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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
五章
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迷いの森の赤ずきん 【5】

 メルシエの見舞いから戻った翌日、珍しく当番を守ったヴィンセントに皿洗いの仕事を取り上げられてしまったクロエは、ケーキの仕込みをするエルフェとレヴェリーの様子を眺めていた。

 菓子の細工の奥深さにのめり込んでいるエルフェにとって、ケーキ作りとは芸術のようなものだ。

 画家がアトリエに籠もって作品を仕上げるように、エルフェは菓子作りの邪魔をされることを嫌う。

 ただ、彼は芸術家ほど頑固ではない。邪魔をしない限りは傍で見学することも許されているので、クロエは時々こうやって彼の菓子作りを見る。


(何かに真剣になれるって素敵だよね)


 菓子作りに真剣に取り組むエルフェや、勉強をするレヴェリーはとても格好良く見える。

 普段意識することはないが、自分の周りには魅力的な人間が沢山いるのだ。彼等に負けないように、自分も何か真剣になれるものを見付けたいとクロエは考える。

 そうやって夜の自由な時間を過ごしていると、ふと厨房の扉が開かれた。


「レイフェルさん、外出許可をもらえますか」

「何処へ行く?」

「教会です」

「ああ、ミサか」


 礼拝といえば日曜の朝だ。今日は平日の夜だというのにルイスは教会へ何をしにいくのだろう。

 クロエが頭の中で考えを巡らせていると、エルフェが横から言った。


「メイフィールド、興味があるなら行ってきたらどうだ。後学にもなるだろう」


 門限に厳しいエルフェが夜間の外出を許すとは意外だった。クロエはルイスの方を向く。


「一緒に行っても構いませんか?」

「……別に良いけど」

「五分で用意します」


 急いで支度をしたクロエは、白うさぎのように慌ただしく黒衣の青年を追っていった。

 店の扉から出た二人を見送ったエルフェは嘆息する。


「付いて行かなくて良かったのか?」

「あいつ等と一緒にいると太りそうだから行きたくねーよ。ルイがきてから二キロも増えたんだぜ?」


 食べさせたい姉と、食べられない弟の傍にいて何かととばっちりを食っているレヴェリーは嫌な顔をした。

 子供たちの微妙な距離感を察しているエルフェはやれやれと肩を竦め、それからレヴェリーに同意した。


「俺も好き好んでは関わりたくないな」

「そんなにヴァレンタイン嫌いなのかよ」

「いや、倦怠期の会話を聞きたくないだけだ」


 我関せずを信条とするエルフェは厄介事に関わりたくないという意味で、クロエとルイスが苦手なようだった。


「つーか、エルフェさんだってメルシエさんと熟年みたいな遣り取りしてんじゃん」

「何がだ?」

「うっわ、駄目だこの人」


 ヴィンセントは人斬りにしか興味がないように、エルフェは菓子作りと仕事にしか関心がなかった。

 駄目な大人たちの傍で奇跡的に常識人として成長したレヴェリーは黙ってスポンジの生地を型の中に流し込んだ。






 メトロに乗りやってきたのは【クレベル】の北部、ニダヴェリールの街。

 【ロートレック】の没落した貴族たちによって作られたという街は【クレベル】の中心地とは違い、薄暗い。その薄暗さは決して不気味なものではなく、何処か心を落ち着かせるものだ。

 美と愛を尊ぶシューリス人たちの街はライティングが美しい。アールヌーボー調のエレガントな曲線を描く建造物に、雰囲気のあるオレンジ色のランプ。アンニュイな陰影の深い味わい。童話の中の世界のような街を行き交う人々もまた、童話の住人のような装いだ。

