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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
四章
49/208

差し出された毒林檎 【3】

※この話は暴力表現が含まれます。閲覧にはご注意下さい。


「ねえ、メイフィールドさん。この林檎食べない?」


 窓の結露を拭くという午前の日課の作業をしていると、リビングでニュースペーパーを捲っていたヴィンセントに林檎を食べないかという誘いを受けた。


「下さるなら食べますけど」


 クロエは警戒して近付く。するとヴィンセントは自分の隣に座るようにソファを叩いたので、クロエは失礼しますと断って腰掛けた。

 ヴィンセントに近付くと仄甘い白檀(サンダルウッド)の香りが鼻腔をくすぐり、そわそわしてしまう。にこりと並外れた美貌を存分に駆使した笑みを向けられ、クロエは息が止まる。

 人畜無害な笑みを浮かべているヴィンセントこそ腹黒いという思いに囚われているクロエは、引き攣った微笑みを返すのが精一杯だ。


「メイフィールドさんはこの林檎を食べてくれるの?」

「で、ですから、下さるのなら食べます」

「本当に、絶対食べる?」


 身を乗り出すようにして覗き込まれ、クロエはおろっとする。

 クロエはヴィンセントと目を合わせるのが怖いのだ。彼とこうも至近距離で向き合うとなると、寿命が縮みそうだった。

 肉食動物を前にした草食動物のようになってしまったクロエを見て、ヴィンセントは満足そうに口の端を吊り上げた。


「毒入りって分かってて食べる?」

「!? 食べませんよ!」


 この男は毒林檎を食べさせようとしていたのか。

 背筋がぞっとするのを感じてクロエは身を引こうとしたが、すかさず背に腕を回されて逃げられなくなる。

 一見機嫌が良さそうに見えるヴィンセントの目は機嫌の悪い時のそれだ。先日も髪を引っ張られて痛い思いをしたクロエは保身の為に大人しくする。


「ふうん、食べないんだ……? 主の命令でも? こんなに美味しそうな林檎は滅多にないよ」

「死ぬと分かっていて食べられる訳ないじゃないですか」

「まあ、死ぬと分かってて食べないよね、普通は」

「普通はって……」

「つまらないってことだよ。ここで食べてくれたら凄く面白いのになあ」

「あの、ローゼンハインさん」

「もうあっち行って良いよ、邪魔だから」


 話し掛けらたのにその本人から邪魔と言われ、クロエは弱る。


「邪魔だって言ったの聞こえない?」


 そのままクロエが動けずにいるとヴィンセントは懐からナイフを取り出し、林檎へ突き刺した。

 鈍色の刃が赤い皮を突き破る。

 ざく、ざくざくざく……っと繊維を破壊する音と共に林檎がひしゃげてゆく。蜂の巣のようになった林檎から、果汁と果肉がぱたぱたと飛び散る。

 ただ果物が潰されているだけなのに、その音も光景も気持ち悪い。クロエは強い目眩を感じた。


「君って何でこんなに腹立つんだろうね。滅多刺しにしたくて仕方ないよ。主に刃向かうのもそうだけど、ディアナみたいな服着てさ。醜い癖に男に媚びでも売ってるわけ?」


(……ディアナって誰……?)


