番外編 霜枯れた花のように ~side Louis~ 【1】
差し出された毒林檎 【3】前の話になります。
雲が珍しく去った陽の射す日であっても寒さは厳しい。
一年の半分が冬で、その中で最も冷え込む二月の空気は容赦なく体温を奪う。
首筋や肩から冷えていくのを感じながらも、ルイスは寝返りを打つこともなく寝台に横になっていた。
風邪を引いてしまい、数日前から続いていた頭痛が悪化して動く気力も起きなかった。
ルイスは月初めに怪我をしてからいまいち体調が元に戻らない。きっと眠りが浅いから体力も戻らないのだろう。耐えられるといってもやはり傷の痛みはあって、夜は眠れたものではなかった。
眠らず、食事もろくに取らず。そうして不摂生をしていたから病を貰ってしまった。
そう、この現状は自業自得だ。
怪我をしたのは引き金を引くのを躊躇った己の甘さだし、風邪を引いたのは自己管理不足。それを理解しているルイスは傷の痛みも病の辛さも黙って受け入れていた。
けれど、そのことによって他人に迷惑を掛けるのだけは耐えられなかった。
そんな抑鬱状態の中でぼうっとしていると、コツ、コツ……と規則的な音が聞こえてきた。
段々と近付いてくる響く足音に浅い微睡みから現実へ引き戻される。視線を上げると、蜂蜜色の髪がまず目に入った。
「あ……起こしてしまいましたか? 済みません」
「……別に、眠ってなかったよ」
昼食前と午後の茶と夕食後の時間、クロエは様子を看にやってくる。
「昼食と夕食、何か食べたいものありませんか?」
「ないから放っておいて下さい」
「て、丁寧に言ったって投げ遣りなのは変わりませんよ」
「じゃあ、感染るから一人にしてくれ」
「私は風邪なんか引きません」
この会話は何度目だろう。最早挨拶のようになっている遣り取りにルイスはうんざりする。
クロエの風邪を引かないというのは根拠のない自信だ。力を込めて抱き竦めればすぐに折れてしまいそうな女に言われてもまるで説得力がない。
人間は簡単に死ぬ。首や胸を切り裂かれなくたって人間は容易く死ぬのだ。
「もし感染ったら皆に迷惑が掛かる。何より居候の立場でそんなことになったら、今度こそキミは売られるんじゃないか?」
見る見るうちにクロエの顔が白くなっていく。ルイスは苦いものが胸に広がるのを感じたが、その感情を無表情の仮面の裏に全て押し込めた。
あともう一押しだ。
「見世物小屋の中から社会勉強をしてきたいなら止めないけど、そんなことしたくないだろ」
「どうしてそういうこと言うんです……?」
「莫迦は止めなよ」
「…………っ」
(ごめん……)
肩を震わせたクロエにルイスは心の中で謝罪する。
我ながら酷い遣り方だと思っているが、こうするのが一番良い。クロエの利他的な振る舞いは少々行き過ぎだ。
お人好しで、真面目で、臆病で、その癖強がり。初めの頃、ルイスはクロエのことを花畑の住人かと思った。温室で純粋培養された頭がお目出度い人間だと思っていた。そういう人間だから空模様を嬉しそうに語ったり、偽善者のようなことを言うのだと考えていた。
だが、実際は悲惨な人生を歩んできている。
彼女の腕にあった傷は煙草を何度も押し付けられものだ。
同情はしなかった。ただ心配に思った。
クロエは自分の身を削ってまでも他人に尽くすところがある。本人が言った通りクロエは誰が相手だろうと手当てや看病もするだろう。ルイスは莫迦としか思えない。
悲しいまでの愚直さを見ていられない。何よりその慈悲を向けられるのが辛かった。
ルイスは人に尽くされるのは苦手でしかない。相手の苦しみに見合う価値が自分にあると思えない。
優しくして貰ったって、何も返せない。ルイスは何も持っていないのだ。
与えるどころか、奪うことしかできない。
だから変に関わって迷惑を掛け、傷付け、不幸にするくらいなら嫌われた方が良い。
