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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
四章
53/208

差し出された毒林檎 【7】

 天に聳える塔【アルケイディア】は、大きく分けると五つの階層から成っている。

 最上層部、上層部、中層部、下層部、最下層部だ。そしてその中で更に上部と下部に分けられている。

 最上層部【エデン】、上層部上部【レミュザ】、上層部下部【フェレール】、中層部上部【ロートレック】、中層部下部【クレベル】、下層部上部【ベルティエ】、下層部下部【バルニエ】、最下層部【アヴァロン】。

 下層部下部にある【バルニエ】は、上部からの廃棄物が山積みになっている劣悪な環境の階層だ。更に下にある【アヴァロン】は地上に近い為、放射能汚染をされている区域と言われていた。

 しかし、そここそがクロエとレヴェリーの目指す【下】という場所だった。


「クロエ、フードで顔隠せ。金髪は目立つ」

「う、うん……」


 クロエはコートのフードを被る。視界が狭まったことで世界が一層暗く見えた。

 地上近くの下層部に形成されたスラム街には、貧困層が暮らしている。

 廃材を利用して建てられた歪な形の建物が立ち並ぶスラム街では、略奪や人身売買が横行している。視線を動かせば、派手な衣装の女が男に腕を引かれて路地に連れ込まれるところが目に入る。

 貧困層の女の最も稼ぎになる商売は己の身体を売ることだ。宿を取ることもせず、暗い路地裏で事を済ますのがここでは当たり前だった。

 灰色の空の下に広がる灰色の街。灰にまみれたような人々。


(私もここにいたかもしれない)


 顔を上げていれば恐ろしいものを見てしまいそうで、クロエはフードを更に深く被った。そうして前方に注意して歩いていなかった所為で人とぶつかってしまう。

 衝撃と共にずぎんと胸に痛みが走り、クロエは謝罪するのが遅れる。


「おい、痛えじゃねえか。骨折れたらどうしてくれるんだよ」

「……あ……その、済みませ……」

「人様ぶつかっといてそれで済むと思ってんのか!?」

「ご、ごめんなさい……!」


 悪質な当たり屋だった。けれど、そんなことを知らないクロエは謝るしかできない。

 クロエは痛みを我慢して頭を下げる。すると、フードからこぼれた髪が胸の前に流れた。

 男の目付きが途端に変わる。


「何だよ、金髪碧眼じゃねえか」


 ぎらぎらとした眼差し。

 得体の知れない炎を宿した眼差しに恐怖したクロエは身を引こうとしたが、その前に男の手が伸びた。


「清算させてやるからこい」

「……は、離して下さい……!」


 何処かに売られるのか、それともこの男に何かされるのか。震えるクロエを連れていこうとする男を止めたのは、レヴェリーだ。


「おい、そいつはオレの連れだ。横から奪うんじゃねーよ」

「何だよ手前は」

「オレの女だっつってんだろ。手ェ離せよ」

「餓鬼は黙ってろよ!」

「……レ、レヴィく……」


 男が手を振り上げたのが見えて、その次に目に入ったのは地に伏すレヴェリーの姿だった。

 灰色の世界に赤が生まれる。

 レヴェリーの額から流れる血と同じ色に視界が染まり、クロエは痛みも忘れて声を張り上げた。


「レヴィくん……!」

「こっちにこい」

「離して! レヴィくんが……っ、痛い……離して!!」


 掴んだ腕を奇妙な方向に捻られてクロエが悲鳴を上げる。

 往来には人の姿があったが誰もクロエたちを助けようとはしない。これがスラム街での日常だった。


「その汚い手……離せよ……」

「あ……?」


 一瞬、その声が誰のものか分からなかった。それほどに普段の声とはかけ離れたものだった。

 クロエが驚いて振り向いた先で、よろりと起き上がったレヴェリーは額の血を拭う。


「だから何度も言うが……人の身内、勝手に触ってんじゃねえよ!!」


 クロエは目を見張る。ばさりと大きく翻る影を、ただ見る。

 ひょろりとした男の顎にレヴェリーの拳が決まり、怯んだ隙に腹に爪先が潜り込む。鳩尾を蹴り上げられた男は嘔吐き、身を折った。レヴェリーは舌打ちすると、クロエの手を取って早足でその場を去った。

 自分の腕を引くレヴェリーの力強さに怯えながらクロエは訊ねる。


「……あの、レヴィくん……大丈夫……?」

「あー……額って切れると血止まんねーんだ。大したことねーから」

「で、でも痛いよね?」

「オレ、エルフェさんとヴィンスにぼこぼこにされて育ったんだぜ?」


 可愛らしい純朴な少年。レヴェリーにそんなイメージがあったクロエは驚いている。

 クロエが目覚める前までは非行に走っていたという噂だけは聞いていたが、ヴィンセントやエルフェに軽くあしらわれている少年からは粗暴な影は見えなかった。しかし、実際に喧嘩慣れしている様子を見ると、やはり男性なのだと思い知ってしまう。


