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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
四章
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差し出された毒林檎 【4】

 最初から臆病だった訳ではない。

 最初から全てを諦めていた訳でもない。

 最初から自分の容姿を嫌いだった訳ではない。


「天に在す我等の父よ、願わくは御名を崇めさせたまえ。御国を来たらせたまえ」


 何度も口ずさんだ主祷文を唱える。

 一字一句記憶した主への祈りを、更に自らの奥に刻むように声に出す。


「我等に罪を犯す者を我等が赦す如く我等の罪も赦したまえ。我等を試みに遭わせず悪より救い出したまえ。国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり……」


 祈祷を終える言葉を唇に乗せた後、暫し願いを捧げる。ゆっくりと顔を上げたクロエは頬に掛かった短い髪をそっと背に払うと、主が吊された十字架を見上げた。

 願うのは家族の幸せ、懺悔するのは己の存在。自らの醜い心身の禊ぎをする為にクロエは施設内にある礼拝堂に通っていた。

 この【アルカンジュ】にいる子供は神を信じていない。礼拝堂に通う者は限られていた。

 クロエは神を信じているというよりは礼拝堂の空気が好きだった。

 ステンドグラスから降り注ぐ淡い光、しっとりと湿った独特の空気、ぼんやりと仄明るい室内に舞う埃は蜂蜜の中の気泡を思わせる。くるくると、ゆっくりと時間が回っている。浮き世から切り取られたような錯覚を覚える。それ等が合わさった何とも言えない雰囲気がクロエの心にいつも安息を齎した。

 礼拝堂への常連は、クロエの他に二名いる。

 赤っぽい茶髪を長く伸ばした女の子と、鮮やかな金髪の男の子。クロエは二人とは口を利いたことがない。礼拝堂内は私語厳禁で、どちらも他の舎の子供だったからだ。

 クロエは長椅子から腰を上げ、扉の前でもう一度だけ振り返る。

 この光景も今日で見納めだ。七年間欠かさず訪れた礼拝堂にも明日からはこられなくなる。

 磔刑の聖人は何も語らず、聖母の像はただ優しく微笑んでいる。

 この光景を忘れまいとクロエは目に焼き付ける。

 天使が描かれたステンドグラスから射し込む光の下で、少年の髪が金糸のように輝いていた。






「クロエ、本当に大丈夫なの? まさか親権を盾に無理やり連れ戻されるんじゃないでしょうね」

「お前のことここに押しやった奴だろ。そんな奴のところに戻る必要ないんじゃないか?」


 施設を出て親元へ戻ることになった時、これまで世話をしてくれた兄と姉はクロエを心配した。

 クロエは虐待から強制的に親元を離された子供ではなく、親から施設に預けられた子供だ。親が引き取りたいという意思を見せれば、未成年の子供であるクロエは戻らねばならなかったのだ。


「お父さんとお義母さんが私と暮らしたいって言ってくれたんだもん。嫌な訳ないよ」


 殴られたことはあったし、育児放棄をされていたに等しかったが、自ら施設にクロエを預けたのだから慈悲的であったのは確かだ。そんな父と継母がクロエと暮らしたいと言ってくれたのだ。拒めるはずがなかった。


「私は、私にやり直す時間を与えてくれたお父さんとお義母さんに感謝しているの」


 苦難を与えられた時は相手を恨むよりも許し、試練を与えられたことを神に感謝しろとクロエはママ先生に教わった。

 人は憎む存在がいるお蔭で救われる。憎しみで心の瞳を曇らせれば直視するのが怖いものを見ずに済む。真に打ち倒すべきは苦難を与える相手ではなく、弱い心を持つ己だ。

 クロエは父と継母を恨んではいない。寧ろ、贖いの時を与えてくれた彼等に感謝をしていた。


「……そうだから……」

「イレーナ姉さん?」

「あなたは強い子だけど、だからこそその緊張の糸が切れてしまわないか不安なの」


 齢十八になり、来年からは施設の教師として生きることになっている姉はクロエの肩を抱いた。二人の隣で兄は遣りきれないという顔をして唇を噛んだ。


「イレーナ姉さん、ラギ兄さん、心配してくれてありがと。私は大丈夫だよ」


 不安そうな面持ちをした兄姉に笑って欲しくて、肩口で切り揃えた髪を揺らしながらクロエは微笑んだ。


(大丈夫、私は平気だよ)


