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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
四章
64/208

番外編 世界で一番美しいのは ~side Vincent~ 【1】

差し出された毒林檎 【3】直後の話になります。

 幸せになって欲しかった。

 ただ、彼女には救われて欲しかった。

 似ていたのかもしれない。心の形が似ていたから、惹かれたのかもしれない。もしくは正反対だったからこそ、その【光】に惹き付けられてしまったのかもしれない。

 闇夜に生きる害虫は光に引き寄せられるものだ。

 触れられなくとも構わない。遠くから光に憧れているだけで良い。


『彼とお幸せに』

『……わたしは、あなたが…………』


 確かに彼女の幸せを願っていた。

 自分が救われたいという下心もあったが、彼女の幸せを望む気持ちは偽りない。

 それなのに何処で間違ってしまったのだろう。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 ぼろ雑巾のように転がるクロエを見て、ヴィンセントは処分に悩んだ。

 血で汚れた破片を踏み潰しながら近付くと、クロエの身体は恐怖からびくりと硬直した。


「…………あ………………ぅ…………ローゼン…………ハ、イ……ン、さん…………」


 血を吐いたクロエを見下ろしたヴィンセントはこの顔が見たかったのだと満足した。

 白い肌にはやはり血の赤が似合う。欲を言えば女の髪は白肌に映える黒曜の色が良いのだが、血染めにするには金糸の方が都合が良いかもしれない。


「ああ、好い様だ。このまま殺せたら楽しいだろうなあ。四肢をばらばらに少しずつ裂いていけば血も沢山出るだろうし、忌々しい白に埋まった中庭を赤に染められそうだ。良い暇潰しになる。それに君も真っ赤になれば少しは見られる顔になるかもしれないしね」


 最初は幾らかの同情と興味で置いてやっていた。

 従順に言うことを聞くなら、優しくしてやっても――ディアナの代わりにしてやっても良かった。

 けれど、クロエは勝手に逃げた。ディアナと同じように居なくなった。

 もう優しくなんてしてやらない。人間扱いもしない。絶望から死を選ぶことすら許さず、寿命でゆっくり腐っていくまで扱き使ってやると決めた。

 それから気付けば四ヶ月が経っていて、ヴィンセントはクロエに飽きを感じ始めていた。

 意地悪を言って怖がらせたり焦らせたりしてからかうのは確かに面白かった。ディアナそっくりな顔が苦痛に歪む姿を見るのは痛快でならなかった。だが、新鮮味に欠けるのだ。

 ヴィンセントはクロエを相手にしても、ディアナと過ごした時のような鮮やかさを味わうことはなかった。

 つまらないクロエの顔にはいつも陰と怯えがうっすらと付き纏っていた。

 陰気で、臆病で、後ろ向きで、何の取り得もなく、自己価値の低い屑のような人間。悲惨でありながらその経験を美へと変えられない愚鈍な子供。

 悲惨で美しかったディアナとは違う。クロエはディアナへ成り得ない。

 つまらない顔に、つまらない心、つまらない存在。そんな価値もない存在をこれからどうしようかと悩んでいる内に殺意が芽生えた。

 殺意が明確になったのはショコラトルデーだった。

 クロエは変わっている。一度殺され、何度も怖い思いをさせられた相手に贈り物をしようなど普通は考えない。しかも【お世話になっている皆さん】にというのがまた可笑しい。

 女というには未熟なクロエから贈り物を貰ったところで誤解するようなお目出度い頭を持っている者はここにはいないが、それにしても皆にやるとは如何なものか。ディアナと同じように男を誑かす淫乱な血を持っているということか。


(ああ、腹立つくらい似ているね)


 顔だけは似ているのに中身は似付かない。それなのに、たまに恐ろしいほど似ているところがある。

 ヴィンセントがディアナに対して嫌悪感を抱いた箇所をクロエは見事に持っていた。


(どうしてお前だけのうのうと生きてるんだよ……?)


