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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
四章
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番外編 霜枯れた花のように ~side Louis~ 【4】

 ある日の晩、ルイスは眩しさに目が覚めた。

 眩しさの正体は月明かりだった。カーテンの隙間から入ってくる金色の光があまりに眩しくて寝返りを打つ。そこで心臓が大きく跳ねた。

 自分の傍に、他人の顔がある。白いシーツの上に女の髪が流れている。

 自ら寝台に引き込んだならまだしも、身に覚えもない相手が傍に侍っている状況は嫌な記憶を蘇らせる。

 アゼイリア夫人が己に行った振る舞いを思い出し、ルイスは喉を押さえた。

 休む時にも寛げられることない襟に秘した首筋には切り傷がある。他人にやられたものと、自分でやったもの。発作を起こすと首の傷は痛む。

 銃を手に取りたくなる衝動をどうにか堪えて、ルイスはゆっくりと確認した。

 見てみれば、シーツの上に流れているのは柔らかな蜂蜜色の髪だった。

 クロエがベッドに突っ伏して眠っていた。

 この女は何をしているのだと暫く考えて、そういえば看病してくれていたのだと思い出す。

 今日は朝から熱があり、レヴェリーが水を何度か替えにきてくれた。頭の下にある氷枕がまだ溶けていないことからしても、レヴェリーとクロエとで交代で看病をしてくれていたのかもしれない。


「……風邪引くよ……」


 クロエを起こして部屋に戻ることを促そうとしたが、彼女はぐっすりと眠っていた。

 あまりに安らいだ顔をして微睡んでいるものだから起こすに起こせないルイスは弱ってしまった。

 床に膝を着いていては服が汚れてしまうし、この姿勢は身体に負担を掛ける。クロエは例の件で痛めた身体がまだ元に戻っていないはずだ。

 こちらも本調子なら抱き上げて暖かい部屋に運んでやれるのだが、点滴生活の所為ですっかり体力が落ちてしまった。結局ブランケットを掛けてやるしかできなくてルイスは自分の無力さに気が滅入った。


(やっぱり変な人だ)


 クロエは親元を離れて眠る子犬のように警戒心がなくて危なっかしい。

 冷静に自分と相手の立ち位置を確認しながらルイスは寝返りを打った。まるで菓子を与えられた子供のように幸せそうな寝顔だったが、女性の寝顔を見ているのは悪趣味だ。

 ごろりと横向きになって視線を動かすと、先ほど眠りを妨げた月が目に入った。

 少しだけ欠けたそれが満ちゆく月なのか欠けゆく月なのかルイスは分からない。


『キミは空を見るのが好きなのか?』

『好きというか……嫌でも目に付くものだから、逃げないようにしようというか……』

『逃げる?』

『たまに怖くなるんです。空が私を笑っているみたいで……』


 ここで暮らし始める前、ルイスとクロエは公園で何度か話したことがある。

 変なことを言ってごめんなさいとクロエはすぐに話を変えたけれど、訳ありだとルイスは察した。

 空は綺麗だから好きだが、同時に恐ろしい。そんなことを言いながらクロエは空模様を語っていた。ルイスはその気持ちが分かる。月を見る度に自分が【偽物】だという思いに囚われてきたのだ。

 双子なんて皆が思うほど良いものではない。事ある毎に比べられ、兄には及ばないと思い知ってきた。

 レヴェリーは要領が良い。あれはわざと莫迦をやっているだけだ。きっと兄がそんな振る舞いをするようになったのは出来損なった弟の為だ。ルイスはレヴェリーの可能性を潰してきたという自覚がある。だから、自分は鏡写しの偽物なのだと強く思う。

 水面に映る偽物の月に陽の光が当たることはない。暗い闇の中で一人きりで生きていくのが定めだ。

 それなのに、そんな不完全な存在に尽くそうとする人物がいる。


(どうしてだろう……)


 自分のことと他人のこと。何度自問自答しても分からないことが幾つもある。


(いや、今日はもう寝よう)


 きっと自分は疲れているのだ。早く眠ってしまった方が良い。そういうことにして無理矢理思考を止めたルイスは眠るべく目を閉じた。

 身体が休息を必要としているのか微睡みはすぐにやってきた。

 どうせまた両親が殺された日か、人殺しをした日の夢だろうと諦めながらルイスは意識を手放す。

 けれど、毎日のように花の名前を聞かされているからか、その夜に見たのはとても懐かしい夢だった。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 クラインシュミット家に引き取られ、胸の手術をしたばかりの頃は体力が落ちていてリハビリに苦労した。

 自分の足で立つことができず、窓から空を眺めていることしかできなかった。そんなルイスにエレンは音楽を教えた。

 ルイスの為に寝室に設置したピアノをエレンが弾き、持ち込んだヴァイオリンをアデルバートが奏でた。

 手術の金を出してくれたことに感謝はしているが、懐柔されるかと気を張っていたルイスは二人を無視していた。

 だが暫くして、リハビリの一環だとヴァイオリンを与えられ、ピアノの前に座らせられた。そして合奏をしたいというエレンに付き合わされて、気付けば音楽が好きになっていた。

