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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
四章
58/208

差し出された毒林檎 【12】

 三月に入り、一週間が経とうとしている。

 暦の上では既に春。花の芽はまだ雪の下に抱かれた、冬と春の間の曖昧な時期。気も滅入りそうな曇天の空にも負けず、クロエは慌ただしく駆け回っていた。


「エルフェさん、他には何か仕事ありませんか?」

「あんたの仕事は身体を休めることだ」

「もう二週間経つんですから大丈夫です。じっとしていたら鈍っちゃいます」


 晴れた空を思わせる碧眼でじっと見上げられたエルフェは弱ったように店内を見回したが、怪我人に任せられるような仕事はもう残っていなかった。


「では、二階の角部屋の掃除をしておけ。明日には退院できるそうだ」

「あ……じゃあ序でにローゼンハインさんに夕食は何が良いか訊いてきますね! 私、あとで買い物に行ってきますから、エルフェさんも必要なものがあったらメモに書いて おいて下さい」


 白うさぎのように忙しく駆け回るクロエを見送ったエルフェはやれやれと息を吐く。

 セフィロトから帰還してから暫く鬱いでいたというのに、ある日を境にクロエは立ち直った。まるでそれが生き甲斐とばかりに精力的に家事をこなし、ヴィンセントの介抱に当たっている。


「逞しさもあいつ譲りか」


 己に危害を加えた相手の看病など、並みの精神力でできることではない。

 女は強いものだとエルフェは賞賛半分呆れ半分で肩を竦めた。






「酷い顔色しているけど、何かあったのか?」

「いいえ、普段通りですよ」


 クロエはこの一週間半生きた心地がしなかった。

 泣くに泣けないし、笑えもしない。自己嫌悪と他者からの存在否定とで心が参ってしまいそうになった。それでも鬱いでいれば幻滅されるような気がして、クロエは必死で前を向く努力をした。

 一日掛けて気持ちを切り替えた。その結果、立ち直ることができた。


「そちらの具合はどうなんですか?」

「周りが大袈裟なだけで何ともないよ」


 レヴェリーが言った通り、ルイスは普段と変わらない様子だった。

 喀血するほどの肺炎の治療には最低でも三週間の入院が必要になる。それを「両親に知られたくないから」と治療半ばで退院してくるルイスは、自分の身体のことなどどうでも良いのだろう。


『面倒を掛けるけど、私がいない間に妙なことをしないように見張っていてくれるかな』


 一週間は絶対安静、それから先の二週間も無理はさせないようにとファウストにきつく言い付けられた。


「ヴィンセント・ローゼンハインはどうなった?」

「もう大丈夫ですよ。病人食は嫌だと言うくらい元気があります」


 目覚めてからヴィンセントはクロエを扱き使った。

 石化病の影響で身体の強張りが取れないようで、ヴィンセントはクロエに身の回りの世話をさせるのだ。

 本来ならば肋骨を骨折しているクロエが他人の世話を受けねばならない状況だ。

 呼吸をするだけで胸は痛み、咳をすると悶絶するような苦しみに襲われることになる。着替えや入浴も一苦労だ。そんな中で家事をこなし、他人の世話までするのはあまりに酷だと言える。

 だが、クロエは逃げなかった。

 ヴィンセントを助けることは自分が決めたのだと、苦しみを捻じ伏せて看病に当たった。そうして【加害者】の世話をしている内に多少絆された。あそこまで歪んでいると却って清々しく思えてきた。


「あの様子だと二、三日もすれば普通の生活に戻れそうです」

「……そう。救えて良かったね」


 素っ気ない返事をしたルイスは、体力的に辛いのか寝台に横になったまま窓から空を見上げていた。

 ガラス細工のような瞳に曇り空が映っている。

 見ているというよりは、そこにあるものをただ映している。その様は無機質で人形染みている。

 人形のように整った容貌は頬から顎、そして首筋へと流れる線が美しく、病で命を削られた分だけその繊細さに磨きが掛かっているようである。輪郭を彩る耳飾り――臥している時も外されないアクアマリンが、彼の心を刺し抜いた氷の欠片のように思えてしまってクロエは見ていられなくなった。

