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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
四章
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閑話 Jeune fille Nue 【2】

 その日、クロエは時計のアラームを聞くよりも早く目を覚ました。

 レースのカーテンを開けると青空が広がっていた。クロエは清々しい気分で身支度を始めた。

 寝間着から私服へ着替え、下階にあるバスルームで洗顔をする。それからここ最近の重要課題となっている髪を整える作業に移る。

 髪を切ってから、左側の髪が外に跳ねる癖が余計に酷くなった。

 醜い姿のまま出歩くなと文句を言う者も若干一名いるので、クロエとしてもどうにかしたかった。

 先日は「心が醜いから外見も歪んでいるのだ」と言われた。そのような不名誉なことを言われたくなくてクロエは頑張ったが、健闘虚しく結果は変わらなかった。


(うん、気にしないようにしよう)


 ああいう輩は好きに言わせおくのが一番だ。そうすれば次第に飽きて興味も失うはずだ。クロエはヴィンセントの好きにさせることにした。

 そうして今日一日は彼の嫌がらせに反応しないと決心したクロエは、午前の仕事である掃除をしている。

 白うさぎのように駆け回る姿を、ヴィンセントはまた何か良からぬことを考えているのか黙って眺めている。

 今日のクロエには、ヴィンセントに構ってやる優しさなどないのだ。

 雪雲が去った絶好の機会に片付けたい仕事は山のようにある。中でも窓拭きはずっとやりたかった。結露と埃で汚れた内側のサッシとガラス、そして雪の水跡が付いた外側。三月といってもまだ冷え込むので、こういった作業は晴れている日に限る。


「手伝ってあげようか?」

「有難う御座います。ローゼンハインさんは座っていて下さい」

「遠慮しなくて良いんだよ?」

「ローゼンハインさんに手伝っていただくような仕事じゃありません」


 ヴィンセントに窓拭きなどをさせる訳にはいかないし、何よりこの人物の良心は信用できない。共に過ごした半年で培った経験と知識からクロエはそう判断を下した。


「ちんまりした身体で背伸びして拭くの辛くない?」

「背が伸びるかもしれないので苦痛じゃありません」


 今のは冗談だが、仕事はそれほど辛くない。

 日常生活に戻る為にかなり強い鎮痛剤を貰った。朝に服用すると大体夕食が終わる時間に切れる。つまり昼の間は自由に動けるのだ。

 クロエが怪我をしてもう三週間だ。薬を使わずに生活できるようになるのももうすぐだった。


「ローゼンハインさん、お仕事は入ってないんですか?」

「ファウストくんのお陰で暇なんだよ」

「確か左腕に痺れが残っているんですよね。大丈夫なんです?」

「利き腕じゃないから大丈夫だよ」


 紫の瞳の彼とは違う意味で弱みを見せるような人物ではないと知りつつ、それでも暇を持て余すほどに体調が良い様子にクロエはほっとした。

 眦を下げたクロエを、ヴィンセントは不可解なものを見るような目で見下ろす。まるで異物でも見るような目に気付かない振りをして、クロエは思い付いたことを言葉にする。


「お暇なら散歩にも行かれたらどうです? 今日は散歩日和だと思いますよ」

「一人で散歩?」

「はい。レヴィくんとお昼を食べに行くのも良いかもしれませんね」


 こんな清々しい日に外でランチをしたら気分も和むし、食事もとても美味しく感じるだろう。

 クロエは部屋で勉強をしているレヴェリーの名を出して、外出を提案する。

 だが、ヴィンセントは嫌な顔をした。


「君はこないわけ?」

「お気遣い有難う御座います。私のことはどうぞお構いなく」

「気遣いじゃないよ。命令だよ」

「……私は仕事をしているんです。見て分かりませんか?」


 花のような笑みを萎ませるクロエの顎を、ヴィンセントは指先で持ち上げた。

 強制的に視線を合わせられたクロエは小さく息を呑む。


「ねえ、僕のこと嫌い? 怖い?」


 あれからクロエはヴィンセントが怖い。

 クロエがどれだけ変わろうとしたところで、暴力を振るわれた事実は消えてなくならない。それがなくともクロエはヴィンセントが怖い。いつも笑みを浮かべている彼が理解できなくて怖かった。

 笑っていても、本当に笑っているのかそうでないのか分からない。嘘と真の境界が判らない。

 ヴィンセントの笑顔の裏には物騒なものが隠れているように見えてしまい、心が警鐘を鳴らす。全身が強張るほどに緊張してしまう。そんな偏見を抱く自分が嫌で、その感情を振り払うように真っ直ぐ見上げても息苦しさが増すばかり。

