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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
四章
63/208

閑話 Jeune fille Nue 【4】


「何この出来損なったスポンジみたいなの」


 クロエは出来損なったスポンジとは何だと突っ込みたい気持ちを胸に仕舞って皿を突き付けた。

 クッキングシートが広げられた皿の上には、サーモンピンク色のクッキーが乗っている。


「ショコラトルデーのリベンジです」

「ああ、お返しの日だっけ。それでこれは何さ?」

「トマトクッキーです。エルフェさん監修ですよ」


 ライスパウダーとミニトマトで作ったクッキーだ。少し変わったものの方がヴィンセントは楽しんでくれると思い、クロエはトッピングにトマトを選んだ。

 肝心の味はというと、甘味と酸味が混ざって今まで食べたことのない類のものになった。商用としては不味いが、家庭用としてなら「これはこれで有り」とエルフェとレヴェリーも言ってくれたので、クロエは早速と、焼き立てのトマトクッキーをリビングにいたヴィンセントに出した。


「エルフェさんの名前出せば、僕が食べざるを得ないと知っていてやってるよね」

「そんな邪な考えは持っていません」

「狡くて醜いメイフィールドさんらしい、小賢しい知恵だね」

「信じてくれないなら別に良いです!」


 何処までいってもヴィンセントはクロエを認めてくれないし、信じてくれない。

 だったらそれで良い。

 クロエはヴィンセントに好かれることは永遠にないのだと知った瞬間、気持ちが楽になった。そして、ディアナのことが語られる度に嫉妬よりも安堵感が湧き上がってくる。

 ヴィンセントに――継母に――認めて貰うだけが全てではない。まずは自分が自分を認められるようにならなければ何も始まらない。だから、今は嫌われても仕方がない。


「気が向いたらで良いので食べて下さい。焼き立ての今が一番美味しいはずです」

「それでも要らないと言ったら?」

「その時はキッチンに置いていて下さい。私が片付けますから」


 これ以上刺激するとクッキーと共にクロエも捻り潰される可能性がある。

 クロエは飽くまでもヴィンセントの意思を尊重する形でその場を去った。






「この前はごめんなさい!」

「……何のことだ?」


 謝った途端、何のことかと驚かれた。挙げ句には謝られた。

 先日のクロエの敵対的発言についてルイスは気分を害していなかった。ただ頭痛がするという意味で気分が悪かったらしい。

 優しくしようとすると反発される。反対に、喧嘩を売るようなことでもはっきりと心を伝えると、態度は軟化する。猫という生き物は猫撫で声を出して構おうとすると逃げるものだが、ルイスはそれに似ている。

 蟠りも消えたクロエは、ひと月前のやり直しをやっとすることができた。


「一つ言わせて貰うと、ホワイトデー(ショコラブランデー)は女性のイベントじゃない」

「それを言ったらショコラトルデーだって男の人のイベントじゃありません」

「シューリスでは男からチョコレートに限らず贈り物をするのが普通なんだ。大体、菓子を贈るなんてただの企業戦略じゃないか」

「だったらホワイトデーのクッキーも広めましょう。企業戦略だって構いません」


 斬新なアイデアを出していく【ヴァレンタイン社】なら、ホワイトデーに女性から男性へ贈り物をするという行為も広められるかもしれない。

 いっそクッキーの日として一般化させたらどうかと提案するクロエに、ルイスは冷めた態度で切り返した。


「流行らせてどうする? その程度で経済の活性化に繋がるとは思えないな」

「平和な感じがします。お菓子とか、美味しいものを食べている時ってちょっと癒やされますよね? お菓子を皆で贈り合う日が増えたら素敵じゃないですか」

「どうして癒やされるのか分からない」

「え……だって、好物を食べている時ってささやかな幸せを感じませんか」


 クロエは人と人とが理解できないことがあると身を以て知っているが、食べ物を美味しいと思う心に違いはない。

 決して夢見がちという訳でもないのに、お目出度いことを語るクロエは微笑んでいる。その隣でルイスは相変わらず、クロエが何を言っているのか分からないという困惑した顔をしていた。


