迷いの森の赤ずきん 【2】
「あいつも大袈裟だね。ちょっとドジっただけなのに」
正午になろうという頃、家を訪ねたクロエを見てメルシエは困ったように笑った。
猫のように笑うメルシエの頬にはガーゼが宛がわれており、その下に傷があるだろうことを窺わせた。
斬り裂き魔事件。場所、時間を問わず被害者は一様に身体の一部を落とされて殺される。裏社会に関係があることのようで報道はされていないが、上層部でそんな物騒な事件が起きている。
メルシエは首を打ち据えられ、昏倒したところを痛め付けられた。
頼まれた数日分の食糧と、傷を隠す為の道具を届けたクロエは提案する。
「メルシエさん、うちに泊まりにきませんか?」
「え?」
「こんな時に女性が一人で暮らしているなんて危ないです」
竹を割ったような性格で男らしささえ感じさせるメルシエだが、彼女は女性だ。こんな時に一人で過ごすことに心細さを感じないはずがない。エルフェもメルシエを心配するからこそ、クロエを寄越したのだろう。
「え……や、あたしがそっちに世話になるのはあれだろ。色々まずいって」
「寝る場所だったら私が使っている部屋があります。私は納戸で寝ますから」
「いや、そういうことじゃなくて」
「ご飯はいつも多めに作ってますからお代わりだってできますし、お風呂だって私がちゃんと見張ってますよ。眠る時も私が廊下にいたって良いです」
大人二人が大食らいでも食事の量は足りているし、年頃の男子が二人もいて不安だというなら見張っている。メルシエが男所帯で気になるというなら、クロエは精一杯フォローするつもりだ。
「至らないかもしれませんが、私がメルシエさんをお守りします!」
目に決意を込めて見つめると、そんな潤びる眼差しを受けたメルシエは手を伸ばし、クロエの頭を撫でた。
くすぐったいような心地良さにクロエは軽く目を閉じる。
「何というか……良い子だよね、あんた……」
あんな奴等には勿体無い、とメルシエはこぼした。そして何を思ったか、ソファに座ったままのクロエに覆い被さるようにして抱き付いてきた。
「家政婦なんて勿体無い。うちに欲しいくらいだよ」
「め、メルシエさん!?」
ぎゅっと抱き締められたクロエはただただ混乱する。
同じ女性なのだから悪いことではないし、嫌悪感もない。戸惑うのはその感触。ふっくらとした胸の柔らかさには目眩がする。けれど、次第に心地良くなってきてしまう。
(あったかいな)
彼女の胸からは石鹸の優しい香りがした。
幼い頃に母親と離れてからクロエを甘やかそうとする者はいなかった。自分では意識しなくとも、心の何処かで愛情とぬくもりに飢えているクロエは優しくされると戸惑ってしまう。
「ああ、もうほんとにうちで引き取れないかなあ。独身だからって養子縁組みできないなんてないよね」
「養子……!?」
「そんなに驚かなくても良いじゃないか。もしかして、おばさん嫌われてる?」
「まさか! そこまで考えてくれるなんて思わなくて……、嬉しいんです」
例えその場限りの言葉だったとしてもクロエは嬉しかった。
驚きと嬉しさで胸がぽかぽかとあたたかくなる。他人の傍が心地良いと思うのはつい最近覚えた感覚だ。
「というか、レイだって言ってなかった? あんたとレヴィをレイヴンズクロフトの家に入れて、戸籍弄ってやろうとか考えているみたいだけど」
「え……!」
「あ、あれ……聞いてなかった? これは言ったのまずかったかな」
寝耳に水だった。
十年近く共に過ごしているレヴェリーはまだしも、たった半年しか付き合いのない相手にそこまでする必要はないとクロエは思う。
中立に立つエルフェは個人に入れ込むことがない。そういうエルフェだからこそ、クロエとレヴェリーを平等に扱おうとしてくれているのかもしれないが、クロエにはそんな価値はなかった。
「私なんかがエルフェさんのお家にお世話になるのは駄目ですよ……!」
「うーん、やっぱり他人が家族とか気持ち悪い?」
「そうじゃありません。申し訳ないんです。エルフェさんにそこまでしていただく訳にはいきません」
「あいつ等の所為であんたは人生が狂ったんだ。それくらい妥当な補償だよ」
「でも……」
クロエは充分すぎるものを貰っている。
一人きりで孤独に済まさなくて良いあたたかな食卓、日々の些細なことを語り合える相手、お帰りと出迎えてくれる人。そんな当たり前のものが欲しかったクロエは今、満たされているのだ。
望むのはこの穏やかな生活が続くこと。クロエはそれ以上のことを望むつもりはなかった。
「あたしは悪いことじゃないと思うよ。【上】って都合悪くなるとすぐに消すからさ。そういう意味では悪の貴族と謳われる両侯爵家の奴と関わっておくのは損じゃない」
ヴァレンタイン家は色々な意味で有名な為に下手に手を出せない。そして、レイヴンズクロフト家は得体が知れない為に恐れられているのだという。
「レイヴンズクロフトは旧教の派閥でかなり強い発言力持っているし、ヴァレンタインは国の管理機関の一員だ。そういう奴等の後ろ盾はこれからあんたの人権を守る強い武器になる。だから、あんたは変に負い目なんか感じないで利用してやれば良いんだよ。……まあ、あんな朴念仁をいきなり親だって思うのは無理だろうしね。そういう話が出た時にじっくり考えれば良いよ」
そう言ってメルシエは難しい話は終わりだと言葉を切った。
(心配されちゃったのかな……?)
