番外編 霜枯れた花のように ~side Louis~ 【2】
咳が止まらない。
息苦しくて胸や背には痛みがある。咳き込む度に胸が罅割れそうな感覚を味わう。
暑いのか寒いのか分からない。身体の節々が強張っていて、感覚がない。あまりにも長引く風邪を不審に思い診察を受けたところ、流行病だと診断された。
波状熱は厄介だ。有熱期と無熱期が不規則に繰り返し、その度に体力が削られる。良くなったかと思えばまたぶり返すので精神的にもきつい。
昨夜クロエが去った後も咳が止まらなくなって、それからずっとこんな状態だ。病も手伝ってルイスの精神状態はとても悪いところにあった。
手が届きそうな場所で見殺しにした。
望めば手が届いた人を見殺しにしたのはこれで三度目だ。
自分がもっと早くに家に帰っていれば、クラインシュミットの両親を助けられたかもしれない。自害など図らず助けを呼べば、アゼイリア夫人は命を取り留めたかもしれない。止まらない咳など無視して身体に鞭を打てば、クロエが二階から落とされることを阻止できたかもしれない。
人は容易く死ぬ。突然にいなくなる。健やかにあって欲しいと思う人ほど理不尽に奪われる。
他人に入れ込むといつか辛い思いをする。いつまでも一緒にいられる訳ではないのだ。
最初から何も持たなければ傷付かないし、傷付けない。愛さなければ、喪わない。興味を持たなければ、奪われない。復讐に生きるなら他人に流されるようではいけない。そう固く思うのに、心の隅には真逆の意識が存在する。
復讐をしたいのに他人を傷付けたくない。一人になりたいのに他人を本当の意味では突き放せない。
心の中には矛盾ばかりがあって、ルイスは自分がどう在るべきなのかが分からなくなる。
「熱下がんねーな……。大丈夫か? 水飲めるか?」
自室からヒーターを持ち込み、レヴェリーはルイスの看病をしている。
普段はクロエに任せてしまうレヴェリーだが、ルイスとは八年も共に育った兄弟だ。病弱な弟の扱い方は心得ているので根気良く熱冷ましをしていた。
十年が経ち、互いに変わった。それでも尚も染み付いている看病をする意識とされる意識にルイスは苦しめられる。
「……レヴィ……」
「ん……、どうした?」
「迷惑掛けて、ごめん……」
「ルイ?」
「……いつも……負担になって…………」
レヴェリーは幸せになれるチャンスを何度も逃した。こんな弟への義理を貫いて、何度も幸福へなる権利を捨てたのだ。
「オレの所為で捨てられて、ごめん……」
「な……何でそんなこと覚えてんだよ! あれは勢いで言っただけで本気の訳ねえだろ!!」
ルイスがレヴェリーを兄と呼ばないのは嫌っているからではない。「お前なんか弟じゃない」と言われたことが引っ掛かり、何よりも兄に対して罪悪感があったからだ。
いつも重荷になっているばかりの出来損ないの分際で、兄を無邪気に慕える訳がなかった。
「オレはお前を恨んだことねえよ……」
いつかと同じ泣きそうな顔を見ながら、ルイスはレヴェリーがお人好しだと思う。
この世界は優しい人に残酷だ。心の美しい善人に最も辛く当たる。彼等の純粋さと正直さと誠実さとが彼等の心を傷付け続ける。
(どうして、そんな莫迦なことをするんだ……?)
