差し出された毒林檎 【8】
「特効薬になる植物って何なんだ?」
クロエとレヴェリーは下の地理は疎か、特効薬の材料となる植物も知らなかった。
レヴェリーの呑気な質問を聞いてルイスは嘆息する。
「ミイラ取りがミイラなるという言葉があるけど、本当にいるとは思わなかった」
その言葉は行方不明者を探しにいった者もまた行方不明になって探される立場になるという意味のものだが、ルイスが言いたいのは恐らく、人助けをしにいって自分が死んでどうするのかということだ。
「し、仕方ねえだろっ。クロエが今にも飛び出しそうだったんだよ」
「私の所為なの?」
「そうだろ。一週間ってリミットまでまだ時間あるんだから、もう少し作戦練っても良かったはずだ!」
「レヴィくん、酷い……」
レヴェリーはクロエを庇うことより、ルイスに同調することを選んだ。
確かに軽率だったとは思う。クロエ一人では最下層部にすら辿り着けなかっただろう。例え辿り着けたとしても、特効薬を探す宛がある訳でもない。無鉄砲と言われても仕方がなかった。
だが、動かずにはいられなかった。じっとしていると意識が暗く重いところへ沈んでいって、どうにもならなかったのだ。
「責任の押し付け合いは見苦しい。どちらにも問題があるんだ。潔く反省したらどうだ?」
「う……っ」
「ご、ごめんなさい……」
正論なので、言葉を返せない。ルイスの語調が冷ややかなので余計に落ち込む。メルシエとルイスがいなかったら手詰まりになっていたというのは二人も理解していたので、反省した。
門を潜るとまた門があって、その門の奥にはまた門があった。
そうして五つ目の門の施錠を解除するところになって、ルイスは説教をしても仕方ないと諦めたのか特効薬について話してくれた。
「ここから西に数キロ行った先に池がある。そこに生えているセフィロトという樹の果実が万病に効く薬とされている……けど……」
「けど何だよ?」
「別の毒があって、運が悪いと死ぬらしい」
「死ぬ!? ヴィンスにそんな危険なもの飲ませんのかよ!?」
「どちらにしろ放っておけば死ぬんだ。失敗したってどうということもないだろ」
「そ、そりゃそうだけどよ……。もっと良いもんねえのか?」
「オレだって急いで調べてきたんだ」
確実性を求めるなら、一旦戻ってファウストに協力を仰いだ方が良いがどうするか。
ルイスは賭けを行うか行わないか二人に訊ねた。
「あのおっさん説得できる気しねーよ」
エルフェならファウストをどうにかしてくれそうだが、そのエルフェの説得はメルシエに頼んでしまった。
そう、全て他人任せ。クロエは大人に頼りきっているのだ。
(私にできることは……?)
【下】の病にヴィンセントがどうして感染したのかも、どうすれば治せるのかもクロエには分からない。
クロエが何もしなくてもヴィンセントは死ぬ。失敗したとしても死ぬ。
行くも戻るも地獄。ここが底辺だ。ここより悪いところはきっとない。
「人は死ぬ時は死ぬんですよね……。だったら私は賭けてみたいです」
「クロエってはっきり言うよな……」
「できることをしないで、あとで後悔するのは嫌だから」
クロエは今できることは精一杯したい。何もしないで、逃げて、あとから後悔するのはもう嫌なのだ。
「身勝手なことだって分かっているの……ごめんなさい……」
クロエが目を伏せる前で双子は暫し顔を見合わせ、先にレヴェリーが口を開いた。
「オレたちがあいつの命で賭事すんだから確かに身勝手だよな。でも、放っておくなんてできねえんだろ? だったらオレたちができることをするしかねえじゃん。つーか、放っておいてもどうせ死ぬなら、失敗しても誰も怒ったりしねーだろ」
ヴィンセントに祟られるかもしれないからその時は一蓮托生な、とレヴェリーはおどけてみせる。
「もし最悪の結果になってもキミの責任じゃない。だから全て抱え込もうとか思わないで良いから」
ルイスの語調は厳しく、突き放されているようにも感じてしまうが、その裏にある気遣いは伝わってきた。
クロエは恐る恐る顔を上げる。すると、そっくりで正反対な色を湛えた紫の瞳と目が合った。
夕空のような赤は情熱の色。夜空のような青は悲哀の色。
その二つが溶けた瞳は同じ色のはずなのに少しだけ違って見える。けれど、どちらも優しかった。