 クロエの前を行くルイスは、その世界に見事に溶け込んでいる。

 ルイスの羽織っているコートはクラシカルな印象があり、街の雰囲気も相俟って浮き世離れして見えた。クロエはルイスを必死で追う。


「もしかして時間ぎりぎりなんです?」

「いや、三十分は余裕があるよ」


 どうやらこの早足は並んで歩く気はないという意思表示のようだ。

 エルフェの前だから了承したものの、ルイスはクロエに付いてこられたくなかったのかもしれない。

 めげそうになるクロエだったが、付いて行くと決めたのは自分の意思だと己を叱咤し、ルイスに訊ねた。


「神様って信じていますか?」

「キミは?」

「それなりに信じてます。それで貴方は?」

「さあ、どうだろう。でももしいるとしたらこの世界で一番残酷な存在だから信じるかな」

「え……」


 予想外の答えに言葉を返せなかった。そして、クロエは背筋を震わせた。

 クロエは先を行くルイスの表情が分からないが、彼が自嘲しているように感じたのだ。

 その仄暗い微笑は春を拒み、心に永遠の冬を棲まわせる――人生に癒し難い傷を持つ者の表情。そんな風に笑ってはいけない。そうして心を殺した笑みを浮かべていては、いつか笑えなくなる。

 危うく感じて、クロエは咄嗟に手を掴んだ。

 ルイスは小さく目を見張る。利き手を強く引かれた彼は驚いたように目を瞬かせたが、それは本当に数瞬のことだった。


「冗談だよ。家の習慣でやっているだけだから、神なんて信じていない」


 クロエの手を解いたルイスは生彩のない、感情を押し隠した顔付きに戻っていた。


(何やってるんだろ……)


 気の所為だったのだろうか。だとしたら手を掴んでしまうのは失礼だったかもしれない。

 冷たく硬い手の感触が掌に残ってしまったクロエは、釈然としないものを感じながらも反省した。

 二人の間に落ちた静寂は重かった。

 あまりに深く重たくて、世界の音が全て消えたような錯覚さえ感じた。

 ルイスもその空気に堪えかねたのか、珍しく自分からクロエに話し掛けた。


「キミは新教なのか?」

「いえ、私は旧教です。シューリスの方も確かそうですよね」

「そうだけど、オレは新教なんだ」

「そうなんですか?」


 世界には神と聖母を信仰する旧教と、神の御子のみを信仰の対象とする新教がある。

 旧教の考えは、人間は生まれながらにして罪人であるが、神に祈りを捧げることによって神に限りなく近い存在になれるというもの。人間に罪を悔い改める心があり、煉獄と呼ばれる苦しみを乗り越えれば浄化されて天国へ、さもなくば地獄へいく。

 反対に新教は、人間は神の前では平等で、神に近付くことは不可能とされている。旧教にある煉獄や浄化という考えはなく、人間は永遠に罪人のまま。だが、信仰に忠実に生きることによって神に迎え受け入れられるとされている。

 旧教と新教では祈りの対象、主の呼び方、聖書の解釈、聖人の容否、服装、飲酒や煙草などの掟が違っている。簡単にいえば旧教の方が掟が厳しく、堅苦しい。新教はフランクで親しみ易い宗教というやつだ。

 もう一ついうと、旧教と新教は衝突を起こすほどに関係が悪かったりする。


「ごめん。聞いてから連れてくれば良かった」

「いいえ、信仰は自分の心の中にあるものだと思っていますからどちらでも構いません」


 ルイスは詫びたが、クロエは気にしていなかった。

 クロエは洗礼を受けた信者ではないし、何より祈りは自分の心を安らかにする為ものだと思っている。神の名に縋ろうという思いはなく、ただ己の心を満たす為だけの祈り。それだけなのだ。


