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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
四章
60/208

閑話 Jeune fille Nue 【1】

Jeune fille Nue / はだかの少女

 あたたかくて、離れがたい。

 ほわほわに泡立てたクリームの中でゆっくりとかき混ぜられて、あやされながら見るような甘い夢。

 身体も心もとろとろと溶けていくような優しい微睡み。

 傍らにあるぬくもりに安堵すると、胸の痛みまで消えてゆく。


「……さん……おきて……」


 誰かが呼んでいる。

 幸せな微睡みを無遠慮に引き裂こうとする声にクロエは抗う。


「眠り姫さん、起きて」


 クリームの中で見る夢に相応しい、甘やかすような声。だけど忍び笑いが含まれている。チョコレートケーキのデコレーションがストロベリーではなく、トマトのような何処か残念な感じがする。


「眠ってばかりだと殺しちゃうよ」

「…………っ!?」


 その瞬間、重く閉じていた瞼を無理矢理開けてクロエは跳ね起きた。勢い余って胸の傷を痛めてしまい、咳き込むことになる。咳を繰り返しながらもクロエは状況を確認する。

 今の言葉には明らかに脅しが入っていた。

 お伽話で王子様が眠れるお姫様を起こす方法は口付け(キス)というのが常識(セオリー)なのだが、この家の男たちに王道を走る者はいない。ここに乙女らしい夢を見させてくれるような存在はいないのだ。


(ええと……)


 クロエが突っ伏していたベッドには人影がある。

 何故自分はここにいるのだと思考して、昨晩は熱のあるルイスの看病をしていたことを思い出す。

 最近は明け方近くまで彼の様子を見てから、部屋に戻って眠っていた。ここで眠ってしまったのは不覚だ。だが、それよりも何よりも今一番の問題はクロエの後ろに立っている人物だ。

 振り返らずとも分かる。口も目許も三日月の形にして笑っているに違いない。


「お、お早う御座います、ローゼンハインさん……」

「お早う、メイフィールドさん。婚前の娘が異性と褥を共にするなんて大胆だね」

「へ、変な言い方しないで下さい」

「事実じゃない」


 ヴィンセントは嬉しそうに語る。激しく誤解を招きそうな言い回しをする。

 いけない。これは精神的に甚振る前に浮かべる笑みだ。今日一日ちくちくといびられることが決定した。

 クロエの顔を歪ませることに成功したヴィンセントは、機嫌良さそうに微笑みながら去って行った。


(朝から何なの……)


 ヴィンセントが親切心で起こしにきてくれたとは思えないクロエは、起床と同時に激しい疲れを感じる。そこで肩に掛けられていた毛布がずるりと落ちて、はっとする。

 相変わらずこの角部屋は冷え込んでいる。病人を気遣わせてしまうなんて最低だ。クロエは自分を呪いながら、タオルケットの上から毛布を掛けてやった。


「風邪引きますよ」


 毛布を掛けてくれるくらいなら起こしてくれれば良いのに。

 あれだけ騒いだというのに、部屋の主である紫の眼の彼は眠っている。

 アンティークローズのような淡い茶色(ティーローズ)の髪が白い頬をなぞっている。整いすぎて神経質にも映るその顔にある表情は何処かあどけない。

 つい自分が年下のような感覚で接してしまうのだが、彼はクロエよりも十ほども下の少年だ。

 考えてみれば不思議な話だ。

 十年という時間をクロエはヴィンセントに奪われた。失ったものが多くて、初めは泣くしかなかった。けれど、普通に生きていれば同じ目線の高さで話すことはなかっただろう双子と出会えたことだけは感謝している。

 それから離れへ戻って身支度をしたクロエは朝の仕事に取り掛かった。

 まず皆が快適に過ごせるように室温を整える。それから近所のパン屋の列に並び、焼き立てのパンと新鮮なジュースを買う。帰宅するとエルフェがインスタントコーヒーを淹れながら朝食の準備に取り掛かろうとしているので、それを手伝う。食事を皿に盛り付ける頃にはヴィンセントがやってくるのでコーヒーを出し、まだ部屋にいるレヴェリーを起こす。

