差し出された毒林檎 【13】
ヴィンセントはクロエを扱き使う。自分の元に拘束し、世話をさせる。
着替えや髪結いを手伝わせている。やろうと思えば一人でできることをクロエにさせている。そして、命じた癖にヴィンセントはクロエへ文句や揶揄めいたことを言う。
それは主に「女の癖に男に平気で触るな」という内容だが、クロエは異性の裸を見たところで何の感慨も湧かない……というよりは、ヴィンセントに特別な興味がない。
ヴィンセントのことでもう心を乱してなるものかとクロエは決心した。
「役に立てないならしゃしゃり出てこないで、目立たないように俯いていれば良いのに」
「ローゼンハインさんに言われたくありません」
そうやって俯いていたら余計に疎む癖に。もっと撲る癖に。
それに、世話を命じておきながら引っ込んでいろというのは酷い。その批難は理不尽だ。
「自分では何も決められない流されるだけの人形だから、働いてないと不安で仕方ないのかなあ」
「そう取りたいならどうぞ」
「へえ、じゃあ僕が理由を与えてあげようか?」
「与えられるだけの理由は要りません。ここにくるのは私自身の意思です」
他人に理由を与えられ認められたところで、クロエの心は救われない。これは自分自身との戦いだ。
クロエはヴィンセントの髪をブラシで梳きながら唇を噛んだ。
異性の髪を結うのは難しい。女性のものとは質が違うし、高い位置で結って可愛らしくする訳にもいかない。自分より年上の相手の髪を扱うのは初めてで、ここ数日は苦戦していた。
「ローゼンハインさんはどうして髪を伸ばされているんですか?」
「ディアナが短いの好きって言ってくれたから伸ばしてるんだ」
「その方と再会したら切るんですね」
「何でそうなるわけ? 胸糞悪いからディアナの好みと逆にしているだけで、僕は願掛けなんてしてないよ」
「……はいはい、分かりましたから大人しくして下さいね」
歪んだ愛情表現なのか――ディアナの好んだ自分を他人に見せたくないという――それともただ単に嫌がらせなのか。その真意は分からないが、髪を伸ばしているのはヴィンセントなりの拘りのようだ。
(ディアナさんってどんな人なんだろ)
このヴィンセントが入れ込むからには途轍もなく美しい女性なのだろうが、性格は想像がつかない。
ヴィンセントが好む【面白いこと】というのは一般人からすると異常なことだ。その好みが女性にまで適応されるとなると、ディアナは風変わりな人物ということになる。
考えている内に気持ち的に疲れてきたクロエは、手早く髪を結ってしまった。
「はい、終わりました」
「少しでも乱れていたら殺すけど、大丈夫?」
「だ、大丈夫です……」
「ふうん、そう」
びくりと肩を揺らして怯えるクロエから興味をなくしたように視線を外したヴィンセントは、カッターシャツの上にベストを引っ掛けた。
一端興味を失うと空気のような扱いをされるのはいつものことだ。ここで下手に構うと髪を引っ張られたり、撲たれたり、ナイフで斬られたりする。
だが、クロエはヴィンセントに訊きたいことがあった。
「ローゼンハインさん、私のこと嫌いですか?」
「うん、嫌い。この世界で一番嫌い」
視線もくれずに差し込まれた刃はクロエの心を貫いた。
鮮やかすぎて刺さったことに遅れて気付いたほどだ。
「傷付いた? 酷いとかあんまりだとか言ってみる? それとも泣き落としでも……って、何で笑うのさ」
微笑むクロエを見て、気でも違ったのかとヴィンセントは訝しむ。
クロエが浮かべたのはそれほどに屈託のない微笑だった。
「その答えが聞けて良かったです」
「は?」
「すっきりしました」
もう評価に怯えることは必要ないのだ。
ヴィンセントがクロエを嫌うことは永劫に変わらない。そう理解すると妙にすっきりした。
木っ端微塵に砕かれた。いっそ清々しいくらいだ。
傷を入れられた胸はまだ痛むが、これまでのことが吹っ切れたクロエは笑みを浮かべた。
「これからも今まで通りお話しさせて下さいね」
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
柔らかな西日の射し込む角部屋にはゆったりとした時間が流れている。
ここへ居座るのもすっかり日課となり、部屋の主もクロエを追い出すようなことはしなくなった。ただ、何かと理由をつけては帰されそうになるので、気を許された訳でもないようだ。
消極的な拒絶を受けながらもクロエは今日もルイスの元へ足を運ぶ。
「クロエさん、その髪は……?」
