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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
四章
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閑話 Jeune fille Nue 【3】

 雪の降るある休日。午前中の仕事を終えたクロエはコーヒーメーカーの前に立っていた。

 正午前のこの時間はいつもなら二階の角部屋で紅茶を飲んでいる。だが、今日のクロエはそうしない。


(もっと言い様があったよね)


 昨日、勢いでルイスへ啖呵を切ってしまったことをクロエは後悔していた。

 負けませんから、なんて明らかに敵対発言だ。ついひと月前も「許さない」と言って喧嘩を売ったというのに、またやってしまった。

 今朝アーリーモーニングティーをルイスに運んだ時、クロエは心臓が痛くなった。

 彼は口を利いてくれない訳ではないのだが、声が低く、真冬に吹き荒ぶ風のように冷たかった。クロエも流石に午前の紅茶を呑気に楽しむ気にもなれず、今日はリビングにいた。

 イレブンジィスとアフタヌーンティーはルイスやレヴェリーと楽しんで、ハイティーをエルフェに出すのがクロエの日課だ。紅茶をあまり飲まないヴィンセントとは茶を楽しむ機会がない。

 こちらから誘っても断られ、あちらから誘われる時は邪なものが含まれている。

 カップを割られたのは片手で収まる回数を超えている。また大変なことになるのではないかと怯えつつ、けれどその怯えを克服できるように気を張りながらクロエはカップをテーブルに置いた。


「コーヒーを淹れました。飲みませんか?」

「ご機嫌取り? それとも男を落とすなら胃からってやつ?」

「私程度の腕で誰かを落とせるとは思っていませんから安心して下さい」

「ふうん、じゃあ貰おうかな」


 クロエが用意したのはミントコーヒーだ。

 珍しく素直に受け取ってもらえたことにほっとしながら、クロエは斜め前の席に腰を下ろした。


「ところで君のは何?」

「マシュマロコーヒーです」

「お子様だね」


 いつかも喫茶店でフラペチーノを頼んでお子様と称されたクロエは小さくなるしかない。


「君は良いよねえ」

「はい……?」

「家事してお茶してそれだけで給金貰えるし、三食付いて住む場所まで提供して貰えるんだから。僕なんかメイフィールドさんの延命をした所為で借金の返済に追われてるっていうのに、お気楽で羨ましい限りだよ」

「それくらいの保証をしてもらわなければ私もやっていられません」


 クロエは全てを奪われたのだ。家の中での自由くらい与えられなければやっていられない。


「借金ってあとどれくらいあるんですか?」

「まともな仕事をしていたら君が生きている内に返済は無理だろうね」

「そう、ですか……」


 借金の所為で、働いても殆どの金は持っていかれてしまうのだとヴィンセントは語ったことがある。

 クロエは先が見えない己の立場を思い出して表情を曇らせる。


「まあ、それは良いよ。問題は君の態度だ。暇ならエルフェさんの手伝いでもしようとか思わないわけ?」

「私にエルフェさんの仕事を邪魔する権利はありません」


 クロエは怠けたいから手伝わないのではなく、エルフェの神聖な仕事を汚したくないから手伝わない。

 最近、エルフェは一人で店を切り盛りしていた。

 ヴィンセントとはあまり関わろうとせず、レヴェリーは勉強で忙しい。クロエは怪我をしているし、もう一人の居候のルイスは体力が戻っていない。これでは手伝いを頼む相手もいないというものだ。

 だが、元々一人でやっていた店だ。本当は誰にも手伝わせる気はないのだろう。

 きっと何かしていなくては落ち着かなかったクロエを馴染ませる為に、店の手伝いをさせてくれていたのだ。


「与えられる理由に従って生きるなら人形と同じです。私は私ができることを探さなきゃ駄目なんです」

「立派な屁理屈だね。それで、何で僕たちに茶を飲ませることに繋がるのさ?」

「それは……ええと、その……理解です」

「理解?」

「私は他人のことに無関心でした。世間知らずって言われても仕方がないと思っています。だから、まずは周りにいる貴方たちを知ることが私にできることかな……と」


 他人に踏み込まず踏み込ませず、その癖、理解されたいと駄々を捏ねる。そんな自分にクロエは幻滅したのだ。


(他人の為なんて言わない)


