迷いの森の赤ずきん 【3】
メルシエの骨董品店【Waldhaus】は、ディヤマン通りの西にある。
彼女の見舞いの花を選ぶことになったクロエは、知り合いのフラワーデザイナーがいるという花屋をルイスに教えてもらい、エルフェとその御供二名を連れてディヤマン通りへやってきた。
「お見舞い用の花束でしたね?」
「はい、そうです」
「では包装紙はオレンジにしましょうか」
出されたコーヒーを飲みながら花束が出来上がるのを待つ間、クロエはそわそわと落ち着かなかった。
店内には見たことのない花が沢山あったのだ。
フラワーアレンジメントの本場といえば、この【ロートレック】。ディヤマン通りの華やかさばかりが注目されてしまうが、花の都という別名があるほどに至る所に花が飾られている街なのだ。
(芸術に生きるならベルシュタインって言うもんね)
貴族の為の全寮制芸術学校があるように、美への拘りに並々ならぬものがあるシューリス人が開く花屋は、クロエが以前務めていた店とはあまりに規模が違っていた。
そうして様々な花に目移りさせながら待っていると、出来上がった花束を持って店主がやってきた。
「こんな感じで如何でしょうか」
「はい、とっても素敵です。有難う御座います」
「これは延命剤なので水に入れて使って下さい。日陰に置けば長持ちしますよ」
流石は花のプロと言うべきか、クロエが思い描いていた以上の素晴らしい花束だった。
(次は自分で選べるようにしよう)
下町の花屋で一年働いただけの自分は素人だと思い知ると同時に、勉強にもなった。
最近は少しだけ気持ちにも余裕を持つことができるようになったからか、絵や花への興味をまた持ち出したクロエは勉強をしてみようかと考える。
時間はあるのだから、何かを学んでみるのも良いかもしれない。あそこでの生活は家政婦としての仕事をきちんこなし、家を出なければ咎められることはない。クロエに学ぶ気持ちがあれば、レヴェリーのように独学で幾らでも勉強することができるのだ。
帰ったら花の勉強をしようと考えながらクロエは清算を済ます。その際、チケットを渡された。来月セントラルタワーで花の展覧会が開かれるとのことで、これは招待券だった。
「私、【ロートレック】の人間じゃないんですけど、貰っても良いんですか?」
「僕たちデザイナーも人間です。どうせなら花が好きな人に見てもらいたいですからね」
幾分か砕けたジャイルズ語でそう言って、花屋の店主は百合のように首を傾げて微笑んだ。
「遅かったね。もしかして僕たちを待たせているのを忘れてた?」
花屋の外に出ると、待ちくたびれたと言わんばかりの視線と刺々しい言葉が突き刺さった。
クロエは花束をエルフェに渡した後、ヴィンセントに向き直る。
「済みません。先に行っていても良かったんですよ、ローゼンハインさん」
「エルフェさんが襲われたら大変だから僕は見張ってるんだ。君を待ちたくて待ってた訳じゃないよ」
「こんな大通りでエルフェさんなんか襲う奴いないんじゃね?」
「甘いね、レヴィくん。羊の皮を被った狼って言葉があるように、メイフィールドさんだって一皮剥けば何が出てくるか分からないんだ。エルフェさんと二人きりにするなんてできる訳がないよ」
「わ、私なんですか……!?」
自分より頭二つほども身長の高い異性をどうやったら襲えるというのだろう。大体、羊の皮を被った狼ならぬ、天使の顔をした悪魔はヴィンセントの方だ。
「下らんことを言ってないで行くぞ」
「んじゃ、次は昼飯だな。クロエは何食いたい?」
久し振りの外食ということで――この四人では初めてだ――レヴェリーはどんな店に入るかを訊ねた。
「できればカジュアルなお店が良いな」
「ならば、クレープ屋にするか」
「男四人でクレープって微妙じゃね……?」
「仕方ないじゃない。レストランに入れないド庶民がいるんだから。まったく、メイフィールドさんがいなければブラッスリーにでも入ってビールを飲むのに、君って何でここに存在しているんだろうね」
クロエを冷たく見下しながら、ヴィンセントはわざとらしい溜め息をつく。