腰を越すほどにあったクロエの髪は、胸ほどの長さで切り揃えられている。
「切ってみました」
昨晩、バスルームでばっさりとやった。
自分で切った為に長さが上手く揃わなかった。断髪後にクロエが男たちに受けた評価は散々だ。
まずヴィンセントは売る時に価値が低くなることを嘆き、徹底的に批判した。レヴェリーは女装が微妙になるなどと酷いことを言うし、エルフェは自分で髪を切り落とすような貧乏な娘に小遣いをやった。
「言いたいなら言って良いですよ? 別に似合わないとか言われても怒りませんから」
「似合わないとは言うつもりはないよ」
「そう……なんです?」
「長いのもキミらしいと思うけど、短いのも軽くて似合っていると思う」
「有難う御座います」
お世辞でも嬉しいです、といつものように付け足したくなるのを辛くも堪えてクロエは笑顔で応えた。
例え世辞や社交辞令でも、褒められたら笑顔で有難うと返せるようになりたい。
クロエは誰かに好かれたいし、認められたい。必要とされたいと強く思っている。だけど、その前に自分自身を好きになって、認められるようにならなければいけないと思ったのだ。
金に困った時の為に伸ばした卑屈さの象徴で、コンプレックスの原因でもある髪を断ち切る。それは今のクロエにできる精一杯のことだった。
「そういえば、怒らないんですね?」
「……怒るって何を?」
いつものように紅茶を傍らに花や絵の話をして、少し落ち着いたところでクロエはふと思った。
「私はこの前から迷惑を掛けてばかりです。何より、ローゼンハインさんを助けたこともあるし……。貴方に文句を言われても仕方がない立場ですよね」
「あいつに対しては特に何とも思っていないし、自分でしたことだから」
「でも……」
ルイスが感情を表に出して誰かに当たるような人ではないと分かってはいるが、吐き出してもらいたいというのがクロエの本音だ。
自己責任で片付けられるのはあまりにも心苦しかった。
「それに、キミが辛そうじゃないから別にオレが口を挟む理由もない」
日溜まりの中で少しだけ俯いてルイスはそう言った。
白い肌を際立たせる黒衣に、柔らかそうな薄茶色の髪。日溜まりの中の猫を思わせる彼の横顔を見たクロエは見惚れるでも呆ける訳でもなく、ただ驚いた。
陽光のあたたかさに触れているからか、吊り目がちな眦が下がっている。そこにあったのは冷たさや頑なさが滲んだ笑みではなく、柔らかく澄んだ微笑だった。
「どうかした?」
「えと……その……」
あまりに不躾に見つめてしまったからか気付かれてしまい、問われたクロエは焦る。
笑えるんですね、という一言をクロエは胸の奥に仕舞った。
微笑みというにはあまりに冷えきった笑みを見たことが三度ある。
真冬に吹き荒ぶ風のような、氷の微笑。
今し方見られたのは春の花を愛でるみどりのゆびの持ち主のような表情。ただ、この年頃の青年が浮かべるには雑念が抜けすぎた表情だ。人生に癒し難い寂寥感を抱く者だけが見せる瞳だった。
そのことに寂しさを覚えながらも、やはりクロエの中では驚きの方が大きい。
(私がいけなかったんだけど……)
こちらが意地を張って変なことをしていたから、彼もそれに応戦して妙なことになっていた。
拗れていた時の名残としてクロエはルイスに気安い口が利けず、つい貴方と呼んでしまうのだが、彼は気にしていないようだ。
許してくれたというよりは、そこまでクロエに対する興味がないというのが真相なような気もする。
「貴方は笑っていた方が良いですよ」
折角綺麗な顔立ちをしているのに、勿体無い。
ヴィンセントのように笑みを振り撒けとは言わないが、その冷淡さを取り払えばもっと素敵になる。
クロエが善意と希望を含めて言うと、ルイスは素っ気ない態度で返した。
「同じ言葉を返すよ」
「はい……?」
「無理して笑わなくても良いけど、キミは笑っていた方が魅力的だと思う」
「お、同じ言葉返しますよ、本当に」
褒めて煽てて惑わせるつもりか。レヴェリーを丸め込むのと同じ手段を使われているような気がしながらも、やはりクロエがルイスに口で勝つのは難しかった。
「その話はどうでも良いけど、最近本当に機嫌が良さそうだね。何かあった?」
「何かというか私の気持ちの問題ですね……。あんなことがあって変かもしれませんけど、何だかすっきりしたんです。ローゼンハインさんに嫌われているって分かって、私はあの人に好かれる必要がないんだって思ったら楽になりました」
「そうなんだ」
「人に嫌われてこんなに清々しい気持ちになったのは初めてです」
