差し出された毒林檎 【5】
「……う…………」
光が瞼越しに射し込んでくる。
眩しい。不快に思い、寝返りを打とうとする。そこで激しい痛みが胸を貫き、クロエは目を見開いた。
肺と胃が縮み、喉の奥が引き攣り、呼吸が止まる。
身体を起こすと内部から針で突き刺すような熱っぽい痛みが襲ってきた。思わず身体を折ると、今度は背が悲鳴を上げる。身体が軋むような感覚にクロエは息を止めた。
「――――――――」
歯を噛み締め、息を止めると痛みが多少和らぐようだ。だが、息を止めている訳にもいかず呼吸をする。あまりに辛くて、潜めるように吐息を吐き出すしかない。
部屋の空気はどちらかといえばひんやりと冷たいのに背や額からは汗がじっとりと湧いてきた。
嫌な汗を掻きながら辺りを見渡すと、ここが病室らしき場所であることが分かった。
「ああ、目が覚めたか。そこから動いては駄目だよ」
「……ファウ、スト先生…………」
「ここは私の診療所だから安心しなさい」
見知らぬ場所に、身に覚えのない痛み。不安を感じていたクロエは見知った存在にほっとする。
「辛いだろう? 肋骨が数箇所傷付いているんだ」
ファウストは【傷付いている】と曖昧な言い方をした。つまり、折れている骨も罅が入っている骨もあるのだろう。
怖いもの見たさで何本折れているのかを訊こうにも、クロエは喋れる状態ではなかった。
「手当てをしよう」
ファウストはクロエの患部に冷湿布を張り、バストバンドを巻いた。患者が起きていないと上手く巻けないらしく、ファウストの言うようにクロエは深く肺から空気を出す。最後まで息を吐き、それからもう一度息を吐く。患部を固定すると幾らか楽になったが、それでも痛いことに変わりはない。
「…………うぅ……っ」
少しでも身体を動かすと耐え難い痛みが胸を貫き、クロエは悶絶した。
呼吸をして落ち着こうにも息をするだけで苦しいのだ。正直、ここから立ち上がれる自信がなかった。
「無理しないで、薬が効くまで寝ていなさい」
ファウストに手を貸されて寝台に横になる。
(私……二階から落ちたんだっけ……)
目をきつく閉じて痛みに耐えていると、クロエは漸く自分の身に何があったのかを思い出し始めた。
掌と腹と背と頬と、痛む箇所は全てヴィンセントにやられたのだ。
顔を拳で打たれ、倒れたところを執拗に蹴られた。身体が壊れるような恐ろしい感覚があり、あまりに辛くてクロエは窓から投げ出される直前に意識を手放した。
いつだかヴィンセントは男が本気になれば女は適わないと言ったが、その通りだった。
「先生、これってどれくらいで治ります?」
「安静にしていれば二、三週間で痛みは引くと思うけど、癒合するまでは一ヶ月半は掛かるよ」
「一ヶ月半、ですか……」
鎮痛剤が効いてきたのか僅かに痛みが和らいだのを感じ、クロエは慎重に身を起こす。
ファウストは安静にしていろと言ったが、胸を固定しているので横になっていると却って苦しかった。
「家には戻りたくないよね。この診療所で暫く生活できるようにあとで荷物を――」
「肋骨の骨折って確か軽傷ですよね? 私、帰ります」
以前、腕の骨を折った時に聞いたのだ。肋骨は折れやすい骨で、骨折したとしても軽傷なのだそうだ。
クロエは帰り支度をしようと靴を履き始めるので、ファウストは困惑した。
「いや、しかしだね、貴女は平気なのかい? あの家にはヴィンセントがいるんだよ」
「平気って何がです?」
クロエは微笑みながら他人事のように聞き返す。首を傾げると長い髪がばさりと胸に流れ、青痣の浮かんだ輪郭を隠した。
「あの男は貴女にこんな惨い傷を負わせたんだよ。怖くないのかい?」
「ローゼンハインさんは私のことをいつも殺すと言っています。でも今回、私は死にませんでした。つまり、ローゼンハインさんが手加減してくれたということですよね? それにこうやって先生の所へ運んでくれた訳ですし、何も問題ないじゃないですか」