 あれから七年が経ち、それだけ人間関係というものも学んだ。

 あの当時、上手くいかなかった継母ともどうにかなるだろうとクロエは前向きに考えていた。


 けれども。


 クロエの希望は一ヶ月後、父アンセムが事故で急死したことによって打ち砕かれた。


「あんた、本当に人間? さっぱり話通じないんだけど」


 鉄道の事故だった。酒場帰りで酔っていたのか、線路に足を踏み入れて列車に跳ねられた。

 警察から灰が届けられても、クロエは実感が湧かなかった。

 父は釜で焼かれて灰になり、こんな小さな箱に入って帰ってきた。

 涙も出ないクロエとは対照的に継母ジゼルは父が死んでからずっと泣いていた。それが過ぎてからは父が残した遺産を使い、遊興に耽るようになった。そして、クロエに手を上げるようになった。


「昔っから思っていたけど、本当にアンセムの娘なの? 何処も似てないじゃない」

「わ、私は確かに不出来ですけど、お父さんの娘です」

「どうだかねえ。あんたの母親って花売りだったんでしょ? ホトトギスみたいに拓卵させたんじゃないの?」

「花、売り?」

「聞いてないの? アンセムが言っていたわ。あんたの母親は花を売りながら色を売る女だったって」


 父が母にクロエが自分の娘なのかと疑うような問い掛けをしているのを聞いたことがある。父はクロエが自分に似ていないことを嘆いていた。だからこそ、クロエは己の容姿が嫌いになった。


(わたしは、お父さんの子供じゃないの?)


 人伝に聞いた衝撃的な事実をゆっくりと呑み下し、クロエはどうにか平静を保とうと精一杯笑みを張り付ける。

 ジゼルは冷たい青緑色の瞳でクロエを一瞥した。


「へらへら笑って、何か楽しいわけ? あんたの良い子ちゃん面を見てると吐きそうだわ」


(……だったら、どうすれば良いの)


 真顔をしていれば辛気臭い顔を見せるなと撲ってきた。笑えば笑ったで優等生面をするなと椅子を振り上げ、殴ってきた。

 どのような表情をしていれば良いのか分からなくて、クロエは次第に無表情を作るようになった。


「はいはいって何でも頷いて、あんたって人形みたいね」


 ジゼルの気に障るようなことをしないように、黙って従うクロエの様子は人形のようだった。


「ああ、もう消えて。その醜い顔を見せないで頂戴」


 クロエは身体のあちこちに傷がある。

 結婚願望など捨てている本人は構わないと思っているが、もし将来結婚した場合、その傷を見た相手はショックで逃げ出すかもしれない。それほどに醜い傷が身体中にあった。

 クロエが甘んじて暴力を受け入れるものだから、ジゼルからの虐待は悪化していった。

 そしてある日、クロエは家の二階から突き落とされた。


「……私が……足を滑らせて落ちたんです……」


 搬送先の病院で不審に思われ、虐待の有無を訊ねてきた医師にクロエは自らの落ち度であることを伝えた。


「あたしのこと庇って恩を売ろうっていうの?」

「家族に恩を売るも売らないもありません」

「はあ、家族? 誰が誰の家族よ。あたしはあんたの母親になったつもりはないわ」

「……じ、じゃあ、お母さんとしてではなくお姐さんとして慕わせて下さい!」

「あんた、マジうざい」


 死んで、とジゼルは冷たく吐き捨てた。

 二階から落ちて幸いにも命は取り留めた。コンクリートの地面に背中から落ちて骨折だけで済んだのは幸いだった。けれど、その一言で精神は殺されたようなものだった。

 そして、クロエに限界が訪れた。


「わ、私は何もしてないじゃない……!!」


 いつものように些細な理由で撲たれ、クロエは咄嗟に包丁を掴んだ。

 身体も心も痛い。みしみしと、ぎしぎしと軋む音がする。

 己を守らなければもっと傷付く。これは正当防衛だ。いや、ジゼルが憎かった。

 母は父の暴力に耐えていた。そんな母が出ていったのは、父が浮気をしたからだ。その相手がこの女だ。この女の所為でクロエの家族は滅茶苦茶になった。

 何かに責任を擦り付けないとやっていられなかった。そうでもしないと心を保てなかった。

 もう気が狂いそうだった。


「刺せるもんなら刺してみなさいよ!! できないんでしょ!?」

「……あ…………」

「あんたみたいな愚図にそんな大それたことできる訳ないものね。ねえ、良い子ちゃん」


 クロエに近寄ったジゼルは硬直した腕から包丁を奪い取り、机に突き刺した。

 その剣幕に、今まで凶器を持っていたクロエの方が怯えた。


「人に凶器向けるなんて信じられない! この、出来損ない!」


 ジゼルは机から引き抜いた包丁でクロエを数度殴ってから部屋を出ていった。

 殴られた腕を伝って赤いものが床に零れた。

 ぱたり、ぱたりと乾いた音を立てて零れ落ちてゆく。心臓が鼓動する度に傷口が震えるような感覚がある。痛いよりも、熱い。裂けた皮膚の間から滲み出した血で腕は見るみるうちに真っ赤になる。それを見ていると自分がしたことが恐ろしく思えてきて、クロエは包丁を拾うと切っ先を己の胸へと向けた。

