迷いの森の赤ずきん 【4】
良く晴れた日の午後は、気泡がゆるりと廻る蜂蜜のような空気に包まれている。
部屋は黄金色の光に沈んでいる。クロエはメルシエの家の一角にあるコンサバトリーの植物に水やりをしていた。
ふんだんに太陽光の入る硝子張りの温室の中で、観葉植物の間に赤や黄や白の花がバランス良く配置されている。瑞々しい緑と、可憐な花のコントラストは鮮やかだ。沢山の観葉植物や花が置かれている温室は、まるで硝子の中の森のように思えた。
黄金色の光が溢れる、硝子の森。溺れそうになるほどの光の奔流。木々に水をやると、葉に付いた水滴が光を反射してその眩しさが増す。
温室の中央に設けられた席でヴィンセントは寛いでいる。上質な絹糸のような髪の上に白い光が輪を作り上げている。硝子の森に佇む天使のような様は絵画のようで、クロエは数瞬見惚れた。
「さっきから辛気臭い顔して何? 鬱陶しいんだけど」
「な、何でもないです」
「理由も言われないでそうやって変な目で見られるのは不快だよ。君、僕のこと舐めてるの?」
「……嫉妬しているんです」
「何さ、今更僕の美貌に嫉妬したって君が残念だって事実は変わらないよ」
「そういうことじゃありません」
ヴィンセントの美貌に憧れたこともある。こんなに美しい人がこの世に存在するのだろうか。神が気紛れで作ったから彼は無慈悲なのではないか。初めて出会った林檎の森で、クロエはヴィンセントのことを天使のようだと思った。
けれど、その天使は悪魔だった。
十年という時間と自由を奪われ、クロエは悪魔の暮らす秘密の庭園に捕らわれた。
信じ慕っていた彼に裏切られてからもう四度、月の満ち欠けがあり、クロエの心も随分と変わった。
どれだけ辛い目に遭わせられても嫌いになれない事実に、自分は彼に恋でもしているのかと錯覚しそうになったこともないでもない。だが、そうではないのだと疾うに気付いている。
「じゃあ、何に嫉妬しているわけ?」
銀の如雨露を胸に抱え、曖昧に微笑むクロエにヴィンセントは厳しく問う。
「皆さんの仲にです。ローゼンハインさんとエルフェさんは仲の良い友達ですし、エルフェさんとメルシエさんとレヴィくんは家族みたいです。羨ましくて、狡いと思っちゃうんです」
クロエは友人や家族というものから無縁の人生を送ってきたから、彼等に憧れる。
その一方でそういったあたたかさが怖い。
家族のような三人がいる室内を出たのは、自分が邪魔をしてはいけないと思ったから。自分と彼等の違いを傍で感じて、惨めな思いをするかもしれないから。
籠の鍵はもう開けられているはずなのに、クロエはその籠の中から出ることができない。光の世界が怖いから、未だに暗い闇の世界に身を留まらせている。
クロエは自嘲するしかない。そんな答えを聞いたヴィンセントは意地悪そうに目を眇めた。
「あっちの三人は兎も角、僕とエルフェさんは友達と言えるほど仲良くないよ」
「そうですか?」
「ただの腐れ縁だよ。エルフェさんは僕と縁を切りたいけど、ディアナのことがあるから仕方なく連んでるんだ」
そうだろうか、とクロエは思う。
ヴィンセントとエルフェの間に冷たい蟠りのようなものがあるとは感じている。そして、その蟠りは【腐れ縁】程度の関係で乗り越えられるものでもない。ある意味、二人は対等な友人なのではないだろうか。
どちらも寄り掛かることも寄り掛かられることもなく、互いの良いところを認める一方で、互いの嫌な面を指摘し、時にぶつかり、許容し合える対等の友。クロエは、ヴィンセントとエルフェの仲は本人たちが語るより冷めてはいないと感じた。
「そういえば、友達がいなくなるってさっき言ったよね。それってどういう意味で言ったの?」
「ローゼンハインさんは魅力的な方ですし、友達になりたいって人が沢山いると思うんです。外見だけでなく、中身を知りたいという人もいます」
