迷いの森の赤ずきん 【13】
平穏が一番だとクロエは思う。
穏やかな日常の羅列はただ退屈な時に思えるが、この上もなく優しい時間だ。
高望みはしない。ただ平穏無事に、堅実に生きられれば良い。
けれど、クロエが今いる現実は平穏からは程遠いところにある。
茨棘の森を越えたことで足は傷付き、クロエは椅子に座らせられた状態で腕を縛られている。
部屋は暖炉の炎によって程好く暖めらている。これは娘が凍えないようにとの母親としての配慮だ。しかし、そんな気遣いをするくらいならば、この蔓薔薇のロープをどうにかして欲しい。
『お外は危険よ。お母さんが傍にいてあげるから、お家の中にいましょ』
『いや……』
『また逃げるの? だったら、足を切り落としちゃう方が良いかしら』
『おかあさん……』
『クロエちゃんが外の世界に出たいというなら仕方ないわ。わたしにはクロエちゃんを護る責任があるもの』
次に逃げたら足を切断する。そう暗に言い残してディアナは部屋を出ていった。
ひとり取り残されたクロエは、ディアナが先ほど発した言葉の意味をじっと考えていた。
クロエの父親――父親だと思っていた人物――は、血を血で洗う時代の終わりに活動した革命家だ。
革命など終わったものだと莫迦にされ続け、身も心も磨り減らして酒に走ったのだとクロエは思っていた。
緑の妖精と呼ばれる酒は音楽家や画家といった芸術家を虜にし、破滅させた禁酒だ。父はその酒を好んでいた。母が言うように、アブサン漬けの廃人だったのだろう。
(買ったって言った)
つまり、母は継母の言うような仕事をしていて、そんな母を父は買ったということなのか。緑の酒を買うように、緑の袖の女を買ったのか。
クロエが撲たれ、罵られたのも、もしかすると本当の子供ではなかったからなのかもしれない。そう考えると血の繋がりがないという事実は救いだ。実の父親に疎まれるより、他人に疎まれる方が傷は浅い。しかし、クロエは頭で思うほど簡単に割り切ることができなかった。
(お父さんはお母さんを恨んでいて、お母さんはローゼンハインさんが好きで、ローゼンハインさんはお母さんのことを恨んでいて……)
寧ろ、愛しいからこそ憎んでいるようだと、クロエは感じていた。
だったらどうして。
好き合っているというなら何故憎しみ合うようなことになってしまったのだろう。
「私は部外者じゃないよ」
下僕だから従えとか、外は危険だから家の中にいろとか、周りはそう言ってクロエを家に閉じ込めようとする。その癖、部外者扱いをして肝心なことは教えない。
この件に関してクロエは無関係ではない。こうして巻き込まれている。
「訊かなきゃ」
理不尽すぎる。そう心の中で吐き捨てながら、クロエは椅子から立ち上がった。
腕を拘束された状態で走り、転倒するのは危険だと判断したクロエはゆっくりと一歩を踏み出す。だが、棘で傷付いた足で踵の高い靴を履きこなせるはずもなく、膝を着くことになる。
「……い……った……!」
クロエは膝立ちの状態から再び立ち上がる努力をする。そこでドレスの裾を踏み付けてしまい、盛大に転んだ。
床に顎を打ち付け、涙が出た。幸い舌や頬を噛むことはなかったものの、顎は激しい痛みを訴える。
「う……っ……」
床に転がって泣いている自分が堪らなく惨めに思えて、そのことが余計に涙を誘う。
助けて。そんな甘えた言葉は出てこなかった。
助けを求めれば救われる。そんな都合が良いものは物語の中だけだ。物語のお姫様のようにいじましく悲鳴を上げ、泣いたところで誰も助けてくれはしない。
そうして惨めに啜り泣いていると、次第に怒りまで込み上げてきた。
「……大体、着せ替えがしたいなら、ローゼンハインさんとやっていれば良いじゃない……」
クロエはこの格好の所為で転んだ。
赤も緑も嫌いなのに、彼等はそれを着せてくる。人形の着せ替えを楽しみたいなら内輪だけでやって欲しい。他人の望むように振る舞うのは楽だったはずなのに、今はただ不快で仕様がない。
