迷いの森の赤ずきん 【9】
※この話は流血表現が含まれます。閲覧にはご注意下さい。
歌い終えると同時に手が伸びてくる。
ヴィンセントは鎖骨に掛かる髪を指先に絡めるように鷲掴みにし、まるで批難するように引っ張る。クロエが痛みに眉を顰めると、その手は外れた。
「そんな歌を聞かせるなんて良い趣味をしているよね。鈍臭いのは実は演技なのかな」
「……はい……?」
「それって娼婦に恋をした男がその女への未練を綴った歌じゃない」
娼婦が客と草むらで寝て、その袖を緑色に染めたから緑の袖という題名なのだと彼は語った。
そのような曰くのある歌なのだとクロエは知らなかった。母があまりに普通に歌っているものだから、一般的な民謡なのだと思っていた。
「す、済みませ――」
「誇りもなく緑の衣を纏って身売りなんて止めてよ」
身を起こしたヴィンセントはクロエの言葉を封じるように喉に手を掛けた。
以前ナイフで刻まれた傷をなぞられ、その冷たい感触にぞくりとする。
あの時、クロエは緑色の服を着ていた。不義の証である緑の衣を身に着けたことを窘めようとしてくれたのなら、あの振る舞いも許そうと聖母の心持ちで思う。
「お前は俺だけの為に存在して、ずっとここにいて」
でも、だからこそ思うのだ。不義を嫌う彼に、不義をさせるようなことをして良いのだろうか。
何より、こうして誇りを殺してまで生きる値打ちが自分にあるのか。潔く腕を切るか、そのまま寿命が尽きるまで頑張って生き通した方が良いのではないだろうか。
今の自分を好きになることができるか。考えるまでもなく、答えは否だ。
クロエは生かされたいのではなく、生きたいのだ。例え時間が残されていなくとも潔く生きたい。
「……でき……ません……」
喉が痙攣して上手く声が出せず、どうにか絞り出した声も震えた。
首に掛けた手を押し戻されたヴィンセントは、縋る手を弾き返された幼子のような目をする。
「何でさ……? ディアナは傍にいるって言ってくれたよ」
「私はできません。ディアナさんの代わりになんてなれません」
「メイフィールドさんは身代わりが嫌なの? 別に楽しめれば何だって良いと思うけどなあ」
「私は楽しくありません」
「薬と酒でも決めてみる? 楽しくなるかも――」
「なりません! 嫌です!!」
こんなことをしたって何も楽しくない。誰も救われない。
人に思わぬ行動をさせる香りから逃れるように、クロエは思いきり身を引いた。
窓を背にして距離を取ろうとするクロエの姿を見たヴィンセントは、芝居染みた動作でやれやれと肩を竦めた。それからゆっくりと立ち上がる。
「やっぱり、ディアナの代わりというのは無理だったか。君は君として弄んだ方が楽しいかな」
「そ、それ以上近付いたら噛みますよ……!」
「噛む? また舌を噛み切るとか物騒なことを言うわけ?」
「舌を噛むのではなく、貴方のことを噛みます。本気で噛みますから……!」
「うわあ、勇ましくて格好良いね。憧れるよ」
「ふ……ざけないで下さい! 私はもう傷を作るのは嫌なんです!」
腕だろうと指だろうと噛んでやる。暴力を受けて傷付くなんて嫌だ。
今のクロエにそこまでの博愛精神と被虐趣味はない。性格が悪くなったと言われようと構わない。嫌なものは嫌だし、できないことはできないのだ。
身構えるクロエの前で、ヴィンセントは心の底から可笑しいというように声を上げて笑った。大袈裟なほどに大きく笑い、それから一瞬で笑みを消す。
「もしかして、抱かれたい男でもいる?」
「――――っ」
「ああ、ごめん。流石に露骨だったね。好きな男でもいるの?」
「変……なこと、聞かないで下さい……」
抱かれたいなんて――意識している男の人なんていない。
そこまで浮かれられるほどクロエには余裕がない。それに、自分が好きではない。嫌われたくないのと好かれたいのでは意味が違う。だから、自分は誰のことも特別視してはいない。
何故自分にまで言い訳をしているのか分からなくて、クロエの心は余計に荒んでしまう。