外見に惹かれてやってきたとしても、本当に彼に興味を持っている人は彼の心を知りたいと思うだろう。
そんな相手に「殺す」と言われたらどう感じるだろうか。
きっと踏み込む前に、近付くことを恐れてしまう。かつてのクロエのように、表面だけの付き合いをするようになるだろう。
「ローゼンハインさんは、私みたいな人間に理解なんてされなくて良いと感じると思います。でも、私はもっと知りたいです。友人だと思ってもらえないとしても、普通にお喋りできるようになりたいんです」
だから、乱暴な言葉で人を遠ざけないで欲しい。
彼を理解し、味方となるかもしれない存在を否定しないで欲しい。
自分でも何をどう伝えて良いのか分からず、クロエは一杯一杯だった。
普通に話せるようになりたい、なんて当たり前のことを願うなんて可笑しいだろう。こんなことばかりしているからヴィンセントに鈍臭い子供だと莫迦にされ、ルイスに変な奴だと呆れられる。
「他人が嫌いでも良いですから、少しだけでも耳を傾けて欲しいんです」
仲間に入りたいとか、愛されたいとか、そんな高望みはしない。
「そういうところは好きだよ」
複雑な思いが表情に出てしまい、顔を歪ませるクロエにヴィンセントは微笑み掛けた。
見惚れるでも戸惑うでもなく、クロエは呆けた。
「君のことは嫌いだけど、そういう風に莫迦みたいに素直で、自分の立場を理解しているところは好きだよ」
まただ。彼はまた、好きと言った。
嫌いと言われるよりも、殺すと言われるよりも、その短い言葉にクロエは衝撃を受けた。
(聞き間違い……?)
この半年で培った経験と知識を総合して、彼は信用ならないと疑心暗鬼に囚われそうになるクロエ。
しかし、ヴィンセントはたまにまともなことがある。そういう時の彼は、年上らしい理解力と寛容さを持ち合わせているとクロエは知っている。
「ディアナが君みたいだったら良かったのにね」
「ローゼンハインさん……」
「君がディアナだったら僕はあんなことしなかったのに」
クロエはヴィンセントが何を言っているのか、微笑む彼が何を考えているのか分からなかった。
ただ、ヴィンセントがディアナという女性に何かをしてしまったのだという事実だけが分かった。
「わ……私はディアナさんにはなれませんけど、私としてローゼンハインさんを理解することはできます。私はディアナさんとは違いますから……!」
何故、自分はここまでディアナと違うということに拘るのだろう。幾ら投影されるのが嫌だとしても、ここまで意地になるのは滑稽ではないだろうか。
その姿はヴィンセントの目にも滑稽に映ったようで、彼はその穏やかな笑みを皮肉めいたものに変えてこう言った。
「僕たちが仲良いのを嫉妬するって言ったけど、君だってルイスくんと仲良しじゃない」
「友達でもないですし、仲良くなんてないです」
ヴィンセントに疎まれているように、ルイスには嫌われている。それも感情的な問題ではなく、もっと根本的な部分で――身も蓋もない言い方をすれば生理的に――嫌われているような気がする。
彼を放っておけなくて、つい構ってしまって、その結果嫌われた。
「私、嫌われてるってちゃんと理解していますから」
何度も心の中で反芻させてきた思いをいざ口に出して、改めて耳から入ると想像以上に心を深く抉った。
「私に友達なんていないから……だから、ローゼンハインさんたちを羨ましく思うんです」
「ふうん? 別に彼は君のことを嫌ってはいないと思うけどね」
「慰めて下さるんですか……?」
「何で僕が君みたいな醜女を慰めなきゃならないのさ。君なんか慰める価値も、慰み者にする価値もない。そういう風に頭がお目出度いから嫌われるんじゃないの? うざいって自覚あるならもっと考えた発言したら? 僕は家政婦にそういう辛気臭い顔していられると目障りだから、事実を教えてあげるだけだよ」
ヴィンセントが怖い。優しすぎて恐ろしい。
クロエは怯えながらも、冷静にヴィンセントを窺う。
