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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
四章
57/208

差し出された毒林檎 【11】

 セフィロトで林檎の木を見たことがずっと昔に感じる。

 帰還した翌日、クロエは熱を出して倒れた。胸の痣は更に広がり、右手の傷からは膿が出た。

 高熱と痛みに魘されながらも心配だったのは二人のこと。

 白の林檎の薬を飲んだヴィンセントと、赤の林檎のような血を吐いたルイス。ベッドに横になっているクロエは二人の安否が分からなかった。看病をしてくれるメルシエが「大丈夫だから」と繰り返す言葉に、何度も「本当に?」と聞き返すことしかできなかった。

 こんな大変な時期に手間を掛けさせてはいけないのに、クロエは皆に迷惑を掛けた。

 切り捨てて欲しいとさえ思った。皆の重荷になりたくはないし、先のことを考えると不安で仕様がなくて、いっそ消えてしまいたくなった。けれどその願いを叶えてくれる人も、自らそれを実行する勇気もなく、結局は生きていた。

 そして三日が経ち、ヴィンセントは目を覚ました。


「知ってて食べたよ」


 どうして危険な林檎を口にしたのかというクロエの問いに、ヴィンセントはあっけらかんと答えた。


「セフィロトの林檎を食べれば面倒なことになるっていうのは知ってたよ」

「じゃあ、どうして……!」

「知ってたけど、それが何だって言うのかな。目的の為なら形振り構っていられないじゃない」

「目的、ですか?」

「あいつ等、ディアナに繋がってるよ。一人は殺したけど一人は逃がしたから上手く動いてくれると良いな」


 ほら、とヴィンセントは銀の懐中時計を見せてくれた。

 カメリアの花が彫られた時計はオルゴール式になっているようで、物悲しいメロディーを奏でる。


「良い曲だろう? 僕とディアナのお気に入りなんだ」


 悠々と語る彼の前で、クロエは戦慄くしかなかった。

 ヴィンセントはディアナの為に毒林檎を食べたのだ。ディアナと関係ある品を手に入れる為だけに。


「死んじゃったら……ディアナさんとも会えないんですよ……」

「それはそれで一興だよ。目的半ばで死ぬなんて悲劇っぽくて面白いし、地獄でディアナのことを待っているのも退屈しないだろうしね。どちらにしても僕は楽しいから良いよ」

「ローゼンハインさんが亡くなったらディアナさんは悲しむと思います」

「僕はディアナに復讐したいんだ。悲しんで、苦しんで、頭が可笑しくなってくれたら物凄く嬉しいよ」

「身勝手です……!」

「あれ、今更気付いたの?」


 ヴィンセントは喉をくつくつと鳴らして笑った。清々しくて、却って狂気を孕んだような禍々しい笑い声だった。

 ヴィンセントは自分のことしか考えていない。自分の視点からの考えしか持たず、ディアナやエルフェの気持ちを何も考えていない。ましてや汲み取る姿勢もない。

 クロエが感じたのは、悲しさ。けれど、それに呑み込まれてなるものかと意地で顔を上げる。


「そんな暗い顔してないで嬉しそうな顔したらどう? いつもみたいに愛想笑いでもしてみせてよ」

「…………っ」

「ご主人様が助かったんだよ? もっと嬉しそうにしなよ」

「……わ……私がどんな顔をしようと……私の、自由です」


 浮かんだら浮かんだで殴られ、沈めば沈んだで蹴られる。

 そんな嫌な予感が込み上げてきて闇に取り込まれそうになるクロエは懸命に抗う。


「何それ。君なんか笑ってやっと人並みなのに、生意気だよ。辛気臭いだけの女なんて何の役に立つの?」

「ローゼンハインさんに価値を決められたくないです」


 私がどうあるかは私が決める。

 笑うのも、泣くのも、怒るのも、クロエの自由だ。心は誰かに支配されるものではない。誰かに矯正されて曲げるものではなく、自分だけのものだ。


「私のこと、勝手に決め付けないで下さい」

「誰かに誑し込まれた? 生意気で凄くムカつく」


 ヴィンセントの瞳に危うい色が閃くのを見ながらもクロエは逃げなかった。

 逃げず、答えず、その代わりにクロエは持ち込んだ茶道具でハーブティーの用意する。


「良かったら、お召し上がりになって下さい」

「毒薬とか? これ以上妙なものを飲みたくないなあ」


 声は明瞭で、態度も尊大。だが人体に有害な林檎を二つも摂取したことは事実だ。

 目覚めてからヴィンセントは、煮沸した水に白い林檎の皮を浸したものをひたすら飲むという処置を受けていた。そんな粗い治療を受けた後では、水分を取りたくないだろうことはクロエも承知していた。


「ハーブティーです。精神安定効果もあるので、良く眠れると思います」

「良い子ちゃんの型板みたいな台詞だね」


 ヴィンセントはからかうよう口の端を吊り上げ、テーブルの上のカップを取るとそれを傾けた。

 飛沫を散らしながら液体が床に広がってゆく。

 呆然とその光景を見つめていると突如背後で何かが壊れるような音がして、クロエは反射的に振り返った。ヴィンセントの手にあったはずのカップが壁に叩き付けられ、大破していた。