 まただ。ヴィンセントはまた【ディアナ】と言った。

 前に聞いたのは、クロエが平手打ちをした時だ。その時もヴィンセントは「ディアナじゃない癖に」と言って暗い目をしたのだ。


「……あの……もしかして私は誰かに似ているんですか?」

「は? 何が?」

「私がローゼンハインさんの知り合いのどなたかにです」

「あはははは! 何それ、構って欲しいの? 適当に遊んで使い捨ててあげようか?」

「――――ッ」


 ヴィンセントは何かが弾け飛ぶようにけたたましく笑った後、恐ろしいほど冷たい声でそう言ってクロエの首にナイフを添えた。

 冷たい無機質な感触に、クロエは呼吸も震えも止まるほどに気圧される。己がどんな状況に置かれているかが呑み込めない。瞬きを繰り返すしかない。


「あんまり舐めたこと言うと、林檎の皮みたいに剥いちゃうよ」


 ナイフが薄皮を撫でるようにツツ……っと滑り、その直後ピリッとした痛みがやってくる。


「……そ、そんなに……気に食わないくらい、似ているんですか……?」

「ああ、似ているね。忌々しいくらいに似てるよ。だけど、あっちの方が良い女だ」


 三十年経っても忘れられないくらいにね。

 忌々しげに吐き捨てると、ヴィンセントはナイフと林檎を持って部屋から出て行ってしまった。

 動きを縛っていた元凶が消えてもまだ身体の強張りは消えなかった。暫くすると恐怖で忘れていた痛みがやってきて、クロエは恐る恐る手を伸ばした。

 ナイフが滑ったところを指先でなぞると、赤く濡れたものが付着した。

 ヴィンセントはクロエを切った。冗談ではなく本当に傷を入れた。


「お義母さん……」


 ヴィンセントはクロエの存在を疎ましいと手を上げた継母と同じ目をしていた。

 言い付けを守れない【悪い子】だから体罰を受けたのか。その事実をゆっくりと呑み下そうとすると、思い出にならない過去の傷がよみがえり、クロエは身を竦ませた。


「大丈夫……私はあの時とは違うんだから、大丈夫」


 あの時とは違う。あれから少しは強くなったはずだ。これくらいのことで挫けたりはしない。ヴィンセントと継母は違う。彼は継母のように日常的に煙草を押し付けたりはしない。椅子を振り上げて撲ってもこない。

 こんなものは猫に引っ掻かれた傷と大差ないではないか。

 深く考えると、闇に呑み込まれる。諦めて、忘れて、切り替えないと笑えなくなる。だからクロエはありのままを受け入れる。


(手当てしなきゃ)


 包帯は悪目立ちをしてしまうからガーゼで保護をする。幸い、薬なら沢山ある。

 大丈夫、平気。

 

心臓が早鐘を打っていたが、クロエは大丈夫だと自分に言い聞かせた。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 ある日の夕食の席でクロエは溜め息をついた。

 クロエの隣の席のレヴェリーは首を傾げ、斜め前に座るエルフェはどうしたと訊ねる。


「皆が揃わないと何だか寂しいです……」

「ルイは仕方ないとしてヴィンスは何なんだかな」


 クロエとエルフェとレヴェリーの三人だけの食卓。ここ数日の朝と夜の食事の風景はこんな感じだ。

 ルイスは風邪を悪化させて寝込んでしまい、食事の席に顔を出せる状況ではない。ヴィンセントは仕事なのか朝一で何処かへ出掛け、帰ってくるとそのまま自室へ引っ込んでしまう毎日を過ごしている。


「私の料理って何かいけないところありますか?」


 そんな理由でヴィンセントが食事の席に現れないのではないと察しながらもクロエは訊ねた。

 何か理由を作らないと不安だった。


「拙くも不味くもないが、あいつの口に合わないのは確かだな」

「合いません……か」

「味付けは薄味にしてあるのだろう? ならば、あいつの口には合わん」

「ローゼンハインさんってシューリスの方じゃないんですか?」

「ヴィンスは最下層の生まれだ」


 てっきりヴィンセントもエルフェと同じ――正確にいえば彼はシューリスとドレヴェスの混血だが――シューリス人だと思っていたクロエは、ヴィンセントが下層部の出身だと聞いて驚く。あの洗練された動作も、支配階級の振る舞いも、華やかな風貌も、貴族のものと信じて疑わなかったのだ。


