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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
五章
82/208

迷いの森の赤ずきん 【7】

 帰宅すると家の中は真っ暗だった。

 この時間から消灯しているのは些か早い。疑問に思っていると、自室から出てきたレヴェリーは大人たちが出掛けていることを教えてくれた。


「帰ってくるなりファウスト先生呼ぶって何だよ。具合悪いのか? まさかまた熱あるんじゃないだろうな?」

「オレではなく、問題があるのはこの人だ」

「私なら大丈夫だから! さっきのはただの立ち眩みだし、今だってこんなにしっかり歩けるし」


 皆に迷惑を掛ける訳にはいかないので、クロエは気力を振り絞って笑顔を作る。


「道の真ん中でうずくまって三十分も動けなくなる人が問題ないとは思えない」


 ほら、と立ち上がったクロエをベッドに押し戻したルイスは抑揚のない声で事実を告げる。


「そ……それは精神的ショックとか……色々あるじゃないですか」

「ショック? 何が?」

「貴方がそれを言いますか……」


 我ながら酷い言い訳だが、ルイスはもっと酷い。

 他人からあんなことを言われて傷付かずにいられるほどクロエは強くはない。【怖い】という拒絶は重たかった。


「こんな時間に呼び出したら先生だって迷惑ですよ」

「どうせ怪我の経過を看て貰わなければならなかったんだろ。今日看て貰っても良いはずだ」

「だったらその時でも良いはずです。どうせ看て貰うんですから、わざわざ今日呼ぶ必要はありません」

「屁理屈だ」

「貴方にだけは言われたくないです」

「大体、迷惑って何だ。医者に仕事をさせて何が悪い?」

「横暴です……!」


 自分はちっとも人に頼らず、医者にも掛からない癖に他人のことになると頑として引かないルイスに苛立ち、クロエは声を張り上げる。


「喧嘩すんな!」


 二人の間で成り行きを見守っていたレヴェリーは堪えかねたように仲裁を入れた。


(目眩なんて珍しくない……。きっとただの貧血だよ)


 目眩といっても、倒れることはない。ただ目の前が眩しくなったかのように白く染まるだけ。

 この目眩が襲ってくるのは大抵昼だったのでクロエは薬の副作用や、薄色の瞳の所為だと考えていた。しかし、夜闇の中で視界が歪み、流石に普通ではないと気付いた。クロエは自分を安心させる為の言葉を心で繰り返した。


「やあこんばんは、少年少女たち」


 暫くしてやってきたファウストは、いつものおどけた調子でクロエとレヴェリーに挨拶をした。

 人間関係を円滑にする為の――その裏で相手の心を探る――演技と分かっていても、ファウストの笑みには人を安心させる力がある。ファウストは朗らかな笑みを顔に固定したまま、ルイスに向き直った。


「昨日の今日……いや、一昨日だっけ? 私にあれだけ暴言を吐いておいて助けを求めるなんて面の皮が厚いね。どういうことなのかな。いや、どういうつもりなのかな」

「電話で伝えた通りです。彼女を診せられるような医者をオレは先生以外に知りません。先日のことについて詫びるつもりはありませんが、先生は患者の治療に私情を混ぜるような医者なんですか」

「私は気紛れな嘘吐き猫(チェネレントラ)だよ。ヴィンセントの時のように見捨てる時だってある」

「それはレイヴンズクロフトの人間としてですよね。オレは医者としての貴方のことは信用しています」

「そうやって他人のことを認められるなら、自分のことも認めて欲しいものだけどね」


 ファウストは笑みを消すと、やれやれと肩を竦めた。


「金は君に請求して良い? ここの住民は私に払う気ないようだからね」

「法外な料金でなければ払います」

「はい、じゃあ出て行って。彼女の診察するから。君はリビングで休んでいなさい。頭渇かさないと風邪を引くよ」


 霙雪を何時間も浴びた所為でクロエもルイスもずぶ濡れだった。

 退出を促されたルイスは軽く目礼をして部屋を出た。レヴェリーもそれに続く。残されたクロエは、気まずい気持ちでファウストを見上げた。

 絶対安静の期間は過ぎたとはいえ、無理はするなとクロエはファウストに言われている。こうして医者を呼ぶ結果になってしまったことについて、どう釈明すれば良いのか分からなかった。