「……ご……ごめんね、助けてくれて有難う……」

「こういう時は謝らないで素直に礼言って欲しいんだけどな」


 あいつと同じじゃねえか、とレヴェリーは決まり悪そうに肩を竦めた。






 【アルケイディア】という世界を象徴する塔の名を【シャンバラの塔】という。

 街々のプレートを支えるその中央塔内にはトンネルが通っており、各階層を結ぶ昇降機がある。


「無人の昇降機ってあるんだね」

「だからここまできたんだよ。人がいちゃ、これ使えねえだろ」


 中央塔にはクロエたちのような一般人は立ち入れない為、スラム街の使われていない昇降装置がある場所までやってきたのだ。

 何故レヴェリーがスラム街に詳しいのかとクロエは疑問に思いもしたが、質問は避けた。クロエの火傷やルイスの切り傷のように、その話題は軽々しく触れてはいけない内容だ。


「【アヴァロン】行き、と」


 ヴィンセントの私物から拝借してきたというカードキーを用いて昇降機を起動すると、閉鎖区域とされている最下層部へのライトが点灯する。レヴェリーは迷わずそのボタンを押した。

 僅かな振動と共に昇降機が動き出す。


(不思議、だよね)


 自分の暮らしている地面の下に人が生きている。自分の見上げている空の上で人が生活している。それが常識なのだから今まで特に考えることはなかったが、この塔を築いた過去の人間はどれほどの技術力を持っていたのだろう。

 そんなことを考えている間に昇降機は最下層部に到達し、アナウンスと共に扉が開く。


「な、何だこりゃ!?」


 昇降機を降りたレヴェリーが驚いたのも無理はない。目の前には大きな門があったのだ。


「おっきな壁、だね……」


 背後には昇降機しかなく、前方には視界の端から端までを埋め尽くす壁。クロエは虫一匹通さぬほど固く閉じられた門を見やる。

 高い石壁と頑丈な門は中のものを守るようであり、また同時に隔離するようでもあった。その門の前には幾つかの建物があり、人の姿も見付けられた。

 異様な雰囲気はあるが人の暮らす場所だとほっとしたのも束の間、クロエたちは声を掛けられた。


「お前たち、何者だ。所属を言え」

「しょ、所属ぅ!?」

「え……えと、私たち……」


 門の前からやってきた迷彩服姿の男はゴーグルの奥から鋭い視線を寄越す。視線な凶悪で、肩には物騒なライフル銃が下げられている。

 蛇に睨まれた蛙のようになったクロエとレヴェリーは懸命に訴えようとしたが、軽装かつ挙動不審な子供は明らかに怪しかった。


「怪しい奴等だ。おい、誰かきてくれ! こいつ等を尋問に掛けろ」

「え……っ」

「や、ちょっと待ってくれ!」


 クロエとレヴェリーが必死で潔白を証明しようとしていると、唐突に門が開いた。門を抜けてやってきたのは、クロエの知る人物だった。

 彼等と同業者ということは知っていたが驚かずにはいられない。

 分厚い前髪の下でサファイアブルーの瞳を光らせながら女は言った。


「待ってもらおうか。それはうちの知り合いだよ」

「それは本当か」

「この子たち、あたしの知り合いの部下だから容赦してやってよ。まだ現場に慣れてないんだ」


 レザージャケットにジーパンというボーイッシュな格好をした彼女は骨董商メルシエだ。さあさあ帰った、とメルシエは男を持ち場に戻し、クロエとレヴェリーの手を引っ張った。

 家屋の中に連れて行かれ、席に座らせられる。暫く待つとココアを出された。

 ココアの甘い香りが肺を満たしても心の憂鬱には払うには至らず、クロエは全く口を付けられない。


「冷めるから早く飲みな」

「で、でも、メルシエさん」

「今日は寒いね。身体が冷えているだろう。まずは飲んで暖まりなよ」


 飲まない限り話は聞かないという様子で圧力を掛けられたので、クロエとレヴェリーは黙って飲む。

 一口、二口と飲む。味わうのではなく、ただ飲み込む。とろりとした甘さが喉の奥を通り、腹に溜まる。

 昨日の昼から何も口にしていないので胃は空になっていた。腹が満たされると少しだけ心も落ち着いた。


「さて、あんたたち。どうしてこんな場所にいるんだい? 汚染区域だってことは知ってるんだろ」


 子供たちが落ち着いたのを確認した後、メルシエは呆れ顔を作って訊ねた。


「ローゼンハインさんが石化病に罹られて、特効薬がここにあるって聞いたんです」

「ヴィンセントが病気? あいつも病気なんて罹るのか。いや、まあそいつは良いよ。問題は何であんたたちがこんな危険な場所にいるかって話さ。レイはどうしたの?」

「エルフェさんならヴィンス放ってどっか行っちまったよ」

「大人げない奴だね。じゃあ、あいつは? レイのお兄さんは?」

「ファウスト先生もエルフェさんと同じだよ。つーか、他の医者当たったけど駄目だったんだ」


 ヴィンセントは嫌われ者で、誰も関わりたがらない。今までの悪行に対する制裁報復とばかりに皆一様に取り合わなかった。

 メルシエは唸り、部屋の中を行ったり来たりする。


「メルシエさん、どうにかなりませんか?」

「んー……力を貸してあげたいのは山々なんだけど、あたしは特効薬なんて知らないんだ。そっちに詳しい誰かを雇うにしても、ヴィンセントの名を聞いたら誰もやりたがらないだろうしな……」