クロエは苦しい息の下で笑ったが、すぐに喉の奥が引き攣って咳き込む羽目になった。
ファウストは冷ややかな眼差しでクロエを一瞥し、硬い声で言った。
「私は貴女が普通であることを願っていたよ」
「はい? 私は平凡でつまらない子供ですよ?」
「普通なら、そんな傷を負って笑えないんだよ」
「笑いますよ」
不揃いな髪がなぞる頬は青白く、赤みがまるでない。紙のように白い頬に浮かんだ奇妙なほどに穏やかな笑みを見て、ファウストはクロエが精神を病んだことを疑ったのだろうが、クロエは正気だった。
「暗い顔をしているともっと殴られるんです。だからどんなことをされたって、どんなことを言われたって笑います。そうして笑わないと笑えなくなるんです」
心の底に沈めて鍵を掛けたはずのどす黒いものが扉を突き破って込み上げてくる。
何も知らない癖に勝手に知ったように語るなと、踏み込んでくるなと、全身に棘が生える。
「私のこと何も知らない癖に、知ったように言わないで下さい」
底なしの自己否定に精神を支配され、生きる価値もない自分が息をしていることが耐え難く、その罪悪感から消えてしまいたくなる。そんな極限の抑鬱状態を誰が理解できるというのだ。
人を勝手に決め付けないで欲しい。人の人生を、不幸でつまらないもののように言わないで欲しい。
クロエは他人に何かを決め付けられると頭に血が上ってしまう。
発作的にとはいえ、クロエはかつて他人に凶器を向けたことがある。人を殺したいくらい呪ったことがある。クロエは自分の中の弱い部分に触れられそうになると全身に棘が生えるのが分かる。だからこそ、気を付けている。
(あの時は何もできなかったけど……)
元凶を殺す勇気も、自害して己を救う度胸もなかったが、継母に凶器を向けたのは事実だ。
クロエにも醜くて汚い心がある。
心の中で何度も父と母と継母を殺した。それほどに幼少のクロエは家族を呪っていた。施設の先生に諭されて憎しみを昇華できるように努力してきたけれど、未だにその自分に打ち勝てない。
(こんな風じゃいけないっていつも思っているのに、いつもここに戻ってくる)
過去に囚われて生きては駄目だ。クロエは喜劇にも悲劇にもならない人生は送りたくない。そんな人生では空も仰げない。
早く切り替えて、忘れなければ。
(大丈夫。私は大丈夫)
それは、唱えると不思議と落ち着く魔法の言葉。
昔から何度も繰り返してきたその言葉をクロエは心の中で唱える。
何があっても平気だ。他人から痛め付けられるのももうどうだって良い。そういう運命を持って生まれてきたと思って受け入れるしかない。そうやって諦めて、流して、忘れないとやっていられない。
二年掛けてやっと平凡な人間のように笑えるようになったのだ。クロエはもう昔には戻りたくなかった。
闇医者ファウストの診療所は上層部下部【フェレール】にある。
そこから【クレベル】へ戻る為には鉄道と昇降機を利用しなければなかったのだが、傷に障るということでクロエは人力車で送られた。
「ああ、動く元気あるんだ? 足の骨でも折っておくべきだったかなあ」
「――――ッ!!」
リビングに足を踏み入れた途端、クロエはヴィンセントに突き飛ばされた。
折れた肋骨を攻撃するように胸を押され、息が詰まる。そのまま倒れ掛けたところをエルフェに支えられ、どうにか転倒することは避けられたが、患部を圧迫された衝撃でクロエはまともな呼吸ができなかった。
「折れただけで内臓は傷付いていないようだね? やっぱり階段から落とした方が面白かったかな」
「止めろ!」
ぐったりしたクロエを、エルフェはヴィンセントから奪うように抱えた。
心配してくれているからか、それとも怒りからか、エルフェの肩や腕は震えている。
エルフェは壊れ物を扱うようにそっとクロエをソファに座らせる。ヴィンセントは不愉快そうに片目を眇めた。