 ディアナは不幸になったのに、どうしてクロエはのうのうと生きているのだろう。

 巫山戯(ふざけ)るなと言いたい。クロエの所為でディアナが不幸になったのに何の償いもしないなんて許さない。


「……殺……した、いなら…………殺せば、良いじゃ……ない、ですか…………」


 陰気に伸ばした髪を掴み上げると、クロエは喉に溜まった血で咽せながらそう言った。


「殺さない。ディアナの前でお前を殺すのが俺の夢だから」


 絶望で死ぬことは許さない。そんな易々と死なれてはこの復讐劇は面白くならない。

 ディアナの前でクロエを殺すのが夢。そう語ってヴィンセントは漸く自分が何をしたかったのかに気付いた。


(ああ、そうだ。こいつを殺すのが一番良い)


 クロエは飽くまでも人質で、その囮を使って誘き出したディアナを殺すのが目的だと今までヴィンセントは考えていた。だが、口に出して気付いた。

 自分の目的はクロエを殺した上で、壊れたディアナを飼い殺しにすることだ。

 気丈なようで脆いところのあるディアナだ。目の前で一番大切な存在を殺されたら、心が壊れてしまうだろう。そして壊れたディアナをエルフェの言うことを聞く人形に仕上げる。それがヴィンセントの夢だ。


(今度はきっと上手くいくはずだ)


 二十九年前、エルフェには少々痛い目を見て貰ったので、今度はディアナを捨てることはしないだろう。

 いや、不穏分子はまだある。エルフェを誑かすあの邪魔な女(メルシエ)は殺した方が良い。蘇生ができないよう今度はばらばらにする。

 ディアナだけでなくエルフェまで可笑しくなってしまうかもしれないが、心など二の次で良い。目的を達する上で犠牲は付き物だ。


「さて、これは邪魔だし棄てようか」


 これから構想の練り直しだ。その中で醜い少女の存在はただただ邪魔だった。

 ヴィンセントは窓辺まで運んだ塵を持ち上げ、そして突き落とす。


「さようなら、ディアナの娘」


 石畳の上に落としてないのだから死にはしないだろう。もし死んでもまた生き返らせれば良い。ヴィンセントはクロエの生にも心にも興味がなかった。

 雪のベッドの上に黄金と緋が散った。






「何ということをしたんだ……」


 糸が切れた操り人形のようになってしまったクロエを前にエルフェは声を震わせた。

 二階の物音は下階まで響いていた。決定的だったのは、何かの落下した音だった。


「何故だ……? そんなにこいつが憎いのか……?」

「愚問だね。大体、君が言えたことかなあ」


 十年前、話に乗ったエルフェに非難される謂われはないとヴィンセントは笑う。

 ディアナが消えてから十九年も連絡がなく、絶縁したに等しいエルフェにヴィンセントは話を持ち掛けた。

 エルフェは話を呑んだ。呑んだからこそ、この十年共にいたのだとヴィンセントは思っている。


「穏やかに飼い殺しにしてやるのに飽きたんだ。やっぱり人質は切り刻んでこそじゃない」


 そのことで人質の価値が薄れようとも構わない。ヴィンセントは交渉など求めない。ただディアナを誘き出せればそれで良いのだ。


「ほら、手足をもぎ取って店の前に晒そうよ」

「巫山戯るな」

「ああ、広場の方が目立つよね。そっちにしようか?」


 その瞬間、何かが頬を掠った。

 掠ったように感じた箇所には拳が叩き付けられていた。

 衝撃で思わず身を折ったヴィンセントはふらつきながら自分を殴った友人を見上げる。


「……っ……乱暴だなあ……」

「誰が乱暴にさせるようなことをしている?」

「脳筋一族じゃあるまいし、すぐ殴るとか止めてよ」


 これだからレイヴンズクロフトは嫌だ。何かあればすぐ武力行使とばかりに拳を振るう。

 けれど、エルフェらしいといえばエルフェらしい。

 出会ったばかりの頃、問答無用だと拳を振るってきたエルフェだからこそヴィンセントは友人になった。

 エルフェはあの頃と何も変わっていない。きっとディアナとやり直せるはずだ。そう理解すると無性に嬉しくて、腹の底から抑えきれない笑いの衝動が込み上げてきた。

 狂っている、と誰かが言った。

 拳を震わすエルフェだったか、無力に立ち尽くすレヴェリーだったかは分からない。ただ誰かが言った。


(狂っているなんて褒め言葉だよ)


 何処か此処か狂っていなければ復讐なんかできやしない。大体、普通と異常の定義は何処だ。その境界線は人が勝手に引いているものだ。そんなことに拘って何かを語る奴は放っておけば良い。