「それでさあ、君は僕を助けて恩でも売ったつもりなの?」


 薄い唇に酷薄そのものの微笑を浮かべてヴィンセントは告げた。


「そんなんじゃ、ありません……」

「じゃあ、同居人だから助けるとか言ってみる? いや、そこまで博愛精神に富んではいないよね。ああ、ムカつくなあ。偽善者の外面を被っても醜い心を隠し切れてないのに、良い子ちゃんぶってさあ。虫酸が走るよ」

「……偽善者……」

「分かるんだよね、虐待されたり苛められたりした人の目って。卑屈さが滲み出てるよ」


 自分に自信がなくて何処か挙動不審で、それなのにプライドだけは高い。自分のことを誰も理解しないとか、自分は他人とは違うとか言って、自分と他人の間に線を引く。そうして自分を高いところに置き、他人を見下しながら自分の駄目さを誤魔化して安心している。

 ヴィンセントはクロエから【光】を奪った者たちと同じ、見下した目をしていた。


「……なんで……そんなこと……」

「違わないだろう、醜い子供」


 クロエは膝から崩れ落ちそうになった。

 だが、耐える。

 意地で持ちこたえる。必死で己を奮い立たせ、胸の痛みを堪え、クロエは踏み留まる。


「本当は自分も他人も嫌いで何の価値も感じてない癖に、普通の人間みたいに振る舞っているんだから笑っちゃうよ。そういう出来損ないって居場所のない迷い子みたいだよね。ああ、君も最初の頃はそうだったね。僕のこと追い掛けてきて【私のことを理解して、好いて】って尻尾振ってたもんね。あれは中々滑稽で可愛かったなあ……。ねえ、僕って君のこと理解してあげていると思わない? 嬉しいだろう?」


 ヴィンセントはクロエの心に土足で踏み入り、蝶の羽を毟る子供のように無邪気な残酷さで傷を抉った。


「嬉しくなんてありませんよ……」

「何で? 君たちみたいな出来損なった人間は他人の理解を何より求めているんじゃないの?」

「理解されるより、理解する方が幸せです。それに……貴方に理解されたいとも思いませんから……」

「ほら、線引きして開き直った。醜いなあ」

「そうですね……、私は醜いです。その一面をご理解いただけたのなら幸いです」


 薄い唇を歪めて忍び笑いをするヴィンセントを前にして、クロエは底無しの虚しさを味わった。

 クロエはヴィンセントに認めてもらいたいと思っていた。

 彼にとって、この自分の存在は道具の一点に尽きることは分かっている。道具や人形としてではなく、一人の人間として認めて欲しかった。けれど、ヴィンセントはクロエの心を理解しても、存在を認めようとはしなかった。


「ねえ、メイフィールドさん。僕は恩を受けても仇で返すけど、それでも僕を許す?」

「私は許しますよ。皆に恨まれるのは可哀想だから、許します」


 私が許さなければ、他に誰が許すというのだ。

 胸が千切れんばかりの痛みを捻じ伏せてクロエは告げる。


「押し付けがましいね。親切の押し売りなんて身勝手すぎるよ」

「私はそれだけのことをされているんです」

「ふうん……?」


 愉快だというように細められた目が血色に閃くのをクロエは確かに見た。

 心臓が騒ぎ、全身という全身から血の気が引くのを感じたが、その反面で頭の芯は落ち着いた。

 決心できたのかもしれなかった。


「もう恨み言は終わりです。それじゃあ、お邪魔にならないように失礼しますね」


 廊下にいるので何かあれば呼んで下さい。

 床を拭き、破片を片付けたクロエは努めて平静な声でそう言い残して退室した。






「……ひどい、よね……」


 ルイスを【許さない】と言った唇で、ヴィンセントを【許す】と言ったのだ。

 身勝手な思いを持つ自分の醜さに打ち震える。だけど、沈みきることだけはしない。それ等は全て己の意思でしたことだ。それからも逃げたら本当に救いようがない。


(自分で決めたことなんだから)


 もしかすると、クロエはヴィンセントに【同情】しているのかもしれない。同じ気持ちになる同調の同情ではなく、哀れむ意味での同情を。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 毎晩、廊下で動けなくなる。

 主の消えた部屋の前からクロエは動けない。

 あの日、喀血したルイスはファウストの処置を受けた後、入院することになった。

 クロエは何もできなかった。薬を飲ませることも、窒息しないように身体を支えていることも、血で汚れた床の掃除をすることも。ただ部屋の隅でおろおろしているしかなかった。