 かといって目的を伝えないことにはここで動かせる人間はいない。

 完全に手詰まりだと、そう思われた時。


「その仕事、私が引き受けます」


 家屋の扉が開く。琥珀色の明かりに、耳許で藍玉石と銀鎖が揺らめいた。

 クロエはただ目を剥く。そして、メルシエとレヴェリーが叫ぶ声を聞いた。


「ヴ、ヴァレンタインの小侯爵……!」

「ルイ!?」


 良く知った彼。だがクロエとレヴェリーが驚いたのは、それがここに在ってはならない姿だからだ。メルシエは一歩身を引いた。


「お、お久しぶりです……?」

「お久し振りです、メルカダンテ伯爵令嬢」


 ルイスがそう言って一歩前に出ると、メルシエもまた一歩下がる。

 逃げられるので追う、追われるので逃げる。単調な交戦は、メルシエが背を壁に着けたところで終了した。

 両者の間には充分に距離はある。メルシエは凶悪な猫に追い詰められた子猫のように怯えている。


「な、な……何なんだよ!?」

【復讐者】イル・ヴェンディカトーレは、敵に逃げられると追いたくなるんです」

「わ……悪かったって! この前のことはあたしが悪かったから許しとくれよ!」


 笑顔も添えられない冗談のような一言に、メルシエは心の底から恐怖したように謝罪を述べた。

 ルイスは下らないと切り捨てるように嘆息した。


「うちの会社に喧嘩を売ったのは一先ず良いです。私が用のあるのは貴方ではなく、そこの二人です」

「知り合いかい?」

「兄と友人です」

「ということは、クロエちゃんが言ってたもう一人の居候って……」


 メルシエはレヴェリーとルイスの顔を何度も見比べた後、そのぽってりとした唇を震わせた。


(どう、して……?)


 クロエは喜べない。友人と言われたことも、ここにきてくれたことも喜べる訳がなかった。ルイスはそんなクロエの心を知る様子もなく、メルシエと話を付ける。


「薬の件は私が引き受けます。貴方にはレイフェルさんを説得してもらえると助かるのですが……」

「探してくりゃ良いんだろう。見捨てないよう説得するから、店潰したりはなしだからね」


 メルシエの骨董店【Waldhaus】と【ヴァレンタイン社】は折り合いが良くないようだ。

 商人貴族同士で何かとトラブルもあるのかもしれないが、両者の反応を見る限り、後ろ暗いものがあるのはメルシエの方だ。


「じゃあ、あたしは行くよ。あんたたちも気を付けなよ」


 クロエの頭に手を置いたメルシエは、ルイスに鍵のようなものを渡すと部屋から出ていった。

 途端に三人分の沈黙が重く圧し掛かり、息苦しくなる。目を合わせたら射殺(いころ)されそうで、クロエは視線を上げられなかった。


「お前、寝てなきゃ駄目だろ!」

「薬を飲んできたから平気だよ」

「それでぶっ倒れたらどうするんだよ。つーか、何でこんな所にいるんだよ」

「仕事だよ」

「仕事? ヴィンス助けるのが仕事だって言うのか?」

「勘違いしないでくれ。オレは別にあの男の為にきたんじゃない。キミたちの協力にきた訳でもない」


 ファウストの為に薬の採取にきたのだと、ルイスは不満と不本意を粗く混ぜた声で言う。


「空気感染はしないといってもウイルス源が持ち込まれたことは変わりない。あいつだけが倒れるなら別に良いけど、他の人が倒れたら手が回らなくなるだろ……」


 未だ傷が癒えない右腕を庇うように腕を組んだルイスは面倒臭げな様子だ。

 その姿を見てレヴェリーははっとしたように目を見開き、その後、弱ったように笑った。


「レヴィ、気が触れたのか?」

「お前さ、嘘つく時、腕組む癖あるよな」

「……人のこと、知ったように言わないでくれるかな」


 真面目で、繊細で、人嫌いの癖にお人好し。そんな己を守ろうとするような弟の振る舞いを、兄はしっかり見付ける。ルイスは否定したが、昔と変わらない弟の癖を発見したレヴェリーは嬉しそうだった。


(私なんかより、よっぽど優しいよ)


 馴れ合いを嫌う癖に、周りの者が困っていると放っておけないルイスはお人好しだ。そして例え相手が敵に等しい存在だろうと見捨てられない彼は愚かだ。

 ルイスはまた自分を蔑ろにしたのだ。よりにもよって、あのヴィンセントの為に。

 もしかするとレヴェリーの為か、本人が言うようにファウストの為かもしれない。だが、どちらにしても自分より他人を優先したことには変わりない。

 双子の間にある穏やかな空気を肌で感じながらも、クロエは笑えない。

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