「押し付けるつもりはありません。要らなかったら小鳥の餌にでもして下さい」

「いや、折角作ってくれたものだから貰う。有難う」

「有難う御座います」


 受け取ってもらえた嬉しさにクロエはつい表情を緩ませる。

 尻尾を振る犬のような(ほと)びる眼差しで見つめられたルイスは疲れたように溜め息をついた。


「何のクッキー?」

「オレンジピールとブラックチョコレートを混ぜてみました。クッキーもあんまり甘くないと思いますよ」

「……そうなんだ」


 いつもより僅かに柔らかく、砕けた口調で――そう心掛けて喋ってくれているようにも感じる――訊ねたルイスに、クロエはクッキーのトッピングの説明をした。

 食に関心が薄いルイスの負担にならないように甘味を抑え、量も少しにした。酸味の利いたオレンジピールと、ほんのりと苦味のあるブラックチョコレートを生地に練り込んだクッキーは大人向けだ。


「あと、花は枯れてしまうので、代わりに写真を撮ってきました」


 見て下さい、と差し出されるデジタルカメラを前にルイスは唖然たる面持ちをする。得体の知れないものに遭遇した恐怖と、純粋な驚き。そんなものを粗く混ぜたような表情だ。


「も、もしかしてリメンブランスとオフィーリア、嫌いでしたか……?」


 セントラルパークで薔薇市をやっていて、そこで気に入った二つの薔薇の写真を撮らせてもらった。


「もし嫌ならチューリップにクロッカスに福寿草に勿忘草とかもあります」

「いや……別に嫌いじゃない。キミが物凄く変わっているから反応に困った……」


 花を買わずに写真に撮ってくるのはクロエも我ながら暴挙だと思ったが、ルイスは贈り物を好まない性質のようなので思い付かなかったのだ。


「生花は枯れてしまうから迷惑かと思ったんですけど、駄目でした?」


 彼に貰った青い花が枯れるのがあまりに寂しかったから、なんて嘘でも言えない。


「駄目というか、花や命は終わりがあるからこそ美しいものだって聞くから」

「意外です」

「意外?」

「貴方は長く保たないものは嫌いなような気がしたんです」


 ルイスは花は枯れるから嫌いだと言いそうな気がした。儚くなってしまうようなものを愛でる必要はない、と。


「逆だよ。そのまま変わらないものなんてないと分かっているから、好きとも嫌いとも思わない」


 人にも物にも永遠なんてない。

 彼が紡いだそれは、この世の何にも期待も希望も持っていないような言葉だった。


「永遠……」

「命も同じだよ。理不尽に摘み取られるのは許せないけど、歪んだ形になってまで生かしたくはないな」


 理不尽に殺されるのは許せないが、病で死ぬのは仕方ないと割り切れる。

 ルイスが緩やかに死を見つめているようで、そんな言葉を聞いたクロエは苦しくなった。


「貴方が気に入る花を持ってきますから……見付かるまで何度もきますから……。だから変わらないものはないなんて酷いこと言わないで下さい……!」


 永遠がないことをクロエは知っている。どんなこともいつかは変わってしまう。平穏もいつか壊れる。友人や家族もいつかいなくなる。けれど、ルイスがそんな寂しいことを言ったらクロエは夢が見られなくなってしまう。

 勝手な思いだ。夢を仮託しているに等しい。クロエは何としても彼に救われて欲しかったのだ。

 滑稽なほどに一生懸命語る哀れなクロエを、ルイスは冷たくも優しくもない目で見る。


「それ、可笑しくないか?」

「……え……?」


 ほんのりと迷いが込められた冷静な声を掛けられて、クロエははっと我に返る。


「意地悪を言わないことが、どうしてオレの好きな花を見付けることに繋がっているんだ」

「その……ええと……」

「どうして?」

「可笑しい、ですね……」


 どうして、と繰り返され、クロエは弱ってしまう。

 変わらないことがないのだと――クロエがルイスに関わろうという気持ちは変わらないのだと伝える為だとしても、あんまりではないだろうか。


「ご、ごめんなさい……」


 窓の外では雪がくるくる舞っている。

 雪雲の間からは太陽が覗いているので、雪はあっという間に溶けてしまうだろう。

 すぐに消えてなくなってしまうもの。生まれてきた意味のないもの。無価値なもの。

 クロエのささやかな安らぎと、心の寄す処となっているこの一時が、ルイスにとって春の雪のように意味のないものだとしたらそれはとても寂しい。寂しいというよりもやはり悲しい。