 やっと一息吐けるブレックファスト。

 朝食の席でもヴィンセントの執拗な嫌がらせは続いていた。


「物音は特に聞こえなかったけど、昨晩は何してたの?」

「看病ですよ。先生に病の経過を見ているように言われていますから」

「一晩中付き添って貰えるなんて羨ましいなあ」


 ヴィンセントに聞き耳を立てられているのかと思うと、あの部屋で滅多なことは言えない。

 悪趣味だと睨むと、子供たちに歪んだ愛情を向けているヴィンセントは朗らかに微笑んだ。

 クロエは頬がぴきぴきと引き攣るのを感じながらも、気合いで笑みを張り付ける。


「看病して欲しいのでしたら今晩付き添いましょうか?」

「へえ、夜伽でご奉仕してくれるの?」

「子守唄くらいなら歌いますよ」

「ううん、遠慮するよ。君の下手な歌を聴くより、ルイスくんに看病して貰った方が楽しそうだ」


 絶対に嫌がらせだとクロエは思う。自分に対して恨みを抱く相手に世話をさせるなど歪んでいる。

 毒を盛られたり、寝首を掻かれる恐怖がヴィンセントにはないのだろうか。看病風景を想像してクロエはぞっとする。

 夜露にうなだれた花のような薄幸の美少年に看病される、宗教画に描かれた天の使いを思わせる美丈夫。それは絵柄としては美しいのだろうが、どうにもどす黒い陰が付き纏っていそうで見たくない。

 目の保養の前に胸焼けがする。却って疲れる。

 そう、目の保養などと気楽なことを考えていられたのは最初だけだ。半年も共にいれば新鮮味も薄れてくる。

 ヴィンセントとエルフェが並外れた美貌の持ち主という事実は変わらないし、紫色の瞳の双子も恵まれた顔立ちだ。クロエは彼等の容姿と自分の平凡な容姿を比べて卑屈な気分になることもあるが、特別な意識をすることはない。

 お伽話の【美女と野獣】が好きなクロエは異性の美醜の拘りがない。ただ、美しい人に恐怖があるので、欲をいえば平凡な顔立ちの人が良いというだけなのだ。


「そういえば、さっき届いていた手紙って何なんですか?」

「手紙ってファウストくんからの?」

「はい、それです。わざわざ郵便で送ってくるなんて珍しいですよね」


 パン屋の帰りにポストを見ると、ファウストからヴィンセント宛の手紙が届いていた。


「この前の病気の診断書だよ。ああ、そういえば注意書きがあったっけ」


 カップをテーブルに戻したヴィンセントは、電話の横に放り投げてあった封筒から便箋を抜き出す。


「半年間禁じるものは……下層の食べ物、煙草、薬物、酒、接吻、まぐわうこと」

「接吻は分かりますけど、まぐわうって何ですか?」


 クロエが訊いた瞬間、ヴィンセントは息を呑み、エルフェは苦虫を噛み潰したような顔をし、レヴェリーは顔色を赤くしたり青くしたりする。

 何故そのような反応がされるか分からず、クロエは首を捻り、再度訊ねた。


「何なんです?」

「この年頃の子供は知らないことか?」

「いや、オレ分かるけど……」


 嘆きを含んだエルフェの問い掛けに、レヴェリーは何処となく言い辛そうに答える。


「メイフィールドさんって学校行ってないから、そういう教育受けてないんじゃないの」

「教育っつーか常識的に分かるんじゃね?」

「雑念まみれのレヴィくんとは違うんじゃない?」

「うっさい!!」


 男たちの低温な会話を聞きながらクロエの中で疑問は更に大きくなった。

 誰でも良いから答えてくれとそれぞれを見やると、それぞれが決まり悪そうに視線を外す。


「こういう教育は父親代わりがするべきじゃないかな」


 一抜けたとばかりにヴィンセントはエルフェの肩を叩く。するとエルフェも負けじと切り返す。


「いや、デリケートな問題は母親役が教えるべきだ」

「は? 僕が母親なわけ? 母親役ならあの魔女にやらせれば良いのに」

「あいつは無関係だ。巻き込むな」


 クロエからすると、継母の投影をしているヴィンセントが母親ポジションになるのだ。そうして父親代わりのエルフェは母親代わりのヴィンセントに説明を任せようとしたが、彼は早々に退席してしまった。