「怒っていないから大丈夫だよ。お金も請求したりしない」

「先生……」

「この前、あの子と揉めてね。少し意地悪をしたくなってしまったんだ。大人げなかったね」


 ファウストは窓から中庭を見下ろしながら苦笑した。

 うっすらと雪の積もった中庭を双子が何事かを揉めながら通り過ぎていく。その姿を見守るファウストは、哀惜を含んだ眼差しをしていた。


「さて、本題に入ろうか。目眩だったね。薬はどれくらい飲んでいるんだい?」

「もう飲んでいません」

「飲んでない? 痛みは我慢しなくて良いんだよ」

「我慢なんてしていません。もう痛まないので」

「私も何度か肋はやっているけど、三週間くらいは死ぬほど痛いよ」


 個人差はあるが肋骨の癒着には一ヶ月ほどの時を要し、完全に痛みが引くまでには二ヶ月が掛かる。

 骨折直後に最下層部に降りて動き回ったことも含め、クロエの痛みの感じ方は人とは少々違う。


「まさかこの程度の痛みは痛みの内に入らないとか危ない台詞を言うんじゃないだろうね!?」

「い、言いませんよ……。私、昔から身体は頑丈だからもう治ったんですよ」


 息をするだけで脂汗が滴るようなあの苦痛を痛みと感じない人間はいないだろう。クロエはあの時の辛さを思い出してぞっとする。


「ちょっと胸開いて貰えるかな。肌着はそのままで良いから」

「……はい」


 ファウストは骨折した胸部、そして硝子の破片で切った掌と傷口を一つ一つ確かめていく。それからふとある箇所で視線を止めた。


「そういえば、その包帯ずっとしているね」

「え……と」

「確かアンジェリカにやられた傷だね。あれから見ていなかったし、診せて貰えるかな」


 骨折で運ばれた時も、クロエはこの傷をファウストに診せていなかった。

 ファウストはクロエの返答を待たずに包帯を外してゆく。毛玉がほどかれるように包帯が解かれる。すると、白い布に赤が混じり始めた。

 全てが取り払われ、現れたのは生々しい傷跡。破れた薄皮の間から肉が覗き、血が滴るような生傷がそこにあった。


「どうしてもっと早く言わなかった?」

「それは……」

「時間が経てば治ると思っていた。若しくは皆に迷惑を掛けたくなかったというところかな」


 クロエは一週間もすれば治ると思っていた。

 けれど、いつまで経っても傷は治らず血も止まらなかった。あと一週間、もう七日。そうしてずるずると見て見ぬ振りをして異常をやり過ごし、その内にヴィンセントとの悶着が起きた。

 骨折の痛みと、薄皮が捲れただけの切り傷の痛み。比べるまでもなく前者が辛かった。クロエは腕の傷のことに目を瞑ってきたのだ。


「痛みはあるのかな?」

「痛くないです。染みたりもしません」

「痛覚を麻痺させて致命傷を与える……か。興味深いな……」


 薬を塗り込めば染みるが、湯で洗い流しても痛むことはなかった。ただ傷を負った直後から皮が突っ張るような違和感があっただけだ。ファウストの言うように、痛みがないからこそ傷を軽視していたクロエは視線を落とした。

 傷口からは血がじわりと滲み出ている。確実に血は抜けていた。


「縫ってもらうことはできませんか? 痕が残っても構いません」

「縫ったって傷が塞がらないんじゃ血は抜けていくよ。それに下手に弄ると傷口が広がる可能性があるし、菌が入るかもしれない。そうなれば命に関わるよ」

「塞がらないんですか……」

「こういうのは手っ取り早く切り落とすのが一番だけど、女の子にそんなことをするのは流石に酷だ。取り敢えず失った血液を補う為に輸血をして、【上】のちゃんとした医者に看て貰おう。私もこれを弄るのは怖い」