莫迦は止めて欲しい。無価値な存在の為に苦しみを背負う必要などないのだ。
考えるその内に意識はどろりと溶け、何処とも知れない闇の中へ引き摺り込まれていった。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
『おとーさんとおかーさんに捨てられたのはおまえがぽんこつなせいだ! もう絶交だからなッ!!』
出来損ないの弟の所為で自分は捨てられたのだとレヴェリーは言った。
その通りだとルイスは思った。病弱な子供が産まれたから親は面倒になって捨てたのだろう。そう、健康な兄はその巻き添えを食らったのだ。
子供の喧嘩の勢いで出た一言にどれだけの意味があるものか。だが、ルイスは真に受けた。
『微笑み、触れ合いを忘れた人がいます。これはとても大きな貧困です。この世の最大の不幸は貧しさでも病気でもありません。自分が誰からも必要とされないと感じることです。わたくしたちは隣人を――――』
自分が傍にいるとレヴェリーは気を遣って兄弟たちと遊べないので、ルイスは体調が良い時は礼拝堂に隠れていた。
施設の敷地内にある礼拝堂はレヴェリーが嫌う場所だったので、身を隠すのに具合が良かった。
親に捨てられた子供が集まる施設で神を信じる者などいない。ルイスも神の教えに興味がなく、賛美歌を捲って暇を潰しているだけだった。
少し前までは通ってくる者もいたが、一人、二人といなくなった。ルイスは一人になった。
一人が寂しいとは思わなかった。寧ろ清々していた。
けれど、最近良く近くへやってくる者がいる。
籍を入れた関係にある男と女だったので、彼等が里子を探していることはすぐに分かった。
どうせまたレヴェリーだけ欲しいと望むのだろうと高を括ってルイスは彼等を相手にしなかった。しかし、その夫妻はルイスにこそ興味を持って近付いてきた。
『初めまして。キミは良く聖堂にいるね。信仰深いことは良いことだ』
『神さまなんか信じてないよ』
『へえ、そうなんだ』
『あなたは信じてるの? もしそうだったら何で?』
『神様はこの世界の誰よりも残酷だから、かな』
初対面からして危ない人だと、子供心ながらに感じた。
関わりたくなかった。
だけど、彼等は近付いてきた。
礼拝堂に隠れている時は夫が、部屋で休んでいる時は妻がやってきてルイスと話をした。
「いい加減、諦めてください」
「諦めないよ。私はキミのことを愛しているんだ。キミが肯いてくれるまでしつこく付き纏うだろう」
「脅迫ですか、それ……」
ルイスの嘆きに青年はくすりと笑みを返した。
この厄介そうな陰ある青年の名はアデルバート。彼はクラインシュミット侯爵家の若き当主だ。
静かな森の奥にある泉のような涼しげな双眸はくっきりとした二重で、背筋はしなやかな柳のように真っ直ぐ伸びている。美貌というだけでなく、物静かな存在感が美しい者だ。そんな穏やかな雰囲気を持ちながらも何処か儚い色を帯びて見えるのは、その眼差しの所為だろうか。
アデルバートは何かを喪ったことのある者が見せる寂寥感のある眼差しをしていた。
「あの、アデルさん」
「ああ、何かな」
「貰うなら兄さんにしてください」
「どうして?」
「同じものなら少しでも良い方を選ぶのが普通だから……です」
双子なら少しでも優れている方を選んだ方が良い。人見知りで愛想がなく病弱な弟よりも、社交的で明るく健康な兄を選んだ方が良い。
そういう扱いを受けて傷付いていたはずなのに、思わず口に出るほどにルイスは正しいと思っていた。
「僕は何も持ってないから、貰われたって嬉しいと思いません。嬉しいと思えないから、あなたにありがとうって言えないと思います。……だから、同情とかして満足したいなら兄さんや他の人を貰ってください」
伝えたいことを言葉にするのはとても難しかった。
他人に面倒に思われたくなくて、感情はなるべく表に出さないようにしていた。本当は他人の評価に一喜一憂しているのに気にしない振りをしていた。
抑え込んでばかりだったから笑い方も泣き方も分からない。目上に使うべき丁寧な話し方も分からない。ルイスは何も知らなければ、何も持ってもいない空っぽな人間なのだ。
「キミは自分が何も持っていないから無価値だと思っているのかな。それとも可哀想な子供だって哀れまれたから、そんな自分には価値はないと思っているのかな」
「どっちもです」
親に捨てられたこと、そして身体が弱いことを皆は哀れむばかり。そうした哀れみはルイスの存在と現在を否定し、価値のないものと決め付けるものだった。
不幸だと決め付けられ、暗に出来損ないの烙印を押されて、そんな中で希望を持つことが無理な話だ。
「だったらキミは勘違いをしているよ」
「……勘違い?」
「ある聖女がこう言ってるんだ。【持ち物が少なければ少ない程、多くを与えることができる。矛盾としか見えないが、これが愛の論理だ】。そして【富の中から分かち合うのではなく、ないものを分かち合うのだ】とね」
貧しいことは美しいことだとアデルバートは言い、続けた。
「キミは辛い思いをしている分だけ他人の痛みを感じられるし、それだけ他人に優しくなれるよ」
「…………っ」