 他人を理解した分だけ自分の世界も広がるだろう。世界が広がれば今まで見えなかったものが見えるようになるだろうし、それだけもっと他人を理解できるようになる。そうして沢山のことを知れば、自ずと自分の在り方というのも分かってくるはずだ。

 その行為を他人の為などと理由や責任を転嫁したりはしない。全て自分の為の行動だ。


「つまりお茶は切欠というか、悪い言い方をするならお話しする為の口実です」


 醜くて済みません、とクロエは告白した上で謝罪した。

 殆ど溶けきったマシュマロごとコーヒーを飲む。


「やっぱり落とすなら胃袋からってやつじゃない」

「だからそうじゃないんですってば」

「いいや、違わないね」

「そう取りたいなら別に良いですよ」

「君の行動には全て打算が含まれているって訳だ。蜘蛛の巣にかかるみたいで近付きたくないなあ」


 男を絡め捕ろうとする蜘蛛女だと、ヴィンセントはわざとらしく怯えてみせた。


(今度は蜘蛛扱い)


 ルイスには火に飛び込む虫だと言われ、ヴィンセントにはそれを捕まえる側の虫と称された。

 はっきり言って、嬉しくない。虫扱いを受けて嬉しいはずがなかった。


「じゃあ、蜘蛛らしく捕まえた人に質問することにします。良いですか?」

「僕に質問? スリーサイズを知りたいとかそういう下らない質問だったら殺すよ」

「ローゼンハインさんのそんなものを訊いて何が楽しいんです?」

「ねえ、やっぱり殺して良い?」

「それで質問なんですけど、ディアナさんってどんな人なんですか?」


 クロエはヴィンセントの言葉を聞き流して質問をぶつけた。

 その瞬間、ピーコックグリーンの瞳の奥にある、縦に長い瞳孔がゆらりと動く。


「君さあ、地雷踏んでるって自覚ある? 僕に喧嘩売ってるよね?」

「こ、心が広いと自称するならこれくらい許してくれても良いと思います」


 少なくともスリーサイズよりは下らなくないはずだ。

 爆発炎上する一歩手前のような気もするが、まだ大丈夫だと今までの培った経験と知識からクロエは判断し、もう一歩踏み込んだ。


「私の知らない誰かと勝手に比べられて気にならないはずがないです」

「性格悪いよ、本当に」


 ヴィンセントの下で働いて人格が歪まない人間がいる訳がないのだが、当人にとっては精神的成長を遂げたクロエは厄介な相手という風だった。


「ディアナの何が知りたいのさ?」

「さっきの質問そのままです。ローゼンハインさんとエルフェさんのご友人がどんな方なのか知りたいです」

「どんな方、ね。あれは今風に言うと肉食系って言うのかな」

「に、肉食……?」

「明るくて無遠慮で無鉄砲で脳天気でがさつで、利己的な癖にお人好しで……寂しがり屋で、悲惨で美しくて……。叩き潰してやりたくて仕方がないよ」


 最後の言葉を付け加えなければ良いのに、とクロエはこっそり思った。

 そんなクロエを余所にヴィンセントは一人語る。


「折角の金髪碧眼なのに手入れする気ないし、化粧もしないで平気で歩くし、人様の容姿を貶してくるし。ああ、考えてたらムカついてきたな。また君でストレス発散しても良い?」