 施設にいた頃は寝室の窓から見える景色だけがルイスの世界だった。

 人の声や足音、鳥の囀り、風の吹き抜ける音。目で見えるものより音に重を置いて生活をしていたものだから、ルイスは観察眼以上に耳が鍛えられていた。

 楽譜がなくても一度聴いた曲は何でも弾けた。

 ヴァイオリンは独学だと限界があるので教師を付けて貰ったが、ピアノはどんな曲も弾けるようになった。


『人間は辛く悲しい思いをした人ほど深く磨かれる。私が言った通りだろう?』


 可能性を信じてくれたアデルバートは、一度聴いた曲を記憶する技を才能だと褒めてくれた。

 ルイスが外に出られない分レヴェリーが外の世界に出て、レヴェリーが得意としない芸術をルイスが学ぶ。

 補う為ではなく、互いを尊重する為に相手ができないことをする。それが双子の間で暗黙の約束になった。


「こんな感じで良いかしら」

「はい、大丈夫です。有難う御座います」


 長い曲を弾き終えたエレンにルイスは礼を言う。

 ルイスは読譜が苦手だった。得意なのは即興の作曲。新しい楽譜を読む時は誰かに一度演奏して貰わなければイメージが掴めない。記憶した曲をアレンジして弾くのがルイスの音楽だ。

 そんな風に譜面通りに弾かないからルイスは教師に良く注意される。自分を追求しようとすると、クラシックを壊す気かと怒鳴られる。そういう意味でもソロが主なピアノは独学で、ヴァイオリンはレッスンに通うという形は好ましかった。

 ヴァイオリンは合奏をしてこその楽器だ。譜面に忠実に弾くことが求められるので、下手に自由を与えられない方が良い。

 誰かと比べられることも、合わせることもないもの。それがルイスにとってのピアノだった。


「そういえば、この前の結婚記念日にくれた曲があるでしょう。曲名は【アメジストセージ】だったわね」

「それがどうかしました?」

「花言葉が【幸福な家族】なんですって。ルイ、知ってた?」


 にこにこと微笑むエレンからルイスは顔を逸らす。

 セージの花は健康と家族愛の象徴。

 ルイスは曲を作った時は花の名前を付けるようにしている。センスがないと莫迦にする者が大多数で、花言葉の意味を察した者には女々しいと笑われる。エレンも笑うのだろうなと考えて、ルイスは知らない振りをする。

 引き取られて一年が経って少しだけ義両親にも馴染み始めたが、それでもルイスは頑なだったのだ。


「父さんと母さんに素敵な贈り物をありがとう」


 エレンは笑わなかった。あたたかな手で頬に触れた。

 優しい青の双眸が細められ、口許に笑みが広がる。

 頭を撫でてくれる手があまりに優しくてあたたかくて、向けられる声と笑みに胸がくすぐったくなるような感じがして、ルイスは戸惑う。母親である彼女にどんな風に接すれば良いのか分からない。

 すっかり懐柔されてしまった気がして、自分で自分のことが分からなくなったルイスは眼差しを下げた。


「……あの……その手、どうしたんですか?」

「え……ああ、庭の手入れしていたら傷付いていたみたい。薔薇は棘があるから」

「だったらピアノなんか弾かない方が良いんじゃ……」

「これくらい大丈夫よ。心配してくれて有難うね」


 有難うとか、嬉しいとか、エレンは気持ちを良く言葉に表す。

 そういう素直なところをアデルバートは愛しているようだが、ルイスは危なっかしいとたまに思う。


「最近はどんなものを揃えたんですか?」

「最近はね、レヴィの髪の色のドリームチョコと目の色のラズベリースイート。ルイのトワイライトティーとブルーミルフィーユ。あとは私のティラミスとアムネシアと、父さんのブラッドオレンジとローズデュジャルダンとかね」


