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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
四章
56/208

差し出された毒林檎 【10】

 延々と続く白の森。

 ひらひらと蝶のように舞う雪の向こうには幻影が見える。

 何処か知らない場所に誘われているように感じながらも、クロエはもう幻に捕らわれはしない。

 雪の冷たさに凍え、指先の感覚はない。その癖、胸の痛みは熱っぽくて寒暖の感覚が余計に分からなくなる。自分の手を引く他人の手のぬくもりだけが確かだ。


「これが、セフィロト?」

「左にあるのが生命の木で、右にあるのが知恵の木というらしい」


 辿り着いた先にあったのは、この世のものとは思えぬ景色だった。

 一帯に広がるエメラルド色の池からは湯気が立ち上り、まるで霧の中のような幻想的な雰囲気がある。池の中心の浮島には根元から二つに割れた木が生えており、紅葉したような赤い葉が茂る左側の木には白い林檎が、そして右側の木には青紫色の葉の間に赤い林檎が実っていた。

 これには林檎の花が好きなクロエも唖然としてしまう。

 双子の木は神々しくも禍々しい。実と葉の色もクロエの良く知る林檎の木からはかけ離れているが、花の色も橙だったり黄緑だったりと、色々と自然の法則や常識を無視している。バカ林檎の名に相応しい常識外れの木がセフィロトだった。


「これはどちらを持ち帰れば良いんでしょう?」

「さあ、知らない」

「さあって……」

「常識的に考えたら赤い方かな」

「ローゼンハインさんに常識は通じませんし、名前からして生命の木の方がそれっぽくありません?」

「常識が通じないなら裏をかいて知恵の木かもしれない」

「じゃあ、その裏の裏ということもあるかもしれません」


 会話は平行線だった。

 まず知識がないということもあるが、あのヴィンセントという人物を生み出した大地の常識も分からなかった。クロエもルイスも深い溜め息をつく。


「取り敢えず、両方持ち帰ろうか」

「そうですね。……それで、貴方は木に登れますか?」


 木の根元までは所々に浮かんだ島を伝っていけば辿り着けるだろう。問題はどうやって林檎をもぎ取るかだ。

 あの木の大きさだと、幹を揺すったところで実が落ちてきそうにない。


「流石に木登りはしたことがないな。キミは?」

「私もないです……」


 クロエがうなだれる横でルイスはコートから拳銃を抜く。

 それは彼の部屋の枕下にあるものより大型で、形も違う銃だ。クロエは鉄の塊をじっと見た。

 自動式拳銃は回転式拳銃よりも弾丸を多く装填できる為、護身用というには物騒な得物だ。その大きさからしても護身用の銃ではないことは明らかで、クロエは少しだけ怖く思った。


「何をするんです?」

「これで林檎を撃ち落とそうと思って」

「いえ、あの、射撃じゃないんですから撃ち抜いちゃ駄目ですよ」

「潰さないように撃てば良いんだろ」

「それでも木を傷付けちゃ駄目です。そんな危ないものは使わないで下さい」


 助けてもらった立場で生意気を言うことはできない。それでも、どんな理由でも彼が銃を――人を傷付ける道具を使う姿は見たくない。

 何か余計なことを口にすれば切り捨てられそうな恐怖があり、クロエはルイスの手を掴んだままじっと見上げる。


「なら、どうやって取れば良い?」

「下に落ちている林檎を拾いましょう。それなら安全です」

「地に落ちたものを薬に使うのはどうかと思うけど」

「衛生とか拘っていられません。洗って摩り下ろせば同じですよ」


 ルイスは何処か疲れた様子で銃を元の場所に仕舞った。

 説得できたというよりは、絆されてくれたという様子だった。それでも気持ちが伝わったことは事実で、クロエは目尻を緩ませてしまう。するとルイスは益々疲れた顔をして目を逸らしてしまった。

 そんな時、ばしゃりと水を蹴りながら駆け寄ってきた人物がいる。


「ルイ、クロエ! 無事だったか!」

「それはこちらの台詞だよ、レヴィ」


 心配を窺わせない冷めた声で応えたルイスはレヴェリーを一瞥した後、僅かに首を傾げる。


「グロリアは……?」

「この辺りに危険がないか確認しにいったわ。んで、これが噂のバカリンゴ」


 レヴェリーの手には赤い林檎と白い林檎があった。

 虫に食われたところも傷んで変色したところもない葉付きの林檎は新鮮そのものだ。


「レヴィくん、木に登ったの?」

「ああ。木登りとか懐かしかったなー」

「へえ、そうなんだ……」

「凄いね、レヴィくん」


 クロエとルイスが悩んだことをレヴェリーは簡単にやってのけた。しかも懐かしいと言うからには、幼少時もそうして遊んでいたのかもしれない。運動音痴のクロエにも病弱なルイスにもできなかった遊びを経験しているレヴェリーを、二人は賞賛半分複雑な気持ちで見つめた。