人に嫌われて喜んでいる自分も酷く歪んでいると感じたが、これほど晴れやかな気分は初めてなのだ。
そうしてクロエがにこにこと晴れやかに微笑んでいると、ルイスは何故か嘆息した。
「滅多なことは言わない方が良いんじゃないかな……」
「滅多なこと?」
ティーカップをソーサーに戻し、クロエは首を傾げる。
「ここの部屋、壁が薄いから会話とか筒抜けなんだ」
「……え…………」
クロエはぎこちない動きで首を動かし、壁を凝視する。
隣の部屋にはヴィンセントがいる。因みにこの角部屋はクロエの部屋でもあった。
「な……なんっ……な、なんで、早く言ってくれないんです!?」
「訊かれてないことを一々喋ることもないじゃないか」
「そういう問題じゃないですッ! 貴方はもっと話すことを覚えた方が良いです!」
「オレのことは良いけど、キミは傷に障るから落ち着いた方が良い」
ルイスに冷静に言われ落ち着こうとしたクロエだったが、小さく咽せる羽目になった。
二ヶ月もこの部屋を使っていたクロエにルイスの語った事実は堪えた。
独り言や寝言を聞かれていたのかもしれないのだ。そして、今はルイスとの会話が筒抜けだ。
「何なんです、この家。プライバシーとかないじゃないですか」
「オレたちは居候なんだから仕方ないよ」
「仕方なくないです。居候でも人権はあると思います」
発信機を身体に埋め込まれているだけで人権を侵害されているようなものなのに、会話まで筒抜けとは笑えない。
「仕方ないよ。僕が面白ければ良いんだから、君たちの人権なんて知ったことじゃない」
クロエが文句をこぼしていると、噂の隣の部屋からやってきたヴィンセントが応えた。
やはり会話が筒抜けなのかとクロエは頬を引き攣らせたが、その表情はすぐに驚きで塗り替えられた。
「ロ、ローゼンハインさん、髪がないです……!」
「ちょっと君、人が剃髪したみたいに言わないでくれるかな。髪ならしっかりあるから」
クロエが驚いた理由、それはヴィンセントの髪が襟にも掛からないほどに短く切られていたからだ。
短く刈った髪型が意外にも似合う。ただ高貴さが減少した分だけ、悪人臭が増しているのが否めない。
「もしかして私の真似ですか?」
「何で君の真似しなきゃならないのさ。そういうお揃い的な考え、気持ち悪いなあ」
「では失恋でもしたんですか、先輩」
「ううん、まさか。メイフィールドさんにべたべた触られたのが不快だから切り落としたんだよ」
そんなあっさりと切り落として良いのだろうか。それにしても酷い当て付けだ。
大人げない大人の前で、子供二人は呆れるしかなかった。
「でも新たな恋はしてみようと思っているんだ、君たちに」
【君に】ならまだ良かった。いや、それはそれで良くないのだが、【君たちに】というのは得体の知れない響きがあって、クロエもルイスも警戒する。
「この世界で一番嫌いなメイフィールドさんと、三番目に嫌いなルイスくんを嘘でも愛せたら僕は優しい人間になれるかもしれない。だから偽りから愛を始めてみようと思うんだ」
「偽りから始まったものは所詮偽りでしかないと思いますよ」
「ですよね……。私もそんな押し付けがましい好意は要りません」
そんな一方的な好意は愛ではなく、執着だ。
並外れた美貌を存分に駆使した笑みを向けられても胸があたたかくなるどころか、却って冷たくなった。
「大体、どうしてオレも含まれるんですか。ややこしいことに巻き込まないで欲しいんですけど」
「だってさあ、僕に嫌いって言われて喜んでるメイフィールドさんは面白いし、僕への復讐よりレヴィくんとメイフィールドさんを選んだルイスくんも捨て難いし、そういうルイスくんから二人を奪うのも楽しそうだ。だからいっそ二人確保した方が今後も楽しめるかと思ってね」
歪んでいる。この男の愛は歪んでいる。危ない。ヴィンセントは危ない。明らかに普通ではない。異常だ。
宣戦布告を受けたルイスは下らないと聞き流し、それができないクロエはびくりと肩を揺らした。
「君たちが怯えたり嫌がったり苦しんだりするのを見るのが楽しみだよ、凄く」
断髪したところで今までの所業を改めるつもりがない悪魔はかく語る。
逃げ出せるものなら逃げ出したい。けれど悪魔が扉を塞いでいるし、傍らの彼を見捨てる訳にもいかない。
もう逃げないと決めた。ヴィンセントなどに屈しないと決心した。
クロエは決闘を受け入れるように屹然とした眼差しを返す。見下げてくる青緑色の双眸をしっかり見返す。
きっと、これが強くなる為の第一歩だ。