 けれど、逃げないと決めたのだ。


「少し苦手ですけど……嫌いではありません」

「へえ、苦手。主に対してはっきり言うね」

「嘘で好きと言ったら怒りますよね……? それに、私は自分を誤魔化したくありません」


 自分の身を守る為に偽りを口にするような醜い真似はもうしたくない。そんなことをするような自分を好きになることはできない。

 クロエがきっぱり告げるとヴィンセントは顎から手を外し、今度は背を縮めんばかりに頭を押し込んだ。


「あ、あの……ローゼンハインさん……?」


 撫でるというにはあまりに強く、ぐりぐりと頭を掻き回されてクロエは困惑する。


「やっぱり一人で行くよ。君なんかと歩いてもつまらないだろうしね」


 つまらない子供、と言ってヴィンセントは背を向けてしまった。

 大きな背をクロエは呆然と見る。

 ヴィンセントは髪を短く刈ったことによって、しっかりとした首や肩の線がはっきり分かるようになった。同性を相手にするような気安さは感じられないし、勘違いすることも不可能なほどにヴィンセントはクロエとは違う存在だ。


「私、これからローゼンハインさんの良いところを沢山見付けられるように頑張りますから!」


 例え永遠に認められないとしても、クロエはヴィンセントのことを理解できるようになりたい。






 今日の昼食は熱々のホットトーストと、練乳で割った濃いめのコーヒーだ。

 仕事や勉強に励むエルフェとレヴェリーが片手で食べられるように、大きさも栄養も味の好みも反映した昼食を二人に届け、自身も手早く済ませたクロエはティーセット一式を載せたトレイを持って二階へ向かった。

 ルイスが絶対安静を言い付けられた一週間ももうすぐ終わりだ。

 これからは体力を戻す為にも辛くとも起きなければならないし、オートミールやヨーグルトなどの栄養価が高く、腹に良いものを食べてもらわなければならない。

 しかし、ゼリーが続いた後に健康食品というのは可哀想だった。クロエも今日は勘弁して、林檎に砂糖とバターを詰めて焼いた菓子を用意した。


「失礼します」


 ティーセットとデザートを落とさないように注意して部屋に入ったクロエは、咳き込むルイスを発見する。


「だ……大丈夫? 具合が悪いんですか?」

「平気だから……放っておいて欲しい……」


 昼食が冷めると悪いからレヴェリーにやってくれと、咳の合間にルイスは言った。


「そんなことはどうでも良いです。私にできることはありませんか? お薬とか、お水とか」

「この部屋からすぐに出て行くことと、それをレヴィに食べさせること」


 少しだけ親しくなれたと思っても結局はクロエの勘違いで、こうしてすぐに距離を置かれてしまう。

 驚くほど真っ直ぐな時もあるけれど、頑なで斜に構えたところもある。彼は不安定なのだ。

 聡明な子と、ヴィンセントはルイスを称したことがある。その通りだとクロエも思う。頭が回り、他人のことまでも分かるから、余計なことを考えて心の安定を欠いてしまっている。

 クロエも本当は理解しているのだ。ルイスの暴言や拒絶は心配の裏返しのようなものだと分かる程度には関わってきている。


「どうしてそういうこと言うんです」

「……その台詞、何回も聞いた」

「それだけ貴方が意地悪なこと言っているんですよ」

「オレは正しいと思ったことを言っているだけだよ」

「貴方の考えが全て正しい訳じゃないです」


 確かに冷めれば味は落ちるし、焼き林檎を作るのは手間が掛かるが、一時間もあれば作り直せるものだ。そんなものと彼を比べるのは可笑しい。


「別に……私は迷惑なんて思っていません……」


 面倒を掛けられているとか、負担を背負わされているとか、そんなことを思ったことは一度もない。


「だから、辛いのを我慢しなくても良いんですよ」

「痩せ我慢とか……迷惑掛けたくないからではなく、こんな無様な姿を人に晒せる訳ないだろ」


 他人に自分の弱った姿を見せるなど沙汰の外だと吐き捨てて、ルイスは激しく咳き込んだ。


「苦しいなら無理に喋らなくて良いですから」


 口許や掌を染める赤はないものの、その乾いた咳は喉を傷付けるものだ。

 こういう場合、横にしたままだと却って苦しいのだということを医師から聞かされているクロエは、臥したままのルイスを起こそうとする。だが、思うようにはいかない。

 幾らルイスが青年としては華奢だとはいってもクロエとの間には相応の体格差があるし、人間の身体は存外重いものだ。クロエが腕だけで支えきれるはずもなく、背後から抱き止めるようにすることになる。