「それで、どちらに毒があるか分かったのか?」

「ビアンカに訊いても微妙なんだよ。専門家に見てもらうしかねえな」

「結局は先生頼みか」


 特効薬の材料となるものを見付けても最後は大人に頼ることになる。そのことを悔しく思いもするが、こればかりはどうにもならなかった。


「帰ったら頼もうぜ。三人なら怖くねえって!」


 頼もしい言葉で締め括ったレヴェリーは、ふと視線を下げる。


「つーかさ、それどういう状況?」


 レヴェリーの視線の先にあるものは手だ。そう、ただの手。ただ掴んでいるだけの手だ。

 幻影に翻弄されながらもクロエがここまでくることができたのは、引っ張ってくれる手があったから。

 有りの儘を話すのも気が引けるものがあり、クロエは考えた末にこう言った。


「迷子になると大変だから」

「迷子になられると困るから」

「どっちがだよ?」


 クロエの言い訳とルイスの言い分がタイミング良く重なり、レヴェリーが呆れた顔をする。


「この人です」

「その人だよ」

「どっちだよ!?」


 いつからか始まった奇妙な呼び方にレヴェリーは突っ込むが、当人はしれっとしていた。


「名前はどうでも良いけど、キミたちみたいにふらふら何処かに行かれたら堪ったもんじゃない」


(迷子になりそうなのは貴方だよね……)


 ルイスの正論を聞きながらも、クロエは内心ぼそりと抗議する。

 子犬の飼い主を探した時のことを忘れはしない。ルイスの方向感覚が怪しかったのをクロエは覚えている。あれこそ「ミイラ取りがミイラになる」というものを体現しているではないか。


「お前、まだ方向音痴直ってないのかよ」

「オレはちゃんと道を覚えているよ」

「ルイ……、道ってのは地図記憶して歩くもんじゃねーんだよ。感覚で歩くもんなんだよ」


 そうしてレヴェリーがルイスを指導していると、その騒ぎを聞き付けたのか湯煙の向こうからグロリアがやってくる。彼女は赤眼をすうっと細めた。

 自分はきっとグロリアに良く思われていない。そう感じながらもクロエは一歩前に出た。


「グロリアさん、さっきは済みません……。それと撲ってくれて有難う御座います」


 クロエに礼を言われたグロリアは衝撃を受けたように目を剥いた。

 何故そのような顔をするのだろうとクロエは首を捻る。すると益々グロリアの顔は渋くなった。


「この子供は妙な性癖でも持っているのか?」

「病人を苛めるのは好きみたいだけど、逆はないんじゃないかな。多分」

「な、何言ってるんですか……!」


 病を抱えているルイスを酷使してしまっているが、クロエはできればそんなことはして欲しくないのだ。

 クロエがグロリアに感謝したのは、あれで頭が冷えたからだ。

 一昨日から今日までクロエの心は不安定になっていた。双子に支えられながらも、何処か薄暗い気持ちが心を支配していた。そんな時に平手打ちを食らって少しだけだが心がまともになった。

 とても痛かった。

 ヴィンセントとあんなことがあり、闇に取り込まれたクロエは「痛め付けられても良い」と可笑しな考えをするようになっていた。だが、あの平手を受けて痛いと感じた。やはり痛いのは嫌だった。

 自暴自棄な考えでは昔と何も変わっていない。卑屈なまま、一歩も進めていない。それこそ惨めなような気がしたのだ。

 そのことに気付く切欠を与えてくれたグロリアだから、クロエは感謝した。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 帰宅すると同時にファウストの雷が落ちた。

 ファウストは普段の温厚さからは想像できない剣幕で怒鳴り、健康なレヴェリーには鉄槌を下した。怪我人のクロエと病人のルイスには手を上げなかったが、それでもくどくどと説教をした。メルシエが大人げないと諌めてもその怒りは収まらず、暫くはファウストの独壇場だった。


「石化病というのは厳密に言えば病ではなく、禁忌に触れた罰なんだ」

「禁忌とはどういうことですか?」


 教えを乞う生徒の姿勢になったルイスに、彼の家庭教師のような存在でもあるファウストは答える。


「あの区域……月騙しの森は外法たちにとっても聖域でね、双子の林檎は聖物とされているんだ。知恵の木と生命の木はそれぞれを抑える役割を持っている。簡単に言えば、白の林檎の毒に当たった人は赤の林檎で解毒できるってこと。逆も然り。だから、ヴィンセントがどちらの林檎を食べたかによって、どちらで薬を作るかが変わってくるんだ」

「ファウスト先生って【下】のことに詳しいんだな」

「アンジェリカに聞いたんだよ」

「アッシェンちゃんが……?」


 石化病についての知識が増えているファウストは、それをアンジェリカのお陰だと語る。


「彼女は協力的なんだ。石化病のこともそうだけど、私たちの認識が違っていたことを教えられたよ」

「あの、アッシェンちゃんは元気ですか?」

「元気過ぎて施設の者が手を焼いているよ。さて、背景についてはこれくらいにして、どちらで作るか決めようか。早いに越したことはないからね」


 石化が進む前に薬を作りたいと言って、ファウストは皆を見回した。

 クロエ、レヴェリー、ルイス、グロリア。そしてエルフェとメルシエ。ここにはファウストを含め、総勢七名のヴィンセントの知人がいる。しかし、生きるか死ぬかの賭けに簡単に口を出せる者はいなかった。