「変なことばっかり言ってごめんなさい」

「……別に良いよ。折角撮ってきたんだから、見せて」


 うなだれてしまうクロエの手からカメラを取って、ルイスは細い指先で写真を捲っていった。

 このボード型カメラは、クロエが金を自由にできるようになってから買ったものだ。あとから絵に起こすことができるように、解明度が高く、画面も大きなものを選んだ。外で写生をすることができないから、クロエは雑誌や写真を参考に絵を描くようにしていた。


「今まで結構撮っているね。これはセントラルか?」

「はい、道に咲いていて綺麗だなって思ったんです。何の花か分からないんですけど……」

「薔薇科の植物で木瓜フラワリング・クインスっていう。確か花言葉は妖精の輝きとか、平凡とか」

「妖精の輝きなんて何だか素敵ですね。平凡というのも良いです」


 平凡で美しい低木の薔薇。上品で美しい花だ。

 林檎の花も好きだが、この木瓜という花も好きかもしれない。名を教えてもらったクロエは笑顔になる。


「あの、もしかして花言葉とか好きですか?」

「まさか。母親に多少教えられただけだよ」


 そのような乙女趣味はないときっぱり否定されてしまい、クロエはしゅんと落ち込んだ。

 最近クロエは花言葉というものに興味がある。

 青薔薇(ブルーヘブン)の花言葉は【奇跡、神の祝福、可能性、夢叶う】。それを知ってクロエは益々あの花が好きになった。

 因みに、渡すことができなかった紫薔薇(ブルームーン)と、突き返されたダリアの花言葉も調べてみると、ダリアは【華麗、優雅、威厳、移り気】で、紫薔薇は【誇り、気品、尊敬、気紛れな美しさ】だった。

 二人の雰囲気と何処となく合っているような気もする。クロエの直感も捨てたものではなかった。


「この白い花は?」

「これはマルグリットです」


 シューリスの言葉で真珠の意味を持つ花は、その名に(たが)わぬ姿と香りだ。


「恋占いの花って言われていますね。知りませんか?」

「そんなことしたことないから知らない」

「わ、私だってしたことないですよ」


 痛々しいものを見るような目をしないで欲しい。クロエはマルグリットで恋占いをするほど乙女ではないし、恋をしたことがないのだ。

 そうして表情をくるくると変えながらクロエが話す内容を、理解しているのか理解していないのか曖昧な相槌で流していたルイスは、ふとこんなことを言った。


「そんなに植物が好きなら野草園にでも行こうか?」


 あまりにさり気ない言葉に、クロエは一瞬誘われたということに気付けなかった。


「え……と、連れていって下さるんですか……?」

「キミが嫌じゃなかったらの話だよ」

「嫌じゃないです」


 ルイスの消極的な言葉にクロエは小さく首を横に振る。

 嫌なことがある訳がない。野草園に連れて行ってもらえるのも嬉しいし、彼と出掛けられるのはもっと嬉しい。

 考えてみれば一緒に買い物に行ったことすらなかった。看病をしたり、紅茶を飲んだり、何だかんだで共にいる時間は長いけれど、それはこの狭い部屋の中のことだけで、外での関わりは何もない。


