迷いの森の赤ずきん 【1】
ディヤマン通り。そこはシューリス人曰わく、世界で最も美しい通り。
雪化粧をされた街路樹の並ぶ道の両脇にはブティックが並び、店々から煌々と明かりが零れている。そんな光を受けて飴色に照らし出された石畳の上を、流行のドレスを纏った紳士淑女が行き交う。大貴族の街に似付かわしい流行を先取りしながらも、何処か奥床しい雰囲気がここには満ちている。その佇まいは計算されたものだ。
ディアマン通りの景観はシューリスの民によって厳密に管理されている。通りのハイクラスな雰囲気を保つ為に管理委員会なるものも存在するというのだから、他階層の者はただ驚くしかない。
(私も何か買おうかな。うーん、髪も整えたいな)
エルフェの使いでコーヒー豆を買いにきたクロエは、通りの一角にあるエステサロンを見ていた。
ネイル、コロン、白粉。独特な香りに満ちた店の中を見回す。
クロエは衣類や化粧品を見て歩くのは嫌いではない。そういったものはきらきらふわふわしていて可愛いから好きだ。
美味しいものを食べている時や可愛いものを見ている間は、自分が普通の――平凡な娘なのだと錯覚できる。優しい両親がいて、自分を肯定できて、将来の夢があって、男の子に恋もできるような普通の女の子。クロエが憧れて止まない平凡な人間。人混みに紛れて他人と同じようにしている間だけは、自分も彼等と同じだと甘い夢を見ていられるのだ。儚い夢だと知りながらも、クロエは今でもその意識が自分の中にあるのを自覚している。
(メゾン・ド・コンフィズリーの新商品……!)
愛用している化粧品の新商品を見付けたクロエは目を輝かせた。
春の新製品として並べられていたのは、チョコレート色のアイライナーと、パステルカラーのアイシャドウパレット。クロエが惹かれたのはケースがマカロンの形をしている白粉だ。
(無駄遣いじゃない無駄遣いじゃない)
乙女心を擽る魅力がたっぷりと詰まったコンパクトは魔法の鏡のようだ。
魔法で美しく変身をして素敵な王子様に見初められる。それは、女が一度は憧れるシンデレラの物語。
だけど、クロエが夢見るのはシンデレラのような運命的な出会いではなく、【美女と野獣】のベルような恋だ。
【美女と野獣】に出てくる王子は決して優しくはない。冷たい心を持っていたが為に野獣に姿を変えられ、人を愛し人に愛されるという真実の愛を見付けなければ消えてしまう運命にある。他のお伽話と違い、汚いところを持ち合わせた王子は人間臭い。
一瞬の輝きではなく、永遠の輝きを持つのがベルと王子の恋だとクロエは思う。同時に【美女と野獣】が好きなのは、ベルだけではなく王子の人間性が好きだからだと感じる。
クロエが好きなお伽話も、憧れる恋愛も、年頃の娘らしいものではなく、とても堅実なものだった。
その夜のこと。
美容サロンでざんばらだった髪を整え、凝ったヘアメイクをされて帰ってきたクロエに対する男たちの反応は相変わらずのものだった。
「今日の女装、いつもより良いな! 超かわい……ぃいででで……!!」
「レヴィ、仮にも娘に対して紳士的になれないのか。他に言い様があるだろう」
「エルフェさんだけには言われたくねえ! つーか、オブラートにくるむだけ事実は残酷になるんじゃねーの」
「ここまでいくと女装というか詐欺だよね。これはオブラートに包み過ぎというかさあ」
女性なら誰しも綺麗になると嬉しいものだ。それなのにここに住まう男たちはそういった乙女心を理解せず、その心をねじ曲げるようなことばかりする。
容赦ない言葉をクロエは笑顔で聞き流す努力をする。
(た……堪えろ、私……!)