 一人が逃げたことによってクロエの中の疑問は益々膨れ上がる。

 だが、これ以上彼等に訊くのも憚られるものがあり、一旦その疑問を胸の奥に仕舞うことにし、ルイスの食事の用意を始めた。






「誰も教えてくれないんです。教えてくれませんか」


 何を訊くのだと言わんばかりの迷惑そうな顔をされてクロエは傷付いたが、知らなければならない。


「どうしてオレに訊くんだ。こういうことは大人に訊いた方が良い」


 朝食として、クロエ手製のグレープフルーツゼリーを食べていたルイスは手を止めてしまう。

 ここ数日でオレンジ、グレープ、ストロベリー、アップル、パイン、メロンと作って、今回のグレープフルーツは二番目に反応が良いとクロエは感じていた。

 柑橘系と葡萄系は比較的好きで、パインはいまいち。アップルは甘く煮たものが好き。他の男たちと違ってルイスは食事に興味を示さないので、好みを見付けるのに苦労する。


「もしかしてゼリー不味かったですか……?」

「美味しくないとかの問題ではなく、さっきの質問は食事中にする話じゃない」

「そんなきつい言い方しなくても良いじゃないですか」


 ルイスは「普通」だと感想を答えて、顔を背けてしまった。

 こちらの分かる言葉で答えてくれただけ進歩だ。いつかのように知らない言葉で「美味しい」と言われた時より嬉しくて、クロエはルイスの食事が終わるまで笑顔で待った。


「大体、どうして知る必要が?」

「石化病の後、半年間しちゃいけないらしいから気を付けたいんです」

「知らなくて良いんじゃないか? 実行されたら大変だ」

「いえ、でもローゼンハインさんの命に関わることなんですから、しっかり教えてもらわなければ困ります」


 教えて下さいと身を乗り出したクロエに、ルイスは珍しく困惑したように眉を寄せた。


「あの、どうしたんです?」

「……遠回しな言い方を探したけど思い付かない」

「別に遠回しにしなくても良いですよ?」

「そうはいかない。子供に変な知恵を付けたら大変だろ」

「いえ、私これでも貴方より年上ですから……」


 実年齢だけいえば十歳も年上だ。クロエが事実を告げると、ルイスは分かったような分からないような生返事をした。

 ヴィンセントのように三十路扱いや、レヴェリーのように姉扱いはしてこないが、年増だと内心思われているのではないか。そんなことを考えてクロエは落ち込む。

 その沈黙をどう取ったのか、ルイスは簡潔に答えた。


「取り敢えず、キミとあいつにはないから気にしなくて良いよ」

「そうなんです?」

「寧ろあったらオレはあいつのことを殺したくなるだろうからしないで欲しい」


 殺すとは穏やかではない。一体何だというのだ。

 子細が分からずとも良くないこととだけは理解したクロエは何度も頷いた。






 午後になるまで眠るというルイスを残してリビングに戻ったクロエは、夕食に出すゼリーの支度を始める。

 生のフルーツを使ったゼリーは傷み易いので、作り置きはできない。

 今回は木苺とプラム、余っている二分の一のグレープフルーツを白ワインでシロップ煮にするつもりだ。

 まずプラムはナイフで皮を剥いて種を取り、小さく乱切りにする。グレープフルーツは果肉を取り出す。木苺、プラム、グレープ、そしてグラニュー糖と白ワインを鍋に入れたら中火に掛け、沸騰したら弱火にして灰汁を取りながら二十分ほど煮詰める。