 クロエの腕を強く縛り、止血をしていたファウストは渋面で言った。

 彼の表情の厳しさが事態の深刻さを物語っているようだ。クロエは思い切って訊ねることにした。


「あの……私、死ぬんですか?」

「そんなことはないよ。私たちが責任を以って治療をするからね。大丈夫だよ」

「本当のところどうなのか教えて下さい」


 歪んだ真実の中を生きたとしても、所詮は偽りの平穏だ。いつかは崩れるだろう。

 ファウストの気遣いは嬉しかったが、クロエは気休めの言葉は欲しくなかった。


「正直言って良い状態とは言えないよ。傷が開いたままというのはそれだけ身体にも負担が掛かる。目眩だってただの貧血からくるものじゃないかもしれない。唯でさえ貴女は……」

「唯でさえ?」

「貴女は十年間の延命処置の所為で寿命が縮んでいる。これ以上負担を掛けるのは心配だ」


 それは初めて聞いた話だった。

 死人とされるような致命的な傷を負いながらも生かされ、十年が経っても容姿が殆ど変わっていない。この時点で異常だった。そのことによって寿命を削ったとしても仕方のないことだ。

 絞り出すようにゆっくりと紡がれる言葉を、クロエは他人事のように聞いた。


「五年や十年で死ぬという話じゃないよ。ただ、六十とか七十とかそこまで生きるのは無理だ」

「……そう、ですか……」


 実年齢が二十八で、六十まで生きられないとなると残る寿命は二十年と少しだ。この傷で徐々に体力を削られていくとすれば、もっと短くなるだろう。

 以前までのクロエならそれでも良いと感じただろう。死んでも構わないと納得したはずだ。生きたいという強い望みも、未来への展望もなく、ただ他人に合わせて人形のように動いていた。

 しかし、今のクロエは生きたいと思っている。今までの自分を改めなければならないと考えている。その矢先に告げられた真実はあまりに残酷で、クロエはその事実を受け止められない。


「ずっと言おうか言わないか迷っていたけど、自分を大切にして生きて欲しいから敢えて伝えさせて貰った。済まないね、これは私の独断だ」


 哀れみを含んだファウストの声はするりと耳を通り抜けていった。






 扉の向こうからノックの音が聞こえる。

 応えないでいると、扉が静かに開かれた。部屋に入り込んできた人物は明かりに手を伸ばす。


「点けないで下さい」

「どうして」

「酷い顔、しているので」


 自分がどれだけ酷い顔をしているのか、そしてどんな格好をしているのか。

 肌着キャミソールだけの姿を他人に晒せる訳がない。ベッドの隅でうなだれていたクロエは慌ててショールを引き寄せたが、相手は意に介する様子もなかった。

 固い足音が傍らで止まる。クロエの小さな肩が震え、髪が流れ落ちた。


「……なん……ですか」

「傷のことを聞いた」


 窓から射す月明かりの中、ルイスはクロエを正面に見据える。そしてその場で膝を折り、手を伸ばした。

 強引に腕を掴まれ、傷を暴かれる。抵抗もままならない。

 けれど、痛くない。クロエが染みるように感じたのは、目の前にルイスがいるということだ。

 腫れ物扱いをされている訳でもないのに、こうして誰かに構われることが酷く苦しい。もしかすると、他人を拒絶するルイスもこのような気持ちだったのかもしれない。今になってそのことに気付いたクロエは涙がまた零れるのを感じた。