「エルフェさん、さっきから何でこの娘を庇うのかな。君は復讐したくないわけ?」
「復讐だと……? ふざけるのも大概にしろ。ディアナがあんなことになったのは元はといえば誰の所為だ。貴様の所為だろうが」
「はあ? 君がディアナを受け止められなかったからだろう?」
「それは貴様が言えた台詞か」
「あんな聖女の皮被った魔女に現を抜かして、ディアナを蔑ろにしたお前にも言われたくないな」
「あいつは無関係だろう。巻き込むな」
クロエが分かるのは【ディアナ】という人物がヴィンセントとエルフェの共通の知人ということだけだ。
聖女や魔女という言葉が出てきても、何のことかまるで分からなかった。
「無関係ねえ……。死なすのを惜しんで自分と同じ存在にした癖に、そうまでして巻き込みたくないんだ? ああ、もしかして責任感じているから手を出さないとか? ディアナを捨てた償いじゃなく、あの女への罪滅ぼしで生涯独身貫くつもりとか?」
「ヴィンス、いい加減にしろ……」
「やっぱりあの時、殺せば良かったかな。こんな裏切りに遭うくらいならお前もあの女も殺せば良かったよ」
(どうして簡単に殺すって言えるの……?)
クロエは何も分からない。ただヴィンセントが怖くて仕様がない。
ヴィンセントはエルフェを「殺せば良かった」と言った。友人に対して殺意を語った。今までもヴィンセントの価値観にはずれを感じていたクロエだが、今回ばかりは本当に理解できなかった。
「何度も言うが、俺はディアナとは何もない。あいつが見ていたのはあんただ」
「その言い訳は聞き飽きたな」
「事実だと何度言わせれば解るんだ」
「うるさいな。そんな偽りの真実なんか要らないよ」
真実は自分だけが持っているのだと言ってヴィンセントはエルフェに背を向けた。
白檀の香が遠ざかってゆくのをエルフェもクロエも止めなかった。
一触即発の空気が消えたことに一先ずほっと息をつく。その途端、胸が軋むような感覚があり、クロエは小さく悲鳴を上げた。
「何処か痛めていないか?」
「……ちゃんと固定してもらいましたし、あの程度なら平気ですよ」
かつて継母に暴力を受けた時は泣いていた。泣いていない今の自分は大丈夫なのだ。
微笑むクロエをエルフェは物言いたげな目で見た。
「あの……エルフェさん。ローゼンハインさんって昔からああなんですか?」
「ああとは?」
「戦うことが生き甲斐、みたいな……」
「いや、昔は今ほど酷くはなかった。傍若無人な奴ではあるがまだ筋は通していた」
利己的で他人の痛みに鈍い男だったが、それでも今ほど理不尽ではなかったのだという。
エルフェの語ったこと、そして二人の会話を聞いて、クロエはヴィンセントが変わってしまった理由はディアナにあるのではないかと思った。
三十年経とうとも忘れられないほど良い女で、同時に憎むべき存在。ヴィンセントはそのディアナという人物に愛憎のような複雑な感情を抱き、執着しているように見える。
「何があったんです?」
「惚れた女に逃げられて不貞腐れているだけだ。放っておけ」
ヴィンセントが消えた扉を射るように睨むエルフェは冷たく吐き捨てた。
クロエはエルフェとヴィンセントは仲が良いと思っていた。その認識が間違いであったことに気付く。
「メイフィールド、あいつに期待するな。あいつは既に一人の女の人生を潰している」
「自分の人生を奪った相手に期待することなんてありません」
クロエはヴィンセントの所為で人生が滅茶苦茶だ。
ここまで痛め付けられて期待するほど莫迦でもない。クロエがヴィンセントに求めているのは謝罪でも愛情でもない、全く別のものだ。
「ああ、そうだな。もし憐憫を感じるのだとしてもそれは気の迷いだ。惑わされるな」
犯罪被害者が加害者に同情し、愛してしまうという病がある。けれど、茨の中に抱かれた夢から覚めた後、その愛情は激しい憎しみに変わるのだ。