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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
四章
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番外編 世界で一番美しいのは ~side Vincent~ 【4】

 雨に打たれた日の翌日、ヴィンセントは酷い寒気に襲われた。

 七月といえば真夏で、今年の最高気温が出たと世間が騒いでいるというのに寒かった。

 外法も元を辿れば過酷な環境下で生きられるように調整された人間だ。病に罹り難いといってもそれは絶対ではない。悪条件が重なれば病に臥せることもあるのだ。

 人間の世界で暮らし始めて最初の病気が風邪とは、あまりにも普通で面白くない。

 病も手伝って憂鬱な気分のヴィンセントは隣人にちょっかいを掛けた。


「あんな時間に呼び出した挙げ句、水枕を用意しろだの辛いものが食べたいだの、俺は貴様の使用人か? 貴様が自分の視点の考えしか持たないのは知っているが、俺には俺の生活がある。大したこともないのに呼び出すな。巫山戯るのは存在だけにしろ」

「近所付き合いは大切だよ?」

「貴様にだけは言われたくない」


 アカデミーの講義の後は夜間の料理教室に通っているエルフェだが、今日は隣人に邪魔をされた。

 エルフェは見事に機嫌を悪くしていて眉間には深い皺が刻まれている。


「君は心が狭いよ。背ばかり無駄に大きくて中身が小さいなんて男としてどうなのかな。君みたいな器が小さい男を見ていると年長者として嘆かわしくなるな、レイフェルくん」

「……頭が痛い……」

「まだ移るには早過ぎるよ」

「誰の所為だ」


 成人したばかりのエルフェにとって、ヴィンセントはかなりの年長者に当たる。

 自分の祖父と同じくらいの年齢の男がこのように大人げないのだから頭も痛くなって当然だ。ヴィンセント然り、ディアナ然り、そして自分の姉兄然り。まともな人間が傍にいないことでエルフェはいつも苦労していた。


「男に世話されて楽しいか?」

「楽しくないけど、他に呼び付けるような奴がいないんだよ」


 呼ぶなら他に相手がいるだろうと言いたげなエルフェにヴィンセントはぼやいた。

 それが悲しいことだとも情けないことだとも思わないが、ヴィンセントにはこういう時に頼る相手がいない。

 【アルカナ】の同僚には諸々のことから疎まれているし、学友も校外で関わるほど親しくはない。これまで味方や友人がいなくて困ったことはなかった。今回エルフェを呼び付けたのも病で心細くなったからではなく、暇潰しの意味でだった。


「水枕なんかで熱って下がるのかな……」

「さあな。あんたは常識外れだから分からん」

「ほら、あれとかないの? 額に貼って熱冷ますようなやつ。一回使ってみたかったんだよ」

「俺に買ってこいと言うのか?」

「ここに君以外に誰がいるんだよ」


 エルフェの眉間にある皺が一層深くなった。

 良く言えば大人っぽい、悪く言えば老けている。そんな容姿をしているエルフェが凄むと、顔が整っているだけにやたら迫力がある。


「……もう良いよ。大人しく寝るから帰って。仕事は君とディアナに任せるよ」

「そうか」

「あと朝ご飯とか作りにこなくて良いから」

「安心しろ。貴様に振る舞う飯など端から作る気はない」


 お大事に、と一言残してエルフェは帰った。

 冷たいとも取れるが、あれはエルフェなりの気遣いだ。熱するのが早く、冷めるのも早いヴィンセントは必要以上の干渉を望まない。

 適度な距離を保った友人関係。それが気安いと互いが感じているから今まで続いている。


「さて、寝ようかな」


 頭が重いのに起きていても意味はないだろう。

 ヴィンセントはソファの肘掛け部分に足を預けるとそのまま横になり、瞼を下ろした。






『にーさま!』


 それは無邪気に縋り付いてくる弟の声。

 美しい弟だった。

 プラチナブロンドの天使のように美しい少年だった。

 弟は昼の空のような青と、夜の空のような紫のオッドアイで真っ直ぐ見つめてきた。


『ボクに剣術を教えて、にいさま!』

『良いよ』

『やったあ!』


 金髪碧眼の癖に化け物と忌まれるような紫眼を持つ歪な天使は、無邪気だった。

 その美しさと引き換えに、身体が弱く生まれてきた異父弟。皆から愛されて育った穢れを知らない様が愛しくあり、また憎らしくもあった。


『ねえ、にいさま』

『何だい、クラウン』

『にいさまの目は、どうして父さまとも母さまとも違うの?』

『……これはね、隔世遺伝ってやつなんだよ』

『かくせいいでん?』

『クラウンは祖父さんと同じで喘息があるだろう? 親を飛び越えて似た箇所が出ることをそう言うんだよ』


 本当はその祖父が父親だった。弟に教えてやるつもりはなかった。

 この弟がいなければ、自分はここまで惨めな思いをしなくて済んだのではないだろうか。叶うことならこの弟にこの屈辱に見合うだけの絶望を与えてやりたい。

 もしこの世界を出ることがあったら弟も一緒に連れて行って、見せ物小屋に売ってやろうか。人間は物好きだと聞く。朝と夜の瞳を持つ美しい弟を高く買ってくれるかもしれない。


