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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
四章
52/208

差し出された毒林檎 【6】

 寝ても覚めても身体が辛い。

 少しでも身体を動かすと内側から針で刺されるような痛みが胸を貫く。気を緩めると表情が引き攣ったままになってしまうので、クロエは気持ちが沈まないように己を叱咤する。

 今日は朝早くからやってきたファウストに診察を受けていた。


「女の子にこんなことするなんて惨いな」

「ご迷惑をお掛けして済みません」

「その台詞はヴィンセントが言うべきものだね」

「いえ……、私がいけないんです」


 差し出された林檎を食べなかったり、要らないと言われた紅茶を押し付けたり、クロエは生意気な下僕だ。

 クロエのような出来損ないは、他人に不愉快に思われないように生きなければならないのに、しゃしゃり出てしまった。ヴィンセントに制裁を加えられても仕方がなかったのだ。

 起きたことを【こういうものなのだ】と受け入れ、諦めることには慣れていた。

 クロエは目を伏せ、吐息をつく。


「……あの……ファウスト先生、昨日は生意気なことを言って済みませんでした」


 一晩休み、少しだけ頭が冷えたクロエは自己嫌悪に陥った。

 何も知らない癖にというのはあまりにも子供染みた言い分だ。クロエが周囲の者に心を開いていないのだから、皆がそんなクロエのことを理解するはずもない。昨日の発言はあまりに身勝手な物言いだった。


「良いんだよ。私こそ勝手に決め付けるようなことを言って済まなかったね。あの後、貴女の気持ちを考えるべきだったと反省したんだ」

「いいえ、ファウスト先生が言った通りなんでしょうから……」


 恐らく普通の人間ならこういう傷を負ったら、へらへら笑っていられないのだろう。ファウストを始め、エルフェやレヴェリーから向けられた異端者を見るような目が忘れられない。


「私、普通じゃないんですね」


 奇妙な育ちをしたから平穏な人生をと――平凡な人間でありたいと願ってきたが、クロエの精神は【平凡】から程遠い。口に出すと、その事実が一層胸に染みて自嘲の笑みがこぼれた。


「自分が嫌になるよ。私は貴女たちを救うことも理解することもできない……」

「そんなこと――」

「あるんだよ。私たちは恵まれているから、貴女たちの痛みを理解できないんだ」


 恵まれているからこそ他人の不幸や痛みを理解できないのだとファウストは嘆いた。

 人は不幸の分だけ他人に優しくなれる、とファウストはかつて言った。それはクロエを労る言葉に思えたが、実は己を嘲る意味を持っていたのだ。


「その気持ちだけで嬉しいです」


 少なくともファウストはクロエを理解しようと心を砕いてくれている。

 【これ】を理解しない人間が多いことは知っている。施設にいたということで向けられる偏見と同じだ。人は過度に不幸な目に遭った者へは同情よりも恐れを感じて近寄らないのだ。

 理解できないと切って捨てられないだけ良い。ファウストは充分すぎるほど優しかった。


(心配させてしまうなんて駄目だな……)


 平気だからこそ微笑んでいるはずなのに却って周りを心配させ、嫌な気分にさせてしまう。

 クロエが落ち着いているのはこういうことに慣れているからだ。

 ただ相手が継母のジゼルから、主人であるヴィンセントに変わっただけのこと。

 何事も経験があれば怖くない。経験があれば恐れることなどなく、冷静に対応することができる。

 今度は上手くやろう。継母の時のように、致命的な決裂を生まないよう上手く振る舞おう。決意と共にうなだれた顔を真っ直ぐ上げる。するとその時、部屋の扉が開いた。


「あ、レヴィくん……」

「レヴェリー、女の子の部屋をノックもしないで開けるなんていけないよ。やり直しなさい」


 ファウストは無遠慮にクロエの部屋に踏み入ってきた少年に教育的指導を施そうとする。レヴェリーは「そんなこと言ってる場合じゃねえ」と血相を変えて言った。


「先生、きてくれ! ヴィンスが動かないんだ!!」






「石化病かな」


 死んだように眠るヴィンセントの硬直した腕を診たファウストは、石化病だと言った。

 聞いたことのない病名にレヴェリーもクロエも首を捻る。


「セキカビョウって何ですか?」

「ウイルスが体内に入ることによって身体が石になる病気だよ。始めは表皮に広がっていって、最後は臓器。約一週間で心臓が止まるね。……ああ、空気感染はしないから安心して良いよ。汚染された物を口にしない限り発症はしないから」