 ルイスの心が凍り付いてしまったのは両親の死という冬に取り憑かれたからのはずなのに、何故かそう感じてしまった。何故だろうとクロエは考える。

 だが、考えても仕方がない。

 言ったところで伝わらない。訊ねたところで答えてくれない。

 美しい人は残酷だ。きっと氷のような微笑で線引きして、はぐらかしてしまうだろう。


「あの……今更という感じですけど、あの時は有難う御座います」


 焦燥感にも似た思いを胸の奥に沈めたクロエは、先日の礼を言った。


「それと、私の我が儘の為に済みません……」

「別に恩を売ろうとか、善行をしようと思っていた訳じゃないから感謝しなくて良いよ」

「それでも有難う御座います」


 あのヴィンセントの為にルイスは無理をした。よりにもよってとクロエは思った。

 ヴィンセントが助かって、ルイスが死ぬ。それは最悪の結果だ。


「感謝なんて聞きたくない」

「どうしてそういうこと……」

「オレはキミたちが出て行った後、あいつを殺してやろうと銃を向けたんだ」


 寝首を掻こうとしたのだと、ルイスは己の卑劣さを語った。

 自ら話さなければ誰も知ることがないことをどうして語るのだろう。愚直と言えるほどの潔癖さは痛々しくて、潔さとは程遠い生き方をしているクロエは胸が苦しくなる。


「オレはキミに感謝されるような奴じゃないし、その資格もない」

「でも、貴方は私を助けてくれたじゃないですか」


 あのあたたかさにクロエがどれほど支えられたか。

 彼の存在は心の寄す処になっていた。クロエの心は確かにあの時、救われたのだ。


「あいつの為でもキミたちの為でもないと言ったはずだ」

「じゃあ、誰の為なんです……?」

「自分の為だよ。オレは誰かの為なんて、行動の責任や親切を押し付けるつもりはない。第一、他の誰かに優しくなれるほどオレは出来た人間じゃない。まともな人間じゃないんだ」

「貴方が人間じゃなかったら何だって言うんですか」

「血の代わりに氷水でも流れている人形じゃないかな……」


 復讐が自分を喜ばせる為のもののように、クロエやヴィンセントを救ったのも自分の為。そして、あたたかい心を持たない自分は人形なのだと。


「――――――――」


 瞬いた途端、クロエの瞳から涙が落ちた。

 頬を伝い、唇を潤ませるそのあたたかさに自分自身が驚く。

 睫毛が弾いた涙が目尻に溜まり、それがやけに目に染みる。戸惑うしかないクロエは溢れる涙を拭うべく慌てて手を伸ばす。


(……なんで……)


 ヴィンセントに突き落とされても泣かなかったのに、どうして泣いているのだろう。

 涙を流したクロエ自身も驚いたが、それを見たルイスの方が困惑していた。


「どうして泣くのか分からないな……。そういうのは今まで死に掛けていた男に向けるべきなんじゃないか」

「……だ、だってルイスくん、また私の所為で……」

「何度も言うけど、オレがやりたくてやったことだから気に病む必要はないよ」


 ヴィンセントの為に泣くべきだというルイスの言葉に、クロエは何度も首を横に振る。

 優しくて残酷な言葉に涙が出て、止まらなくなる。

 ぽたぽたと落ちた涙は枕許のシーツに染みを残す。伸ばし掛けて途中で止められた彼の手にも落ちる。


「でも、空を曇らせるならやらなくても同じだったのかな……」


 零れる雫を拭うことも止めることもできないルイスは弱ったように呟いた。

 ルイスを困らせてしまったことに余計に泣けてきて、クロエは嗚咽混じりに謝るしかできなくなる。そのことで益々弱ったルイスは、【あること】に触れた。


「そういえば、久々に名前を呼ばれた気がする」


 気付かれていたのか、とクロエは殴られたような気持ちになる。


「嫌われたと思ってた」

「そ、そんなこと……!」


 嫌うなどある訳がない。嫌われるのが怖かったのはこちらだ。


「……本当の名前、教えてくれなかったから……最初から、嫌われていたんだって…………」


 クロエの訴えを聞いたルイスは暫し理由が呑み込めないと悩む素振りを見せた後、短く答えた。


「本名、嫌いだから」

「……きらい?」

「友人に呼ばれたくないから、略称を名乗るようにしている」


 ルイスにとって社交場や自宅で呼ばれる本名は貴族の証のようなものだ。

 施設育ちの自分と、貴族の養子の自分。通称を教えたのは、身分は関係なく付き合いたいから。


「嫌な思いをさせたのならごめん……。ちゃんと名乗らなかったのは軽率だったと思ってる」


 ルイスの告白を聞いて、クロエはまるで雪解けの陽射しを受けたように、今まで心を塞いでいたものが氷解していくのを感じた。

 それと同時に、酷い誤解をして意地を張っていた自分がどうしようもなく嫌になる。


「ごめんなさい……」


 思いを口に出しても伝わらない時があるのだから、口に出さなければ本当に何も伝わらない。

 クロエは己の愚かしさを呪いながら、ただただぬるみずを流し続けた。






 クロエにだって自尊心というものがある。

 他人の前でこうも泣くとは思わなかった。醜態を晒したクロエはどんな顔をして良いのか分からず、俯くしかない。

 ヴィンセントなら「醜い女が泣いても美しくもない」と反論の余地もない嫌味で切り捨ててくれるだろう。だが、ルイスは揶揄しない代わりに慰めることもせず、ただクロエの傍にいた。

