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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
五章
83/208

迷いの森の赤ずきん 【8】

 薄日の射す窓辺に鉢植えが並んでいる。

 色とりどりの金平糖をくっつけて作ったかのような花と、冬に花を付ける珍しい紫陽花。どちらも冬花なので、あと半月もすれば休眠してしまう。クロエは来年も花を咲かせることを願って水をやる。


(こっちはどうだろ。うん、紫陽花は大丈夫)


 夏に咲く紫陽花が冬でも花を付けて残っていることがあるように、この冬紫陽花マダム・イヴェールも一度鉢を割られるという被害に遭いながらもしたたかに咲いている。

 きっと次の冬も綺麗な花を咲かせるはず。だから、その花をこの目で見るのだ。


「クロエ、大丈夫か?」

「大丈夫って?」


 鉢植えの紫陽花に水をやっていたクロエは振り返らずに返事をする。

 レヴェリーは重ねて訊ねた。


「ヴィンスも反省する気ねーし、ルイもごたごた面倒くせーし。また無理してるんじゃね?」

「ううん、大丈夫だよ。心配を掛けてごめんね」


 後ろめたい気持ちがあって視線を合わせられない。クロエが俯いていると、レヴェリーはいつかの質問を再びぶつけた。


「クロエの夢って何なんだ?」

「うーん、何だろう」

「もしかして、夢はお嫁さんみたいなやつ?」

「あはは……、それは一番ないよ」


 クロエの好みは複雑だ。林檎の木を植えてくれる人などどれだけいるだろう。それだけで条件が狭まるというのに、施設育ちという点を許容してくれる人という難題がある。

 いや、そんなことを考える必要すらない。クロエはヴィンセントの元から逃げ出すことはできない。何かの気紛れで解放されない限り、先は真っ暗だ。それにクロエは自分が恋愛をできるとも思えない。そんな気分になれない。


(私、最低なんだ)


 クロエは自分の言動の酷さにうんざりしているのだ。

 あの夜のことを思い出すと、自分でも説明のしようのない怒りや悲しさが胸に込み上げてくる。

 去って当然のことをクロエはルイスにした。あの時のクロエは闇に呑み込まれ、自分のことにしか頭が回らず、すっかり忘れていたのだ。

 大人になれないと言われ、死ぬまでの年を数えられた。限界が常に頭上にあるのはルイスの方だ。そうやって生を否定され、自己価値を低めてしまったのだろう彼に何ということをしたのだろう。

 クロエは自分のしたことの残酷さに寒気がした。

 不意に辺りが陰った気がして窓から空を見上げると、太陽が雲に隠れてしまっていた。

 

「雪、降るのかな」

「夕方から降るっつってたな」

「じゃあ、早く買い物に行かないとね、メイフィールドさん」

「……ローゼンハインさん」


 突然割り込んできた声の方へ視線を向けると、ヴィンセントの姿があった。

 ソファに腰掛けた彼は長い足を億劫そうに組み、クロエたちに目を向けずに言った。


「付いて行ってあげるから、用意をしておいで」

「はい、すぐに準備しますね」

「急がなくて良いよ。ちゃんと待っているから」


 クロエは準備をすべくリビングから中庭へ出ると、離れにある自室へと急いだ。

 リビングに残されたレヴェリーはクロエの背が見えなくなると顔を顰めた。


「お前が優しいと気色悪ィんだけど。今度は何考えてんだよ」

「君は自分のことだけを考えていなよ、【兄】(アンゼル)くん」


 レヴェリーは物言いたげな目でヴィンセントを見たが、エルフェがいないこの状況で彼を刺激するのはまずいことは理解していた。

 喉まで上がってきた言葉をレヴェリーは寸前で押し止めた。






 週に一度はセントラルの集合商店へ足を向ける。紅茶や衣服といった嗜好品や日用品が揃った店で買い物を済ませたクロエは、カートを所定の位置に戻すと紙袋を抱えた。


「ほら、貸しなよ」

「でも」

「君は病気なんだから」 


 ヴィンセントはそう言ってクロエから食材の入った紙袋を取り上げた。

 男性としては当然の振る舞いなのかもしれないが、この横暴な男にとっては珍しい行動だ。

 クロエは出会ったばかりの頃を思い出す。

 あの頃のヴィンセントは優しかった。正直言えば憧れていた。こんなにも美しく優しい人の傍にいられることが夢のように感じ、その瞳に見つめられて微笑み掛けられると胸が高鳴ったりもした。

 もしかすると雛鳥が親鳥を追い掛けるような感情だったのかもしれないが、クロエはヴィンセントを慕っていた。そんな幸せな夢が終わってからは過去を否定する為に彼に尽くした。