「好きな人なんていません。だからこそ、ディアナさんの代わりもできません」
「へえ、そうやって君も逃げるんだ。ディアナみたいに他の男を選んでさあ」
「だから私は好きな人なんていないって言っているじゃないですか!」
クロエは話を聞く姿勢がないヴィンセントに苛立って声を張り上げる。
だが、次に彼の口から出た言葉に凍り付かされた。
「殺そうか?」
「え……」
「ああ、間違えた。殺さない程度に甚振ろうか?」
「……あ……の、ローゼンハイン、さん……?」
「許してくれなくて良いよ? 人間の一番強い感情は憎悪だ。愛情はいつか消えるけど、怨情はずっと残る。【無関心】よりも恨まれた方が良いよ。そうやって一生僕のことを考えていれば良いんだ」
まさか、恨まれる為にあんなことをしたのだろうか。
冗談じゃない、と叫びたかった。けれど声が出ない。肌は粟立ち、喉が震えて慄いた。クロエは身が竦んだ。背中を壁に押し付け、膝に意識して力を入れていなければ立っていられない。
「私は……ローゼンハインさんのことを知りたいと思ってます。できたら友人にもなりたいと思っています。それじゃ駄目なんですか?」
「男と女に友情なんかあるのかな」
「その言い方、不快です」
「僕たちと君に友情なんて成立すると思う? 良い年した男と女が友達とか言って、一線も越えないでべたべたしているのって気持ち悪くない?」
男と女が友人になれないと言いたいのだろうか。そんなことはないはずだ。エルフェとメルシエは性別が違っていても、あんなに仲の良い友人同士ではないか。
クロエの心の中のそんな反論を読み取ったように、ヴィンセントは低く笑った。
「もしかして、エルフェさんのことを言いたい? だったらそれは違うよ。あの魔女はずっとエルフェさんのことが好きだから。ディアナに適う訳ないのに莫迦だよなあ。いや、あんな魔女に陥落され掛けたエルフェさんも大莫迦者かな」
驚く反面、そうだったのかと妙に納得する自分がいた。
エルフェが見舞いにきた時のメルシエはとても嬉しそうだったから。
「君の数倍生きている僕から言わせると、友情なんていうのは言い訳だよ。告白する勇気がないけど、傍にいる為に使う口実だ」
「……じゃあ、何だったら良いんですか?」
「だから言っているじゃない。恨みで繋がるんだよ」
底無しの虚しさに胸が痛んだ。苦しくて、哀しくて、どうしようもない。
けれど、それに呑み込まれてなるものかとクロエは意地で顔を上げる。
「そんなの……そんなの、悲しすぎます……!」
「悲しくなんかないよ。僕とエルフェさんとディアナは恨みでずっと繋がっているんだから」
そう語るヴィンセントの視線は危うい。間違いなく目覚めているはずに夢の中から抜け出しきれず、現実と幻想の間を彷徨うような不安定な眼差しだ。
その眼差しを見てクロエは、自分の言葉はどうしたってヴィンセントに届かないのだと思い出す。そして、ディアナと似ているという自分の存在が彼を狂わせるのだということを知る。
「そんな変なことばっかり言っているローゼンハインさんなんて……、さよならです!」
そう告げるなり、クロエは窓枠に手と足を掛ける。
咄嗟に伸ばされたヴィンセントの手からすり抜け、クロエは飛び降りた。
また突き落とされて身体を打つくらいなら、自ら飛び降りて足を痛めた方が良い。今のようなヴィンセントをもう見ていたくない。
浮遊感と共に地面が迫り、クロエは思わず目を閉じる。だが、想像したような骨の砕ける感触はなかった。
自分で驚くほど上手く着地できた。足も捻っていない。
足の具合を確認し、己の身体の丈夫さに感謝したクロエはそのまま振り返ることなく家を飛び出した。
雪の降る庭に静寂が訪れると、ヴィンセントは窓枠に肘を着いて雪に残された足跡を見る。
「やっぱり【普通】じゃない」
訓練もしていない普通の人間が二階から飛び降りれば足を痛めているところだ。
普通ではない、とヴィンセントは繰り返してその場を離れた。
吹き付ける風が雪を運び、その一片がクロエの頬に落ちた。