「下層部の人ってどんなものが口に合うんでしょうね」


 下層部下部【バルニエ】は過酷な場所だと、下層部上部【ベルティエ】で育ったクロエも聞いている。

 クロエは【バルニエ】の住民の好みが分からない。【ロートレック】の貴族の好みが分からないのと同じで、人間は育った食文化というものが大きく影響してくる。

 クロエが悩んでいると、レヴェリーは下層部下部の様子を見てきたように語った。


「あそこの奴等の好きなのは味の濃いもんだな。辛いのとか塩っぽいのとか、腹に溜まる系なら何でも良いんじゃねーかな。あー、あとカビの生えてないパン。干し肉もご馳走だったんじゃねえかな……」

「俺から言わせるとあいつは肉と赤茄子と酒があれば満足している印象だな。あとは塩胡椒を多めにするだけで反応は変わるだろう」


 肉とトマトと塩胡椒というエルフェのアドバイスをクロエは記憶する。


(お肉とトマトで味が強くてお腹に溜まるものといえば……)


 ファルネーゼ料理全般、家庭料理の定番のトマトファルシがある。


「あとでお茶でも持っていってみますね」


 夕食の片付けが終わったらルイスの薬草茶を用意するつもりでいたクロエは、ヴィンセントに紅茶を届けようと思った。

 ヴィンセントは部屋に酒を隠し持っている。酒ばかり飲んでいては身体に悪い。

 酒を飲んでいる大人を見るとクロエは不安になってしまう。酒浸りな父のことが――酒を買ってこいと使いに出され、帰ると父と継母が睦言を交わしていて、邪魔だと殴られたことが嫌でもよみがえる。

 もう少しで一ヶ月が経とうというのに塞がらない腕の傷、そしてヴィンセントに刻まれた首の傷。血の色が心の奥底に沈めた記憶を掘り起こそうとしている。






 皆がバスルームを使う時間になった頃、クロエは二階の角部屋へ足を運んだ。

 ルイスは相変わらずの無表情で、体調が良いのか悪いのかが分からない。ただ普段より声が低いので、あまり気分は良くないのだろうと察しつつクロエは様子を看る。

 彼は風邪ではなく、今年に入ってから流行っている熱病を貰ってしまったらしい。

 特効薬はなく、病で失った体力を眠りで補うしかない。主治医であるファウストの勧めに従ってルイスはこの一週間、安静に過ごしていた。


「エルダーフラワーのシロップを炭酸水で割ってみたんです。どうですか?」

「涼しくて良い、と思う……」


 ルイスは野菜のスープには殆ど口を付けられず、ハーブティーだけゆっくり飲んでいた。


「他にはローズヒップとジンジャーがあったんですけど、そちらのシロップも揃えてきましょうか」

「……いや、これで良い。これが涼しくて良い」


 ルイスが珍しくもう一杯欲しいと言うので、クロエはその場で作りながら、彼が口当たりがさっぱりした果物が好みらしいことを知る。


「エルダーフラワーってとても身体に良いらしいですね」

「ハーブティーはあまり分からないけど、そうなのか?」

「気管支・循環器・肝臓への効能があるみたいです。免疫力を高める効果があって、インフルエンザの特効薬にもなるとか。あと筋肉痛にも良いとか」


 エルダーフラワーは【万能の薬箱】と呼ばれるほど、多くの病気の治療と予防に効果があるとされている。


「気管支にも効くんだ」


 ルイスはカップの中の琥珀色の液体を見つめる。

 彼は気管支に持病があり、その影響で発作を起こしている。日頃から何かと注意して生活をしているので、その箇所に良いとされるものには関心があるようだった。


「昔からなんですか?」

「昔からって、何が?」

「その、こういう風に体調を崩してしまうのは……」


 病弱と言うとルイスを傷付けてしまう気がして、クロエは慎重に言葉を選んだ。


「ああ、生まれながらに出来損なっているよ」


 そう答えたルイスは無表情のままだった。悲しむでも怒るでもなく、ただ事実を言っているだけのような雰囲気だ。だからこそ心の中で何度も反芻してきた思いだということが知れて、クロエは苦さを覚える。


