迷いの森の赤ずきん 【10】
『クロエは本当に私の子供なのか?』
父に似ていない顔が嫌いだった。
母に暴力を振るい、こちらにも手を上げる父はこの顔を見ると更に不機嫌になった。
額の傷を隠す為ではなく、顔を隠す為に前髪を伸ばした。次第に人の目を見ることが怖くなった。
『花売りだから託卵させたんじゃない?』
母がいなくなると、すぐに新しい母がやってきた。
継母はこの容姿を嫌った。毎日のように口汚く罵り、撲ってきた。そして、母は身売りをしていたから、お前は父の本当の子供ではないのではないかと言った。
『緑の服を着て身売りなんてしないでよ』
継母と良く似た金髪緑眼をした彼は、継母と同じようにこちらの存在を否定した。
だけど、その裏に試すような色があったから、彼のことを理解できるようになりたいと思った。そして、継母の代わりに認めて貰いたいと思った。
その彼と母は知り合いだった。
友人のものとも恋人のものとも違う、冷たい口付けを交わした。
いつだって仲間外れは自分だった。今回も何も知らない部外者は自分だけだった。
『辛いことは忘れちゃいなよ』
(諦めて……忘れて、切り替えないと、笑えなくなる)
自分は母の代用品の人形にすらなれない、ただの道具だった。
あまりに辛いから、母の言うように忘れてしまうことにした。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
歌声に気付いて、眠りの世界から現実に呼び戻される。
覚醒を拒む身体。重い瞼を閉じたまま耳を澄ますと、聞こえてくる声がとても懐かしいものであることが分かった。
声は歌の続きを紡ぐ。あなたは残酷なひとだ、と。
聞いている内に悲しくなって、けれどその悲しみの理由も分からずに起きると、歌声は止まった。黒いドレスを纏う女性は青い瞳を優しそう細め、目覚めたばかりのクロエを見る。
「おはよう、クロエちゃん。良く眠れた?」
「……あ、あの……おかあさん……?」
「ん、なあに?」
「ほんとにおかあさん……?」
「あれ、こんなに美人なお母さんの顔、忘れちゃった?」
母親。それは、心の奥底でずっと求め続けてきた存在。
クロエはふらりと前に出る。幼い頃からずっと探し求めていたその胸に飛び込む。
「おかあさん……本当にお母さんだ……っ!」
「どしたの、クロエちゃん。怖い夢でも見ちゃった?」
「……あの、ね……お母さんが、ずっといなくて……悲しかったの……」
ダイアナがクロエを置いて出ていってからの日々は、クロエにとって覚めない悪夢のようなものだった。
もう会えないと思っていた母と会えたことが嬉しくて、クロエはその存在を確かめるように胸に飛び込み、子供のように泣いた。
「だいじょぶだよ。お母さんはここにいるし、もう何処にも行ったりしないから」
ダイアナは淡く笑うと腕を伸ばし、クロエの背を抱き締めた。
クロエがを身支度している間にダイアナは朝食の用意をした。
朝食のテーブルに並んだのは、パンとサラダとスープという至って普通の食事だった。何処か味の外れた塩っぽいジャガイモスープも、野菜が切れずに繋がったままのサラダも、ミルクを淹れなければとても飲めたものではない渋さのコーヒーも、記憶にあるままだ。
懐かしい母親の味にクロエは涙が出てきて、そんな姿を見てダイアナは笑っていた。
「――んで、お別れパーティーをして、クロエちゃんが潰れちゃったからお開きになったの」
「そう、だっけ?」
見知らぬ場所と、身に覚えのない服装。頭の隅に靄が掛かっているようで、クロエはここに至るまでのことを何も思い出せない。
変な子供と思われるのではないか。そんな思いがクロエに訊ねるという行為を封じさせた。意を決して疑問をぶつけることができたのは、昼が過ぎ、午後の紅茶を楽しむ時間になってからだった。
「そうだよ。お酒飲みすぎて忘れちゃった?」
「……うん……」
「駄目だよ、飲みすぎちゃ。育ち盛りの子供がお酒飲んじゃ成長止まっちゃうから」
クロエの記憶にあるのは四人の男たちと共同生活をしていたということだ。