「両方食わせるっつーのは駄目なのかよ?」

「それぞれの効果を相殺し合うか、もしくは妙な反応を起こす可能性があるからすすめられないな」


 皆が黙り込む中、クロエは自らの希望を言葉にした。


「白い林檎で作ってくれませんか?」


 クロエはヴィンセントに毒林檎を食べないかと誘われた。

 あの血の匂いのする林檎は真っ赤に熟れていた。

 毒を差し出されていたのだとしたら悲しいけれど、恐らくそういうことなのだと思う。

 本心としては赤と言いたかった。ヴィンセントが食べさせようとしたのは毒林檎ではないと信じたかった。だが、ディアナという人物を大切に思うが故にクロエを疎む気持ちこそを、クロエは信じることにした。


(これでローゼンハインさんが助かったら――)


 もし白の林檎で助かれば、ヴィンセントがクロエを殺そうとしたことは紛れもない事実になる。

 クロエはヴィンセントにもう期待はしていなかった。それでも辛いものは辛い。

 助からなければ助からないでクロエはヴィンセントに期待しなかった自分を呪うことになり、助かれば助かったで殺したいほど疎まれている事実を知ることになる。

 クロエにとってはどちらも地獄。どちらを選んでも背負うことになる苦しみは同じだ。


「先生、その人が言うように白林檎で薬を作って下さい」

「しかしだね……」

「あの人を一番助けたいと思っている彼女に選ばせるのが妥当だと思いませんか」


 小さく咳き込むルイスに次いで、レヴェリーも意見を述べる。


「あいつもゲテモノ食いだけど流石に白林檎は食わねーよな。つーことで、オレも白に一票」


 双子はそれぞれにクロエの意見を尊重し、信じる姿勢を取った。クロエは内心感謝する。


「白い林檎でお願いします……!」


 身体を動かす度に胸は悲鳴を上げる。様々な感情が胸の奥でごちゃ混ぜになってクロエは泣きそうになったが、それを堪えて頭を下げた。双子も眼差しだけ伏せる。

 その時、ファウストの宵闇色の瞳が哀れみに揺れたのを見たのは大人たちだけだった。


「仕方ない。あの男が死んだら借金の返済もして貰えないからね、今回だけは救ってやることにしよう。今から準備をするから部屋を借りるよ。グロリア、手伝いなさい」

「分かった」

「レイフェルとメルシエ嬢には他の材料を揃えて貰えると助かるんだけど……、良いね?」

「ああ、仕方がない」

「そうだね、ここまできて手伝わないってのも薄情だしね」


 煌々と灯った明かりの下で、大人たちはそれぞれが成すべきことの為に動き出す。

 クロエが自分に与えられる仕事は何だろうと待ち構えていると、ファウストはこう言った。


「君たちはさっさと寝なさい。子供が起きていて良い時間じゃないよ」

「で、でも――」

「貴女は充分頑張ったよ。あとは大人に任せなさい」


 薬を飲んだら暖かくして眠りなさい。朝起きたら全て終わっているよ。子供を甘やかすような口調で言うと、ファウストは扉の向こうへ消えた。

 クロエたちができるのはここまでだった。


「良かったな、クロエ」

「……うん、良かった」


 成功するか失敗するかは分からない。今は信じて待つしかない。

 ファウストが言うように、信じて眠ることだけがクロエたちにできることだ。


「あれ……? そういえばあの人は?」


 レヴェリーとルイスに改めて礼を言おうとしたところで、クロエはルイスがいないことに気付く。

 大人たちの行動に気を取られていて気付かなかったのだが、いつの間にかに彼の姿はリビングから消えていた。


「部屋に戻ったんじゃね? 熱上がってなきゃ良いけど……」

「私、様子見てくるね」


 本当に皆が労らなくてはならないのはルイスの方だ。

 ルイスは自分の身体を大切にしないところがある。彼は他人には優しいのに、自分にだけは冷たい。

 彼が自分を大切にできないなら周りが大切にしてやるしかない。

 貰った慈悲の分だけ――いや、それよりも多くのものを返したいとクロエは思った。

 廊下に出ると、咳が聞こえた。何処か頼りない乾いた咳ではなく重く湿った咳。その咳が俄かに激しくなり、直後、ごぼ……っと音がした。

 階段を駆け上がり、近寄ろうとしたクロエは凍り付いた。口許を押さえたルイスの手が赤く染まっている。


「……あ…………」


 空気混じりの赤い血。その鮮やかさは消化器からの出血ではなく、気管支からのものだとクロエは気付く。

 ルイスの咳は風邪でも熱病でもない。

 クロエは真っ暗な穴に突き落とされたような気がして、その先を考えることはできなかった。

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