「食べ物って何だよ?」

「【下】の食物だよ。石化病はここの病じゃないからね。悪食なこの男のことだから何か食べたんだろう」


 ファウストが軽い口調で言うので安心してしまいそうになるが、一週間で死ぬと前置きされている。

 あまりにも普通なのが却って恐ろしかった。

 しかし、その恐れはファウストやレヴェリーが――普通の人間が、クロエに抱いた感情と同じである。


「治療はどうするんですか?」

「確か【下】に生えている木の実を煎じたものが特効薬になるけど、【上】で罹る人もいないから薬のストックはないだろう。さて、どうしようか……」

「どうしようかって……救いましょうよ。ローゼンハインさん、苦しんでいるんですよね」


 クロエが恐る恐る頭一つ半ほど上にある顔を見上げると、宵闇色の一瞥が返った。


「意識もないんだ。苦しみはないだろうね」

「で、でも眠っている中で――」

「残念ながらそういった抽象的概念は私の好みじゃない。私はこの男を救うつもりはないよ」


 自業自得だろうとファウストは冷たく切り捨てた。

 まるで感心を失ったかのような様子で立ち去るファウストをレヴェリーはすかさず追ったが、クロエは説得できるように感じられなかった。

 ファウストの宵闇色の瞳には悪意も善意もなく、ただ無関心だった。ヴィンセントを救う気がないというのは本心で、誰がどう説得しようとその意思を動かすことはできないだろう。


「……エルフェさんに、伝えないと……」


 朝方、ファウストと入れ替わるように家を出たエルフェに連絡しようとクロエは一階へ下りる。

 階段の上り下りは苦痛でしかなく、クロエは脂汗を掻いた。


『――何だ』

「エルフェさん、ローゼンハインさんが大変なんです」


 リビングにある電話機にはエルフェの携帯電話の番号が登録されている。何かあれば連絡するようにと言われていた。

 電話越しだからか普段よりも冷たく聞こえる声に臆しながらも、クロエは懸命に伝えた。


『放っておけ』

「え……?」


 返ってきた答えにクロエは殴られたような気分になる。

 ファウストが駄目でもヴィンセントの友人のエルフェならきっとどうにかしてくれる。そんな甘い期待が打ち砕かれた瞬間だった。


『罰が当たったんだろう。俺はあの男が死のうが知ったことではない』

「エルフェ、さん……」

『仕事中だ。切るぞ』


 通話が切れたことを示す無機質な音が聞こえてきた。クロエは静かに受話器を戻す。

 エルフェは中立で、冷たく見えることがある。その公平さは人殺しという反社会的行為にまで適応されるのだと知って、出会ったばかりの頃クロエは恐ろしく思った。それから四ヶ月という時を共に過ごし、エルフェなりの優しさというものが分かるようになった。

 自分が普通の家庭で育てられたのなら親にこんな感情を向けたのだろうかという、恐れ半分、慕う気持ちをクロエはエルフェに向けていた。


(エルフェさんが見捨てたら、ローゼンハインさんは誰が助けるの……?)


 素知らぬ顔をしているなら薄情だし、見捨てるのはあまりにも冷酷で恐ろしかった。

 ならばこの自分が助けるまでだと思考して、クロエははっとする。己にこんな傷を刻んだ相手の命を救うのかと心が静止を掛けたのだ。

 正気の沙汰ではない。

 ヴィンセントの目が覚めたらクロエはまた暴力を振るわれるかもしれない。次は肋骨を折るだけでは済まないかもしれない。今度こそ、殺されるかもしれない。

 ヴィンセントは皆に自業自得だと言われるようなことをしている。その理不尽な振る舞いでクロエは何度も痛い目に遭い、三本も骨を折った。

 クロエの心はヴィンセントを純粋に救いたいという思いより、彼への恐怖心が強かった。


(……でも……)


 どうしても見捨てるという選択肢は選べなかった。

 もしかすると強迫観念に支配されているのかもしれない。だけど、ここで逃げたらあの時と同じだ。継母から逃げたあの時と何も変わらないのだ。逃げて、忘れて、流して、流されて、時間に取り残されて――――。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 夕闇迫る頃。上層部に戻るファウストを見送ったクロエは二階の角部屋を訪ねる。

 そっと扉を開けると、本を読んでいるルイスの姿が目に入った。彼は開いた書物ではなく、窓から外を眺めている。暮れ沈んだ蜂蜜色の空を世にもつまらなそうな顔で眺めていた。