何だかんだ言いつつ、彼はこちらを慰めようとしてくれているのではないだろうか。ヴィンセントを信用すると痛い目に遭うのは承知済みなので心から信じることはしないが、クロエは今だけは彼の良心を信じたいと思った。
「怪我をした君を助けようとしたのは彼だよ」
ヴィンセントは嘆息し、続けた。
「僕は自分が大切だし、エルフェさんとレヴィくんはあの通りだし、君のことをほったらかしにして置いたんだよね。そうしたら【人としての矜持はないのか】って怒ってさあ、挙げ句に銃まで向けられるし最悪だったよ」
「ルイスくんが……?」
誰が助けてくれたのか、クロエは知らなかった。
クロエを甚振り足りないヴィンセントが治療をさせようとしたのかもしれないし、エルフェやレヴェリーが助けてくれたのかもしれない。三人の誰かが助けてくれたのだと思っていた。
「人間ってさ、結局は自分中心なんだよね。余裕そうに見えても自分の為にならないことはしない。どうでも良い相手に説教なんてしないし、助けるほど博愛主義でもない。まあ、僕のことを助けるくらいだから彼はちょっと人とは違うのかもしれないけど、君のことは嫌ってないと思うよ」
「でも、近付くなって……」
「寧ろ、大切過ぎて【俺なんかの傍にいない方が彼女は幸せになれる】とか思っちゃったりしてね」
それはつまり、ヴィンセントがそうして誰かを突き放したことがあるということだろうか。
クロエがその言葉を聞いて湧き上がったのは、安堵でも嬉しさでもなく、怒りだった。
「何ですかそれ……? そんなことされても私はちっとも嬉しくありません! 大体、幸せって何ですか。人の幸せの定義はそれぞれ違います。もしかしたら、その人といることが幸せかもしれないじゃないですか!」
「ちょっとむきにならないでよ。今のは僕の想像で、彼がそうだって訳じゃないんだから。もしそうだとしても僕に当たるのはお門違いだ」
「貴方が言ったんです。無茶苦茶なこと言わないで下さい!」
「まあまあ、落ち着きなよ。メイフィールドさんの心が安らかになるように僕がスープを作ってあげるから」
「貴方が作ったスープなんか危なっかしくて飲めません」
「うわ、人が親切で言ってるのに性格悪いなあ」
人に毒を飲ませていた口で何を語っているのだ、この男は。
クロエが何も知らずに生活していた二ヶ月の間、ヴィンセントは毒を与えていた。クロエの記憶と体力が戻らないように、特別な薬草を混ぜたスープを毎日のように飲ませていた。
そんなことを後から聞かせられたクロエは、ヴィンセントの作ったものは恐ろしくて口にできない。
「私は……そんな風に優しくされるくらいなら、嫌われた方が良いです……」
クロエは黙っていられなかった。
身に覚えがあったのだ。
自分などに関わっても得にならない。莫迦なことは止めろ。ルイスはいつもそう言って人を遠ざける。
ルイスの冷たさは警戒心の強さの表れで、その厳しさは心配の裏返しのようなもの。心配される程度には友情を感じてもらえている。もしかしたら、自分は彼に嫌われていないのかもしれないと、クロエは勘違いしたくなる。
彼との友情に拘っている自分が堪らなく惨めに感じられてクロエは唇を噛んだ。
「済みません。ちょっと頭に血が上っていました」
「うん、そうだろうね。今の君は莫迦丸出しって感じだ」
ヴィンセントの冷たい言葉が熱を冷やしてくれるような気がして、クロエは苦笑に近い笑みをこぼす。
変に腫れ物扱いをされたり優しくされたりするよりも、こちらの方が落ち着く。
小さく深呼吸をして心を落ち着かせたクロエは抱えていた如雨露に水を汲み、再び水やりを始めた。
その日の晩、クロエたちはメルシエの家に世話になることになった。
元々夕食は食べていくつもりだったのだが、その内に泊まる方向で話が進んでいってしまった。
子供たちを家に送り届けると言っていたエルフェも、気心の知れた仲間と酒を飲むのが楽しかったらしい。メルシエの見舞いのはずがすっかり酒宴になっていた。
