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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
五章
87/208

迷いの森の赤ずきん 【12】

 森はとても静かだ。さわさわと葉が揺れる音以外、何もない。

 周囲に満ちるのは少し湿りを帯びたひんやりとした空気。夜も深まってきたのか、霧も立ち込めている。髪や寝間着の裾を翻す風は冷たく、裸足の爪先には草に降りた夜露が掛かり、凍えていた。


「ここ、何処なんだろ」


 何処まで駆けても森の終わりは見えなかった。

 終わりの見えない森は、最下層部にあった白い樹海を思い出させる。


「ローゼンハインさん……」


 ヴィンセントが胸を刺された後、クロエは放心した。

 叫ぶことも泣くこともできずに、二人を見守っていた。何もかもが信じられなくて、夢であることを願った。そして、母が口ずさむ歌を聞いた瞬間、全てがどうでも良くなって、次に目覚めたのはベッドの上だった。

 あの後、ヴィンセントがどうなったのかが気になる。

 雪の上に広がったあの赤が全てを物語っているようで、クロエは恐ろしかった。


(もしかしたら他の皆も……)


 何故ダイアナがあのような凶行に及んだのか、クロエは分からない。ただ、ダイアナとヴィンセントの間に何かがあったのだろうことは、彼の言動から窺うことができた。


(どうしてなの?)


 ヴィンセントもエルフェも、恐らくファウストとメルシエも、クロエが【ディアナ】の娘だと知っていた。

 クロエはそのことについても問い質したいが、この【普通】ではない身体のことも訊かねばならなかった。


「急がなきゃ、いけないのに……」


 しっとりと肌や髪を撫でる風がゆうるりと霧を運ぶ。

 霧で濡れた草木はどろりと滑り、茨が足に絡む。からげた寝間着の裾は茨棘の茂みを越える時に破れた。クロエの足は傷だらけになっていた。

 前方から突風が吹き付けてきた。泥にまみれた裾がばさりと翻り、髪も大きく躍る。まるで意志を砕くような風にクロエは身を竦ませる。

 挫けまいと、諦めまいと思うのに、足は止まってしまう。

 進んだ先に絶望しかないのが分かっているのに、どうしたら進めるというのだろう。

 視界がじわりと歪み、それを堪えようとクロエは唇を噛んだ。


(エルフェさんもメルシエさんも先生もみんな……みんな……)


 クロエはディアナの娘だからこそ庇護され、優しくされたのだ。

 ヴィンセントが言うように、ディアナの身代わりとしてしかクロエに存在する価値はなかった。ディアナが見付かった今、この自分がもう彼等に必要ない存在なのだとクロエは理解していた。先にも後にも絶望しかなかった。