「ローゼンハインさんも庶民じゃないですか。私だけ莫迦にしないで下さい」
ヴィンセントの理不尽な中傷を聞き流すことができなかったクロエは屹然と訴え、続ける。
「それに、ローゼンハインさんはお酒は駄目なはずです」
「そんなのどうでも良いよ」
「どうでも良くありません!」
クロエが怒った理由には存在否定をされたくないというのもあるが、ヴィンセントが酒を禁止されているからというのが大きい。
酒と人斬りがなければ生きている意味がないとヴィンセントは嘆く。ストレスが溜まっているヴィンセントは、クロエに当たることでそれを発散しているのだ。
「あとで痛い思いをするのはローゼンハインさん自身なんです。もっとご自分のことを考えて下さい」
「家政婦の癖にうるさいなあ。あんまり生意気言ってると殺すよ」
また痛い思いをするのは嫌だ。あのようなことがあれば、クロエはまたヴィンセントを色眼鏡で見てしまう。
今すぐには無理でも、クロエはヴィンセントを理解できるようになりたいと思っている。こんなところで争いをする訳にはいかない。
「人を殺すなんて軽々しく言わないで下さい」
「君さあ、本気で殺されたいの?」
「そんなことばっかり言ってると一人になっちゃいます」
何か言う度に殺すと脅されるのではまともな会話ができない。皆が離れていってしまう。
軽々しく殺すという言葉を使って欲しくないクロエはヴィンセントはじっと見上げる。
ヴィンセントは暫くクロエの眼差しを受け止めていたものの、冷笑と共に視線を外してしまった。
「友達がいなくなりますとか笑っちゃうよ。この程度で騒ぐ相手なんかこっちから願い下げだ。エルフェさんもそう思わない?」
「今のはあんたが悪い。往来で物騒なことを言うな」
「エルフェさんがそう言うなら帰ってから言うことにするよ」
「今止めるなら言うなよな!」
「じゃあ、レヴィくんで遊ぼうかなあ」
「何でだよ!?」
ヴィンセントが好き勝手に振る舞い、レヴェリーがそれに突っ込み、そんなレヴェリーをヴィンセントがからかい、エルフェが二人を窘める。
出会った時から変わらない三人の様子を見ていると、自分は部外者なのだと感じる。
女扱いをされず、男扱いもされないこの中途半端さが寂しい。小突き合ったり、殴り合ったり、冗談を言い合ったり。そういうことをしたい訳ではないが、男同士の友情のようなものには女の自分は決して踏み込めない。クロエはそのことがたまに寂しく感じてしまうのだ。
【ロートレック】に於けるクレープ屋とは立ち食いの店のことではなく、きちんと席に座り、ナイフとフォークを使って食べる食事処のことだ。
チーズやシーフードが入った蕎麦粉のクレープを食べてから、デザートにチョコレートやフルーツの入ったクレープを食べるのが一般的ということで、クロエはメニューにあったランチセットを頼んだ。
食事の最中、クロエは【ロートレック】という街と貴族ついての話を聞くことになった。
【ロートレック】は七つの区画に別れており、その中で更に旧地区と新地区の二つ別れ、一、二、三、四、五区画が旧地区、そして六、七区画が新地区と呼ばれている。
「エルフェさんのお家は何処にあるんです?」
「ライゼンテール。ここからならメトロで三時間ほどだ」
「四区画って葡萄畑で有名ですよね」
「ああ、農業が盛んな土地だ」
「あそこのワインは確かに美味しいけどド田舎だよね。正直、侯爵閣下が住む場所じゃないよ」
「気になっていたんですけど、エルフェさんのお家って昔何かあったんですか?」
「どうしてそう思う?」
「【ロートレック】の中心って一区画ですよね? ローゼンハインさんが言うようにちょっとらしくないかな、と」
貴族は階級によって住む場所が区分けされており、身分の高い者は市内、身分の低い者は市外で暮らすというのが一般的だ。
しかし、この街で最も力を持つ二大侯爵家の双方は、市内から離れた場所に屋敷を構えている。
ヴァレンタインの屋敷は七区画ベルシュタインにあり、レイヴンズクロフトの屋敷は四区画ライゼンテールという片田舎にある。新地区として開発が進められている七区画はまだしも、四区画は侯爵という身分の者が暮らすには相応しくない場所だった。