だが、普段仕事ばかりで難しい顔をしているエルフェも、最近は悩みが多いレヴェリーも、怪我をして鬱いでいたメルシエも、そして酒を飲めないヴィンセントも何だかんだで楽しそうで、クロエはこれで良いのかなと思ってしまった。
「ちょっと失礼しますね」
クロエはレヴェリーに携帯電話を借り、廊下へ出た。
クロエはレヴェリーに借りた電話でルイスに連絡を取った。
『――レヴィ、何か用?』
暫くコールを続けるとその音が途切れ、直後、抑揚のない声が聞こえてきた。
「あの、私です」
『クロエさん?』
「はい、そうです。突然済みません」
レヴェリーからの電話だと期待させてしまったかもしれない。ルイスに悪いことをしたような気がして、クロエは謝った。そして言葉を続ける。
「今日は素敵なお店を教えて下さって有難う御座いました」
『ああ、ちゃんと見付けられたんだ』
「メルシエさんも喜んでくれました。本当に有難う御座います」
『花を持っていったのはキミたちなんだから、礼を言われる筋合いはない』
「そんな風に言わなくたって良いじゃないですか」
来月開かれるという花の展覧会はルイスと一緒に行きたい。そんな淡い気持ちが萎んでしまうほどに冷たい声で切り返され、クロエは電話を持つ腕を震わせた。
『それで、要件は?』
「今日、こちらにお世話になることになったんですけど……」
『そう。オレのことは気にしなくて良いから楽しんできなよ』
「あの、貴方もきませんか?」
旧教と新教――【ロートレック】の貴族たちにある冷たい溝のことを知ってしまった今、ここにルイスを呼ぶのは考えなしと言われるかもしれない。だが、二百年前の争いは過去のことだ。
クロエはここにルイスがいないのが嫌なのだ。
皆と楽しくやっていても、何処か心が後ろに引っ張られるような感覚がある。それは決して節介や同情からくる感情ではなく、ただ彼がこの場にいて欲しいというクロエの勝手な思いだ。
「メルシエさんのお店、知っていますよね? 今から先生もきますし、貴方もきませんか」
『遠慮するよ』
期待と希望を込めた誘いの言葉は、短く拒否という形で返された。
『良い夜を』
別れの挨拶を告げ、ルイスは電話を切った。
味気ない電子音に言葉の余韻すら掻き消される。
(やっぱり嫌われてるよ……)
クロエは嫌われているという事実の悲しみとは他に、寂しさも味わった。
遠慮するという一言に、【自分がいなくても良い】という響きがあったのだ。厄介者がいなくて清々するだろう、と。
もしかすると今の誘いは社交辞令のように取られてしまったのだろうか。だとすれば、そんなことはないと伝えたい。ここにいて欲しいから誘ったのだと誤解を解きたい。だけど、嫌われている自分が何を言っても無駄な気がして、クロエは電話を再び掛けるということができなかった。
その時、背中から声を掛けられる。
「クロエ、どうだった?」
「うん、大丈夫。楽しんできてだって」
平静を装ったつもりだが、少しだけ声が震えてしまった。そのことに気付いたレヴェリーは、年下の子供に話し掛けるように少し身を屈めて訊ねた。
「あいつに何か言われたのか?」
「ううん、何もないよ。ルイスくんが一人で大丈夫かなって思っただけ」
「大丈夫だろ。寧ろ清々してるんじゃね?」
ルイスは一人でいることに慣れているから却って清々しているはずだと、レヴェリーはクロエを慰めた。
「……うん、そんな感じもするね」
「だろ? ファウスト先生くる前に飯食っとかないとなくなるし、早く戻ろうぜ」
ただでさえ大食らいの大人がいるのに、もう一人男性が加われば子供の食べる分がなくなる。場の空気に流されて、食べるよりも話を聞いたり酒を注ぐことに夢中になっていたクロエを心配して、レヴェリーは部屋に戻ることを促した。
クロエは自分を納得させるように大きく頷いた。