 継母に認められなかったという過去から心にできた空虚を埋めるように、彼に認められようとした。

 けれど、その夢も打ち砕かれた。夢から目覚めた。

 他人に決められる価値など必要ない。自分で自分を認められるようになるのだとクロエは決心した。長く伸ばしていた髪も切り落として、変わったつもりでいた。実際は変われてなどいなかった。


「景気悪そうな顔をしているね?」

「そんなことありませんよ。今日は寒いなって思っていただけです」

「ふうん……? じゃあ、気鬱を晴らす為に何か花でも買ってあげようか」


 集合商店の出入り口付近にあるフラワーショップへと連行されたクロエは戸惑いつつ、店内を見回す。


「あ、ブルーヘブン……」


 まるで別世界から抜け出してきたような青白い花をクロエは見付けた。

 ブルーヘブンの切花はとても珍しい。花屋で務めていたことのあるクロエも初めて見た。

 パープルレインとオンディーナの交配種で、半剣弁抱え咲きでほっそりとした茎という華奢な見掛けとは裏腹に棘がかなり多い。葉の裏の幹にまで細長く鋭い棘がびっしりと付いている。

 弱い花だからこそ棘で己の身を守っているのだろうか。そんなことを考えてぼんやりと青い花を見つめていたクロエは、あることを思い出す。

 棘まみれだとルイスは言った。

 クロエがこの花に似ているととんでもないことを言った口で、棘まみれだと呆れたように言ったのだ。

 売り言葉に買い言葉。あれはクロエの慣れない嫌味に対する皮肉かと思っていたが、本当はどういう意味の言葉だったのだろう。


(棘まみれの醜い人間なんだってばれていたんだよね)


 クロエは追い詰められると他人を攻撃する。自分の周りに棘を張り巡らせて、他人を遠ざける。ルイスに暴言を吐いたように、関わろうとする者を傷付けてしまうのだ。

 ルイスはクロエのそういう性質をきっとあの頃から察していたのだ。怖いと拒絶されて当然だった。


「何の花を見ているの?」

「あ……その……」

「ああ、いつだかルイスくんに貰った花か。そんな薄汚れたような色の花を贈るなんて趣味が悪いよね。君には全くそぐわない花だ。買うならディアナが売っていた赤い花が良い。君には血の色が似合うよ」

「そう……ですか?」

「知らなかったの? 莫迦なお姫様だね」


 ヴィンセントは奇妙なほど朗らかに笑うと、赤い薔薇を包むようにと店の者に頼んだ。


(ディアナさんに赤が似合うとしても、私は……)


 クロエは赤という色があまり好きではない。

 憂鬱な気持ちでヴィンセントの選んだ花に目を向ける。

 香りはダマスカス・モダンで、ムスクの甘さと華やかさが情熱的で洗練された印象を持つ。黒み掛かった深い紅色でビロードのような光沢がある花弁を持つパパメイアンは、赤薔薇の中でも素晴らしい品種の一つだ。

 棘を綺麗に落とされ、包装紙に包まれた大輪の薔薇の花束を受け取ったクロエは思わず気圧され、一呼吸置いて礼を言った。


「ありがとうございます」

「あれ、ちっとも嬉しそうじゃないね? 女は花が好きなんじゃなかったっけ?」

「好きですよ。とても嬉しいです」


 花を貰うのは嬉しい。高価なアクセサリーやドレス、実用的な小物を貰うよりもずっと嬉しい。実用的ではないからこそ、そういう心遣いは素敵に感じられる。

 けれど、買い与えられる――押し付けられる――のは嬉しくない。

 花を貰って嬉しいはずなのに何処か引っ掛かるように感じるのは、ヴィンセントの姿勢があるだろう。

 ヴィンセントは常に自分の視点しか持たない。クロエに赤い花が似合うというのも、ディアナを投影しようとする彼の主観だ。そういった身勝手は寄す処を求める子供のようだとクロエは思う。

 この自分を認めてくれたルイスを心の寄す処のような感じ、近付いた結果、怖いという感情を抱かれたように、クロエはヴィンセントが怖い。そんな風に考えてしまう自分が嫌で仕方がない。


(私は自分がされて嫌なことを他人にしたの? 嫌なことを、許すの?)