 足も心も止めて流されてしまった方が楽だ。脆弱(ぜいじゃく)な自分がそう囁き掛ける。

 全てを忘れて眠ってしまおうとする自分を否定し、クロエは足を進める。

 その背に声が飛んできた。


「止まって下さい」

「抵抗するようなら攻撃します」


 クロエは立ち止まり、振り返る。そして、自分に突き付けられた剣と銃を見る。

 片方の人物は拳銃を持ち、もう片方の人物は小剣を持っている。緋色の外套を羽織った彼等は目許を隠す黒い仮面を着けていた。


「――――っぅ」


 思わず後退り、踵に潜り込んだ棘の鋭さにクロエは息を呑む。

 逃げた先で凶器を突き付けられるのはこれが二度目だ。だからこそ、逃げられないことを瞬時に悟る。


「セレーネ、ユピテル、ありがと」


 静寂を破ったのは、奇妙なほどに明るい声。

 目覚めの朝は涙が流れるほどに安堵した声が、今はとても恐ろしく感じた。


「君たちの鼻は犬並だね。助かっちゃった」


 ぞろりと長い髪と外套を風に妖しく靡かせながらやってきたダイアナに、仮面の二人は訴える。


「あなたの目的は達成されたはずです」

「ダイアナ、そろそろお戻りになって――」

「うざいな、殺すよ」


 ダイアナは普段通りの表情と口調で言い放つ。

 普段通りだからこそ、有言実行の気配が濃い。仮面の二人はじり、と後退った。

 大きな瞳をじっと細め、ダイアナはクロエの身体を引き寄せる。


「わたしのやることに口を出さないで。死にたくないならさっさと消えてよ」


 鋭く研ぎ澄まされた眼差しは微かに赤かった。

 瞳の奥で揺れる狂気にクロエはぞくりとする。仮面の二人も同じだったのか、彼等はダイアナへ向かって一礼すると、霧の向こうへ去った。

 ダイアナは霧に濡れたフードを落とし、甘い笑みをクロエに向ける。


「良かった、クロエちゃん。この森は危険なんだから迷子になっちゃ駄目だよ」

「……い……や……」

「いや? 赤ずきんちゃんってお話、知ってるでしょ? お母さんの言うことちゃんと聞かないと、怖い狼さんに食べられちゃうんだよ」

「は、離して!」


 触らないで、とクロエは力任せにダイアナの手を振り切る。

 見つめてくる眼差しも、触れてくる仕種も、言葉も、全て優しい。けれど、クロエは怖い。ヴィンセントを怖いと思ったように、ダイアナも怖いと思ってしまった。


「もしかして、もう思い出しちゃったの?」


 クロエの怯えた顔を見て、ダイアナはその事実に気付いた。

 だがその顔は落胆に沈んではおらず、寧ろ新しい玩具を見付けた子供のように輝いていた。


「おっかしいなあ。わたし、これでもプロなんだよ? サイレンの魔女って呼ばれるくらいなんだから」


 サイレンとは即ちセイレーン。歌声で人を惑わし、水の中に引き摺り込む怪物のことだ。

 ダイアナはクロエが意識を失い、目覚めるまでずっと歌っていた。洗脳を受けていたかもしれない事実にクロエは震えた。


「おかあ……さん……」

「なあに?」

「……お母さん、ローゼンハインさんのこと、刺した……よね……」

「うん、そだね。それがどしたの?」


 あっけらかんと肯定するダイアナにクロエはショックを受ける。


「どうしたのって……、どうして人を傷付けて平気な顔をしていられるの?」

「あれは外法だよ。序でにわたしの敵。殺して何が悪いのかな」

「悪いに決まっているでしょう! 人を傷付けてお母さんは良心が痛まないの?」

「良心に誠意。世間知らずのお姫様の考えね」


 くすくすと笑いながらダイアナは口調も声色も変えた。

 不自然なほどの穏やかさが消えた。童女のような無邪気な面は完全に隠れ、現れたのは冷ややかな女の顔だ。クロエは息を呑む。


「人を傷付けたら駄目、悪口を言ったら駄目、嘘を吐いたら駄目。そんなものは模範的な優等生の台詞よ。クロエちゃんは良い子だからそれで良いのかもしれないけど、そんなに清廉に生きられる人をなんてこの世にいるのかしら」