冷たく解けた雪を拭うことはしない。もう身体は凍えきっていて今更だった。
ドレスのスカートは重く、コルセットで締め付けられている所為で胸も苦しい。踵の高い靴など履いたことがなかったものだから足も痛い。
剥き出しの肩に容赦なく雪風が当たる。冷たさは骨にまで染みてくる。
着の身着のままで飛び出したクロエは、【ロートレック】の街を歩いていた。
深紅のドレスは【クレベル】では目立ったが、【ロートレック】では却って馴染んだ。
本格的な社交シーズンは夏とはいえ、貴族の屋敷では毎晩何処かしらで夜会が開かれている。クロエのドレスは夜会服のようだったので、この格好があったからこそ検問所も抜けられたようなものだ。
クロエが目指す場所は二つある。エルフェがいるだろうメルシエの家と、ヴァレンタインの屋敷だ。
エルフェへは家を出てきたことを伝える為、そしてルイスへは謝る為に会わなければならない。
順序を考えれば、エルフェに報告することを優先するべきなのだが、メルシエはあまりヴァレンタイン家を良く思っていないようなので、止められる可能性がある。
謝罪なんて自己満足だ。一度言ったことを撤回し、態度を翻すなど潔くない。ルイスも呆れるだろう。それでもこのような気持ちでいるのはもっと嫌だから、クロエはヴァレンタインの屋敷を目指す。
彼が会ってくれるかということは考えないようにした。
そういうことを考えていると、足が止まってしまう。足を止めれば、闇に取り込まれてしまう。
ヴィンセントとエルフェとディアナの間にある恨みと、魔女と侮蔑を受けるメルシエの関係。彼等の間には何かがあったのだろう。その何かを部外者のクロエは知らないし、教えられもしない。その癖、勝手にディアナを投影して巻き込もうとする。
あんまりだ。身勝手すぎる。
考えまいとしても考え込んでしまい、周囲を見ていなかったクロエは雪に足を取られて転ぶ。
「……いった……っ」
咄嗟に手を着くということもできず、膝と胸を派手に打ち付けた。
雪の上とはいえ、痛い。立ち上がろうとして、また座り込む。身体に力が入らなかった。
胸の下が奇妙に痛む。針を鋭く深く差し込んだような痛みに脂汗が滲み出る。寒くて堪らないはずなのに汗が止まらない。挙げ句に涙まで出た。
(ここで、立ち止まってどうするの……!)
弱気になってどうするというのだろう。うずくまり、うなだれている場合ではない。
間違えてやり直せないことなんてきっとないはずだ。しっかりけりを付けて先に進むのだ。
「私は、大丈夫」
自分に必死で言い聞かせる。
クロエは両手を強く握り締め、己を奮い立たせるように顔を上げる。すると、すぐ傍で影が揺れた。
「意外と頑張ったね。でも、もう頑張らなくて良いよ」
驚く気持ちはなかった。
この身体には発信機が埋め込まれている。クロエもそのことは承知していたので、この逃亡が上手くいかないだろうことも予想していた。
髪を掴まれ、路地裏に押し込まれる。乱暴に掴む手を振り払ったクロエは、相手を見上げた。
「逃げたら殺すって言ったのに。手間掛けさせないでくれるかな」
「もう……こんなこと、止めましょうよ……」
「ヤメヨウ? やめようって? 止めようって何が?」
「こんなことをしたってお互い辛くなるだけです。ローゼンハインさんが可哀想です」
「可哀想? 僕に同情するんだ? 僕に認められなきゃ価値もないような君が、他人様に同情するんだ?」
「ディアナさんが好きなら好きってはっきり言えば良いじゃないですか! ちゃんと伝えて、傍にいて欲しいって言えば良いじゃないですか!」
何故、恨みで繋がるという極端な方法しか考え付かないのか。傍にと願うなら口に出して乞えば良いのだ。
ヴィンセントはただの我が儘な子供だ。拒絶されることが怖くて、力で支配することでしか繋ぎ止められない、どうしようもない子供だ。
「本当に好きなら、どんなことがあっても傍にいれば良いじゃないですか!」
「傍にいるって言った癖に居なくなったじゃないか」