いつもメルシエはクロエの立場を慮ってくれる。
施設育ちという負い目があるクロエは自尊心が低く、人権を侵害されても黙っていた。ヴィンセントは横暴の限りを尽くし、それを止めなければならないエルフェも飽くまでも中立を貫き、その結果あんな事件が起きた。
あの事件の後、メルシエはヴィンセントとエルフェに抗議したらしい。クロエとヴィンセントとエルフェに今の生活があるのは、ファウストの協力もあるが、メルシエの行動が大きく影響しているだろう。
(メルシエさんに心配されないようにならなくちゃ)
本当のところ、この自分に誰かに守られる価値があるとはクロエは思っていない。
長年抱き続けてきた意識だ。半月やそこらで変えられるものでもない。それでも少なくともここには自分の立場を考えてくれる人物がいる。だから、そんな自分を蔑ろにするのはその人に対しても失礼だ。
他人が愛してくれる自分を否定することは、その相手も否定することだ。クロエの今の目標は自分を好きになること――「私なんか」と言わないようにすることだ。
「メルシエさん、色々有難う御座います」
「何もしてないけど、一応どう致しましてって言った方が良いのかな」
笑みを添えて礼を言うクロエの前でメルシエは眦を下げると人懐っこい笑みを返した。
それからクロエはメルシエと共に昼食を作り、陽の射し込む部屋で午後の一時を楽しんだ。
ドレヴェス風の料理を教えて貰ったり、エコクラフトという紙と皮紐の手芸に挑戦させてもらったり。年上の女性と過ごす半日はとても新鮮に感じられた。
クロエは母親に料理や手芸を教えてもらうことができなかった。もし母親が出て行かなければ、こんな生活をしていたかもしれないとほんのりと思ってしまうのだった。
空を見ると、季節の移り変わりが実感できる。
ついひと月前まではこの時間になれば迫る蒼闇に街が呑み込まれようとしていたのに、まだうっすらと西の空に明るさがある。
クロエが夕食の支度をしていると、エルフェが声を掛けた。
「ズッキーニプッファーか?」
「はい、メルシエさんに教えてもらったので」
「分かった。こちらの下拵えは俺がしよう」
店の片付けを終えてきたらしいエルフェは仕事着のまま夕食作りを手伝い始める。
今日の夕食はカボチャとタイムのスープと、ズッキーニプッファーだ。
ズッキーニプッファーはドレヴェスの家庭料理であるカトフェルプッファーをアレンジしたもので、摺り下ろしたズッキーニを小麦粉とチーズを混ぜた生地と合わせて焼いたものだ。
エルフェはドレヴェス人として馴染みがあるようで、クロエがスープを作る横で生地を焼いていった。
「そこからは私がやりますよ?」
「ここまできたら俺が作った方が早いだろう」
いつもはクロエの仕事を奪うことをしないエルフェだが、今回は摺り下ろしという力作業があった。
「じゃあ、エルフェさんにお願いします」
早く食事を作りたいという思いがあったクロエは、プッファー作りをエルフェに任せ、スープ作りに集中した。
クロエの前にある鍋の中身は炒めたタマネギと、一晩寝かせたレンズ豆――メルシエに分けてもらった――を加えて煮たものだ。ここにカボチャ、コンソメ、生クリームを加えて煮込み、林檎酢と塩で味付けをすればキュルビススープは完成する。タイムと林檎酢が効いた風味豊かなスープはいかにもドレヴェス料理といった風だ。
「あいつは……メルの様子はどうだった?」
料理が完成する頃になってエルフェはクロエに訊ねた。
「心配ならエルフェさんが行くべきだと思います」
大丈夫そうだったと答えるのは容易い。思うところがあったクロエは続ける。