「――――――」


 目から溢れた雫は頬の上を転がる。何度も転がり落ちる。

 泣けば泣いただけ惨めになる。他人に鬱陶しく思われる。そう頭では分かっていても、涙は止まらない。

 お願いだから、近付かないで欲しい。

 ルイスが何をした訳でもないのに口から飛び出そうになる言葉を、クロエは必死に喉の奥へ押し戻す。

 己の領域に踏み込まれるのは不快だ。そういうことを自分は彼にしようとしていた。自己嫌悪の気持ちが込み上げ、クロエは一層頬を濡らした。

 ルイスは近付くことも立ち去ることもせず、何も言わずにじっと佇む。そして、クロエがしゃくり上げることにも疲れた頃、泣き濡れるがままだった頬を拭った。

 ハンカチーフからは微かに香水の香りがした。手渡されたハンカチーフで涙を拭うクロエに、ルイスは感情を消した声で話し掛けた。


「手荒にしてごめん。でも、その傷はオレにとっても無関係じゃないから」


 そもそも、ルイスがアンジェリカの仲間を殺めなければこんなことにはならなかった。それを言えば首を取ってきたヴィンセントも問題になるが、直接手を下したのはルイスだ。


「治療方法は? また【下】で薬でも見付けてくれば良いのか?」

「切り落とすのが手っ取り早いそうです」


 そう言ってクロエは震える息をつく。何度か深呼吸を繰り返して心を落ち着ける。

 そうして【大丈夫】だと自分に言い聞かせ、努めて明るい声で言う。


「もしそうなったら、左手の使い方とか教えてもらえると助かります。そういえば、レヴィくんもそういう練習したって言ってましたね。私って恵まれています」


 利き腕以外を使う二人がいれば、そういう訓練についても教えてもらえるかもしれない。

 悲観してばかりではいけない。物事を前向きに考えるようにしなければ。

 見破られると分かっていてもクロエは虚勢を張る。上擦りそうになる声を堪えながら続ける。


「家事はどうしましょう。片手じゃ野菜も切れないし、そうなったら私は役立たずです。やっぱり上手く止血でもして、最期まで皆さんの役に立てる方が良いですよね」


 ふた月もこの状態で平気だったのだから大丈夫だ。ファウストが大袈裟に言っているだけだろう。感染症の予防法を教わり、しっかり処置をしていけば普通の生活ができるはずだ。

 だが、ルイスはクロエの話をもう聞きたくないというように冷たく切り捨てた。


「そんな話、面白くもない」

「……っ、自分の寿命を知らされたらどう感じると思います?」


 気持ちが荒んでいて、クロエは構わないで欲しいという意味で自虐的に訊ねる。


「分かりませんよね」

「分かるとは言わない。オレはキミじゃないから」

「そうですね。貴方に分かる訳がない……」


 これ以上誰かといれば見苦しい姿を晒すことになる。だからこそ、相手に幻滅されるだろう言葉を紡いだ。

 茹だるような目からは可笑しなくらいに涙が落ちた。本音と虚勢と建て前とが心の中に溢れ、クロエ自身も己のことが分からなくなっていた。

 そんなクロエは最低の言葉を吐いてしまったことに気付けない。


「……ごめん……」


 そう告げるなり、ルイスは部屋を出た。扉は大きな音を立てて開閉し、足音はあっという間に遠ざかる。謝罪をされたことが余計に辛く感じられて、クロエは夜の静寂に顔を埋めた。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 朝になると窓から見える景色は白く染まっていた。

 そして、雪の白と正反対の喪服のような黒衣を纏う彼の姿は消えていた。

 クロエは蛻の殻となった部屋をいつものように掃除し、隣の部屋も片付けようと踏み行ったところで背後から声を掛けられた。


「君、死ぬの?」


 身も蓋もない訊き方だった。

 帰宅したばかりでまだ外套を羽織ったままのヴィンセントを、クロエはぼんやりと見上げる。


「このままじゃ死ぬでしょうね。腕を切り落とせばどうにかなるかもしれませんけど」

「それはなしだよ。唯でさえ君は顔も性格も残念なんだから、五体満足じゃなくなられたら困るよ」


 ヴィンセントはいつも通りだった。あまりにも普段通りでクロエは却ってほっとしたくらいだ。

 クロエが長生きできないことを大人たちは知っていた。そういう意味で彼等は冷静だ。

 嘆いても仕方ないのだと気持ちに整理を付けたクロエは、けろりとした口調で言った。


「いつ使い物にならなくなるかは分かりませんけど、精一杯頑張りますね」

「潔い返事だね。でも、何で死ぬのを前提で考えているのさ?」

「だって傷が塞がらない限りどうしたって死ぬみたいですし、現実を見た方が良いのかな、と」

「僕は君の主人だよ。もしかしたら奇病に犯されたお姫様を助けてあげられるかもしれない」

「条件があるんですよね……?」

「うん、珍しく察しが良いね」


 ヴィンセントがただで他人の為に動くことはない。クロエはこの男の歪みぶりを身を以て知っている。

 珍しく優しい言葉を掛けてくる彼から受け取った外套をハンガーに掛けながら、クロエは言葉を待つ。


「最近、僕はメイフィールドさんのことを面白いと思っているんだ。弄り甲斐が増したというのかな。相手をしていて前よりも楽しいよ。だからさ、ディアナの代わりにして良い?」