「駄目です! 今度そうするというなら私にも考えがあります……!」

「へえ、考え。どんなことするつもり?」

「食事を三食甘いものにします。本気でお菓子攻めにします」


 クロエがヴィンセントにできる嫌がらせといえば、それくらいしかなかった。


「菓子を作れないように手をもいじゃうってこともできるんだけど」

「……そうですね。でも、私が不自由になったら益々役立たずになって処分にも困るんじゃないですか? 手が不自由だったら価値も低くなりますよね。だったら、ローゼンハインさんはそんなことをしないと思います」


 期待を込めて、クロエはヴィンセントを見上げる。

 ヴィンセントが愚かではないと信じているからではなく、そう信じたかった。

 ガラスの破片が突き刺さった掌は未だに痛む。そのことで家事の効率を落とすクロエをヴィンセントは気紛れで手伝おうとしながらも責めるのだ。だから、もうヴィンセントはクロエを役立たずにするようなことをしないだろう。


「自分の立場を良く理解しているみたいだね。褒めてあげる」


 唇の端を笑みの形に吊り上げて、褒めるというにはあまりに毒を含んだ声でヴィンセントはそう言った。

 恨まれていることがひしひしと伝わってきて、クロエも落ち込む。


(でも……私とディアナさんが違うってことだよね)


 クロエに対する嫌悪と、ディアナに対する憎悪が質の違うものということが分かったのは良かった。

 ヴィンセントはクロエを醜い虫螻のように思っているが、ディアナのことは美しいと言うほどに存在を認めている。

 クロエは自分とディアナの扱いの差に腹を立てることも嫉妬することもなく、ほっとしたのだ。

 どんな形のものだとしても、ヴィンセントがディアナに向ける感情は人間臭い。ディアナを道具としてではなく、一人の人間として扱っている。そうして認められる相手がヴィンセントにもいたということがクロエは嬉しかった。






 午後になり、クロエは買い物に行く為の外出許可を貰おうとエルフェを探していた。


「レヴィくん。エルフェさん何処にいるか知らない?」

「さっきまで店で食器磨きしてたけどいねーの」


 今日は店を開いていないので、その場所にいるとは盲点だった。

 早速向かうと、店の厨房の明かりが点いている。

 ケーキの仕込みをしているのだろうか。久々にその光景を見たくなったクロエはそっとドアを潜った。

 調理台の上にはケーキを作るにしては小さな型が幾つもあり、材料も薄力粉ではなくパンケーキ粉だった。まるでクッキーを作るような様子をクロエはじっと見る。


「メイフィールド、クッキーとマフィンならどちらが良い?」

「新作のお菓子でも作るんですか?」

ホワイトデー(ショコラブランデー)だからな、いつぞやの礼だ」


 ショコラトルデーからひと月が経つ明日はホワイトデーだ。分かり易くショコラブランやマンディアンと呼ばれることもある。

 比較的新しい文化で、ジャイルズではショコラトルデーにチョコレートを貰った男性がお返しをする日になっていた。


「え……っ、私は何でも良いです。というか、お礼をされるようなことではありませんし……!」


 クロエはそんなつもりで贈ったのではないと慌てた。

 しかし、菓子のことでエルフェに適うはずもなく、最後には「クッキーが良いです」と言うことになった。

 試作のクッキーの生地を作り始めるエルフェを見守りながらクロエは考える。

 ショコラトルデーはクロエが男たちにチョコレートと花を贈ったのだから、今回は出る幕ではない。だが、一つ例外がある。クロエはルイスからチョコレートワインとブルーローズを貰ってしまっているのだ。

 ずっとお返しをしようと思っていて、タイミングが見付からずそのままになっていた。

 昨日喧嘩を売った身としては舌の根も乾かぬ内に、浮かれたイベントに乗じるのは複雑なものがある。そもそもルイスは菓子を貰って喜ぶだろうか。


(気持ちの問題かな)


 やはり彼にお返しがしたい。あの時のリベンジがしたい。

 それにもう二人、渡したい相手がいるのだ。


「エルフェさん! 私にクッキーの作り方を教えてくれませんか」

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