クロエは平凡に生きられればそれで良いのだ。だというのに風変わりな男たちにいつもそれは壊される。
「変な趣味があるからって私に向けないでよ……!」
何かに文句を付けていないとやっていられない気分になったクロエは、自分の非凡さを棚に上げて叫んだ。
その言葉は独り言として完結するはずだった。
しかし、クロエの盛大な文句に応える声があった。
「与えた服を脱がせるのが趣味だとしても、もっと色気のある相手を選ぶね。胸も括れもない君で遊んでもさっぱり楽しくない」
「ああ、そうですか。どうぞ勝手にやって――」
あまりに自然に返ってきたので、クロエも適当にあしらってやろうと言葉を返す。そこで気が付く。その声はここにあるはずがないものだ。
「まさに茨姫って感じだけど、可憐でもない君の捕らわれの姿なんか見ても楽しくないし、泣き顔も相変わらず不細工だ。それにしても良い姿だね。床に這いつくばって床を舐めるなんて無様だなあ。芋虫みたいだ」
人の神経を逆撫でするような棘のある声もそうだが、ここまで人を莫迦にする人物は彼しかいない。
クロエは身体を捩り、顔を上げた。
「え……、ローゼンハインさん……生きてたんですか……?」
「生きてたんですかって、人様を勝手に死人扱いするのは止めてくれない?」
「だ、だって刺されたじゃないですか」
「刺されたね。でも咄嗟に身を引いたから心臓に穴は空かずに済んだよ」
信じられない言葉を吐くヴィンセントをクロエは信じられない気持ちで見上げる。
陸に打ち上げられた魚のようにもがくクロエをヴィンセントは冷ややかに見下ろし、膝を折る。
「拘束して放置とかディアナも良い趣味だよね。まあ、親子でやるかって感じだけど」
ヴィンセントは床に転がったクロエの襟首を乱暴に掴んで起き上がらせると、ナイフで蔓薔薇のロープを切断した。
皮膚に食い込んでいた棘が抜けると鈍い痛みが走った。クロエは複雑な心境でヴィンセントを見た。
「私を助けるなんてどういう風の吹き回しですか……?」
「ディアナが見付かれば君なんてどうでも良いよ。腕を治す必要もないし、もう囲っている意味もない。でもさ、君には借金があるんだよ。どうせ死ぬなら借金返してから死んでよ」
本物があれば身代わりは要らないというような変わり身の早さにはクロエは傷付くが、それは当たり前のことだ。
「そう……ですか……」
クロエはもうヴィンセントに嫌われるのが悲しいとも、好かれたいとも思わない。彼を理解しようと足掻くよりも、受け入れる努力をした方が良いと悟った。
分かり合えないということを理解したこの時、クロエの中にあったのはただ純粋な怒りだった。
クロエは立ち上がり、眼差しを下げる。床の上に膝を着いたヴィンセントの手はナイフを握り締めている。逆らえば切り裂かれるかもしれない。
だが、関係ない。
クロエは手袋を外して投げ付ける。そして、ヴィンセントを撲った。
「痛いなあ。少しは加減を――」
不満をぶつけようとしたヴィンセントは二発目の平手を食らった。
「うわ、ルイスくんがいないと僕が二発食らうことになるんだ」
「もう一往復しても良いくらいです」
「じゃあ、すれば?」
「暴力で伝えられることはありませんから、しません」
ヴィンセントの頬を力任せに撲ったクロエは涙の溜まった目で睨んだ。
クロエはまだ混乱していた。
ディアナが語ったことの半分も呑み込めず、ヴィンセントに斬られても死なない自分のことが分からない。ひりひりと痛む手を握り締め、クロエは肩を震わせた。
「痛いなら止めれば良いのに」
撲つ方も痛いなら、最初から撲たなければ良い。
ヴィンセントは冷やかにそう言うと、物でも見るような無関心な目でクロエを一瞥し、立ち上がった。
「さて、人質の確保は済んだし肝心のディアナを探さないとね」
「逃げるんじゃないんですか?」
「君を助けにきたんじゃないって言ったよね。僕はディアナを捕らえにきたんだ」