『お前がいなければ、俺は――』


 惨めな気持ちにさせる弟も、醜く産んだ母も、優柔不断な兄も、横暴な父も、皆消えてしまえば良い。家族なんてものは皆なくなってしまえば良い。彼等は優しい振りをしているだけだ。誰もこの自分のことを愛してはいない。

 だが、嘆く必要はない。人は所詮一人だ。


『家族なんて下らない』


 父と兄を消し、残された母と弟は精々苦しめば良い。

 これは復讐だ。






 目覚めた時はそれは最悪の気分だった。

 カーテンを閉めずに眠ったので射し込んでくる朝日が不快だし、何より身体の上にクッションや毛布が大量に積まれていて息苦しかった。


「……何だよこれ……」


 夏なのにこんなに毛布を掛けていたら蒸し焼きになる。何の嫌がらせだろう。

 エルフェがこんな幼稚な悪戯をするとは考え難い。ならば、彼の家族だろうか。

 レイヴンズクロフト家の面々はヴィンセントとエルフェが関わることを良く思っていないので、事ある毎に制裁を加えてくる。何度か始末され掛けているヴィンセントはレイヴンズクロフト家の人間を疑った。だが、彼等ならこのような生易しい嫌がらせで済ませる訳もなかった。


「まったく、風邪なのにこんな薄着で布団も掛けずに寝てるなんて信っじられない!」


 ヴィンセントが退けようとした毛布を再び掛け直したのは蜜柑色の髪の女だ。

 流行りからは程遠いライムグリーンのサマードレス。大きく開かれた襟刳りから惜しげもなく晒された肌の白さは、日溜まりの中で一層に際立った。


「……ダイアナ?」

「そう、ディアナさんだよ。頭は可笑しくなっていないようだね」

「何でここにいるんだよ……」


 何故ここにディアナがいるのだろう。彼女は絶交だと言ったはずだ。


「君は今回のことで悪いことをしたら罰が当たるって学習したでしょ? 意地悪ばっかり言ってると、困っても誰も助けてくれないって理解した。破滅的莫迦だとしても君は狡賢い自己中だからね。今後は自分の為にも少しは気を付けるようになるだろうし、だったらわたしがそれ以上怒る必要はないよ」


 ディアナは洗面器で濯いだタオルを額に乗せた。

 氷水で冷やされたタオルは心地良く、ヴィンセントは頭痛を和らげてくれるその冷たさに促されるように目を閉じる。


「風邪薬持ってきたよ。今、何か食べるもの作るから待ってて」


 ディアナは暫くして鍋を持って戻ってきた。

 器によそってから持ってくるという発想のなさが何とも大雑把というか、がさつで、ヴィンセントはやはり目の前にいるのはディアナだと確信する。

 ディアナは鍋の中のものを掻き混ぜて冷ますと、それを掬ったスプーンを差し出した。


「はい、あーん」

「……………………」

「折角、美女がやってあげてるんだから黙って従いなさい」


 普段なら殴っているところだが、面倒だったのでヴィンセントは黙って従った。

 口に差し込まれた瞬間、広がる甘い香りに目眩がした。


「何これ?」

「ココアミルク粥だよ。甘くて美味しいでしょ?」

「お前、絶対結婚できないよ」

「分かったから、もっと食べて」


 ココアミルク粥というのはどうなのだろう。味覚破壊を招くよりも何よりも食という文化を冒涜している。質の悪いレストランでもここまで酷いものは出さないだろうという凄まじい料理だった。


「林檎も食べるよね? すり下ろしたのとうさぎさんにしたのどっちが良い?」

「じゃあ、うさぎ」

「うさぎかあ……」


 武器以外の刃物に馴染みが薄そうな女が、うさきの形という高度なテクニックを必要とすることができるのかとヴィンセントは疑ったが、案の定ディアナはできなかった。

 自分のことを棚に上げてヴィンセントは呆れた。

 だが指を怪我しながら林檎を剥く姿を見ていたら、こんなベタなことをする女がいるのかと呆れる気持ちの他に、【普通の女】を見ているような錯覚に陥ってしまった。


(人殺しの癖に……)


