのだろうか。彼に酷い言葉をぶつけたことを、死で詫びる機会が与えられたのだろうか。

 頭の中が冷たくなったかと思えば、腹の底から笑いが込み上げてくる。クロエは弱々しく笑う。

 これが己の現実なのだと、クロエは笑った。


「私を殺しにきたんですよね」

「クロエさん……?」

「私が用済みだから、始末するんですよね」

「違う」

「違わない!」


 クロエは喉を枯らすほどに強く叫び、ルイスの手を振り切る。

 その瞬間、ルイスは痛みを堪えるように顔を歪め、弾かれた右腕を押さえた。


「どうして……どうしてそういうことを言うんだ」

「だってそうでしょう!? 私はお母さんの身代わりで、お母さんを捕らえる為の道具なんだもの! お母さんが見付かったら私は用無しじゃない!」


 掌にある遮光瓶を割れそうなほどに強く握り、クロエは叫ぶ。

 もうこれ以上傷付きたくなくて、みっともないくらいに声を荒げた。

 呆れられるのが怖い。否定されるのが怖い。置いて行かれるのが、見捨てられるのが――自分に価値がないのだと思い知るのが、怖い。この世界は怖いことだらけだ。

 止めなければいけないと頭では思う。

 けれど、無理だと心は訴える。

 激情に囚われたクロエはその勢いのまま続けた。


「私、嬉しかった。ずっと独りだったから、皆と出会えて……家族みたいに過ごせて嬉しかった!」


 共に暮らす彼等はずっと自分を騙し、利用していた。母親にとって自分は不本意に授かった子で、父親だと思っていた人物は他人だった。

 思えばずっと独りだった。

 施設にいた頃は傷の舐め合いで少しは孤独が癒えたけれど、所詮それはまやかしだ。

 全て幻想だった。

 夢は虚像だった。

 だったら、独りで良い。独りが良い。

 傷付いて泣くのはもう嫌だ。涙を流すことによってより惨めさを実感するのも嫌だ。そう、悲しむことはない。最初から独りだったのだから、何も悲しむ必要などない。


「私はただの人形だった……いつか壊れる、ただの道具だった……! それを知ってて、私を利用した。道具として必要としていたから、優しくしてくれた! 道具じゃなくなった私を見てくれる人なんて誰も――」

「違う!」


 言葉を遮る声の強さにクロエは驚き、ただぼうっとルイスを見上げた。


「オレはそんな風に思っていない。キミの母親なんて知らない。どうだって良い。オレは、キミに死んで欲しくないから……、生きて欲しいだけなんだ」


 感情を剥き出しにした声を初めて聞く。

 彼が声を荒げたのは初めてではない。冬の日、彼はヴィンセントに銃を向けて怒鳴った。

 しかし、クロエはその時の彼の言動を演技のように感じてしまった。だから、初めてだった。


「……なんで……っみんな、私のこと嫌いって……私だから要らないって…………みんな、そうだから……。じゃあ、なんで……なん、で……私は生きているの……?」


 呟くと、涙が零れ落ちる。

 泣くのは自分でも嫌なのに、拭っても拭っても涙は溢れてくる。雨のようにぽろぽろと溢れ、止まらない。

 そうして頬を拭っていると、その手を掴まれた。


「ごめん……」


 クロエは胸が凍る。

 ルイスが告げたのは、いつかの夜と同じ謝罪の言葉。それは拒絶だ。

 この場から今すぐ逃げ出したいのに手を掴まれている。

 泣き顔を隠す術を奪われたクロエは、恐る恐る顔を上げる。不躾なほど真っ直ぐ見つめてくるこの夜空の色を恐ろしく思った。


「オレはキミじゃないから、キミの気持ちが分からない。どう声を掛けて良いか分からない……」

「……え……」

「下手に慰めて、傷付けたくない」


 ルイスは【怖い】と言ったけれど、分からないから【知りたい】とも言った。

 あの謝罪は、本当に拒絶だったのだろうか。

 もしかするとあれは、独りになりたいというクロエの気持ちを酌んだルイスの配慮だったのではないだろうか。

 傍にいて欲しいけれど、放っておいて欲しい。そんな相反する感情がクロエの中にあった。

 あの状態のクロエには何を言い聞かせても無駄だ。過剰な同情を受ければクロエは身を守る棘を尖らせ、自分も他人も傷付ける。あの場の最善は、クロエをそっとしておくことだった。


(そんな、わけ……ない……)


 だが、これはクロエがそう考えただけで、ルイスがそう思っていたとは限らない。

 あの謝罪は拒絶ではなかったのだと信じたい哀れな自分の現実逃避かもしれない。そう自らに言い聞かせて、クロエは己の心を守ろうとする。

 震えを鎮めるように固く握るクロエの拳をゆっくりと解き、ルイスはそこから遮光瓶を取り出す。


「でも、死んで欲しくないから無理矢理でも飲ませると思う。キミを傷付けても……」


 理性的な言葉遣いをする彼らしくない声色だった。

 昏倒させて口内に捻り込むというのは物騒だが確実だ。彼の瞳に嘘偽りの色は存在せず、有言実行の気配が濃い。クロエは戸惑う。


「信じられないのなら、毒味をしても良い」

「いいえ」

「なら、飲んでくれる?」

「……はい」


 これほどまでに真っ直ぐ自分を見てくれる彼に与えられるのなら、毒薬だろうと構わないと思った。

 もしそれで逝くことができるなら、最高の終わりだ。

 遮光瓶を両手で持ったクロエは中の液体を一気に煽った。

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