「…………っ」

「クロエちゃんは生き辛いと思ったことはない? クロエちゃんのように綺麗な人間にこの世界は残酷よ?」


 手首を掴むダイアナの力が強くなる。クロエは痛みに眉を顰めた。


「辛いでしょう? それはクロエちゃんが剥き出しのままだからなの。綺麗なままだから淘汰されるの」


 【綺麗】という言葉には皮肉があった。

 うふふ、とダイアナは笑う。いつもと変わらない、けれど決定的に違う無邪気な笑みだった。

 忍び笑いを滲ませた声がクロエの耳許で響く。

 絡み付いてくる腕に、声に、クロエは捕らわれる。

 だが、それは僅かな間のこと。


「私のこと、勝手に決め付けないで!」


 もう限界だ。クロエは悲鳴のような声で叫び、ダイアナを振り切る。

 手は離れない。それどころか益々強く引っ張られる。相手は自分の母親だ。そのことが迷いに繋がるが、クロエは気合いを込めてダイアナの膝を蹴り飛ばした。

 不意打ちの攻撃を受けて、相手は地に沈むはずだった。

 ダイアナは崩れ落ちる代わりにクロエに攻撃を加えた。


「甘いわ。手加減しちゃ駄目よ」

「あ……っ」


 膝が砕けそうなほどの衝撃に身を折ると、その腹に膝が入り、息が止まる。そして突き飛ばされた。

 ぱきりと小枝の折れる感触が背中に伝わり、同時に貫かれたような痛みが胸を襲う。


「……う……ぁ……」


 枯葉と小枝に埋もれたクロエの前に赤い影が立ちはだかる。彼女は起き上がろうとするクロエの鳩尾をヒールの靴で思い切り踏み付けようとして、そこでぴたりと動きを止めた。


「相手を無力化する時はこうするのよ。……覚えた?」


 ダイアナは挑戦的な微笑を浮かべてクロエの上に(かざ)した足を退けた。

 体重を込めて踏み付けられていれば、クロエは意識を失っていただろう。ダイアナが手加減したから無事で済んだ。親子だから容赦されただけだ。


「あ、痛かった? ごめんね。でもそんな掠り傷、すぐに治るよね」


 クロエちゃんはわたしの子供だもの。

 膝を着いたまま動けないクロエに、ダイアナは右手を差し出してくる。

 星の眩しさに目を細めながらもクロエは呆然とダイアナを見上げた。


「お外は危険よ。お母さんが傍にいてあげるから、お家に戻りましょう?」


 空から降り注ぐ星光は清らかで、その声も優しいというのに、クロエはぞっと寒気がした。

 逃げなければいけないと思うものの、身体は全く動かない。言いようのない悪寒に縛られて動けない。

 ダイアナの瞳は刃のように強く鋭い光を湛えていた。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 疼く痛みに呼び起こされる。そして、また意識を手放す。

 夢の中でも苛まれて堪らず飛び起き、現実の中でも苦しみもがき、また夢の中へ沈む。

 現実でも夢でも歌声が聞こえた。

 歌声が誘う悪夢をゆらゆらと漂流して、剥き出しのまま甚振(いたぶ)られる。抵抗することもままならずにそんなことを何度か繰り返した後、クロエは覚醒した。

 小さな窓からは雪のちらつく灰色の空が見える。部屋の中は程好く暖められている。

 暖かいけれど、寒い。その癖、汗が身体を濡らす。そうしてクロエが薄ぼんやりとしていると、泥だらけだった寝間着を脱がされた。

 きつく絞ったタオルで汗と泥を拭われ、乾いた肌に薔薇水を塗られる。肌着だけの姿にされて恥ずかしいと考えるより先に、心が降参していた。

 貧相な身体を新しい衣で包まれる。

 白いレースが襟元を、ベージュと若草色のストライプ柄のフリルがスカートの裾を飾るドレスのボタンを留められる。グリーンのドレスの胸元と腰には、花の飾りが付いたリボンが揺れる。