「いい加減にして下さい」


 その声を聞いて、ヴィンセントは笑いを止めた。

 折角愉快で愉快でならなかったのに冷や水を浴びせられたような気分だ。


「ちょっとルイスくん、病気うつるから出てこないでくれる?」


 微熱が続き、身体中が痛むという厄介な病を貰いたくないヴィンセントはルイスを睨んだ。


「だったら、医者を呼ぶくらいしたらどうですか……」


 ヴィンセントとエルフェは自分たちのことばかりで、レヴェリーはそんな二人の間で慌てるだけ。誰もクロエを医者に診せようという考えは持っていなかった。


「この娘は助けなんか呼んじゃいないけどね」


 本人が助けを求めないのだから仕方がない。ヴィンセント悪びれもせずに言ってクロエを一瞥した。

 ざっくりと切れた掌から覗く桃色の肉は果実のようで、そこから零れる赤い果汁が床に溜まっている。顔には痣が浮かび、ただでさえ悪い顔色が悲惨なことになっている。

 蹴った時に骨を折った手応えはあった。もしかすると落とした時にその骨が内臓を傷付けているかもしれない。そうでなくとも、頭を打っていれば早く医者に診せなければ危険だった。


「そ、そうだ……早く医者呼ばねえとやべえよ!」

「ああ、そうだな……」


 言われて漸く気付いたという様子のエルフェとレヴェリーに、ルイスは失望したように目を伏せた。


「人の命はそんなに軽いんですか……」

「人殺しの君が命を語るなんて止めてくれないかな」

「命なんて語りません。ただ、貴方たちに人としての矜持がないのかと訊きたかっただけです」

「だったら君の言う矜持って何さ?」


 復讐の為に動いているだけの人非人(にんぴにん)。その癖、修羅に堕ちきれない中途半端な出来損ない。

 気に食わない。正論ばかり並べる高潔な様子が気に食わない。折角こちら側に堕としてやったのに、ルイスは理解者となるどころか決して相容れない場所にいる。


「電話、借りますよ」


 人としての矜持というものが何かと問うたヴィンセントに答えることなく、ルイスは電話の子機を掴むと廊下に消えた。


(高がこんなことで騒いでいたらすぐ死ぬって言ったのにね)


 自分の身が傷付いた訳ではないのだ。大人しくしていれば良いのに、どうして首を突っ込むのだろう。

 ルイスは酷い咳をしていた。肺炎でも起こして死ぬのではないかとヴィンセントは他人事のように思った。

 そう、他人事だ。ヴィンセントは他人がどうなろうが構わない。自分が楽しければそれで良いのだ。


「オレ、毛布持ってくるわ……」


 部屋は冷えていた。クロエが身体を冷やすといけないからとレヴェリーは毛布を取りに行ったが、それはこの場から逃げる口実にしか聞こえなかった。


「本当に心配だったらすぐに取りに行くよね」

「黙れ」

「君もレヴェリーも僕と一緒だよ。この娘が死のうが【仕方ない】って一言で片付けるんだ」


 エルフェは慟哭するように「黙れ」ともう一度繰り返した。






 内臓がやられてきているのか掻き毟りたくなるような鈍い痛みがある。

 不快感を紛らわせるように酒を煽るが、何の解決にならないことは理解していた。

 病の進行を遅らせるなら、まだアイソトニック飲料を飲んだ方が良いだろう。ルイスの為にレヴェリーが大量にスポーツドリンクを購入してきたので、摂取しようと思えばすぐにできる。しかし、ヴィンセントは今更騒ぐつもりはなかった。


(罹かっちゃったものは仕方ないんだしねえ?)


 壁を一枚隔てた先から可哀想な咳が聞こえてくる。

 ヴィンセントは見てみぬ振りをする。ルイスが死んでくれると精々するし、何かと都合が良い。それ以前に心配してやる義理もなかった。

 ただ他人事として、死にたがりは嫌だと思う。

 ヴィンセントは復讐を終えても死ぬつもりはない。復讐を終えて(しがらみ)から解き放たれたら、今までの苦しみの分だけ楽しもうと考えている。クロエとメルシエを殺して、ディアナとエルフェを一緒にしたら、その二人を見守りながら人生を謳歌するのだ。その夢の為だったら何でも利用する。

 あれから丸一日が経ち、昏睡状態にあるクロエはファウストの診療所に収容された。

 クロエは肋骨を数本折っているようだ。軽傷でつまらない。もっと大怪我をさせれば良かったとヴィンセントは後悔する。

 何故あんなことをしたかと訊かれれば、それはただ苛々したからだ。

 クロエに対して抑えようがない殺意があったのも確かだが、直前に聞いた会話が気に障った。壁が薄いので耳を澄ませば会話は容易に拾うことができる。

 ルイスとクロエは愛情と同情というやたらと暗い話をしていた。

 あの二人は仲が良いのだか悪いのだか分からない。薄暗い話ばかりしていて互いにうんざりしていそうなのに、わざわざ近付いて行くクロエも救いようのない莫迦だし、相手をするルイスも甘ったれだ。