「同情、なら――」

「同情じゃないって言ってるでしょう。莫迦にしないで下さい」

「…………」

「我慢して下さい。今だけで良いですから……」


 薬を飲んだルイスが落ち着くまでクロエはずっとそうしていた。

 緊張、焦り、怒り、悲しさで心臓がやけに早く鼓動している。彼の胸の音も痛々しい。その二つが次第に同じ音を刻むようになっても、クロエは離れられなかった。

 凍り付かされたようなものだった。

 ルイスは復讐に生きることを自分の存在意義であるように考えている。まるで復讐という行為が彼という人間に意味を与え、存在に値する価値だと言うように。


(どうすれば良いのかな……)


 それは違うと平手打ちをすれば良いのか。いや、そんなことをすればまた彼が傷付いた目をする。ならば、それでも良いから前向きに生きて欲しいのだと泣き落とせば良いのか。きっと鬱陶しいと拒絶を受けるだろう。

 どちらもできないクロエは何も言わず、背中に寄り添っているしかなかった。


 薔薇の花、咲きては散りぬ


 幼き救世主、やがて仰がん


 ゲルダが流した涙がカイの凍った心臓を溶かしたように、少女の歌が少年の瞳に刺さったガラスの棘を洗い流させたように、救ってやることはできないのか。

 それとも、雪の女王が与えた【永遠】という課題を解くことができれば、彼は自由になれるのか。


「どうして泣きそうな顔をするかな……。オレがどうなろうとキミには他人事じゃないか」


 表情を見ていないはずなのに、ルイスはクロエを泣きそうな顔だと言った。


「私は自己嫌悪しているんです」

「……自分を呪い殺したいのはオレの方なのに?」

「それでも、するんです」


 瞬けば今にも雫が落ちそうで、声も隠しようがないほどに潤んでしまっていた。

 けれど、泣かない。強くなると決めたのだ。

 ぬくもりから離れ、何事もなかったように茶の準備に戻る。あたためたカップに薔薇色の紅茶を注ぐと、ふんわりと芳しい香が漂い、クロエのささくれ立った心を少しだけ慰めた。


「好みでミルクを入れて下さい」


 紅茶が熱いこともあるし、まだ彼の調子が悪そうでもあるので、ティーカップはテーブルに置いた。

 無理強いなんてできない。本人の意思に任せるしかないのだ。

 だが、病は気からという言葉もある。ルイスに生きたいという意識がないから体調も良くならないのではとクロエは思ってしまい、また胸がちりっとした。


「キミに嫌な思いをさせることを承知で言っても良いかな」

「はい」

「莫迦だろ」


 短い言葉には様々な意味が込められているようだった。

 クロエは否定することも詰ることもしなかった。ただ泣きそうに笑って、頷いた。

 自分の不利益にしかならない人物に構うのは、あまりに愚かな姿だ。クロエは必死でも、周りから見れば滑稽に映るだろう。

 ヴィンセントと向かい合おうとするクロエが火に飛び込む蛾だとすると、ルイスの傍に留まろうとするクロエは蜘蛛の巣にかかった蝶のようなものだった。

 その時、こつこつと廊下の床を蹴る音がクロエの耳に入った。


「勉強付き合ってくれね……って、クロエもここにいたのかよ」


 ノックもせず踏み込んできたレヴェリーは、手に分厚いテキスト本を持っていた。

 目を真っ赤にしたクロエと顔色が蒼白なルイスを見て、レヴェリーはどうしたのだと二人に訊ねる。


「ルイ、具合悪いのか?」

「大丈夫だよ」

「そうかよ。んじゃ、謝れ」

「謝る?」

「お前、クロエに何か酷いこと言ったんだろ。兄ちゃんが付いててやるから今すぐ謝れ」

「……悪いけど、オレは間違ったことを言ったつもりはないから謝れない」


 兄として弟の間違いを正すのだと張り切っているレヴェリーだが、ルイスはこの手の振る舞いを嫌っている。


「悪いけどって断り入れるなら謝れよ!?」

「レヴィくん、私、平気だから」


 兄弟喧嘩の原因を作る訳にはいかない。クロエはレヴェリーの腕を引いた。

 正しい振る舞いをしているはずなのに制止を受けてしまったレヴェリーは、弱ったように目を泳がせる。


「私、諦めませんから」

「あの、クロエさん……」

「私、貴方には絶対に負けません!」


 奇妙な宣言に唖然とするレヴェリーと、益々顔色を失くすルイスに一礼したクロエはしっかりとした足取りで部屋を出た。

 紅茶と焼き林檎の甘い香りが漂う部屋に残された双子は暫し沈黙する。


「ルイ……、なんかクロエに対抗意識持たれてねえ?」

「知らないよ……」


 日向にテーブルと椅子を運び、そこに腰を下ろしたレヴェリーはルイスに哀れみの視線を向ける。

 クロエに火を点ける結果になってしまい、本末転倒のルイスは途方に暮れるしかなかった。

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