番外編 霜枯れた花のように ~side Louis~ 【3】
肺炎なのだろうと途中で気付いていた。
胸の奥から真っ白に塗り潰されるような感覚は、幼き日に苦しめられた病そのものだった。
この状態で汚染された空気を吸い込めばただでは済まない。
ルイスがヴァレンタイン家を出たのは、家族と距離を置く意味もあったが、空気の良い場所で療養する意味もあったのだ。そんな身体で下層部上部より下へ降りるのは自殺行為だ。
けれど、ルイスは正しい無慈悲よりも間違った慈悲を選んだ。その結果、血を吐いた。
真っ白に塗り潰される意識の片隅で、少女の悲鳴を聞いた。
それから【上】の病院で一週間、管に繋がれて過ごした。飲まず食わずで意識が浮かんだり沈んだり。しんどいというよりも人間扱いをされていない感じがした。こうやって化け物を作るのかとも思った。二ヶ月の入院が必要だという身体を一週間で立て直すには、無理な治療を受けなければならなかった。
ルイスはただヴァレンタインの家族に負担を掛けたくなかった。それだけを考えていた。
そうして退院をした後、ルイスは予想外の人物が窶れていることに衝撃を受けることとなる。
「酷い顔色しているけど、何かあったのか?」
「いいえ、普段通りですよ」
一週間半振りに顔を合わせると、クロエの身体は一回りは小さくなっていた。
窓から射し込んでくる薄い陽光に輪郭がなぞられて余計にその細さが分かった。
ヴィンセントを救って心の憂いは何もなくなったはずなのに、どうして窶れているのだろう。もしや目覚めたあいつに何かされたのかと訊ねるとクロエは首を横に振った。
「そちらの具合は如何なんですか?」
「周りが大袈裟なだけで何ともないよ」
普段通りに答えながら見返すと、クロエの目に探るような色があることに気付いた。
(この人は優しい人だったな……)
クロエは他人のことを自分のことのように心を痛める優しい人間だ。
もしかすると、こちらが血を吐いた所為で妙な気を負わせてしまったのかもしれない。
痛々しいほどに細くなってしまった姿を見ていられず、ルイスはクロエの向こうにある窓から覗く空を見ているしかなかった。
どんよりとした曇り空。特に珍しいという訳でもない、いつもの空。
そういえば昔は晴れた青空が好きだったような気がする。
「あの……今更という感じですけど、あの時は有難う御座います。それと、私の我が儘の為に済みません……」
「別に恩を売ろうとか、善行をしようと思っていた訳じゃないから感謝しなくて良いよ」
「それでも有難う御座います」
そう言って頭を下げたクロエは罪悪感めいた陰を纏っていた。
これ以上クロエを傷付けてはならないとルイスは思った。
「感謝なんて聞きたくない」
「どうしてそういうこと…………」
「オレはキミたちが出て行った後、あいつを殺してやろうと銃を向けたんだ」
感謝を伝えるクロエに、ルイスはヴィンセントを殺そうとした事実を告白した。
「オレはキミに感謝されるような奴じゃないし、その資格もない」
卑劣さを明らかにして、もうこれから関わる気が起きないような酷い態度を取り、辛辣な言葉を並べれば、クロエは今度こそ去って行くだろう。
「でも、貴方は私を助けてくれたじゃないですか」
「あいつの為でもキミたちの為でもないと言ったはずだ」
「じゃあ、誰の為なんです……?」
「自分の為だよ。オレは誰かの為なんて、行動の責任や親切を押し付けるつもりはない。第一、他の誰かに優しくなれるほどオレは出来た人間じゃない。まともな人間じゃないんだ」
ひと月前のあの日――クロエの傷に初めて触れた日からルイスはずっと思ってきた。
自分と彼女は関わるべきではない。
恐らく、クロエはルイスの心を理解できる人間だ。理解できるからこそ「人を殺したことを許さない」と言ってくれたのだろうことも、分かっていた。
その理解はルイスにとって救いだった。
だが、救われる訳にはいかない。冷たい雪の奥の暗い土の下で無念の内に死んだ人たちが待っているのに、どうして自分だけが救われることができるのだろう。
敵を殺し、自害する。それ以外の生き方など許されない。人殺しの罪人が許されて良いはずがない。生きている限り、救われてはならないのだ。
「貴方が人間じゃなかったら何だって言うんですか」
「血の代わりに氷水でも流れている人形じゃないかな……」
このまま傍にいては自分の弱さも汚さも全て曝け出してしまう気がする。そうして汚れたものに触れればクロエは傷付くだろうし、ルイス自身も傷を見られて嫌な思いをする。
(頼むからもう莫迦は止めてくれ)
関わらないのが互いの為だ。
ルイスは身を起こし、自分より頭半分ほど背の低いクロエを見た。
「――――――――」
彼女の目は何事かを伝えたがっている。けれどそれが言葉として紡がれることはなく、雨が降った。
雫がシーツの上に染みを作る。後から後から落ちてくる。
クロエの空色の瞳は澄んだ雫をぽたぽたと降らせた。
(なんで?)