 そのまま胸を貫こうとして、クロエは動きを止めた。


「……なん……なんで…………」


 できなかった。

 刃で胸を貫いた瞬間にやってくる痛みを想像すると、怖くて手から力が抜けた。

 命を絶つことが怖かった。包丁を持った手が震えて、斬ったり刺したりするどころではなかった。殺すつもりで他人に包丁を向けたのに――他人の命を奪おうとしたのに、自分の命を惜しんでしまった。


「悪くない……悪く、ない……悪く…………悪い……私が、悪い……私が全部悪い、悪いのは私……」


 その日からクロエは笑えなくなった。

 施設を出て一年が経とうという時だった。

 それからもエスカレートするジゼルの暴力にクロエは耐えていた。【悪い子】だから罰を受けるのだと、甘んじて折檻を受け入れていた。そして、いざとなったら身を売ろうと考えながら内職をして家庭を支えていた。


「メイフィールドさん、その痣はどうしたの?」

「転んで机の角にぶつけちゃったんです」


 隣人を誤魔化す為に愛想笑いを覚えた。笑みの形を頬に固定して、クロエはあっけらかんと答える。暫くはそうして誤魔化せた。

 けれど、次第に不審に思い始めた住民が児童相談所に連絡をした。


 クロエは一人暮らしをすることになった。


 狭いアパルトマンでの生活は、施設の生活と同じ安息を齎した。


「良い子だね、タルトレット。今おやつをあげるからね」


 アパルトマンの階段裏に住み着いた野良犬に餌付けをすることがクロエの楽しみだった。

 絵を描くのも好きだが、植物を育てたり、小動物と触れ合うのも好きだ。

 植物も動物も決してクロエを裏切らない。愛情を注げば注いだだけ返してくれる。寂しさは埋まらなくても、人間を相手にして期待したり裏切られたりして傷付くより余程良い。

 生きていくのなら一人が良い。

 孤独であればもう傷付かない。もう傷付きたくないし、誰も傷付けたくなかった。


「あとで美味しいおやつを買ってくるから待っていてね」


 アルバイトの給料が入ったばかりだから金には多少の余裕があった。帰りに子犬のおやつを買ってこようと決めて、クロエは外出した。

 鉄道を乗り継いで向かったのは、かつて巣立った家【アルカンジュ】だ。

 一人暮らしを始めるに当たって施設の先生たちには随分世話になった。一度施設を出た身ではあるが、兄弟たちの助けになれないかとクロエは週に一度【アルカンジュ】へ通っていた。


「いつもきてくれて有難うね、クロエ」

イレーナ先生(ママン・イレーナ)、私がきたくてきているだけだから気にしないで」


 二年の間にすっかり教師らしくなった姉はヴェールの陰でそっと微笑んだ。

 これだけ美しい姉が外の世界に出ず、施設に残ることを選んだのは弟妹たちの助けになりたいという思いもあるが、施設を出た者たちの過酷な生活を聞いて臆してしまったこともあるだろう。

 親の愛情を知らない。人間として欠けている。施設育ちは信用ならない。そんな偏見が施設を出た子供たちには待っている。

 クロエも【アルカンジュ】を出てから職を探しているのだが、アルバイトですら中々見付からない状況だった。今の仕事も来月一杯までだ。その契約が切れるまでに新たな職を探さなければ野垂れ死にすることになる。

 未来がまるで見えない。生きていくことに精一杯で、夢など見られなかった。


「姉さん、礼拝堂に行きたいな」

「では一緒に行きましょう」


 礼拝堂の扉を潜ると当時と変わらない優しい空気が肌を撫でてクロエはほっとした。

 懐かしさに流されて、あの二人の姿を探してしまう。


「ねえ、ここに通っていた子はどうしたの?」

「通っていた子?」

「茶色の髪をお下げにした女の子と、金色の髪の男の子。私がいた時は毎日ここにいたの」

「男の子なら里子に貰われたわ。女の子は礼拝堂の二階から飛び降りて……」

「……そう、なんだ……」


 クロエは懺悔の為に礼拝堂に通っていた。ならば、あの少女はどんな思いでここに足を運んでいたのだろう。

 少女は死者の国へ旅立ち、少年は巣立っていった。

 二人はもうここにはいないのに時間は動いている。何も変わらず、動き続けている。


(ああ、私だけなんだ……)


 痛みから逃げ、忘れたつもりでいる。そうして停滞しているクロエだけが時間に取り残されている――――。

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