「【アルカンジュ】には五歳までいたんでしたっけ?」

「キミもあそこの出だと言っていたね。会ったことあったかな……」

「……ええと……貴方は私が十歳の時に施設にきたんですね」

「なら覚えていないか」


 双子は生後間もなく、施設のポストに預けられていた。身元を証明するものはなく、ただ名前が刻まれたペンダントが首に下げられていたのだとレヴェリーが話してくれたことがある。

 親のいない子供も、親から引き離されてきた子供も平等に育てられる【アルカンジュ】。そこには三つの舎があり、それぞれ十二人ずつの子供がいた。

 基本は自分の暮らす舎の仲間と先生が家族なので、他の舎を者を知らなくても可笑しくはない。クロエも施設にいた頃は今よりもっと自他に無頓着だったので、双子のことは記憶になかった。


「あ……でも、隣の舎に双子がいるという話は聞いたことがあるかもしれません。里親になってくれる人がいたけど、お兄さんが断ったのだと噂になっていて……」


 双子は里親を見付けているのでそれはきっと別の双子の話だ。

 しかし、ルイスはそれをレヴェリーのことだと断言した。


「レヴィを貰ってくれるという人がいたのに、引き取られる日になってあいつは騒ぎを起こしたんだ」


 引き取られる時になって急に暴れ出したレヴェリーを見て、何かトラウマがあるのではないかと危ぶんだ里親候補の夫婦は別の子供を引き取っていった。

 当時のことを思い出しているのか、ルイスの目はいつもよりずっと遠いところを見ているようだった。


「レヴィくんをって……?」

「兄弟がばらばらに貰われていくことは珍しくないだろ」

「貴方たちは双子なんですよ」

「双子だからこそ、良い方を選ぶんじゃないか」


 嫌な予感がしてクロエは訊ねるとルイスは淡々と答えた。

 似たものがあるなら良い方を選ぶのは当然のことだが、それを人間に当て嵌めるのはあんまりだった。


「こんな出来損ない、誰が欲しいと思う?」

「そんなこと――」

「そんなことはない? 綺麗事を並べても事実は変わらないよ」


 クロエが言おうとしたことを遮った上で、ルイスはそれを綺麗事だと切って捨てた。


「【アルカンジュ】は火の車だったから、病人が手余されているのは理解していたよ。里親になりたい人がくる度に先生はオレたちに会わせたけど、どの人もレヴィだけを欲しがった。オレはレヴィだけでも幸せになってくれれば良いと思っていたけど、あいつは真面目だから不出来な弟を見捨てられなかったみたいだ」


 どの里親候補も明るいレヴェリーだけを求めた。身体が弱く、愛想の悪い子供など誰も欲しがらない。その事実からルイスは少しずつ自分の価値を落としていったのだろう。

 病で気が弱くなっているからそんな悲しいことを言うのかとクロエは期待した。けれど、ルイスは自虐している訳でもなく、ただ事実を述べているだけという様子だった。

 何処までも自分の痛みに鈍感で、心が凍り付いているような様を見せ付けられて、クロエが指先から冷えていくのを感じ、思わず手を組んだ。

 ヴィンセントに近付けば焼かれるような痛みと存在否定を与えられ、ルイスに近付けば凍り付くように鈍い痛みと無力感を味わわされることになる。クロエはこのひと月でそれを思い知っている。

 ルイスは慈悲的にも思える微笑をクロエに向けた。


(あの時と、同じ)