 そんな会話をいつもなら冷やかし半分で聞いているのだが、話題が話題だけにあの時は笑えなかった。


(君も贅沢だよ、ルイスくん)


 同情だろうが憎しみだろうがそれは【情】だ。どんな形でも想われていることには変わりない。


(俺なんてディアナに恨まれることすらなかったのに……)


 愛情の反対は【無関心】だ。

 ヴィンセントはディアナに愛されることも憎まれることもしなかった。最悪の【無関心】だったのだ。

 最後の瞬間、ヴィンセントはディアナに罵声をぶつけた。いつものディアナなら切り返してくるはずだった。報復とばかりに攻撃してくるはずだった。それなのに「永遠にさようなら」という言葉だけを残して消えた。ディアナは怒ることも恨むこともしなかった。ヴィンセントとエルフェを仲間だと語りながら、ディアナは何も話してくれなかった。

 思い返していたら二十九年経っても消えない憤りが浮かび上がった。そしてそんな間の悪いところにやってきたクロエを、ヴィンセントは痛め付けた。

 他の男の序でに優しさを向けてくるようなところがディアナにそっくりで、途轍もない嫌悪が湧いた。


(そんなところまで似なくても良いのにね)


 ヴィンセントは掌に収まった懐中時計を弄びながら苦虫を噛み潰す。

 カメリアの絵柄が掘られた懐中時計は先日手に入れたものだ。


『それはディアナのものだ』


 対峙した外法が外套の懐から取り出した【それ】を見たヴィンセントは、胸が躍るのを感じた。

 曇天の薄明かりの中でも鈍く光る【それ】は見紛うこともない、ディアナの懐中時計だった。

 チームを組んで一年が経った時に、ディアナが三つ揃いで用意したもの。

 腕時計と懐中時計とロケットペンダント。統一感のないそれ等を誰がどれを取るかクジで選び、ヴィンセントがペンダント、エルフェが腕時計、ディアナが懐中時計ということなった。


『取引をしませんか』

『どんな取引を?』

『私が差し出すものを口にしたらこれを貴方にあげます。簡単な取引でしょう?』


 外法は薄く笑うと、またも懐から何かを取り出し、それをヴィンセントに向けて投げた。

 拳ほどの大きさの林檎をキャッチしたヴィンセントは訝しむ。


『そんなことで良いの?』

『それは知恵の木の林檎ですよ』

『……ああ、そういうこと』


 【上】で暮らし始めてから長い年月が過ぎ、【上】の食物を食べて生きているヴィンセントは人間に近い。そんな身体で【下】の食物を食べれば、きっと毒に当たるだろう。何よりも知恵の木の林檎とくる。

 ヴィンセントは躊躇わず林檎を齧り、嚥下する。甘くて苦い血の味がする赤い果実が腹に入る。


『これで良い?』

『はい。ではお約束通り、差し上げます』


 ヴィンセントは手に入れた。

 探し求めたディアナの痕跡に触れることができた。


「ディアナ……」


 死ぬほど嬉しい。これから自分が毒に倒れることを知りながらも、嬉しくて仕方がなかった。まだエルフェに見せることはできていないが、これを見れば彼もあの頃の心を取り戻すだろう。

 ヴィンセントとエルフェにとってディアナは青春そのものの存在だ。彼女がいたから毎日が鮮やかだった。今の彼女もきっと年を重ねた分だけ鮮やかになっているだろう。

 出会った時よりも別れる時が美しかったように、時の分だけ彼女は深みを増してゆく。

 早く会いたい。孤独で震えているだろう彼女を幸せにしてやりたい。

 気紛れで、がさつで、利己的な癖にお人好し。悲惨で美しい【赤頭巾】の幸せを願っている。


『世界中を敵に回すことになってもわたしはあなたといるよ。独りは寂しいから、ね』

『馬鹿馬鹿しい。そんなの傷の舐め合いだろう』

『うん、でも、傷は舐め合うものじゃない?』


 倒れる瞬間まで後悔はしていなかった。

 死という鎌を首に掛けられながらも、それでも良いと思う自分がいた――――。

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