どうして彼等と同居していたのかは思い出せない。きっと忘れるほどに馴染んでいたのだろう。ダイアナがヴィンセントとエルフェとは友人だと語るので、クロエはその疑問を流してしまうことにした。
「ええと……それで、この格好は?」
「パーティーの為に皆が選んでくれたんでしょ? そのド派手なコーディネートはヴィンスくんだね」
「そういえば、そんな気も……」
「クロエちゃん、寒くない?」
「うん、大丈夫」
ダイアナにショールを借りて幾らかはまともになったが、ドレスの肩は剥き出しでこの季節は辛い格好だ。
情けないことに着替えの服はあの家に忘れてきてしまったので、このままでいるしかない。
「お母さんの服を貸しても良いけど、クロエちゃんはちっちゃいからねえ。あとで買い物に行くから、それまで我慢してね」
「うん」
「でもさあ、何でこんな格好なんだろ。女が着飾ること莫迦にしておきながら、実はこういうごてごてなのが好みなの? スカートは許せるとしても、胸開きすぎでしょ。わたしのクロエちゃんに何着せてんのよ、あの変態!」
「あ……あはは……」
ヴィンセントが凄い言われようだ。本人がこの場にいたら大変なことになっているところだ。
「クロエちゃんは折角の金髪碧眼なんだから、そういうお姉さん系じゃなくて、お伽話のお姫様みたいなドレスが良いと思うの。でもでも、お人形さんみたいなのも捨て難い。久々だから迷っちゃうな。どうしよっかなあ」
ダイアナの楽しみは、娘のクロエの着せ替えをすることだった。
母好みの可愛らしい服を着て、母好みのふわふわの髪にして。そうして着せ替え人形のようになっていたことを思い出して、クロエは苦笑いしか出てこない。
だが、母の楽しみを奪うことはしたくないのでクロエは文句を言うことはない。クロエがダイアナに会えて嬉しいように、ダイアナもクロエとの再会を喜んでいるのだ。
時折ダイアナの発言にちくりと胸が痛むような感覚がしたが、水を差したくないクロエは黙っていた。
それから色々な話をした。
母と別れてからこと――父が事故で亡くなったこと、継母と上手くやれなかったこと、施設の先生や兄弟たちに良くして貰ったこと、花屋で働いていたこと、絵を描いたり植物を育てるのが好きなこと。十年間の様々な話をクロエはダイアナに望まれるがままに話した。
ダイアナはクロエの話を微笑みながら聞いていた。
「そっか、色々あったんだね。ほんとにごめんね」
「ううん、良いの。私はお母さんが会いにきてくれただけで充分だから」
迎えにくるという約束を守ってくれただけでクロエは充分だった。それだけで今までの悲しかったこと、苦しかったことにも意味があるように感じられた。
「んでさ、色々教えてもらったんだけど、お母さん、大事なこと聞いていない気がするの」
「大事なこと?」
「ボーイフレンドは?」
「えっ、いないけど」
「ええ!?」
急に改まるので何かと思いきや、そんなことか。クロエがあっさりと答えるとダイアナは飛び上がった。それから沈痛な面持ちをして、怖ず怖ずと訊ねた。
「あー……もしかしてわたしとアンセムさんのことで男の子が駄目、とか……?」
「……そんなことないよ」
それがないとは言い切れなかった。
父が母に暴力を振るい、時に自分にまで手を上げた。そういう記憶がクロエに良くない男性像を植え付けた。
クロエが背か高い人が苦手だったり、言葉が乱暴だったりする男臭い人が駄目だったりするのは、明らかに父の影響だ。
優しくて、真面目で、動植物が好きで、林檎の木を植えてくれる人といういきすぎた幻想を抱くようになったのも、父という異性に失望させられたから。
父は革命家という崇高な身分を背負いながらも酒癖が悪く、暴力的だった。母が育てた花の鉢を割り、踏み付けた。更に浮気をした。母がいなくなってすぐに継母を連れてきて、夜になるとクロエを家の外に追い出した。家族三人で並んで眠った寝所に別の女を連れ込んだ。
自分の父ながら汚らわしいと思った。
殺したいくらいの憎しみを施設の先生の教えに従って浄化してからは、恐怖だけが残った。