 冷たくも優しくもない何の感情も籠もっていない笑みは線引きのようだ。


「下らないことを話してしまったけど、今話したことでキミが何かを思う必要はないから」


 真綿で首を絞められるような感覚を味わいながらクロエは懸命に視線を上げた。

 ここで視線を外して逃げれば、きっと二の舞を踏む。また拒絶を受ける。


「どうしてそんなに同情が嫌なんです?」

「……愛情と同情は違うから、かな」


 愛情という言葉にクロエはどきりとする。その言葉は彼に似合わないもののように感じたのだ。


「同情は愛情に変わらないから嫌だ。そんなものを受けるくらいならいっそ蔑まれた方が良い」

「変わらない、ですか……?」


 情の始まりは関心。そして同情の本当の意味は相手と同じ気持ちになることだと、クロエは施設の先生から教わった。

 相手の心に触れ、痛みも悲しみも分かち合い、理解し合ってそれが愛情に変わることはないのだろうか。同情している内に何か心の琴線に触れるものがあり、愛情に移行することがあるとクロエは思う。

 だが、その考えを押し付けることはしない。相手の気持ちを取り上げ、一方的に押し付けて満足感を得るのはあまりにも身勝手だ。


「互いに尊敬し、尊重し合えなければ人は共にいる必要なんてない。痛みを分かち合うだけなら、それはただの傷の舐め合いだ。馴れ合いで癒されて、痛みから逃げて、そこにあるのは停滞だ。そんなぬるま湯に浸かっていたら先には進めない」

「ぬるま湯に浸かっていたら凍えますね」

「そうして腐っていくほど惨めで醜いものはないだろ」


 ぬるま湯に浸かっているのは心地良いけれど、いずれ凍えて死んでしまうだろう。


「私は夢を見すぎなんでしょうか……」

「さあ、どうだろう。キミがどういう考えを持っているか知らないから何とも言えない。ただオレが言えるのは、夢なんてものは先に進めることが決まっている人の考える贅沢事だってことだ」


 夢というのは恵まれた人が持つもの。その言葉はクロエの胸を薙いだ。

 クロエが夢を持たず、ただ漠然と【林檎の木を植えたい】という考えを持っていたのは、【価値なし】と称された自分の行く先が見えなかったからだ。

 けれど、それは現実逃避でしかない。


「……ごめん、言い方がきつかったかもしれない。オレはキミを否定する訳じゃない」


 可笑しいのはきっと自分の方だとルイスは目を伏せた。

 長い睫に瞳が隠されると、雪雲に夜空が覆われてしまったように見える。


「大丈夫、分かるから」


 クロエがぬるま湯に浸かって停滞する者だからこそ、ルイスの言葉が痛いのだ。

 甘えのない彼の生き方は痛々しくもあるけれど、その高潔さには憧れる。同時に、逃げてばかりの自分が情けなくて居た堪れなくなる。


(こんな風だから駄目なのかな)


 ヴィンセントに疎まれ、ルイスに嫌われるのはクロエが流されるように中途半端に生きているからだろうか。

 考えると苦さが広がって、クロエは胸の前で手を強く握り締めた。


「そろそろ行ったらどうだ? 見張っていなくても寝るから」


 黙り込んでしまうクロエにルイスは退室を促した。

 クロエは言葉に従うしかなかった。


「じゃあ、失礼します。あとで水を替えにきます」

「ごめん、有難う」

「暖かくしてお休みになって下さいね」


 周囲の人間は彼自身が思うほど、彼を価値がないものとは見ていない。そのことにどうすれば気付いて貰えるのだろう。誰かが正すのではなく、自分で気付いて貰う為にはどうすれば良いのだろう。

 何かできることはないかと考えて、クロエははっとする。

 本人が望んでいないのに一方的に気持ちを押し付けるのは彼の嫌う【同情】だ。


(……私も同情は嫌かな)