 自分がされて嫌なことを他人にし、自分が悲しいと思った感情を他人へ向けることを許すのか。

 胸の痛みが強くなる一方で、頭の芯は奇妙に痺れてゆく。

 傍らで香るヴァニラのような甘い麝香(じゃこう)の匂いは、理性を一瞬に麻痺させるかのように強烈だ。クロエは頭がくらくらしてきて、目を開いていることが辛くなった。

 ゆるりと目を閉じた瞬間、すぐ傍でヴィンセントの声が聞こえた。


「ああ、そうだ。折角だから服でも買ってあげようか。一昨昨日も酷かったよね。仮にも男と出掛けるのにあんな格好をするなんて」

「……出掛けるなら……動き易い方が良いです」

「そういう考えがいけないんだよ」


 人をとろかすように広がる官能的な匂いに抗うように声を絞り出すが、それはすぐに切って捨てられる。


「でも、褒めてあげても良いかな。他の男に色気付いていたら殺したくなるだろうし」

「笑えませんよ、その冗談……」

「冗談じゃないよ。君は僕の人形なんだ。そのことを忘れるんじゃない」


 あまりに冷たい言葉にぎくりとして目を開けたクロエに、ヴィンセントは微笑み掛ける。

 蛍光灯の明かりの下では彼のピーコックグリーンの瞳は暗さが増して、黒曜石のような色を湛えている。その闇色に浸食されるようにクロエの心は冷たくなっていく。


(……私は人形なんだ)


 ヴィンセントにとってのクロエはディアナの代わりの人形であって、人間ではない。

 恋人や愛人だと勘違いできるくらいに大事にされたのなら、莫迦になることができたのだろうか。クロエは思わずそう考えてしまった。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 ランプの光に照らされた部屋には黒紅色の花の持つ麝香の香りが満ちている。

 頭がくらくらするような濃厚な匂いは、自分でも知らない内に思ってもいない行動をさせる魔力がある。その香りに慣れてしまったクロエは椅子に座り、ソファに横になった人物の傍に侍る。


「ディアナを人形にしたらこんな感じなのかな」


 黙り込むクロエは、普段なら決して身につけないだろう赤い衣に袖を通している。

 貴族が着る夜会服のように襟刳りの大きく開いた衣は鮮やかな紅色で、遠慮なく露わにされた白い肩には金色の髪がたゆたっている。幾つか作った三つ編みを頭の上の方に持ち上げられ、それをミニバラの飾りが付いたリボンで纏める。胸に流れる髪は緩く巻かれている。しっかりと化粧を施された顔はくっきりした目許と厚い唇が魅力的で、自分の顔ではないようだった。

 美しいという言葉は他人の為にあると思っていたが、初めて自分に使って良いかもしれないと思った。だがそれと同時に、記憶にある母親と同じ顔をしていることにクロエはぞくりとした。


「暇だな。何か芸でもして見せてよ」


 寝物語を諳んじるのでも、子守唄を歌うのでも良い。

 何かして見せろと命じるヴィンセントにクロエは応える。


「子守唄なら多少歌えます。でも、下手ですよ」

「元から君に期待なんかしていないよ」


 クロエは施設の幼い弟妹たちを寝かしつける為に歌った子守唄を口ずさんだ。


(ローゼンハインさんは私に何をさせたいんだろう……)


 自分好みに飾り付けた相手を侍らせて歌わせるような可愛げのある性癖を、この人物が持っているとは思えない。

 きっとヴィンセントは勝手をしたいだけなのだ。

 このような時の彼は幼子のようだ。一心に情を向けられることを望み、我が儘を押し通して、相手の都合を知らん振りする。そうして何度もクロエの自由を奪い、勝手をするが女として使うようなことは決してない。

 乱暴すると脅されたことがあるが、何処か本気ではなかったのを覚えている。子供に対してその気になれないと彼は言った。そういうものとは違うようにクロエは感じた。

 クロエにしないことはディアナにもしない。しないというよりは、できないのかもしれない。きっとそれはディアナのことが大切だからだ。

 それほど大切なら、何故このようなことをするのだろう。

 虚しさを感じながらクロエは歌った。



 ああ愛するひとよ 残酷なひと

 あなたは私を非情に捨てた

 私は心からあなたを慕い 傍にいるだけで幸せだった

 あなたは私の楽しみで 喜びで 魂だった

 あなた以外に他に誰がいるというのだろう


 あなたは誓いを破った 私の心のように

 ああ何故あなたは私をこれほど狂わせるのか

 離れた場所にいる今でさえも 私の心はあなたの虜だ

 あなたが望むものを全て差し出そう

 あなたの愛が得られるなら この命も差し出そう

 あなたが私を軽蔑しても 私の心は変わらずあなたの虜のまま


 私は天の神に祈ろう

 あなたが私の忠誠に気付き 死ぬ前に一度でも私を愛してくれることを

 ああ愛しいひとよ さようなら

 私はあなたの繁栄を神に祈ろう

 私はあなたの真の恋人

 どうかもう一度ここにきて 私を愛してください



 母親が幾度も歌っていたそれを自らの唇に乗せて歌う。

 見上げてくる眼差しが暗いことに気付かない振りをして、クロエは続けた。

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