 クロエは椅子に座らせられた。


「ストライプのドレスが最近の流行りなんですって。流行って繰り返すのね」


 ダイアナは鼻歌を口ずさみながらクロエの絡まった髪をブラシで梳く。

 金の髪に艶が戻ると慣れた手付きで三つ編みを作り、それを上の方で纏めてリボンで結う。それからエメラルドのイヤリングを耳に着け、全体を見ると満足そうに頷いた。


「うん、可愛いわ。お人形さんみたい」


 足には枷を嵌められてはいない。だが、クロエは動けない。

 ドレスを着せられた直後に腕は蔓薔薇のロープで縛られた。少しでも動くと、衣服越しに鋭い棘が肌を突き刺した。


「貴族のお嬢様の間では綺麗な男の子を薬漬けにして人形にするのが流行りだけど、あれは良くないと思うの。幾ら綺麗だって人形は人形よ。意思がある方が面白いのにね」


 椅子に大人しく座る娘の頬を母は愛しげに撫でた。

 冷たい感触にクロエは慄える。ダイアナはその反応を楽しむように指先で唇に触れた。


「若くて綺麗なのって良いわよね……。羨ましい」


 クロエはどうして、と思う。

 クロエの最後の記憶にあるダイアナと、今ここにいる彼女は容姿が寸分も違わない。

 最初に感じた違和感はきっとそれだ。ダイアナは奇妙なほどに変わっていなかった。

 母は昔からこういう人だ。冗談のようなおどけたことばかりを言って、滅茶苦茶なことをする人だった。

 だが、ここにいる母は何かが可笑しい。彼女はクロエの知っている母親のダイアナではない。ここにいるのはクロエの知らない、ディアナだ。


「ねえ、お母さん……。お母さんとローゼンハインさんって何なの……?」

「あれはね、わたしの初恋のひと。わたしが愛した最初で最後のひとよ」


 ディアナは決然と告げる。

 最初で最後の、とクロエは上の空で繰り返す。

 行き場のないその言葉は自分の胸に突き刺さる。


「それじゃあ、お父さんは……? お父さんは、お母さんの何なの?」

「アンセムさんのこと? あれはわたしのことを買ったひと。アブサン漬けの革命家崩れ」


 震えて消えそうなクロエの声を聞き届けたディアナは何度か瞬いた後、呪いめいた事実を口にした。


「ごめんね。クロエちゃんのお父さん、わたしも分からないの」

「――――――……!!」


 クロエは声にならない悲鳴を上げた。

 継母が言ったことはただの嫌がらせなのだと、クロエは今までそう思い込んで心を守ってきた。

 似ていない親子なんて何処にでもいる。親に愛されない子供も自分だけではない。自分は父と母の子供なのだと――二人が愛し合った証として生まれてきたのだと信じようとしてきた。

 だけど、それは虚像だった。

 幻想だった。


「あ…………ああ…………」


 雨が降ったら傘を持って迎えにきてくれるような親が欲しかった。

 喧嘩をしてもすぐに仲直りをして、例え撲ったとしてもそれ以上に抱き締めてくれる親が良かった。

 一日の始めにおはようって言うと、おはようって返してくれる。

 出掛ける時は行ってらっしゃいと送り出して、お帰りと迎えてくれる。そして、家族皆でご飯を食べる。皆で出掛けて、父は肩車をしてくれたり、母は好物がいっぱいのお弁当を作ってくれたりする。

 一緒に困ったり笑ったりして歩んでゆく、普通の家族。

 物語の中にあるような理想的な家族でなくても良い。道を歩く平凡な家族にこそクロエは憧れた。


『クロエはクロエだから……わたしは……私だから……』


 幼いクロエは自分を守る為に心を殺した。

 他人は他人だからと諦めた。自分には自分の幸せがあるはずだと気持ちに整理を付けた。

 惨めな思いをしないように、望むことを止めた。その裏でひどく滑稽な夢を見た。


『理想は林檎の木を植えてくれるひと』


 母は自分を捨てて出ていって、父は継母と共にいつも撲ったけれど、いつか自分が親になることがあったら、いっぱい子供を愛そうと思った。

 優しい夫と、沢山の子供に囲まれて、平凡(しあわせ)な日々を送るのだ。

 いつか自分で林檎の木を植えるという夢の裏に隠した本当の夢。

 だけど、そんな夢は嘘だ。最初から全て虚像(ゆめ)だったから――――。


「ごめんね、クロエちゃん」


 謝られれば謝られるほどに、泣けば泣いただけ、惨めになる。

 茨に絡め取られて深く暗いところへ沈んでゆく。その茨は蔓を伸ばし、全てを傷付けようと棘を伸ばす。


「あは……、でも良いよね。父親なんて娘を道具としか思っていないようなものだし、そんな奴いなくても」

「触らないでっ!!」


 罅割れた心に追い討ちを掛けるようにディアナは笑った。だから、クロエは叫んだ。

 ディアナの腕がびくりと震える。それと同時に瞳がぐらりと大きく揺れ、すぐに静けさを取り戻す。


「わたしを汚らわしいと思う? おぞましいと……酷い親だと思う?」

「……言わせない、でよ……」

「ええ、親がろくでもないと子供は苦労するのよね。そう……綺麗なままじゃ生きられないのよ」


 ディアナは激しい嫌悪感に身を震わせるクロエに言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「あなたは綺麗だから夢を見られるのよ、クロエちゃん」


 暗い色をしたディアナの眼差しにクロエは目眩がする。

 クロエの瞳を春の空の色と例えるのなら、それよりも鮮やかなディアナの瞳は夏の空だ。その突き抜ける青が底無しの闇へと繋がっていると誰が思うだろう。

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