折角買ってきた【ヴァレンタイン社】のスプリング・マカロンがとても苦い。こんなことを言われるなら皆に分けずに、一人で食べてしまうべきだったと思わず意地悪な気分になってしまう。
甘味嫌いの癖に一口だけ手を付け、それを残すという嫌がらせをしながらヴィンセントはこう言う。
「女って化粧で化けるから怖いよ。いざ付き合ってすっぴんを見た時の衝撃といったら詐欺に遭ったのと同じようなものだよね。女は男の経歴詐称を嫌うけど、男にしたら女の化粧の方がよっぽど酷い偽りだよ」
「天然美人のローゼンハインさんは黙っていて下さい」
ヴィンセントは忌々しいほどにくっきりとした二重瞼の双眸を細めて悪辣と笑う。
「元が残念なら限界も低いんだし、無駄な努力しなければ良いのに馬鹿馬鹿しいなあ」
「だったら金髪碧眼の癖にとか、女の癖にとか言うの止めて下さいね」
ヴィンセントの言い様だと地味な娘は努力をするなということになる。
だが、いざクロエがそうすると、「金髪碧眼の癖にだらしない」と文句を言う。ヴィンセントは明らかに矛盾している。結局どうしたって彼は人の揚げ足を取りたいだけなのだ。
美しい人には分からないことだと、クロエは諦める。
何かで聞いたのだが、人間は視覚から得られる情報が八割を占めていて、特に男性はそれを重視するそうだ。それが全てではないし、全ての男性がそうという訳でもない。また、男性だけという訳でもないだろう。それでもお伽話の【美女と野獣】のようなことは現実ではまず有り得ない。
人間には第一印象というものがあり、一度付いた印象というのは中々消えないものだ。だからこそ、他人に良く思われたくて外見を磨くのだ。
(一人になりたくないから)
嫌われたくないから――仲間外れにされたくないから皆に合わせる。半年前のクロエはそうだった。
施設を出てからは他人の望む髪型や服装をして、目立たないように嫌われないようにと必死で人目を窺っていた。
ここで暮らし始めたばかりの頃も皆に嫌われないよう愛想笑いを張り付けて、適当に話を合わせていた。そんな自分は人形のようだったとクロエは思う。
施設を出て髪を伸ばし始めてからのクロエは、はっきりとした【自分】というものがなかった。いつか売る為にと長い髪を引き摺っていた。
それを切ったのは、たった半月前のことだ。
大嫌いな髪の色を褒められたからか、それとも歩んできた人生を否定されなかったからか、それは定かではない。クロエは自分を好きになれるようになりたいと感じた。
クロエにとっての化粧は男を騙す為の術ではなく、自分に自信を持つ為の魔法のようなものだ。皆は小細工だと笑うかもしれないが、そうやって少しずつでも自分に自信が付けられたら、真っ直ぐ顔を上げられるかもしれないとクロエは思っている。
(私は私のやりたいようにするんだから!)
そういう思いをたっぷりと込めて見据えると、視線の先でヴィンセントは口の端を吊り上げる。そのあまりに凶悪な笑みにクロエは早くも決意が揺らぎそうになった。
「あの……ローゼンハインさん……? どうかされました?」
「メイフィールドさんなんかがお化粧するより、ルイスくんがした方が様になると思ってね」
「い、言うに事を欠いてそれはないです!!」
引き合いに出す相手が酷い。あんまりだ。
自分などよりルイスの方が整った容姿をしていることは分かっている。クロエが焦っているのはそういう理由ではなく、本人がここにいるということだ。
「ほら、男も化粧するの流行っているじゃない。音楽活動でも外見重視っていうやついるよね。折角音楽を習っててそんな女の子みたいな顔してるんだから、君もやってみたら? ヴァレンタインの妹さんもお姉さんができて喜ぶかもよ?」
「挑発には乗りませんよ」
「偉いぞ、ルイ。兄ちゃんのマカロン半分やろう」
「要らない。というか、身長伸ばしたいならキミが食べる努力をしなよ」
「菓子を食べた程度で身長は伸びないだろう、ルイス」
「分かりませんよ。元が小さければ、どんな栄養源でも成長するかもしれません」
「エルフェさんは兎も角、ルイに莫迦にされたくねーよ!」