 同情はいけないことではないとルイスに言ってしまったが、クロエだって哀れむ意味の同情を向けられたら全身の棘が尖る。土足で踏み込まれそうになれば敵意が湧き上がる。

 惨めな思いをするのはもう嫌だ。

 ひどく勝手な物言いをしているような気がしてクロエは自己嫌悪に陥った。






 扉を開けた瞬間、酒の強い香が鼻を突く。

 部屋の主は窓際の席でクリスタルのタンブラーを傾けていた。

 胸まで掛かる長さの髪が背に流され、月光を受けて鈍く輝いている。傍らのテーブルにはボトルと懐中時計がある。クロエは邪魔にならないようそっとカップを差し出した。


「お酒ばかり飲まれていては身体に悪いのでお茶をどうぞ」

「飲まないから下げて」

「では、気が向いたら召し上がって下さい」

「君が淹れたものなんて飲みたくない。下げなよ」


 ヴィンセントはクロエの顔を見ずに吐き捨てた。


「大体さあ、僕は彼の序でなわけ? そういう中途半端な気遣いって一番気に食わないな」

「何ですか、それ……」


 クロエは頬が強張るのを感じた。スープが冷めてしまうからルイスを先に訪ねただけで、区別などはない。そういう取り方をされるのは心外だった。


「下げて」

「ローゼンハインさん、私は……!」


 ヴィンセントを恨みきれず、ルイスは放っておけない。クロエはどちらも心配なのだ。


「下げないわけ……?」


 ヴィンセントは目を細めると机の上のカップを薙ぎ払った。

 紅茶が飛び散り、カップが砕ける音が響く。


「な、なんてこと……するんですか……」


 五客揃えたティーカップが割れてしまった。

 嘆くクロエは膝を折り、手を伸ばす。その手が割れた破片に触れた時、ヴィンセントは思い切り踏み付けた。


「い……ッ!」


 皮膚が破れ、剥き出しになった肉に破片が潜り込み、骨に当たる。

 クロエは呼吸が止まるほどの痛みに襲われる。破片で掌が切れ、見るみるうちに血が広がってゆく。


「ど……う、して……」


 見上げようとするクロエは髪を掴まれて強制的に顔を上げさせられる。そして――――。


「……あ…………?」


 何故、自分が床に倒れているのか分からなかった。

 間を置いて、頬に熱っぽい痛みやってきた。撲たれたのだと理解した。信じられない気持ちでいると、腹部に硬いものが打ち付けられた。クロエは肺の中の空気を全て吐き出す。


「…………ッ!」


 何度も何度も蹴られる。腹や背を蹴り上げられる。女だからと手加減する様子もなかった。


「…………あ………………ぅ…………ローゼン…………ハ、イ……ン、さん…………」

「ああ、好い様だ。このまま殺せたら楽しいだろうなあ。四肢をばらばらに少しずつ裂いていけば血も沢山出るだろうし、忌々しい白に埋まった中庭を赤に染められそうだ。良い暇潰しになる。それに君も真っ赤になれば少しは見られる顔になるかもしれないしね」

「……殺……した、いなら…………殺せば、良いじゃ……ない、ですか…………」


 壁際に転がったクロエを、ヴィンセントは物でも掴むような手付きで引っ張り上げる。丁寧に伸ばした髪もこうなるとただの縄だ。


「殺さない。ディアナの前でお前を殺すのが俺の夢だから」


 この瞬間、本当に心が通じない人間がいるのだとクロエは再び思い知る。


「あ、でも殺さない程度には甚振るよ。まあ死んじゃっても死体を使うだけだから良いんだけどさ。さて、階段と窓のどっちが良いかな?」

「………………え……?」

「因みに階段から落ちたレヴィくんは六本骨を折ったけど、どうしよう?」


 キャンディとチョコレートのどちらが好きかと訊ねるような気軽さで、ヴィンセントは言った。


「うーん、でも階段から落としてうるさくすると皆の迷惑にもなるし、窓にしようか」


(……ああ……またなんだ)


 また二階から突き落とされて骨を折ることになるのか。髪を掴まれ、窓から上半身を突き出されたクロエは理解し諦める。そうして気持ち悪い浮遊感の後、襲いくるだろう衝撃を想像して意識を手放した。

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