 もしファウストがあの場にいなければルイスは死んでいた。その事実にクロエは凍り付いた。


「そんなことしてたって帰ってこねえよ」


 心配してやってきたレヴェリーはクロエの隣に座り、慰めるように言う。


「だって血を吐いたんだよ……」

「ただの肺炎だから大丈夫だって! 医者に聞いたオレが言うんだから信じろよ」


 潰瘍、気管支炎、肺結核、肺癌。考えると恐ろしい病ばかりが浮かんでくる。あの鮮やかな赤が忘れられず、クロエは膝に顔を埋めた。

 ルイスの言葉を借りれば、人は簡単に死ぬ。肺炎が悪化して死に至ることだってあるのだ。


「病院って静かだし、食事も点滴で済むだろ? 却って快適とか変なこと言ってたよ」


 笑えない。ここで自分が沈んでいても何も変わらないことを知りながらも、クロエは笑えなかった。

 努めて明るく振る舞っていたレヴェリーもクロエの青白い顔色を見て、遂には笑みを消してしまった。


「どうして気付けなかったんだろう」


 肺炎の症状には波状熱や倦怠感、胸痛、呼吸困難、食欲不振などがある。ルイスの病の正体に気付こうと思えば気付けたはずだ。

 頭の中は自分とヴィンセントのことだけだったのかとクロエは己を責める。だが、レヴェリーは否定した。


「あーゆーの、あいつにとっては普通だから反応見せなくても仕方ねーよ」

「普通……?」

「そそ、普通。施設にいた頃から長生きできないって言われてて……あ、いや、手術したから今はそういうこともないんだけどな! 兎に角、肺炎とか別に珍しいことじゃねえんだ」


 慣れているからこそ、自分が危ういことも分かったはずなのだとレヴェリーはうなだれた。

 ひと月前の事件でも無理をして却って傷を悪化させたような彼が、大人しくしていないことはクロエもレヴェリーも知っていたはずなのに、何処かで期待する気持ちがあったからルイスはまた無理をしたのかもしれない。


「差し入れってできないのかな」

「食いもんとか?」

「うん……。ゼリーなら食べられるかなって」

「食事制限されてるからちょっとな」


 菌を殺す為に断食し、点滴だけの生活を送っているので、差し入れをできる状況ではないようだ。


「じゃあ、お見舞いの花は? そういうのも無理なの?」

「無理っつーか、物貰って喜ぶ奴じゃねえからクロエが心配してくれてるってだけで充分だと思う。寧ろ、変に構うとあいつは怒るからさ……」


 自分自身のことが嫌いだから構われることが却って苦しいのだと、レヴェリーは暗に言おうとしていた。


(なんで……なんで……気付けなかったんだろ……)


 首の傷を見た時から――いや、公園で寄り道をしていた時からクロエはルイスに近いものを感じていた。

 身の置き場が何処にもなく、己の価値が分からない。そんなところが似ていると感じてしまったからこそ、距離を取り続けながらも傍にいた。

 この自分と似たものを感じたから気になってしまったし、その反面で押し隠したい心までも見透かされているようで怖く思った。近付けば近付くほど苦しくなるのに傍へ行った。

 同族が故の嫌悪と憐憫との間で心地良さを感じていた。ぬるま湯に浸かっていたのだ。


(嫌われて当然だよ……)


 初めから嫌われていても仕方がなかった。

 骨の痛みか心の痛みか、胸が痛い。クロエの心の中に底無しの寂しさが広がった。

 泣く資格もないクロエはのろのろと腰を上げる。


「洗い物してなかったし洗濯物も仕舞ってないから……片付けてくるね」

「洗い物ならエルフェさんがしたし、洗濯物もオレが片付けたって! クロエは大人しくしてろよ」

「じゃあ、掃除しないと……。ローゼンハインさんのこと、暫く見ててね」


 元々クロエが家事を始めたのはこの家の住人に取り入ろうと思ったからではなく、何か恩返しがしたかったから。そして、身体を動かしていないと悪いことばかりを考えてしまうからだ。

 そうして覚束ない足取りで歩き出すクロエにレヴェリーは手を伸ばし、そのまま腕の中に収めた。


「頼むから休んでくれよ。お前まで倒れたら洒落になんねーよ……」


 それは特別な意味などない、親愛の情だけが込められた抱擁。

 けれど、震える吐息混じりの声が耳許で響いた時には、心臓が止まりそうなほどに驚いた。

 背中越しで顔が見えないからか、レヴェリーにルイスがだぶってしまったのだ。

 どんなに醜くても、惨めでも、必死で生きているなら失望しない。笑うのは、泣いてからでも良い。頑張るのは休んでからでも良いのだとルイスは言った。

 今のクロエは捨て鉢で、【必死】という言葉からは程遠い生き方をしている。

 こんな風では顔向けできない。この自分の所為で傷付いた彼に合わせる顔がない。


「レヴィくん、明日一日だけ家のことを任せても良いかな……」

「クロエ……?」

「時間が欲しいの。一日あれば大丈夫になるから。大丈夫にするから」


 傷に触れないように加減されたぬくもりからそっと抜け出して、クロエはレヴェリーに願った。

 これまであったことの整理を付けたかった。

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