「それに今日は社会勉強ですから」

「……そうなんだ」


 ルイスはクロエの後学という答えに短くを相槌を打ち、それから教会に着くまで口を開くことはなかった。

 歩くこと約十分。辿り着いたニダヴェリール教会は、こぢんまりとした一階建ての教会だった。

 開け放たれた扉からは飴色の光と、パイプオルガンの演奏が漏れている。


「聖書と賛美歌はそっち。あとは好きなところへ座って」


 街の教会へきたのが初めてでまごつくクロエに、棚から取った聖書と賛美歌を手渡したルイスは一人進んで行ってしまう。クロエは慌ててその後を追い、隣に腰掛けた。


「社会勉強をするなら好きな場所に座ったらどうだ? 最前列もまだ空いているよ」

「勉強するにも言葉が分からないので、教えて下さい」


 周りがシューリス人で、しかも新教信者の中に放り込まれるというのは心臓に悪い。


「済みません、何て書いてあるのか分からなくて……」


 ルイスがたまに使う言葉も聞き取れないようなクロエには礼拝の内容は理解できない。これでは聖書や牧師の話も分からないし、賛美歌も歌えない。完全に場違いの邪魔者だ。


「どうしてそういうことを気にするんだ?」

「だって……何も分かりませんし……」

「こういうのは形より気持ちの問題なんじゃないか? 信仰は自分の心にあるんだろ」


 自分が言った言葉を返されて、はっとする。

 咎めるような響きをもった言葉は、けれどクロエを否定するものではなかった。


「はい、そうですね」


 頷くクロエから視線を外したルイスは緩く手を組むと、パイプオルガンの演奏に耳を傾け始めた。

 耳に飾られた空色の石が小さく揺れる。淡い光を受けて彼の色の髪は金糸のようだった。

 彼は冷たいけれど、時々ひどく優しい。美しいひとだな、とクロエは改めて思う。

 不謹慎なことを考えた己を恥じたクロエは、オルガンの演奏に耳を傾けながら聖書を捲った。






 時計の針が一周する間の短い礼拝も、終わる頃には月の位置が高いところへ移動していた。

 帰り道、礼拝で歌った賛美歌のメロディーがまだ頭の中で流れているクロエはこんなことを話した。


「慈しみ深きと風薫る丘でも好きですけど、くじらとすずめも好きです」

「くじらとすずめ?」

「くじらもすずめも空の星も創られた方を讃える、というやつです」

「ああ、子供賛美歌のか。それなら施設で歌った記憶がある」


 印象的な詩を聞いて賛美歌の番号を思い出したらしいルイスは、施設で歌ったことがあると言った。

 クロエはその答えを意外な気持ちで聞く。


「施設の礼拝堂に行ったことあるんですか?」

「神を信じてない奴が行くのがそんなに不思議かな」

「いえ、そういうことじゃなくて! 私も通っていたので……」

「オレはキミみたいな人は見たことはない」


 ルイスは寒いのか腕を組むと、冷たく吐き捨てた。

 まだ何も言っていないのに釘を刺す辺り、ルイスは意地悪だ。

 ルイスは十年前のクロエを知らず、クロエも十年前のルイスを知らない。


(本当に会ったことないのかな)


 他の舎の子供とはいえ、五年という月日がありながらも一度も会わなかったのはある意味凄い。自分が他人へ向けていた意識の低さが浮き彫りになるようで、クロエは落ち込む。

 だが、そのまま落ち込んでいるのも良くない気がして、クロエは小さく抗議をすることにした。


「意地悪ばっかり言ってると罰が当たるんですから」

「意味が分からない」

「悪いことをしたら叱られるように、酷いことを言ってばかりだと後で罰が当たります、きっと」

「キミが何を言っているのか理解できない」

「お……同じ言葉を返しますよ」


 クロエだってルイスに言いたいことが伝わらなくて泣きたくなることがある。

 自分を大切にしてくれと言っているのに、彼はさっぱり聞き入れてくれない。


(ローゼンハインさんと同じくらい……)