「まあ、低身長童顔のレヴィくんはどうでも良いけどさ、君は化粧で化ける女の子をどう思う?」
レヴェリーにマカロンを押し付けたヴィンセントは真面目な話のように切り出した。
クロエの隣で紅茶を冷ます努力をしていたルイスは、スプーンを動かす腕を止めた。
「【十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人】という言葉をご存知ですか?」
「それが何だっていうのさ」
「例え優れたものを持って生まれたとしても、努力しなければそれは維持できないということです。最初から何も持っていない人は持っている人以上に努力するんです。その努力の結果、魅力的に見えるのだとしたらそれを否定するつもりはありませんよ」
親から貰った美貌や才能。元が良くても努力を怠ればただの凡人か、それ以下だ。他人から見て魅力的に映るのは、その人がそれだけ努力をしたからで、その陰の努力に気付かないような者に分からせる必要がなければ、分かられたくもない。
「初めから持っているだけで何かを得られると思っているとしたら、オレはそいつの方が気に食わない」
持てる側の高慢さを持つヴィンセントが気に食わないと、ルイスは言った。
クロエから見ればルイスも充分【持っている】側だが、彼の心は【持っていない】側にあるようだ。
美しい容貌をしただけの人間に同じことを言われれば、クロエはルイスを傲慢だと思っただろう。けれど、それが苦労した結果に出た言葉だと分かる程度にはルイスという人間に関わっているクロエは、否定など出てこない。
「貴方は沢山努力したんですね」
「……どうしてそうなる?」
「私から見れば貴方は沢山のものを持っているように見えますけど、もしそうじゃなかったとしても人以上に努力したから魅力的に見えるんです」
「オレは天才の話をしたつもりだけど」
「ピアノで賞を貰っているって聞きましたよ」
「オレはつまらない人間だよ」
クロエは人間性のことを言いたかったのだが、説明が難しそうだったので【ピアノのこと】ということにする。すると、クロエが言わんとしたことを察したルイスはばつが悪そうに顔を逸らしてしまった。
嫌われてしまったクロエは紅茶を飲んで曖昧に笑う。
才人は孤独なものだ。そして、その才能はとても繊細で壊れ易い。自分で壊すこともあれば、他人や環境が壊すこともある。
天才も秀才もそこに至るまでの努力は並大抵のものではなく、その努力は一人でできるものでもない。例えば、彼が音楽に優れているというのはそれだけ本人が努力したということだろうし、彼の才能の芽を見付け、認めてくれた存在がいたからだろう。
クロエが大嫌いだった髪を褒められて嬉しかったり、どうしようもない自分を否定されなくて救われたように、認められるという行為が自信になる。少なくともクロエはそうだ。
「頑張っていればそれで良いんですよね」
他人に認められればそれは嬉しいことだし、頑張っていなければまず自分を認めることもできない。何もせず停滞して、卑屈になって自分だけの硬い殻の中に籠もるのはもう嫌なのだ。
クロエの今しようとしている努力は他人よりもまず自分を納得させる為のものだ。その時点で他人の評価を恐れていてどうなるというのだろう。
頑張ろう、とクロエは改めて思う。
些細な気持ちの変化なのにそれだけで世界が違って見える。マカロンをかじると幸せな味がした。
クロエの顔を歪ませるはずが綻ばせる結果となったヴィンセントは面白くなさそうに舌打ちする。
「クロエ、マカロン好きなのか?」
「うん、好き」
幸せそうにマカロンを味わう姿に絆されたのか、はたまた哀れになったのか、レヴェリーとエルフェは自分の分のマカロンをクロエに差し出した。ルイスもそれに続く。
コーヒーとストロベリーとミルクティー味のマカロンが返ってきて、クロエはきょとんとする。
(貰おうかな)
折角皆が恵んでくれたのだから、その気持ちを無碍にしてはいけない。クロエは三人に貰ったマカロンを紙袋に仕舞い、明日のデザートにしようと呑気なことを考えた。