 ディアナは普通の人間ではない。

 外法狩りの魔女【赤頭巾】(シャプロン・ルージュ)。または敵を血の海に引き摺り込む化物【人魚】(プティット・シレーヌ)

 物騒な異名を引き下げた彼女は、ただの外法狩りの騎士ではない。【名無し】(アノニマス)などと呼ばれ、良いように使われているヴィンセントとは違うプロの殺し屋なのだ。

 外法の血を取り込むことで肉体の成長を止めた騎士で、金を積まれればどんな人間でも消す殺し屋。この世の闇という闇に身を浸した彼女はとても甘い香りがする。

 ディアナは花や香水で匂いを消さねばならないほどに濃い血の香りを纏っている。

 そんな殺人鬼が仕事道具である大切な手を傷付けながら必死で林檎の皮を剥いているのだ。明らかに可笑しかった。

 全て剥き終わるまで待っていると変色しそうだったので、ヴィンセントは林檎を咀嚼してゆく。

 ヴィンセントはうさぎの形など楽しんでいなかった。ただ無感動に飲み込んでいた。それでもディアナは必死にうさぎの形の林檎を作っているので、その献身さには胸がちくりとした。


「ディアナ、もう良いよ」

「良くないよ」

「林檎が血みどろになるから止めろ」

「洗えば良いもん」

「そういう問題じゃないだろう。食う俺の身にもなれよ」

「そういう問題だもん。わたしは女の癖にとか、女だからとか莫迦にされたくない。わたしの為だもん」


 それは要領を得ない、童女のような訴え。ディアナがむきになっているのは先日のことがあるからのようだった。

 発揮する場所を間違えているとしか思えない強情さで林檎を剥き終え、ディアナは晴れやかに笑った。


(何なんだよ……)


 ディアナは間違いなく可笑しい。恐らく、この自分とは違う意味で頭の螺子が緩んでいるに違いない。

 思考を止めたヴィンセントは薬を飲んで再び横になる。すると自分で手繰り寄せる前に、首まですっぽりと毛布を掛けられる。そして濡らしたタオルを額に乗せられる。反抗してやりたい気分になって顔を横向にしてタオルを落とすと、ディアナはしつこく乗せてくるようなことはしなかった。

 どんな顔をしているのだろうと見上げると、青い双眸と視線がぶつかった。


「ねえ、ヴィンスくん。君は必要ないとかうざったいって言うかもしれないけど、わたしが守ってあげる」


 何も怖くないよ。

 子守歌のような心地良い音程の声がそっと落ちてくる。


「世界中を敵に回すことになってもわたしはあなたといるよ。独りは寂しいから、ね」

「馬鹿馬鹿しい。そんなの傷の舐め合いだろう」

「うん、でも、傷は舐め合うものじゃない?」


 孤独を癒やす為に寄り添い合うなど、惨めな犬猫がするようなことだ。

 こちらは孤独なんて感じたことがないのにディアナは何を言っているのだろう。何かの親切心だとしても見当違いも甚だしい。どうしてそのようなことを言い出すのか訳が分からない。


「低俗だ」

「そんなものだよ。人なんて思うほど高尚な生き物じゃない。だけど、だからこそ面白いんだよ」


 怖いものも悲しいものもないはずなのに、その言葉を聞くと無性に安堵した。

 だけど、それに従ってしまうことができないヴィンセントは憎まれ口を叩くしかない。


「餓鬼が知ったような口利きやがって……」


 ヴィンセントはディアナを理解しようと考えたことは一度もなかった。だが今、自分が彼女の何も知らないことにぞっとした。自分を楽しませるだけであれば良い人形が実は意思を持っていて、刃向かってきているのだ。

 お気に入りの玩具というフィルターを取り除いて見るディアナは訳の分からない娘で、ヴィンセントはその異質な物体に対する己の感情に余計に訳が分からなくなる。


「何も知らない癖に」


 それは誰宛ての言葉だったのか。ヴィンセントの独り言めいた言葉を受け止めたディアナは屹然と切り返す。


「わたしは君のことを理解するなんて綺麗事は言わないよ。他人を理解しようとして理解できることなんて高が知れてるもん。わたしは善人でも神様でもないから、ただ自分の気持ちに正直に生きる。気に食わないことがあったら殴るし、こうやって文句も言いにくる。わたしが嫌だから、君が悪いことをしたら許さない。わたしが正しいと思う方に君を正すよ」


 親切心とも悪意ともつかない押し付けがましいそれの名前は分からない。ただディアナはヴィンセントの意思など関係なく、矯正するらしい。

 玩具にするつもりが反対に玩具にされ掛けている。

 具合の悪さも手伝ってディアナに言い返す余裕のないヴィンセントは逃げるように背を向けた。

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