どうして泣いているのか分からなかった。
確かにきつい物言いはしたがそれは全て事実でクロエを傷付けるようなことは言っていない。ルイスが口にしたのは己の醜さと、そういう人非人に関わるべきではないということだ。クロエが泣くようなことはないはずだった。
「どうして泣くのか分からないな……。そういうのは今まで死に掛けていた男に向けるべきなんじゃないか」
「……だ、だってルイスくん、また私の所為で……」
「何度も言うけど、オレがやりたくてやったことだから気に病む必要はないよ」
無意識の内に手を伸ばす。そこでルイスははっとした。
泣かせた自分が慰める資格などない。何より、自分が触れれば彼女を汚してしまうかもしれない。
慰めることも涙も拭うこともできない手にあたたかい涙が落ちた。
その一滴は、頑なに凝り固まった心までも溶かしそうなほどあたたかかった。
「でも、空を曇らせるならやらなくても同じだったのかな……」
結局クロエを泣かせてしまうのなら、ルイスは動くべきではなかった。
どうすれば泣き止むのか自分がどうしたいのかが分からなくて、ルイスは途方に暮れるしかなかった。
クロエが落ち着くまでどれだけの時間を要しただろう。
女の涙を見ることなど珍しくもなかったが、理由もなく泣かれたのには流石に参った。
「空、晴れたね」
「そうですね。もう少しで春ですから、これから晴れる日も多くなっていきますよ」
ルイスが皮肉を籠めて言うと、クロエは背後にある空を見た。
先ほどまでの薄曇りが嘘のように空には優しい夕焼けが広がっていた。
蜂蜜を溶いたような色はクロエの髪に似ている。こちらが晴れたからあちらも晴れたのか。そんなことを考えた自分が腹立たしくて、ルイスは八つ当たりのように釘を刺した。
「春だろうと冬だろうと晴れて貰わなきゃ困る。オレは心臓を痛めて死にたくない」
「……う……っ」
クロエは息を呑んだ後、むすりと唇を押し曲げた。
真っ赤な目をゆらゆらと震わせたクロエは誰の所為で泣いたのだと言わんばかりだった。
遣り辛い、とルイスは感じた。
「落ち着いたならオレに構っていないで、あいつの様子を見てきたら?」
「私がいると迷惑ですか」
「迷惑というか、意味がない。キミはオレに対して期待するようなこともないだろうし、それなら別に相手にしなくても良いだろ」
ルイスはクロエがくることを迷惑と思ったことはなかった。
自分が彼女に迷惑を掛けていることに罪悪感を覚えてしまうだけで、本心では感謝をしている。だが、その好意に甘えてしまう訳にはいけない。
クロエの優しさと負担に見合う価値がルイスにはない。
だから構わないで欲しい。何もしないで立ち去って欲しい。もう一人にして欲しい。
「得になるからとかそういうので傍にいるんじゃありません」
「だったらどうしてオレに構うんだ? キミは変わっているよ」
「変わっていますか?」
「感染らないにしても年中咳き込んでいるような奴に、普通の人は気味悪がって近付かない」
病人ではないと虚勢を張ったところでルイスが虚弱体質であることは事実だ。
幼少よりは体調も安定して背丈も相応に伸びたが、線の細さは変わらず内側の弱さも治ってはいない。一目で病人だと分かるルイスに近付いてくる者は、同情をして満足感を得たいとか、ヴァレンタイン家の甘い蜜を吸おうとかいう下心が必ずあった。