 ルイスの意地悪とヴィンセントの嫌がらせは方向性が違うものだが、受ける方からすればどちらも厄介だ。悪い男とはきっとルイスとヴィンセントのような者を言うのだろう。


「あいつのこと考えるの止めてくれないか」

「……え?」

「ヴィンセント・ローゼンハインのこと考えていただろ。酷い顔をしている」


 考え事をしていたクロエは投げ掛けられた言葉の意味が呑み込めず、足を止めて首を傾げた。

 髪が頬を滑って目に掛かった。すると長い指先が伸びてきて頬に触れる。冷たい感触にはっと硬直する間に、目に掛かった髪が退けられる。クロエはどきりとする。


「え……と……何ですか……?」

「傍で他の男のことを考えられるのは腹立たしいから止めて欲しい」

「…………はい……!?」


 だから、どうして、この人は、そういう女性が誤解するようなことを真顔で言ってくれるのだ。凍り付くどころか、熱湯を浴びせられたような心地のクロエは呆然と見上げる。

 ルイスはヴィンセントが嫌いだ。大が付くほど嫌っている。つまりは他の男のことを考えるなというのは、ヴィンセントのことを考えられるのが腹立たしいということだ。しかし、今の言い方では誤解する。別の意味があるのではないかと勘違いしてしまう。

 実は嫌われていないのではないかと――そうであって欲しいと、そう願う自分が切なくて惨めだ。

 クロエはルイスにあまり嫌われたくない。自分と少しだけ似たところのある人だと思うから、否定されると堪らなく悲しく感じる。

 けれど、そんな思いを口に出せる訳もない。それはあまりに身勝手で利己的な思いだ。

 クロエは不埒な感情を胸の奥に押し込めると、笑顔を作る努力をした。


「あのですね、ルイスくん」

「何かな、クロエさん」


 普段ちっとも呼ばない名を呼んでくる辺り、実は分かってやっているのではないかと疑いたくなるが、そのようなことはない。全ては月の魔力が悪戯をした結果の勘違いというものだ。


「社交場でもそんなことやってるんですか?」

「何のことだ?」


 あっけらかんと首を捻られてクロエは泣きたくなった。作ろうとした笑顔は見事に崩れた。


(やっぱり酷い人だ……!)


 この人は間違いなく天然誑しだ。クロエはひと月前のことを忘れてはいない。

 クロエが諦めてチョコレートを砕いたところへ呑気に帰ってきて、「クロエに似ているから」と青薔薇を寄越した。

 あの日のことは今思い出しても心臓が痛い。それが逆恨みと分かっていても腹立たしい。

 異性から花を貰ったのは初めてだった。

 嬉しかったのだ。迂闊にも普通の娘のような気分になったのだ。

 だが、それは特別ではない。

 家族に花を贈るのが当たり前なように、ルイスにとって女性に贈り物をするのは息をするようなことだろう。貴族とはそういうもの。信用ならない相手とは笑顔で騙し合い、機嫌を取り合う存在だ。ヴィンセントが言うように、ルイスの振る舞いはご機嫌取りでしかない。

 ヴィンセントにとってのクロエが人間以下の存在なら、ルイスにとってのクロエは珍獣か何かだろう。悲しいことにそんな自覚があるクロエは深くうなだれる。


「ところで、今度の土曜は暇か?」


 クロエが悶々としていると、ふとルイスがそう訊ねた。


「明後日ですか?」

「明明後日でも良いけど」

「どちらも暇です。どうしたんです?」

「野草園。そろそろ春の花が咲く時期だから」

「覚えていてくれたんですか!?」


 思いもしない言葉につい声を高くすると、ルイスは呆れたように息をついた。


「一週間前のことを忘れたら問題だと思う」

「そ、そうですよね……済みません……」


 その場限りの言葉かもしれないと思っていた。

 ルイスは近付けたと思っても次の瞬間にはクロエを拒むのだ。だからあの時の提案も、社交辞令だと思っていた。


「行きたいです。付き合って下さい!」

「なら、明後日行こうか」


 ルイスと出掛けられることが嬉しくてクロエは子供のように頷いた。

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