「先々代の莫迦がヴァレンタインの令嬢を手に掛けた。その所為で俺の家は都を追われたんだ」
エルフェの祖父の兄がヴァレンタイン侯爵家の令嬢を殺めた。
それは、五等爵の仕組みと歴史に疎いクロエでもどきりとする内容だった。
「社交界じゃ有名だよね。レイヴンズクロフトとヴァレンタインの悲劇のロマンスは」
レイヴンズクロフト令息と、ヴァレンタイン令嬢が恋に落ちた。しかし、過去の【事件】から周囲は二人の仲を認めなかった。引き裂かれる二人。そして、ヴァレンタイン侯爵令嬢が望まぬ婚姻を結ぼうという日、レイヴンズクロフト侯爵令息が令嬢を殺し、自らも命を絶った。
演劇にもなりそうなその悲恋譚を、ヴィンセントは愉快そうに話した。
「ローゼンハインさん、笑い事じゃないです」
「どうして? 自業自得で恋が成就しなかったんだよ? これを笑わなくてどうするのさ」
ヴィンセントが煽るように話すものだから、クロエは話の続きが気になってしまった。
クロエが恐る恐るエルフェを窺うと、彼は仕方ないという顔をして語った。
「二百年前、俺の家を含む旧教側の人間は新教信者の弾圧をした。その中にヴァレンタインも含まれていた」
宗教の争いでレイヴンズクロフトはヴァレンタインを始めとする新教に属する者を一区画から追い出し、塵溜めの貧民街と蔑まれた七区画に追いやったのだという。それが侯爵令息と侯爵令嬢の悲劇を生んだ過去の事件だ。
「宗教争いなんて下らないことをやってるからこうなるんだよ。自業自得じゃない」
「塵溜めって……ここがですか?」
七区画といえば、今いるここ――ディヤマン通りだ。流行の発信源とされ、マスメディアをいつも騒がせる場所がかつて塵溜めと呼ばれていたとは信じられない。
「オレ、聞いたことあるわ。新地区は復讐心の結晶なんだとさ」
クロエが通りの様子を窺っていると、隣でクレープを切り分けていたレヴェリーはそう口を挟んだ。
「旧教の奴等を見返してやろうと都市機能をこっちに移そうとしたんだよな」
二百年が経った今、政治の中心地は一区画だが、経済・文化の中心地は七区画だ。
かつて貧民街と蔑まれた場所が今は経済の中心で、世界で最も美しい通りと謳われるディヤマン通り。このことは果たして何を指すのか。
レヴェリーが言ったように、ここは彼等の復讐心の結晶だ。ここは屈辱を味わわされたヴァレンタインと、その友好関係にある貴族家と、更にそれに連なる新教信者たちが作り上げた、言わば国なのだ。
「都から追い出された挙げ句に、身内まで殺されてるんだから当時のヴァレンタイン侯爵の怒りは凄かっただろうね。ある意味、宗教革命の火付け役だ」
血で血を洗う革命があったのは昔のことではない。つい四十年前までは毎日のように処刑が行われ、広場に首が晒されていた。
クロエが生まれたのは革命が終わった十年後なので、実際に暗い時代を生きた訳ではないが、父の人生を狂わせるほどの出来事だったとは知っていた。
「最近は【外法】って共通の敵を見付けて旧教も新教も前よりは仲良くやってるけど、僕からしたら宗教の何が楽しいのか分からないよ。結局のところ、戦いの理由が欲しかっただけじゃないのかな」
暗く冷たい色をした双眸がすっと細められ、クロエは背筋がぞっとした。
革命家が嫌いと公言するように、宗教争いや革命の話をする時のヴィンセントはいつにも増して皮肉がきつく、愚かな人間たちを嘲笑っているようだった。
(外法は異教徒って意味なんだよね)
旧教でも新教でもない異なる神を信仰する者たち、それが外法だ。
外法であるヴィンセントからすると、この街で起きた争いは下らないものでしかないのだろう。
クロエは信仰とは己の心の中にあるものだと思っている。
信仰とは自分の心の中にいる神に祈り、心を安らかにする為の行為だ。故に信仰に正しいものはなく、他人の信仰は否定できるものでも、否定して良いものでもない。それでも世間では旧教、新教、外法という枠組みがあり、いつの時代も争っている。
宗教とは何なのだろうと思わずにはいられなかった。