「そ、んな……それは、貴方とディアナさんの問題のはずです。私に言わないで下さい」
「ねえ、君は言ってくれないの? 可愛く言ってくれれば優しくしてあげるかもよ。ああ……そういえば、君は他の男にも言ってたね。ずっと傍にいるって」
独りは寂しいから傍にいる、とクロエはルイスに言った。
けれど、ヴィンセントが言うような特別な意味があった訳ではない。
己の身の置き場がなく、何処にも見付け出せない。自分の価値が分からない。無価値な自分の為に他人が傷付いたり負担を背負うのが嫌で、そうして自分と他人が傷付くくらいなら一人が良いとさえ思う。同じだと思う匂いを彼から感じる。だから嫌われたくないし、引き寄せられる。
彼が許してくれる限り、傍にいたいと思った。
おこがましいかもしれないけれど、力になりたい。やさしさを貰ったから、ぬくもりを返したい。
彼の傍にいるのは苦しくて、哀しい。それでも、あの瞳を――眼差しを救いたい。
自分は他人を救えるような立場ではないから、せめて共に頑張りたいと思った。
「見捨てられて可哀想に。でも、そんな可哀想な君だから僕はとても愛しく思うよ」
クロエがルイスに拒まれたことを知るヴィンセントは、捨てられた者同士、楽しくしようと言う。
ヴィンセントはにこやかに笑いながらクロエに近付いてくる。だが、瞳はまるで笑っていなくてそれが怖い。
「どうしたの、そんな顔して? さあ、一緒にお家に戻ろう?」
「……い、やだ……」
「そんなに怖がらなくてもお仕置きなんてしないよ。ただ迷子にならないように鎖を着けるだけだから。そうだ、帰ったら久し振りにスープを作ってあげよう。茨姫さんが怖いこと全部忘れてぐっすり眠れるようにね」
頭がぼんやりとして、まるで靄が掛かったように芯がはっきりしなくて、それでいて心地良い眠りに誘ってくれる魔法のスープ。
薬漬けで幽閉されるのは、殺されるよりもずっと怖いことだ。クロエは身を引きながら訴える。
「いい加減、正気に戻って下さい……」
「僕は正気だよ? 化け物だから、正気で狂っているんだ」
「ローゼンハインさん!」
そして、その時だ。
背後から声が聞こえた。
「あーあー、男の嫉妬って嫌だなあ。粘着系は流行らないよ」
その声を聞いた瞬間、クロエの中で世界の一切の音が消えた。
目の前にいるヴィンセントが大きく目を剥き、クロエも恐る恐る振り返った。
そこには、赤い外套を羽織った金髪の女性がいた。二人が見守る中、彼女はフードを落とす。外套の下から現れた顔には見覚えがある。クロエは呆然と呟く。
「おかあ、さん……?」
「迎えにきたよ、クロエちゃん」
半信半疑といった様子で名を呼ぶクロエに、彼女はふわりと笑い掛ける。
クロエより少しだけ色の強い髪と目を持つダイアナは瞳を優しく細め、娘の頭を撫でた。
「お母さん」
「ちょっと、待ってね。すぐ後片付けするから」
ダイアナは自らの背にクロエを隠すようにして、ヴィンセントと向かい合った。
「今までクロエちゃんを守ってくれてありがと。わたし、すっごく感謝してる」
真っ直ぐな感謝の言葉に、ヴィンセントは黙ったままだ。皮肉屋で、一つの言葉に十の嫌味を返す彼の唇が戦慄いている。ダイアナは笑い、色を失っていくばかりの彼の頬に口付け、それから唇を重ね合わせた。
母親が父親以外の相手と口付けを交わしたことに、クロエは衝撃を受ける。そしてそれは彼も同じだったようで、彼女の名を信じられないというような震える声で口ずさんだ。
「……ディ……アナ…………?」
「うん」
「お、まえ……」
何か様子が可笑しい。
唇を離しても、ダイアナはヴィンセントの胸から離れない。彼の顔が驚きに変わり、刹那、苦悶に歪む。
彼女はゆっくりと身を引く。雪の上にぱっと鮮やかな赤が散り、胸を押さえた彼の指の間からは同じ赤が溢れている。彼女の手にはスティレットがあり、その細長い刃は赤に染まっていた。
ゆっくりと崩れ落ちる彼に、【ディアナ】は甘く滴るような声で告げた。
「良い死を、ヴィンスくん」