「ただの友達ならいるよ! えっと……あのね、レヴィくん……双子のお兄さんなんだけど、一緒にお菓子作りをしたり、買い物に行くんだ。レヴィくんは甘いもの好きで、アイスクリームの美味しい店を教えてくれるの。今度お母さんにも案内するね」
レヴェリーは裏表がない。飽きっぽくて一つのことが長続きしなかったり、言葉遣いが少々雑なのは彼の短所だが、同時に素直さの表れのようで、クロエはレヴェリーのことが嫌いではない。
ダイアナに心配を掛けたくて、クロエは普通の友人付き合いならできることを語った。
「弟のルイスくんとはあんまり出掛けたことはないんだけど、紅茶が好きみたいでお茶に付き合ってくれるの。あとね、この前、花を見に連れて行ってもらったの。桜の花、林檎の花みたいで綺麗だったな……」
気難しいようで素直だったりと複雑なルイスは植物には興味がないと言いながらも、園芸の知識があったり、クロエの話に耳を傾けてアドバイスをしてくれたりする。言葉も態度も冷たいけれど、根は優しいのだと分かったから、彼を怖いとは思わない。
二人は施設の外で出会った、初めての友人だ。
そこまで考えて、クロエは胸にちくりとした痛みを感じた。
(あれ……?)
友達と言ってしまったが、本当に友達だったのか。
友達ではなく、友達になりたかったのではないか。その所為で酷い揉め方をしたのではなかったか。
幻滅されたくなくて、先に失望されるだろう言葉を吐いた。その中で最低の言葉をぶつけてしまった。仲直りをした記憶はない。それなのにお別れ会を開いてくれたというのだろうか。
(あの人はいなかったんだっけ?)
クロエにはお別れ会の記憶も、喧嘩の発端になった出来事の記憶もない。
しかし、ダイアナが嘘をつく理由はない。何より、このような格好をしている説明も付けられないので、酒に酔って忘れてしまったということにするしかない。
酒に呑まれるようなことがないようにこれからは気を付けよう。そうして自分を戒めるクロエにダイアナはこんなことを訊く。
「ねえ、クロエちゃん。その二人、もしかして本名はレヴェリーくんとルイシスくん? 紫のおめめをしてる?」
「そうだけど……、知っているの?」
「クラインシュミットの子供でしょ。知ってるよ。……アデルバートくんとエレンちゃんの可愛い子供だもん」
その言葉に含みが込められているような感じがして、クロエは首を捻る。
「やっぱりあの二人かあ。うーん、どっちもわたし好みの顔してたからなー。きゃんきゃん吠える子犬も捨て難いけど、警戒心剥き出しの子猫も母性本能擽るなあ。どんな可愛い顔に成長してるか気になるなあ」
「お、お母さん……」
乙女のように小首を傾げ、明後日の方に視線を向けているダイアナを見て、そういえば母は面食いだったと思い出してクロエはげんなりする。
母はこんな風に誰の前でも明け透けでいるから、父の機嫌も悪くなった。
ダイアナはクロエのように、他人に合わせようと顔色を窺ったりしない。常に自然体で自由に生きている。
羨ましく思う半分、その遠慮のなさが他人の心を土足で踏み荒らすこともあり、そんな彼女の娘として辛い思いをしたこともあるクロエは複雑な気持ちになった。
(好きなものを好きだってはっきり言えるのは羨ましいな)
「男の子は彼氏にするのも友達にするのも年下でへたれな方が良いよね。野心家だったりして変に競争心があると勝手をする生き物だし」
「え……?」
さらりと混ぜられた皮肉にクロエは心を凍らせたが、その胸中を知る由もないダイアナは微笑んだままだ。
そして、朗らかな声色を微塵も崩さぬままに続ける。
「ふふ、今度ちゃんと挨拶に行かないとね……」
「あ、挨拶!? あの……ただの友達だから、そういう変なこと……」
「あはは、何の勘違いしてるの? クロエちゃんと仲良くしてくれてありがとってお礼するだけだよ」
「そ、そっか」
「うん、そだよ。ただのお礼だから」
ダイアナは明るく笑っていた。その目はどろりと赤い色をしていて、クロエはうっすらと寒気がした。