「と、捕らえるって……。ローゼンハインさん、怪我しているじゃないですか」
平気そうに振る舞っているが、ヴィンセントの顔色は酷かった。
「仕事なんてどうでも良いですから、無理しないで下さい」
「だから仕事じゃないって言っているじゃない。ディアナを捕まえるのは僕の望みなんだ」
「それでもです! 死んだら終わりなんですよ!? したいことだって……夢だって叶えられないんです」
もう理解されたいとも認めてもらいたいとも思わない。それでもクロエはヴィンセントを失いたくない。
彼にとって、この自分の存在意義はディアナを見付けるまでの代用品で、その価値がなくなった今は借金返済の道具ということに尽きるのは分かっている。
けれど、ここで終わらせたくない。
クロエは請うようにヴィンセントの右手を自らの両手で握り締めた。
「興醒めだな」
ヴィンセントはクロエの手を振り払う。そして、ナイフの切っ先を喉に向けた。
「ディアナでもない癖にごちゃごちゃうるさいんだよ」
首筋に切っ先を突き立てられたクロエは息を引き攣らせるが、ヴィンセントの無表情は揺らがない。
「本当にどうしてここまで苛つくんだろうな……?」
「じゃあ……私にどうしろと言うんですか」
「死ねば良かった」
「…………」
「お前が生まれてこなければ、俺はずっとあいつに見惚れていることができたのに」
この時、クロエは漸くヴィンセントから向けられる理不尽な怒りの正体を知った。
ヴィンセントにとってクロエは、自分の愛する女を奪った男の子供なのだ。
「お前がいなければディアナは不幸にならなかった。他の真っ当な奴と結ばれて幸せになるはずだった。そんなあいつが無事に人生を終えるのを見届けてから俺も死ぬはずだったのに、お前なんかが生まれてきた所為でその夢が奪われたんだ」
「貴方が幸せにするという考えはなかったんですか?」
「ないな。俺は見守っているだけで充分だった」
首筋に添えられた刃は肌を舐めるように動き、喉にでぴたりと止まった。
少しでも動けば危うい状況でクロエは言葉を発する。
「八つ当たりしないで下さい」
「八つ当たり? 俺は事実を言っているだけだよ。お前が存在そのものが忌々しいものだと教えてやっているだけだ」
クロエがヴィンセントに疎まれるのは、血の繋がりのない父に恨まれたことと似た理由だ。
恨まれ、憎まれ、撲たれ、蹴られ、口汚く罵られても仕方がない。だけど、夢を奪われたというその怒りだけは受け入れることはできなかった。
「見惚れていたい? 見守っているだけで充分……? そうやって格好付けているから持っていかれちゃったんじゃないですか!」
無欲そうなことを語りながらも、こうして文句ばかり言っているヴィンセントは結局弱い男なのだろう。
好きな女を物陰から物欲しげに見ているだけの、ただの自信のない男。
「後悔するくらいなら、好きだって言えば良いじゃないですか! 情けないです!」
クロエは呆れていた。
愛する女が天寿を全うするのを見届けてから、自分の身を土に還すという願望には呆れ果てた。
その愛は歪みすぎだろう。
悲しすぎるだろう、その恋は。
「お母さんは……ディアナさんは、ローゼンハインさんのこと好きだったって……」
勝手に伝えて良いことではない。何より、それを伝えるのは父と母という家族を否定することに繋がるというのも分かっていた。
それでも。
「好きになった最初で最後の人だって言ってたんですよ」
ヴィンセントがずっと誤解したまま苦しんでいるようだから、クロエは救ってやりたいと思った。
「それ、エルフェさんからも聞いたよ」
「だったら――」
「だったらどうしていなくなったんだ!」
そんなことは信じないというように、ヴィンセントは八つ当たり同然の言葉を投げ付ける。
それは本人に訊ねなければ分からない。クロエはそう答えようとする。
けれどそれより先に、声が響く。
「どうして……? あなたがわたしを捨てたんでしょう」