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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
五章
86/208

迷いの森の赤ずきん 【11】

 今日は一日、ダイアナと水入らずの時間を過ごした。

 茶の時間が終わってからも喋り続け、日が暮れてからは一緒に夕飯を作った。

 クロエが幼い頃とは立場がすっかり逆転した食事作り。ダイアナはクロエの作った料理を美味しいと言って食べてくれた。

 ダイアナが買い物へ出ている間、クロエは入浴を済ませた。ダイアナの部屋にあるドレッサーの前に座り、髪を整えるべく、ブラシを探して引き出しを開けた。


「え……と……」


 ブラシの代わりに出てきたのは、刃物や銃器だった。

 何故ドレッサーの引き出しに凶器が押し込まれているのかと考える前に、ダイアナがどうしてこのようなものを持っているのだろうと不安を覚えた。

 そうしている間に戻ってきたダイアナに、クロエは慌ててドレッサーから離れて微笑みを向けたが、その笑みが引き攣っていなかった自信はない。


「今日からここがクロエちゃんのお部屋だよ」


 ダイアナの部屋から出て、案内された小部屋は、庭を囲む回廊の二階にあった。


「お休みなさい、わたしのクロエちゃん」


 真新しい寝間着をクロエに渡したダイアナは、頬に音だけのキスをして廊下の闇の向こうへ消えた。

 広い部屋に小さい窓、薄暗い廊下。ここは安全な場所なのに、胸に得体の知れないざわめきがある。

 寝間着に着替え、ベッドに座り込んだクロエは腕を擦る。


「この傷、どうしたんだっけ……」


 シャワーを浴びる時に、腕に酷い切傷があることに気が付いた。

 薄皮が破れ、ぱっくりと開いたそこからは肉が覗き、血を滴らせていた。クロエは傷や血液には耐性があるつもりだったが、一向に血の止まる気配のない傷は気味悪く感じた。

 そのことを母に相談しようかしまいかと考えている内に、あれを見付けてしまった。


「……おかあさん……」


 何かが警鐘を鳴らしている。

 疑心暗鬼に囚われすぎだ、自分の親を疑うなど酷い子供だと己を戒めてみても、その音は止まらない。それどころか益々その音を強めている。

 可笑しいのは気付いていた。

 ダイアナの話す内容は何処か可笑しい。辻褄が合わないことだらけだ。

 ベッドの縁に座るクロエは目を閉じ、深々と息をついた。


(お母さん、どうして急に迎えにきたんだろ)


 ヴィンセントとエルフェと友人だというなら、もっと早く会いにきてくれても良かったはずだ。例え一緒に暮らすことができなくとも、その顔を見られればクロエは嬉しかった。

 クロエはどうして彼等と暮らしていたかが思い出せない。

 施設を出て一年もしない内に父が死に、それから暫くしてクロエは家を出た。花屋で働きながら継母に金を払っていた。それなのに何故、彼等と暮らしていたのだろう。

 もしや母に頼まれて引き取ってくれたのだろうか。

 優しい彼等だからきっとそうだ。そう思い込もうとするものの、否定する自分もいる。


(優しかった。エルフェさんもレヴィくんも優しかった。ローゼンハインさんも…………、ちがう。そこからちがう。やさしかったけど、ちがう)


 慕っていた相手に、クロエはどん底に突き落とされた。

 愛されていると勘違いできるほどに優しくされたなら莫迦になれたのか、と思わず考えるほどに辛かった。

 辛かった。自分のことを認めてくれないのが――本当の自分を見てくれないのが悲しかった。

 ふらりと立ち上がったクロエは部屋を出る。

 星明かりに照らされただけの暗い廊下を抜けて、階段を下りた。

 中庭へ出ると風が吹き付け、寝間着の裾を翻した。

 身を裂くような冷たい風にクロエは首を竦める。だが、その風が頭に掛かった霧を払ってくれる。


「こんなの、おかしいよ」


 記憶のあちこちに穴が空いていることは、疑いようもない事実だ。それを酩酊で忘れてしまったのだというのは納得できない。

 一度疑い始めるともう止まらなかった。


(現実逃避してどうするの……。忘れて、諦めて、逃げたら昔と変わらないじゃない)


 都合の悪いことは聞かなかったことにして忘れた。他人に言われるがまま、望まれるがままに振る舞って、弾かれないように、嫌われないように、目立たないようにと生きてきた。

 そんな自分はもう嫌だと思ったはずだ。これからはしっかり生きようと――生きたいと願ったはずだ。

 星明かりの射す青い闇の中で木々がそよぐ。振り仰げば、明るい空に白い切片が舞った。

 風に乗って運ばれた風花を見て、クロエはあることを思い出す。






 瞼の裏には、夢の景色がまだ鮮やかに残っている。

 白い花弁が舞う春の林檎の森で、クロエは青緑色の眼をした若者と出会った。


『君は、ディアナの……』

『……や……、はな……して……!』


 知らない名前を呼んで縋り付いてくる若者をクロエは力任せに振り払い、逃げた。

 若者の手には血で汚れた剣があった。その剣を使って人を殺す瞬間も見た。

 殺されると思ったから、もたつく足で必死で逃げた。


『待て!』


 クロエは逃げた。そして、殺された。

 若者にではなく、赤い眼をした化け物に胸を刺し抜かれたのだ。

 その化け物は上半身と下半身とが切り離されていた。若者が殺したはずの【人】だった。


『だから待てと言ったのに』


 ここは危険だから待てと言ったのに、と若者は溜め息をついた。


(……まてる……わけ、ない……)


 凶器を持った人間に狂気を込めた眼差しを向けられ、驚喜したように追い掛けられたら誰だって逃げる。

 大体、この普通ではない状況は何なのだろう。

 真っ二つに裂かれた人間が動くのも普通ではないが、その舌が有り得ない動きをして伸びた。その普通ではない存在の舌に胸や腹を貫かれて、自分は死に掛けている。


『何、君って言いたいことも言えないの? つならない顔の通り、つまらない人生だね』


(……別につまらなくたって良いの。普通なら、平凡ならそれで良い)


『ふうん、そう。君はつまらなく生きてつまらなく死んでいくんだ? じゃあ、ここで死んでも構わないね』


(わかん、ない……)


 意味が分からなかった。分かりたくもなかった。

 けれど、死ぬならそれでも良いと思った。

 異常なことに関わりたくないし、痛くて堪らない。息ができなくて、苦しい。もう終わりにして欲しい。


『どうせ君はもう助からないから殺してあげるよ』


 若者は剣でクロエの首を一閃した。

 目映いばかりの世界に鮮血が飛び散った。


『首切っても死なないってどんな化け物さ、ダイアナそっくりの子供?』


 首を切られ、死んだはずだった。

 けれども――――。






「わ……わたし……」


 クロエの記憶は戻った。忘れていた方が良かったことまでも思い出した。

 首を切られても死なない身体に、十年の時が流れても変わらない容姿。明らかに【普通】ではなかった。

 身体の奥底から震えが湧き起こる。ぐらりと目眩がした。冷たい汗が背を伝う。


「……訊か、なきゃ……皆に会わなきゃ……」


 崩れそうになる足に力を入れて踏み止まり、自分に言い聞かせるように声に出して言う。己を叱咤しながら前に押し出した足が石畳に引っ掛かり、クロエは視線を下げる。

 このような靴で歩くくらいなら、いっそ裸足の方が良い。クロエは靴を脱ぎ捨て、星明かりが照らす先を見据える。

 爛漫と咲き乱れる荊棘の放つ甘い香りの中、クロエは駆け出した。

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