「ふたりとも……」
失望したと見下げられ、汚らわしいものでも見るような蔑みの視線を向けられると思っていた。
彼等がそんな態度を取るはずがないのに、何故そういうことを考えてしまったのだろう。
「ごめんね、ありがとう」
ごめんと謝って良いのか、有難うと礼を言って良いのか分からなくて、結局どちらも言ってしまう。
曇天の空のように暗く沈んでいたクロエの瞳にほんの少しだけ光が戻っていた。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
太陽もなく、月もない群青の空。
夜の帳が降りたにも関わらず仄かに明るい森には、雪がしんしんと降っている。
「汚染区域ってどんなところかと思っていたけど、意外と普通なんだね……」
ひらり、と花弁のように落ちてくる雪片を掌で掴みながらクロエはほぅと溜め息をつく。
ここは【アヴァロン】西部にある月騙しの森と呼ばれる場所だ。
白い枝幹の樹木とその根元から生えた草がぼんやりと発光していて、月明かりがないのに辺りは明るい。何処までも続く白銀の樹木で形成された森は幻想的で、童話の中の世界のようでもある。
「でもよ、あの門は異様じゃね? あれじゃ守ってるんだか閉じ込めてんのか分かんねーよ」
「キミたちはどちらだと思う?」
隔離しているのか、それとも引きこもっているのか。
先導するように先を行くルイスはクロエとレヴェリーに訊ねた。
「閉じこもってんのかな」
「閉じ込めているようにも見えるかな……」
五つの門には武装した者たちが控えていて、彼等は交代で警備の任に就いているようだった。彼らの纏う空気は、【仕事】に出て行く時のヴィンセントやエルフェと良く似ている。
「どちらも正解だよ」
「どちらも?」
「人間は外法を閉じ込めているし、外法は人間と関わらない道を選んだ。その不可侵の掟に――」
乾いた咳でルイスの言葉が途切れた。
痰が絡む湿った咳でも喘息の激しい咳でもなく、何処か頼りない咳だ。
「おいおい、大丈夫かよ……?」
初めに体調不良を訴えたのは二週間前で、それからルイスは臥せりがちな日々が続いていた。高熱と咳で苦しみ、一晩中眠れずにいるところをクロエとレヴェリーが交代で看病した日もあった。
「……心配されなくても……キミの荷物になるようなことはもうしないよ」
「荷物とかどうでも良いが、喉とか胸とか痛くないか? お前、最近変な咳してるよな」
「外法の話だったね。話を切ってごめん……」
それ以上の詮索を拒むようにルイスは話を戻した。
「人間と外法は互いに関わらないと決めていて、それを破って外に出てくる奴が【上】の敵だ」
「そんな奴等がどうして出てくんだよ?」
「狩猟だと聞いている」
「猟、ですか?」
その言い口だと外法が人間を食べる為に外に出てきているようで、クロエは恐ろしくなる。
(ううん、アッシェンちゃんはそんなことない)
笑って、怒って、泣いて。クロエの作った料理を美味しいと食べていたアッシェンにそんなことはない。凶悪な爪を持っていたとしても、クロエの腕の中で眠ったアッシェンは普通の少女だった。
「つまり外法って何なんだ?」
「……宗教の違う人間とだけ思っていた方が幸せだろうね」
そうしてルイスが言葉を切った直後、背後から抑揚のない無機質な声がぶつけられた。
「部外者に何を教えている?」
何処かで聞いたことのある声だった。
恐怖に支配されて動けないクロエの真横をすり抜けて、黒衣の娘はルイスの前に立つ。
「巻き込んだ以上は最低限は教えるべきだと思った」
「だとしても貴様の言動は秩序を乱しかねない。自重しろ。さもなくば首が飛ぶ」
白い肌に映える黒檀の髪に、血のように赤い瞳と唇。エキゾチックな顔立ちの娘をクロエは知っている。いつかの夜、ルイスとヴィンセントを連れていった娘だ。
「忠告有難う。それでグロリア、何故ここに?」
「ファウストが貴様と監察対象がいなくなったと騒いでいた。故に私は発信機を辿ってきた」
クロエとレヴェリーの身体には発信機が埋め込まれている。
「何故、あの外法紛いを救おうとする? 貴様のお得意の甘ったれた容赦か?」
「そうじゃない。あいつが死んだらオレの目的が振り出しに戻るから助けるだけだ」