「何かある度にこうやって臥せる出来損ないに同情でもしているとか……?」
「私は醜いんだって言いましたよね……。他人の為だけに動くことなんてできないんです」
「醜くても結局はお人好しで優しい人だと思う。だからオレに情けを掛けてくれているんじゃないか」
ルイスがそうしてきつい言葉で切り返していくと、クロエはぽつりと言った。
「私がここにいるのは……、だって、独りは寂しいから」
正直、クロエがまともな人間かどうか疑った。それほどにルイスには理解できない答えだった。
絶句させられたルイスは瞬きを繰り返すしかない。その前でクロエは切々と語る。
「独りでいると心細いし、悪いことも考えてしまうから……独りでいるのは良くないです」
「オレは独りが好きだし、寂しくもない。読書や作曲だってできるから寧ろ好ましいくらいだ」
「だったら、私はここで大人しく写生でもしています。春になれば庭も綺麗になるだろうし、描き甲斐がありそう。これなら貴方の邪魔にはなりませんよね」
動揺する心を立て直したルイスは必死で拒絶するが、クロエは引かない。
「二人で同じ空間にいて押し黙ってそれぞれ好きなことをやっていたら気まずいと思う」
「……気まずいと思うの……?」
「人の気も知らないでここに来ていたのだとしたら、キミは性格が悪い……」
「話してくれないんだから分かる訳ないじゃないですか。子供みたいなこと言わないで下さい」
「話さないのはキミもだろ。そういうことをキミだけには言われたくないな」
ルイスは、会話が途切れた時にクロエが見せる気まずそうな顔が苦手なのだ。
「兎に角、私は私の為にここにいます。邪魔なら空気とでも思って下さい」
「……クロエさんは本当に奇特だと思う」
空気と思えるものならそうしたい。それができないから困っているのだ。
どれだけ拒んでも梃子でも動かない様子にルイスは荒んだ気分のままクロエを見た。
(火取虫じゃあるまいし、訳が分からない)
蛾は自ら火に飛び込むというが、自分から蜘蛛の巣に掛かる虫はいるものか。
(それとも一緒に沈んでくれるとでも言うのか?)
ルイスが望んでクロエを引き摺り込むことはないが、もし何かの手違いでそうなってしまったらどうするのだろう。彼女は共に沈んでくれるとでもいうのだろうか。
クロエは軽率だ。相手がどんな人間かも知らないのに軽々しく傍にいるなどと言うのは愚かでしかない。
(……莫迦だろ)
彼女の献身さは哀れにすら思えて、胸がじくりと痛んだ。
その気持ちを見透かされてしまいそうでルイスはクロエに背を向けて横になった。
「もう眠るんですか?」
「寝ないと治らないから」
「じゃあ、眠るまで傍にいますね」
退院したばかりで起きているのが辛かった。何より肋骨を折っているクロエにこれ以上口を利いて欲しくなくて、ルイスは眠った振りをすることにした。
針が時を刻む音と、微かな風の音と、心臓の鼓動の音。そして自分以外の他人の気配がほんの少し。
気まずいはずの沈黙なのにクロエは動かなければ喋ることもしない。ルイスは目を閉じる。
蜂蜜の中に沈められたような濃密な静寂に身を委ねる。
溶け掛けの氷のように中途半端に痛んでいた心にも次第に平穏が戻る。
優しい静寂に癒されて、そのぬくもりがあまりに心地良くて、気付けば深い微睡みに落ちていた。