「……具合はどうですか?」


 昨日と一昨日は――クロエは丸一日眠っていた――レヴェリーに全て任せてしまった。色々なことがあってくるのが遅くなり、ルイスの体調が気になっていたのだ。


「別に、どうともないよ」


 ルイスの青白い顔は明らかに体調が芳しくないことを示していた。

 灰被り事件で怪我をしてから臥せりがちで勉強が疎かになってしまったと、ルイスは暇を見付けては書物を捲っているが、起きて何かをできるような状態ではないはずだ。


「無理して起きていたら、良くなるものも良くなりませんよ」

「寝ても良くならないんだ。関係ない」

「なら、せめて上着を着て下さい。風邪引きますよ」

「キミには関係ない」


 全く取り合おうとしないルイスにクロエは尚も訴えたが、聞き入れてはもらえなかった。それどころか不快感と不信感を混ぜたような眼差しで射られて、クロエは息を呑んだ。


「人の心配より自分の心配をしたらどうなんだ?」


 皆に腫れ物を触るような扱いをされたことでクロエの心は不安定になっていた。

 今、変に触れられたら、きっと棘が出る。自分でも思いもしないようなことを口走って周りに迷惑を掛ける。

 彼の言葉はいつも痛いところに触れる。凪いだ水面のような双眸に、押し隠したい気持ちまでも読まれているようでクロエは怖く思った。


「自分を気遣えないのなら、せめて恨み言はないのか?」

「え……?」

「あの時、オレはキミを助けなかった」

「そ、そんな理不尽なこと言いませんよ……」

「キミはそういう理不尽なことをされたんだから、もっと憤って良いんだ」

「……私は……恨みません。恨むくらいなら許す努力をしたいです」


 家族を呪い殺さんばかりに恨んでいたクロエに、施設の教師は半ば洗脳のように【人を恨んではいけない】と説いた。隣人を恨まず、愛せるようになりなさいと毎日のように聞かされた。今の【クロエ】という人間があるのはその教えの賜物だ。


「私、ローゼンハインさんを助けたいです」


 ヴィンセントを恨み、恐れる気持ちがないかと問われればクロエはあると答える。それでも心の底から嫌いになることはできないし、見捨てることもできない。

 皆に見捨てられたらあまりに気の毒だ。

 クロエのその哀れみにも似た思いは半日考えた結果だった。


「……火取虫みたいだ」


 クロエの答えを聞いたルイスは、火の中に飛び込んで身を焼く蛾のようだと揶揄した。


「傷付くと分かっているのに近付くなんてただ莫迦か、それとも全ての罪を許す女神にでも成った心算か」


 惻隠(そくいん)の情もない冷たい言葉に胸がぎしりと軋む音を聞く。

 胸の痛みが強くなり手を握り締めたが。傷のある掌から血が滲んでくるのを感じてクロエは吐息を震わせる。そして告白した。


「女神様なんて大層なものじゃないです……」


 クロエは神に許しを請わなければならないような下劣な人間だ。


「私はただ許されたいんです。打算的に助けるだけなんです」


 身体も心も痛い。廊下から吹き込む隙間風が痛みの記憶を封じた扉を揺さぶる。歯を食い縛って耐えるクロエにルイスは何も言わなかった。


「じゃあ、行ってきます。何か用があったらレヴィくんにお願いします」

「ああ」


 止める様子も助ける様子もない平坦な返事だった。

 当然の反応だ。長年の付き合いであるエルフェやファウストですらヴィンセントを見捨てたのだ。そんな悪党から最低の仕打ちを受けているルイスが動くはずがなかった。


「薬と水、ここに置いておきますから時間になったら飲んで下さいね」


 部屋を辞したクロエはリビングでコートを羽織り、その上からマフラーを巻いた。

 賢い選択をするというのであれば幾日か経ち、傷の痛みが引いてから向かうべきなのだろう。だが、時間を置くと決意が揺らいでしまいそうでクロエは今出発するしかなかった。

 エルフェが戻ってきた時のことを考え、書き置きを残したクロエはリビングから中庭に出る。

 空を見上げると、蜂蜜色が紅色に変わっていた。

 冬の夜の訪れは早い。早く出発して用事を済ませなければ陽が沈んでしまう。

 クロエが外への門に手を掛けた時、後ろから声を掛けられた。


「クロエ、何処行くんだよ」


 ダウンジャケットを着込んだレヴェリーは何処かきつい語調で訊ねてくるので、クロエは口籠る。

 レヴェリーはエルフェやファウストとは違うが、クロエとも違う側の人間だ。

 何と説明すれば良いのだろう。クロエが悩んでいると、レヴェリーは思わぬことを口にした。


「最下層に行くんだろ? だったらオレも付いてくぜ」

「レヴィ、くん……?」

「エルフェさんの知り合いの闇医者に当たってたんだが、全員ヴィンスには関わりたくないって拒否りやがった。こうなりゃ身内のオレ等がどうにかするしかねーだろ」

「……うん、そうだね」


 優しいレヴェリーはヴィンセントやクロエのことも家族だと思っているだろう。嬉しく思う半分、申し訳なく思う気持ちがあってクロエはただ頷くしかできなかった。

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