「こんな言い方はあれですけど……もし何かあったら【あの時こうしていれば】って思うことにもなりますし、気になるなら自分でお見舞いに行った方が良いです。エルフェさんが訪ねたらメルシエさんも喜びます」
裏の世界に詳しくないクロエはメルシエの怪我の度合いも、襲われた理由も分からない。そんな中でもし彼女に何かあったら、エルフェはきっと後悔することになる。
(怒る……かな。ううん、でも……)
クロエは恐れる気持ちもあったが、エルフェに意見したことについては後悔はなかった。
怒られたら怒られた時だ。その時にきちんと反省すれば良い。もしエルフェが気を悪くしたようならきちんと謝り、その上でメルシエの見舞いに行って欲しいと伝えよう。
心を決めたクロエは、自分よりもずっと高い位置にあるエルフェの顔を窺った。
「見舞いの花は何が良いと思う?」
「……え……?」
「俺の周りには臥せるような女がいない」
女性がどんな花を貰ったら喜ぶのか分からないのだと、エルフェは弱ったように息をついた。
チーズを練り込んだ生地の焼ける芳ばしい香が漂うキッチンでクロエは暫し呆ける。
怒られなかった。
自分の意思を伝えても拒まれなかった。
少し考えればエルフェがそのようなことをする人物ではないと分かるのだが、クロエは感動してしまう。
「でしたらもうすぐ四月ですし、チューリップのブーケなんてどうです? 黄色や桃色のフリージアとかスイートピーを入れて、あとシックなローズも加えればカラフルで春らしいアレンジメントになると思います」
桃色のチューリップ、クリーム色のスイートピー、檸檬色のフリージア、蜜柑色のローズ。仕上げにピンクのリボンで飾り付ければ春らしい華やかなブーケになるだろう。
花というものは普段貰うことがないからこそ、贈り物で貰ったりすると嬉しかったりする。クロエは女性が好みそうなパステルカラーのブーケの構想を練った。
(薔薇はデリーラにしたら華やかかな。うん……やっぱりモダンカラーにして、スイートピーをピンク、チューリップをマーブルオレンジにした方が可愛いかな)
「メイフィールド、手が止まっているぞ」
「え……うわ……!」
エルフェに指摘され、想像の世界から抜け出したクロエはどきりとする。鍋を掻き混ぜる手がすっかり止まっていたのだ。
乳製品を使ったクリームスープは非常に焦げ易い。また、見た目と味の関係で誤魔化しも利かない。カボチャと豆の形が崩れたのは良いとしても、鍋の底が焦げ付いていたらこのスープは最悪だ。
鍋を掻き混ぜる勇気がないクロエはせめて毒素が広がらないようにとそっとお玉を出し、火を止める。
「こ、焦げた味がしたら残して下さい……。あと、お鍋は弁償します……」
鍋底の無事は自信がない。寧ろ焦げ付いている自信がある。
「考え事も良いが目の前のことに集中しろ」
「済みません……」
「明日、鍋を見に行くから付いてこい。弁償の代わりに花を選んでくれ」
「分かりまし……、はい?」
反省しなければとしょんぼりとしていたクロエは、頷き掛けてはっとする。鍋の弁償の代わりに花を選べとエルフェは言ったのだ。
「俺のような男が選ぶよりもメイフィールドが選んだ方がメルも喜ぶだろう」
メルシエに日頃から朴念仁や甲斐性なしと詰られているエルフェは自嘲半分、皮肉半分という様子だ。
「じゃあ、弁償もしますけど、お花もちゃんと選びます!」
「ああ、では頼む」
「お鍋も私が選びますね!」
貪欲なのか謙虚なのか曖昧な、けれど気合の入った返事をするクロエを前にして、毒気を抜かれたエルフェは降参したように破顔するのだった。