クロエもこんな出来損ないに構わず、他の男たちといた方がまだ得になる。彼等に上手く気に入られれば虜囚生活から解放されるかもしれない。
クロエは莫迦にならず、賢い振る舞いをするべきだ。
薄雲の合間に月が浮かんでいる。
金色とも銀色ともつかない欠けた月は何故かだぶって見えて、どちらが本物か分からない。
曖昧な輪郭のそれは水面に映った偽物の月のようだ。
本物の月が兄で、鏡映しの偽物は弟。レヴェリーに罪の意識めいた感情を抱いているルイスは思う。
頭が重く、胸が苦しい。冷たい空気を吸い込む。途端に胸に焼けるような痛みが走り、咽せることになる。
「――――――――」
痰が絡む、嫌な咳。
全身の倦怠感、胸痛、発熱、喀痰――肺炎を起こしたらまた周囲に迷惑が掛かる。こんな無価値な人間の為にまた皆が苦労する。
咳が止まらない。息ができない。苦しい。胸が痛い。
そんな時、躊躇いがちに、けれど優しく触れる掌があった。
「レヴィくん、保冷剤をお湯で少し解いてから持ってきてくれる? あとスポーツドリンクを薄めたものがあると良いんだけど……」
「スポーツドリンクなんてうちになくね?」
「保冷剤の用意できたらルイスくんのこと看ていてくれるかな。私、買ってくるから」
「いや、オレ行くわ。取り敢えず冷やすもんだな」
遠ざかる気配と、傍に留まる気配。
氷水ですっかり冷たくなった指先の感触を額に感じながら、ルイスは瞼を下ろす。
こんな懐柔策に乗らない。こんな優しさに絆されたりはしない。けれど、振り払うこともできない。
一人になりたいと思うにいざとなると突き放せない。潔く生きたいと思っているのに、いつも中途半端だ。
暗い嘆きは月闇に溶けた。
幾日か経ってやっと高熱は引いた。
だが体温が低いルイスからすると、三十七度というのは熱の内に入る。結局普段の生活に戻ることもできず、部屋で大人しく過ごす日々が続いていた。
「キミもしつこいな」
「しつこい、ですか?」
「ああ。それに病人を甚振るのが好きなようだし……」
「そ、そんな変な趣味は持っていません」
「さあ、どうだろう」
身体が弱いばかりで、何に恵まれている訳でもない不の塊。そんなものに興味を持つなど、同情をして身勝手な満足を得るのが趣味としか思えなかった。
酷いこと、怖いことを言っていれば次第に離れていくだろうと、ルイスはわざと酷い話題を選んでいた。
そんな中、花の話に乗ってしまったのは失策だった。
あまりにも必死に話題を探そうとしているので、何だか可哀想に思えて少しだけ話に乗ってみたのだが、何故だかクロエはその日から嬉しそうな顔をするようになった。
飼い始めたばかりで警戒していた子犬が、餌付けをしている内に懐いてゆく感覚と似たものを味わった。朗らかに笑う度に揺れる蜂蜜色の髪と空色のリボンが、ご機嫌な犬の尻尾のようにも見える。
植物の話をするのがそんなに楽しいのかと思わず疑問を感じるほど嬉しそうに語るので、毒気を抜かれたルイスは可能な限りで相槌を打っていた。
「それでこのスイートブライアーは花自体は匂わないんですけど、葉が林檎の香りがするんです」
「ああ」
「庭園を作る時は隅に植えると素敵かもしれません。あと、芳香が良いものといえばエリテージ。レモンの強い香りがして栽培条件もないから初心者でも育てられます」
「そうなんだ」
「貴方もエリテージの香りは気に入るかもしれません。……あ、そういえばオレンジとかグレープフルーツって好きですか? お店で美味しそうなのがあったんです」
「オレのことよりキミの話を聞かせて」
ルイスは花に興味はない。食にも拘りがない。そんなつまらない話をするくらいならクロエの話を聞いていたかった。