ヴィンセントは双子の両親の敵を隠している可能性がある。レヴェリーはそのことを知らないので、ルイスは【目的】とぼかした。
黒衣の娘グロリアは忌々しそうにルイスを見上げた後、小さく舌打ちした。
彼女の銀器のような鈍い光を放つ目は奇妙な動きをしている。迂闊に近寄れば、首を落とされかねない物騒さがある。下手な行動をすれば殺されるとクロエは思った。
「お前ってヴァレンタインとこの召使いのビアンカだよな……?」
無駄にぴりぴりとした雰囲気を纏っているグロリアに、レヴェリーは話し掛けた。
「召使いではなく、侍女だ」
「どっちでも良いだろ!」
「良くない。召使いと侍女では身分が違う。私は侮られるのが嫌いだ」
「先生とルイとどう繋がってんのか知らねえけど、ヴァレンタインとレイヴンズクロフトって仲悪いんだろ? そんなところで間者やってるって大丈夫なのかよ?」
「ヴァレンタインの長男をレイヴンズクロフトに預けているのだからフェアだ」
「いや、だからフェアとかアンフェアとかの話じゃなく、お前が平気なのかって訊いてんだよ!」
「答える義理はない」
「何だよ、人が心配してんのに……」
「貴様のような乳臭い餓鬼に何故心配などされなければならない? 不愉快だ」
果たして仲が良いのか悪いのか。レヴェリーとグロリアは言い争いをしている。
レヴェリーはヴァレンタインの屋敷に滞在したことがある。その時に世話になったのならグロリアとも面識があるのだろうが、それにしても気安い態度だった。
「レヴィ、グロリア。ふざけているなら帰ってくれるか」
グロリアは気に食わないという様子でレヴェリーを睨み付けていたものの、ルイスに小言を言われるのも不快なようで、舌打ちすると襟巻きの裾を翻した。
白雪の舞う中で漆黒のビロードが妖しく棚引く。
「付いてこい。セフィロトまでの道を教えてやる」
熟れすぎた果実のように赤い瞳が真っ直ぐとクロエを捉えた。
「バカ林檎を食って死に掛けている奴をバカ林檎で救う、か。妙な話だな」
クロエたちを案内する為に先行するグロリアはふとそんなことをこぼした。
その風貌から寡黙な雰囲気を感じてしまうが、彼女は人並みに会話をする人物らしい。クロエがバカ林檎とは何かと訊ねると、季節に関係なく実を付ける木のことだと答えてくれた。
取っ付き難いものの、悪い人ではないようだ。何処となくルイスと似ているかもしれない。
グロリアに案内されてやってきたのは、先ほどよりもずっと視界の悪い――眩しすぎて却って視界が閉ざされるような白の森だった。
白い闇。そんな例えが思わず浮かんでくるような目映さだ。
(……何だろう……)
何故だか分からないが、とても気持ちが悪い。
光に満たされて怖いものなど何もないはずなのに、暗がりにいるよりも落ち着かない気分になる。
『クロエちゃん、絶対迎えにくる。だから、待っててね』
白い闇の中に、赤い帽子を被った金髪の女性が立っていた。
その姿は幼き日に別れた母親のものだ。クロエは手を伸ばし掛けて、そこで動きを止める。
「……あ…………」
心臓の鼓動に合わせて、ずきり、ずきりと胸の傷から鈍痛が広がる。指先が痺れて、その痺れが頭の芯にまで回ってしまったような奇妙な感覚がある。
「幻覚が見えるか?」
「……グロ、リアさん」
「木の根本を見ろ。あの茸の胞子は人の神経に作用して幻覚を見せる厄介なものだ」
幻影に惑わされ、二度と戻ってくることができなくなると恐れられるのが月騙しの森という場所。ここに住まう者たちですら恐れ、近付かない聖域だ。
「前を向け。己がいる場所をしっかり思い出せ。心を揺らさなければ幻影に捕らわれることもない」
心の強い人間なら幻影に惑わされることもないのだろう。しかし、クロエは心の弱い人間だ。
『クロエは私に似ていない』
『あんた、本当にアンセムの娘なの?』
『クロエちゃんはわたしとあの人の子だもの』
耳鳴りが酷い。
幻聴が聴こえる。
(お母さん、どうして私を捨てたの?)
首筋に、冷たい視線を感じた。
「――――っ!」
その瞬間、恐怖に弾かれたように本能的に後ろを振り返った。
直後、目に入ったのは女の姿だった。見開かれた二つの眼球が、ぐるんと回転するような異常な動きをしてクロエを見下ろした。