目を伏せて他人と視線を合わせないようにしていたのに、アデルバートは膝を折ってルイスの瞳を覗き込んだ。
「キミの苦しみも命も決して意味のないものじゃない。キミはキミであれば良い」
アデルバートはそう言うとルイスの金にも映える髪を撫でた。
哀れまれるばかりの命と人生を価値があるものと信じてくれた人。同情ではなく、期待をしてくれた人。
そんな人に初めて出会ったルイスは混乱して、思わずアデルバートを突き飛ばす。
「そ……そんなので、がいじゅうされないから!」
「がいじゅう……? ああ、ええと、懐柔のことかな」
「か、かいじゅうです!」
叫んだ途端、喉の奥で血の味がして咳き込むことになった。
大きな掌が宥めるように背を叩くので次第に健やかな呼吸を取り戻す。
優しくされたって絆されない。ルイスがそういった意思をこめて睨み付けるとアデルバートは微笑んだ。
「何でも良い。私はただキミと、キミのお兄さんを愛しく思うだけだよ」
双子がクラインシュミット夫妻の養子になったのは、それからひと月後のことだ。
レヴェリーが幸せになる為には養子になるのが一番だった。迷惑を掛け続けたレヴェリーに幸せになって貰いたくて、ルイスは内心嫌々引き取られた。
絶対に絆されないと決めていた……はずだった。
偽善者には絶対に懐柔されないと気を張りながら、けれど一年が経つ頃にはすっかり毒されていた。
『人は手に届くものを慈しめなければ他人を愛せないわ』
『そうだね。尊きものを愛せなければ、人を守ることはできない』
小鳥や犬猫といった小動物、野に咲く草花を愛でていたクラインシュミット夫妻は双子を慈しんだ。
どちらを贔屓する訳でもなく、平等に愛情を注いでくれた。
永遠に続くことを願わずにはいられない美しい世界。それが壊された時、ルイスはまた価値を失った。
「必ず敵を討ちますから……」
八度目の命日に誓った。流せぬ涙の代わりに敵の血を墓前に捧げるのだと決めた。
自分を唯一認めてくれたアデルバートとエレンの敵を討つ。そのことだけが望まれなかったルイスという人間に意味を与え、存在に値する価値となる。
両親が望んだ【優しい人間】になれない己を恥じながら、人を傷付ける為の凶器を手に取った。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
首を自ら絞めるとは正気の沙汰とは思えない。
自分を傷付けた相手を救うというクロエの心理がルイスは理解できなかった。
波状熱の無熱期で一昨日より気分が良い。束の間のことだとは分かっていた。暫くすればまた熱が上がり、動けなくなるだろう。
ヴィンセントを殺すなら今しかない。
誰からも邪魔をされず、本人から抵抗もされず、自分の体調も安定している今しかない。
回転式拳銃を掴み、隣の部屋に踏み入ったルイスは撃鉄を起こした。
「人の命は軽いんだろ……?」
だったらその軽い命を奪ってやる。この男が他人にそうするように理不尽に刈り取ってやろう。
引き金を引けば全てが終わる。外法といえど心臓と脳を潰せば殺すことができる。
だが、その後は――?
ヴィンセントを殺して何かが変わるだろうか。ルイスは銃を持つ左手を震わせる。
存在を消したところで傷付けられた者の傷が癒えることはない。寧ろ償いをさせる時間を奪うことになる。それを勝手に奪うことが部外者に許されるのか。
考えるまでもなく許されない。それはあまりにも身勝手で、卑怯な遣り方だ。
ヴィンセントが死ねばレヴェリーとクロエはきっと悲しむ。皆が見捨てた悪魔の為に涙を流すだろう。ルイスはそんなものを見るのは嫌だ。誰かが傷付き、悲しむのは見たくない。
(だったらどうすれば良い?)
愛されることより、愛することを。理解されることより、理解することを。不親切で冷淡でありながら正しいことを行うより、親切と慈しみの内に間違うことを選びたい。
人々を守る裏で人々を傷付ける立場にあった両親は、そういう人間でありたいのだと語っていた。
自分もそういう人間になりたいとルイスもあの頃は思っていた。だが、他人を慈しむ心など失ってしまった。心を殺して人形になった。この手は人を殺している。血で汚れた手では人を慈しむことも守ることもできない。
ならば見捨てるのか。捨て置くのか。
いや、そんなことができるはずがない。人間らしい心がないことと彼等を見捨てることはまた話が違う。
ルイスのヴィンセントへ対する感情は私怨だ。この場で必ずしも正しいものではない。
(……あんたは、敵じゃない)
憎しみを抑える努力をする。
殺したいほど憎い相手を許すまではいかなくとも許容し、私情を捨て去った位置から見る。
この男は復讐相手ではないのだから憎しみを向けてはならない。憎しみを向けるのは両親の敵だけだ。その女を見付けるまでは一先ずこの男への復讐心は抑える。そうして気持ちの整理をつけるのは思ったよりも簡単だった。
ヴィンセントに拘り、あれこれ考えて疲弊するのも馬鹿馬鹿しく思えてルイスは銃を下ろす。
「下らない……」
今は自分ができることをするまでだ。
傍観して後悔するよりも行動して後悔したい。今だけは冷淡な正ではなく、慈悲の過ちを犯したい。