「なら、キミの怪我の具合が落ち着いたら」

「あと貴方の体調が良くなったらです」

「ああ。でも、出掛けるとなるとあの男が煩いかな」

「ローゼンハインさんって変ですよね」


 ヴィンセントはクロエのことを嫌う癖に、自分の目が届かない場所に行くことを禁じるのだ。

 最近は買い物に行く時も煩くて、下手をするとこの部屋にいた方が嫌味を言われないくらいだった。

 監視というより、束縛されているような気がする。一時よりはヴィンセントの言動は落ち着いたものの、それに比例してクロエの自由も狭まった。

 籠の鳥のようなクロエにルイスはとんでもない言葉をぶつける。


「嫉妬しているんじゃないか?」

「ええ……っ!? な、ないですよ。ローゼンハインさんが私に嫉妬なんて有り得ません」

「そうかな」

「そうですよ。ローゼンハインさんは私のことが世界で一番嫌いって言ってるじゃないですか。私が何処に行こうが誰と話そうが関係ないって思っているはずです」

「特別なものがなくても、所有欲の延長とかはあるんじゃないか?」

「こ、怖いこと言わないで下さい……」


 あの男が歪んでいるのは知っているが、止めて欲しい。クロエはヴィンセントの玩具ではないのだ。

 怯えるクロエにルイスは慰めようとしてかこんなことを言う。


「生物学的に男は嫉妬する生き物らしいよ」

「そう、なんです……?」


 ヴィンセントがクロエに関することで誰かに嫉妬するようには見えない。何より、この彼が嫉妬しているところはもっと想像が付かない。


(嫉妬しないような人に言われても説得力がないというか)


 少しくらい嫉妬してくれたら……とそこまで考えて、何故そういう考えに至ったのかが分からないクロエは顔を凍り付かせる。


(わ、私って性格悪くなってきているのかな……)


 出会ったばかりの頃はそんなことはなかったはずなのに、灰被り事件があってからクロエはルイスを相手にするとどうにも調子が乱されてしまう。そしてそれは日に日に悪化しているような気もする。

 普通は人と人との仲は、時間が経つにつれて角が取れて円満になっていくはずだ。それなのに時が経てば経つほど、近付けば近付くほどに辛くなるのはどうしてだろう。

 本当にどうして。

 実のところ、クロエにとってルイスはヴィンセント以上に【悪い男】なのかもしれなかった。






 夕食後、家事を終えてエプロンを外したクロエはロイヤルミルクティーを作っていた。

 熱い紅茶に冷たいミルクを注いだのではどうしても味が落ちて、舌触りも変わってしまう。美味しいミルクティーを飲むなら鍋で煮出すのが一番だ。

 夕食後にも関わらず、どうして紅茶の準備をしているのか。それは茶に誘われたからに他ならない。

 土産や見舞い(クッキー)は持ってきてくれた人と頂くのが常識と語るルイスに、紅茶を頼まれたのだ。

 クロエにとって野草園の件は嬉しかったが、茶の誘いはもっと嬉しかった。明日になればまた距離を空けられてしまうと薄々察しながらも、今はただ嬉しい。クロエはこんな些細なことで満ち足りた気分になれることに驚いた。


「アフターディナーティーを淹れるなんて本格的に主婦っぽいね。この家乗っ取るつもり?」

「ローゼンハインさんも飲むのでしたら準備しますよ」

「誰かの序では嫌って言ったじゃない。特に彼のお零れに与るのは絶対御免だよ」


 クロエは子供っぽい人だと呆れながらも、ハーブティーを用意してやろうとケトルで湯を沸かし始めた。

 ヴィンセントの言葉に一々反応すると疲れるだけだと学んだクロエは実に寛大だった。


「それにしても、懐柔されているみたいで見ていて凄く面白いなあ。生娘らしい初心さとも言えるけど、ご機嫌取りの社交辞令(リップサービス)に落とされるなんて滑稽だね」

「か、かいじゅう!?」

「恋も知らない癖に林檎みたいな顔して莫迦みたい」


 とんでもない言葉の羅列にクロエは息が止まる。その瞬間、胸の傷が痛んで咽ることになる。

 最近どうにも肝が据わってしまったクロエの表情を歪ませられたことに、ヴィンセントは満足そうだ。事実満足したのか彼は茶を要らないと言い残して、新たにからかう相手を求めてリビングへ入っていった。

 トマトクッキーの感想を聞く暇もなかった。それ以前に訊ねる気力を根こそぎ奪われた。

 こちらの問題児を相手にすると、まるで腹の中に何かがつかえたように胃が痛くなる。そしてあちらの問題児を相手にすると、胸がつかえるような感覚を味わい、心臓が痛くなる。

 どっちもどっちだと思い、クロエは深い溜め息をつく。

 けれど、クロエは片方を理解したいと思い、もう片方へは理解されたいと思っている。そして片方へは哀れみを抱き、もう片方へは焦がれるほどに夢を仮託している。その時点で二人に対する感情や関係は変わってしまっているのだが、幼い少女(ヴィエルジュ)は気付けないままだった。

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