「え……」


 それはつまり、ディアナを手に入れるまで玩具になれということだろうか。


「他の奴の世話なんて焼かないで、他の男なんか見ないでさ、僕だけに尽くしなよ」

「ローゼンハイン、さん……」

「ねえ、僕と一緒に楽しいことしよう?」


 どうせ死ぬのなら楽しい方が良い。身代わりとしてでも、愛されて死ぬ方が女としては幸せだろう。クロエは他人を理解し愛することの方が幸せだと考えるが、反対の幸せもあるのだ。

 その幸福を提示され、こんなどうしようもない自分の存在が誰かの為になるのならそれでも良いのかな、と血迷ってしまいそうになる。


「それでローゼンハインさんは楽しいんですか?」

「どうだろうね?」

「どうだろうって……」

「君には関係ないことだよ。僕が何しようと何を考えていようと……例え君を壊そうとね」


 壊す、という言葉に鳥肌が立った。


「そ、そんなこと言わないで下さい!」

「何でさ? 僕は君の意思なんて関係ないって言ったよね。従僕……ああ、家政婦だっけ。どちらにしても君は僕の人形だ。君は僕の所有物なんだから壊しても良い」

「私はローゼンハインさんのものじゃないです」


 私は私のもの。自分だけのものだ。

 酷薄な微笑を浮かべて見下ろしてくるヴィンセントに、クロエは唇を震わせながら訴えた。だが、ヴィンセントはクロエの言葉を聞き流し、からかうように口の端を吊り上げた。


「じゃあ訊くけど、誰に助けを求めるの? 親に捨てられた塵のような君を誰が……? 金髪碧眼と若さだけは取り得かもしれないけど、君は顔も良くなく器量も乏しい。そんな役立たずを誰が助けるっていうのさ」

「……それは……」

「まあ、確かに物好きな奴はいるよ。女なら何でも良いとか、ゲテモノ食いとかね。病気持ちでも黒魔術の生け贄とかそっち系なら余裕でいけるし、君を買う人もいるかもね。でも、それじゃ何の意味もない」

「意味、ですか……?」

「そうだよ。僕の思いのままにならない君に価値はないんだ」


 そんなことはない、命令は聞けない、と勇ましく切り返すだけの気力がない。

 クロエはヴィンセントが怖い。常に自分の視点しか持たず、自分の基準で判断し行動する彼が分からない。

 分からないから、怖い。


(怖い?)


 怖いとそう思った自分にクロエはどきりとする。

 心臓は煩いほどに鳴り響いている。身体の震えが止まらず、早鐘を打つ胸が痛い。

 クロエはヴィンセントを【怖い】と感じる。そして、その怖いという感情は先刻ぶつけられたものでもある。ルイスに自分が感じていた気持ちが親愛で、彼が抱いていた感情が恐怖であるのなら――――。


「私、一人なんですね」

「うん、そうだよ。君を大切に思う人間なんてこの世の何処にもいない。君は僕に使われることでしか存在に値する価値を得られない」


 宣言された途端、クロエの身体から力が抜ける。そして涙が一気に溢れ出した。

 虚勢や本音の境を跡形なく解かして、次々に溢れる涙は唇を濡らす。


「……ああ、意外と綺麗だね。水晶みたいだ」


 膝を折って涙を拭う。そうして紳士として振る舞う心積もりはヴィンセントにはない。ただ、からかうように「美しいね」と言って、身も世もなく泣き伏す少女の髪に触れる。

 クロエは拒まない。嗚咽もなく、青い瞳からぽたぽたと雫を降らせ続ける。


「良い子でいるんだよ、可愛いお人形さん」


 愛でるようでいて蔑むような、それでいて縋るような響きを持った声を耳許で聞く。

 白檀の香りは甘く、ささくれ立った心を鎮めてくれるようだ。それなのに何故こんなに胸が苦しくなるのか。その気持ちの在処に気付けないクロエは身を震わせた。

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