【オールドローズとガーデンデザイン】、【名人が選ぶローズ百花】、【百科サボテン】、【ベランダ菜園】などなど。クロエはガーデン系の雑誌を持ち込んできている。自由に出掛けられないので、雑誌を参考にして絵を書いているらしい。
何処か控えめな、平々凡々さを持ったクロエの物腰の裏にはうっすらと陰が見える。
何かの切欠で沈んでしまいそうな彼女が少なくとも植物の話をしている時は楽しそうだ。
ルイスは与えることはできないが、話を聞くだけならできる。そうして一時の慰みになるのなら、この無価値な存在も何か意味があるものになるのだろうか。
「キミはどうして植物を育てようと思ったんだ?」
「草花を育てられない人間は、他人に優しくなんてなれません」
驚くような理由をクロエはきっぱりと語って見せた。
花は可愛いから好きだからとか、花は豊かさの証だからとか、その手の型に嵌った回答があると思っていたルイスは面食らう。
「……歪んでる……というか、変わっているね」
「ゆが…………」
クロエの膝上にあった雑誌がばらばらと落下する。それほどショックを受けたらしい。
目が大きく見開かれ、瞳がゆらゆらと揺れていた。
「絵を見せてくれないか?」
「だ、駄目です。見せられるほど上手くないんです」
落ちた雑誌を拾い、何とはなしに捲っていく。
どんなものを描くのか興味を持ったルイスは頼んでみると、クロエは断固拒否した。
「上手でも下手でも、オレは芸術的感性がないから大丈夫だよ」
「あの、さっきから酷い物言いしてるって気付いてます?」
「何が?」
「気付いてないならもう良いです……」
小首を傾げたクロエは微笑んでいたが、その声は北風のように冷たかった。
「大体、私ばかり話をしたり何か出すのは不公平ですよ」
「そう言われたってオレには出すものがない」
「じゃあ、風邪が治ったらヴァイオリンを聴かせて下さい。そうしたら私も絵を見せます」
「交換条件か。性格悪いんじゃないか」
「さっきから一言多いです」
「ああそう」
ヴァイオリンもピアノも臥せりがちな最近は練習できていないので酷いことになっているだろう。
そんなものを他人に聴かせられるはずがないし、何よりルイスのそれは魂の籠らない音楽だ。空っぽの人形が人間の心を真似て演奏したに過ぎない空虚なものなのだ。
「もう戻ったら? あんまり長くいると本当に感染るよ」
「そんな心配しなくても大丈夫です」
「というか、もう昼だし準備しないと怒る人がいるんじゃないか」
クロエの首には薄皮を剥かれた痕があった。
どうせ誤魔化されるだろうからルイスは訊ねないが、刃物による傷だと分かっていた。
「そうですね……。お昼を作らないといけませんし、失礼します。四時になったらお茶持ってきますね」
雑誌を胸に抱え、軽く頭を下げるとクロエは部屋から出ていった。
一人になったことで気が抜けたからか、また胸痛がぶり返すのを感じてルイスは横になった。
ただの風邪というには酷い、息詰まるような倦怠感。もしかすると別の病かもしれない。体力を取り戻さないことにはどうにもならない。
四時まで時間があるので一眠りしようかと目覚まし時計に手を伸ばし、そこではっと動きを止める。
わざわざその時間に起きる必要が何処にあるのだろう。こちらが寝ていればクロエは黙って去るだろう。そうすれば余計な会話をしなくて良い。
どうにも最近は毒され過ぎだ。
相手のペースに乗せられて、自分のペースを乱されるのは不愉快で仕方がない。
(……眠ろう)
既に過去とはいえ、過ぎても尚も自分の人格を縛っている虐待の記憶。他人から理不尽な暴力を受けたという共通点があるからか、ルイスはクロエと深層意識は似ているように感じる。
だから余計に嫌だ。
必死で人間らしく演技をして取り繕っているのにそれを見破られそうで怖い。
自分も他人も嫌いで、そんな嫌いな自分に関わろうとする他人を傷付けそうになる恐ろしい衝動を誰にも知られたくない。