 呆れて去ることも、紳士らしく振る舞うこともなく、クロエが落ち着いてから「泣かれるのは心臓に悪い」と言って浅く息をついた。


「空、晴れたね」

「そうですね。もう少しで春ですから、これから晴れる日も多くなっていきますよ」

「春だろうと冬だろうと晴れて貰わなきゃ困る。オレは心臓を痛めて死にたくない」

「……う……っ」


 黄昏の空ではなく、先ほどまで雨を降らしていた青い目の話だった。

 わざときつい言い方をしているのではと思わず疑いたくなるような辛辣な態度に、クロエは縮こまる。


(それは同情されるよりは良いけど……)


 こういう時に慰められたらもっと泣く。辛い時は声を掛けられても冷静に聞くことはできない。

 つまりルイスはクロエの性質を理解した上で最良の対応をしているのだが、曲がりなりにも女性であるクロエの心は複雑なのだ。いつものように会話もなくなり、クロエはむすりと唇を押し曲げた。


「落ち着いたならオレに構っていないで、あいつの様子を見てきたら?」

「私がいると迷惑ですか」

「迷惑というか、意味がない。キミはオレに対して期待するようなこともないだろうし、それなら別に相手にしなくても良いだろ」

「得になるからとかそういうので傍にいるんじゃありません」

「だったらどうしてオレに構うんだ? キミは変わっているよ」

「変わっていますか?」

「感染らないにしても年中咳き込んでいるような奴に、普通の人は気味悪がって近付かない」


 明らかに病んでいる人間に普通は関わりたがらない。関わるのは人格者か、家族だけ。面倒事は誰だって嫌だ。

 けれど、ルイスの吐く言葉には何処か己を守るような響きがあった。


「何かある度にこうやって臥せる出来損ないに同情でもしているとか……?」


 底の浅い同情心で傍にいるのなら迷惑だとルイスははっきり言う。クロエもきっぱり切り返す。


「私は醜いんだって言いましたよね……。他人の為だけに動くことなんてできないんです」

「醜くても結局はお人好しで優しい人だと思う。だからオレに情けを掛けてくれているんじゃないか」


 クロエは全く同じ言葉をルイスに返したい。底無しにお人好しなのは彼の方だ。


「私がここにいるのは……」


 哀れんだというよりは痛ましくて見ていられない。

 他人に関わって傷付きたくないという思いよりも強く、放っておけないと感じる。

 彼は世界で一人きりのような寂しい目をしている。こんな目を見たら放っておくなど無理だ。


「だって、独りは寂しいから」


 クロエの答えを聞いたルイスは唖然とした。呆気に取られた面持ちで、瞬きだけを繰り返している。


「独りでいると心細いし、悪いことも考えてしまうから……独りでいるのは良くないです」

「オレは独りが好きだし、寂しくもない。読書や作曲だってできるから寧ろ好ましいくらいだ」

「だったら、私はここで大人しく写生でもしています。春になれば庭も綺麗になるだろうし、描き甲斐がありそう。これなら貴方の邪魔にはなりませんよね」

「二人で同じ空間にいて押し黙ってそれぞれ好きなことをやっていたら気まずいと思う」

「……気まずいと思うの……?」


 ルイスがそういう性格には見えなかった。寧ろ、静寂を楽しめるからいつも会話を切るのだと思っていた。

 クロエだけが気まずい思いをして必死で話題を探していたのではなかった。それは喜ばしい事実だ。だがそうなると、どうして会話をいつも気まずい方向に運んで終わらせるのだと問い質したくなる。


「人の気も知らないでここに来ていたのだとしたら、キミは性格が悪い……」

「話してくれないんだから分かる訳ないじゃないですか。子供みたいなこと言わないで下さい」

「話さないのはキミもだろ。そういうことをキミだけには言われたくないな」


 自分のことを棚に上げて言ったところ鋭く切り返され、クロエは口ごもる。

 けれど、口喧嘩で負けるのは最初から決まっていたことだ。ここで黙ってしまっては今までと何も変わらない。


「兎に角、私は私の為にここにいます。邪魔なら空気とでも思って下さい」


 ルイスにどう思われていようがクロエは傍にいる。本当の意味で拒絶されない限りはどれだけ傷付いても、また彼の元へやってくるだろう。


「……クロエさんは本当に奇特だと思う」


 夜空のような瞳が憂いの色を帯びて、何かを訴え掛けようとしている。

 クロエはじっと見返す。すると彼は踏み込まれるのを厭うように背を向けてしまった。

 頑なな拒絶というよりは子供の抵抗のようだった。そんな何処か幼く未完成な様を見ると、どうしようもなく許して、受け入れてやりたくなってクロエは困ってしまう。


「もう眠るんですか?」

「寝ないと治らないから」

「じゃあ、眠るまで傍にいますね」


 静養しなければならないのはクロエもルイスも同じだ。自分が黙ればクロエも大人しくなるのを知っているルイスは会話を止め、目蓋を閉じる。

 まるで蜂蜜の瓶の中に落とされたような密な静寂。窓から射し込む光の下で、淡い茶色の髪が飴細工にようにきらきらと輝いている。

 静寂が何故か懐かしく感じられた。

 優しい静寂に癒されるのを感じながらクロエも目を閉じた。

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