 他にはショコラ、チョコフィオーレ、マーブルチョコレート、バニラスカイ、キャラメルアンティーク、カフェマキアート、カステラなど、苗を取り寄せていると語った。

 エレンは前にもカーネーションを大量に買い占めたことがあるが、最近は薔薇の園芸に凝っているようだ。


「美味しそうな名前ですね」

「アンティークカラーのローズは色も名前も素敵よね。私も見ているだけでうっとりするわ」


 ルイスは名前を言われてもどんな薔薇か分からないのだが、美味しそうな名だと思った。

 菓子好きのレヴェリーが喜びそうで、甘味嫌いのアデルバートが苦笑しそうな名でもある。そんな薔薇がどのような姿形をしているのか気になった。


「あの、エレンさ……母さん」

「どうしたの?」

「今度手伝ってみたい」


 肩肘張った言葉を止め、園芸の手伝いをしたいという息子の前で母は青い瞳を瞬かせる。


「え……、ルイは泥遊び嫌いじゃないの?」

「したことないから、やってみたい」

「手とか喉とか痛くなってしまうかもしれないわ」

「そこまでひ弱じゃないよ」


 昔、手を痛めて音楽の道を諦めたのだというエレンは心配したが、ルイスは過保護だと突っ撥ねた。


「芋虫さんとかミミズさんが出てきても逃げたりしない? 庭掘り返すと沢山いるわよ?」

「虫嫌いは兄さんだけ。ただ……蜂と蛙がいるなら少しだけ困る……」

「蜂さんと蛙さん苦手なの?」


 エレンは「あら、意外」と朗らかに笑い、息子の頭を撫でながら言う。


「大丈夫よ。何があっても母さんが傍にいて守ってあげるから」

「……本当に?」

「本当によ。例え明日世界が滅ぶとしても、父さんと母さんはずっと二人の傍にいるわ」


 陳腐な言葉だった。だけど、傍にいてくれるという言葉にルイスはどれだけ救われただろうか。

 大きくなったら母親を守ってやりたい。父親に楽をさせてやりたい。二人に笑顔でいて欲しい。

 沢山の愛情をくれた両親に将来恩返しをすることが、音楽の教師になる以上の【夢】だった。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 やけに幸せな夢を見た。

 夢の内容は忘れてしまうものなのに何故か覚えていた。

 しかし、もう失ったものだ。夢は夢でしかなく、例え現実にあったことだとしてももう過去なのだ。

 どれだけ願ったって、どれだけ悼んだって、戻ってこない。幸せにしたいと思った者たちはもう何処にもいない。家族の為に生きたかったというルイスの【夢】は永遠に叶わない。

 荒んだ気持ちのまま寝返りを打とうとしてルイスは手を引っ張られる感覚にはっとする。


(まだいた)


 ベッドの隅に蜂蜜色。クロエが月溜まりの中で安らかに眠っている。

 ルイスはその幸せそうな寝顔に絆される前に冷たい気分になる。


(……何で?)


 ここにいるのは良いのだが、この手は何なのか。人の手を勝手に掴んで枕にするとは何事だ。頭の重さの所為で手首から先の感覚がない。


(本当に、何でだろう……)


 怒る気にもなれず、ルイスは宛てのない問いを繰り返す。

 人を傷付けたことがないだろう柔らかな手の感触は、自分のものとはあまりに違っていて胸が痛くなる。

 守られなければならない人の持つ柔らかさと温かさと危うさ。そんなものをクロエは持っている。


 いつかの日、青薔薇(ブルーヘブン)を選んだのはクロエに似ているから。


 頼りなくて自信なさげに少し俯いていて「守ってやらないと」という思いを人に抱かせるようなところ。それと一見味気ないほどに地味なのに、覗き込むと思わず引き込まれるような空色があるところ。

 青い花は闇に捕らわれず、そっと咲いていた。

 その花が理不尽に少しずつ毟られていく姿を見る内に苦しくなった。


『……醜いとか、汚いとか……気持ち悪いとか……思わないんです……?』


 セフィロトを目指す過程でルイスは再びクロエの傷に触れた。

 母親に捨てられ、父親と継母に蔑ろにされ、何処にも居場所がなかった。クロエはヴィンセントを継母の代わりのように思って接しているのだという。

 何故失望したと――幻滅だと言わないのかとクロエは問うてきた。


(キミが昔のオレと同じ、迷子だったから……)


 ただ昔、父親にそうして貰えて安堵した記憶があったから。相手のぬくもりに触れながら、信じて、受け入れて貰えたことに泣きたいくらい安堵したから。

 他人にされて嬉しかったことを他人にするだけ。それは自主性のない人形のようだ。

 氷雪が春花を愛でることができないように、人形には人間を慈しむ心などない。

 けれど、同じ【迷い子】だからこそ哀しいと感じるのか、ルイスはクロエに触れている。他人に関わるのはうんざりだと思いながら、こうして関わってしまっている。

 こんなものは傷の舐め合いだ。こんなことをしたって心の傷は癒えない。先に進むことはできやしない。

 一人は寂しくない。一人でいればもう傷付かない。誰も傷付けることがない。復讐に生きるのなら、他人との触れ合いによって得る安らぎなど求めてはいけない。惨めな思いをしたくないと言ったクロエなら、生きていくなら一人の方が気楽だと分かるはずだ。

 それなのにクロエはルイスの思いをちっとも理解しない。


(どうして莫迦ばかりするんだろう)


 こんな出来損ないに構ったって何の得にもならない。クロエは潔く自分の一番大切な――救いたいと思った男の傍にいれば良いのに、何をやっているのか。


(いや、莫迦は……潔くないのはオレか……)


 これ以上近付くのは得策ではないと頭では分かっていながら、彼女の存在を否定しきれないのはルイスの弱さだ。

 クロエがいることで慰められている。それを心の底では理解していて、そのことが酷く苛立たしかった。

 そんなほんの僅かな安らぎに縋りたくなるなど、あまりに哀れだ。

 自分はそこまで可哀想な存在だったのだろうかと自問して、答えられないルイスはただ呟く。


「本当に、どうかしてる」


『独りは寂しいから傍にいます』


 あれは最悪の殺し文句だ。

 もう突き放せないかもしれない。上手く演技ができないかもしれない。

 熱の所為で目の奥が痛い。視界が滲む。

 ルイスは掌を掴んでいるぬくもりに気付かない振りをして、固く目を閉じた。

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