 暫くすると甘酸っぱい香りがキッチンに漂い始め、クロエは幸せな溜め息をつく。


(ヨーグルトに添えても美味しそうかな)


 酸味と甘味のあるシロップ煮はデザートソースにぴったりだ。ヨーグルトと混ぜても良いし、パウンドケーキに垂らすのも良いだろう。

 クロエは一人分としては少々多めにできてしまったシロップ煮を保存瓶に詰めた。

 鍋に残したシロップ煮に水を入れて暫く中火に掛ける。馴染んだところで湯で解いたゼラチンを加え、火を止めてとろみがつくまで混ぜる。これをグラスに盛って、冷蔵庫で冷やせば出来上がりだ。


(上手く固まるかな……)


 グレープフルーツなどの酸味の強いフルーツはゼラチンと相性が悪く、上手く固まらないことがある。最初にオレンジゼリーを作った時に失敗しているクロエはゼリーが固まるか心配だった。

 美味しいと思ってもらえるようなものを作りたい。それはルイスに限ったことではなく、この家に同居する皆に対してクロエが思っていることだ。

 何の取り柄もないけれど、料理は比較的好きだ。だから美味しいと言ってもらえるものを作る為の努力は惜しまないつもりだ。


「あ、電話」


 汚れた鍋を洗い流したところで、リビングで電話が鳴っていることに気付いたクロエは慌てて受話器を取る。


「はい、レイヴンズクロフトです」

『――ああ、クロエちゃん? 私だよ』

「先生、こんにちは。先日は有難う御座います」


 受話器から聞こえてきた春風のような声に、クロエは明るい声で応えた。

 電話の相手であるファウストの要件はクロエとルイスの体調のことで、それに答えると彼はほっとしたように息をついた。


「あの、先生。訊きたいことがあるんですけど良いですか?」


 クロエとヴィンセントの間に絶対ないことで、もしあったとしたらルイスがヴィンセントを殺したいほど憎むこと。クロエは例の言葉の意味を、手紙の送り主であるファウストに訊ねた。


『えー……? 知りたい?』


 男たちが全員口を噤んだ件だが、ファウストは何処か軽い調子だった。


「ローゼンハインさんの命に関わるのに、私だけ知らないなんて無責任かなって思うんです」

『じゃあ、今晩にでも私の診察室にくるかい? 手取り足取りじっくり教えてあげるよ』


(てとり、あしとり……?)


 やたら爽やかな声を心の中で復唱しながら、クロエは段々と身の危険を感じ始める。


「えと……私、一応怪我人なのであんまり動き回るようなことはちょっと……」

『うん、そうだよね。患者に手を出すのはまずいし、幾ら私でも医者としての領分は踏み越えられない。それに私と貴女くらいの年齢差だと流石に犯罪だしね……。残念だよ』


 残念そうに言っているようで最後の方は何処か芝居染みていてクロエは余計に怖くなる。

 ファウストは優しい大人だ。だけど、そこには彼なりの勘定があって、冷静に人間を量っている。いつかの爆弾発言もあり、異性としてはファウストを信用していないクロエは一歩身を引いた。


『冗談はさて置き、そんなに知りたいならデ・シーカ語の辞書を引いたら? 一番ショックが少ないと思うよ』


 電話越しでもクロエの様子が分かるのか、ファウストは苦笑いをしながらそう言った。

 受話器を元の場所に戻したクロエはファウストに言われたように辞書を引く。そして――――。


「えええええ!?」


 叫んだ後、息が詰まった。途轍もないショックを受けた。学校に行っていなくともそれくらいは分かる。

 まぐわいとは即ち目合い。男女の神聖な行為のことだ。

 ヴィンセントとそういうことがないのは勿論だが、それよりも何よりも、そのようなことを男たちに訊いた事実が恥ずかしい。神の祝福を得る為の行為を指す言葉は、軽々しく口に出してはいけないものだ。

 男たちも答えられなかったはずだ。もし説明されていたらクロエは絶句した。

 今日一日どのような顔をして過ごしたら良いのか分からなくて、クロエはがくりとうなだれるのだった。

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