差し出された毒林檎 【2】
午前中の家事を片付けて二階の角部屋へ行くと、部屋の主はベッドの上で本を読んでいた。
「……また出た」
「お化けが出たみたいな言い方しないでくれませんか」
「幽霊の方がマシに思えてきたよ」
冷静かつ淡白に切り返され、クロエは口籠る。
傷の手当てから解放されたと思えば、今度は風邪を引いてしまったルイスだ。彼は他人に構われるのが不本意極まりないらしく、クロエは全力で拒絶を受けていた。
「もう平気だから、放っておいてくれないか」
「できません」
すると、面倒臭げだったルイスの声色に低さと鋭さが加わった。
「鬱陶しいと言っても?」
「い、言われたってきますよ」
肌がピリピリとする。敵意がひしひしと伝わっている。それほどまで嫌われているのかと今日も落ち込むが、喧嘩を売ってしまったのだから仕方がない。
カレンダーももう少しで三月に変わる。クロエとルイスはずっとこんな調子だ。
はあ、と溜め息がこぼれる。それは両者から漏れたもので、それにより空気が一層重くなる。
「ここにいると感染るよ」
「私はこの前、風邪を引いたからもう罹りませんよ」
「それでも罹ったらどうするんだ」
「そこまでひ弱じゃありません」
「ひ弱じゃなくても死ぬ人だっている」
風邪でも人は死ぬとそう言ってルイスは顔を背けてしまった。
こうだから、放っておけない。
どんな酷いことを言ってもルイスの言葉の裏には優しさがある。辛辣な態度を取って他人を突き放し、辛さを呑み込んで一人になろうとする癖がある。
クロエ自身も人気のない場所に行きたくなる癖がない訳ではない。
腹が立った時や寂しさを感じた時は景色の綺麗な場所へ行って気持ちを洗い流し、立ち直れないくらいに鬱いだ時は暗がりに逃げ込んでいっそうの闇に浸かりたくなったり。他人に何か思われるくらいなら一人の方が気楽だと思ったりする。
そうして逃げ込んだ先の公園で出会ったからか、クロエは一人になりたがるルイスを放っておけない。
彼が自分自身を大切にできないのなら、他人が彼を大切にしてやるしかない。
「これでも身体の丈夫さは唯一と言っても良いくらいの取り得なんです。この前の風邪だって慣れない環境に疲れていたから引いただけで、今はもう大丈夫ですよ」
何故そこまでして関わろうとするのか分からないと言いたげな眼差しが寄越される。
咎めるような哀れむような独特の色にももう慣れたクロエは、笑顔を向けながら提案した。
「温かい紅茶を用意してきますから、一緒に飲みましょう」
紅茶は風邪の予防に良いとされる飲み物だ。
紅茶に含まれる成分にはウイルスの活性化を抑える働きと、身体をあたためる効果がある。クロエはレモン汁を垂らした紅茶を用意した。
「このカップは【ロセッティーナ】のミルククラウン?」
「はい。ご存知なんですか?」
「ロセッティーナ家の月の姫君をイメージした食器は有名だから」
愛娘をイメージしてデザインしたというミルククラウンシリーズは、シルバーで描かれたティアラと三日月のモチーフと、ペールブルーの下地のコントラストが美しい食器だ。
そんな食器のモデルとなった少女が紫陽花の妖精のようなエリーゼと並んだら圧巻の光景だろうと、見知らぬ令嬢を思い描くクロエだった。
「もう一客カップ持ってきましょうか?」
「要らない」
ルイスは猫舌らしく、すぐには紅茶に口を付けない。くるくるとスプーンで何度も掻き混ぜているのは早く紅茶を冷ます為だ。
紅茶は八十度以上の熱湯を注ぐことで茶葉が開き、香りも味も良くなる。熱湯で淹れてこその飲み物なので、どうしても熱くなってしまうのだ。
クロエは初めの頃、他のカップに移して冷ましたらどうかと勧めたのだが、それはマナー違反だとルイスは涙ぐましい努力をしている。
真面目というか律儀というか強がりというか。ルイスには自分の考えを曲げない頑固なところがあるので一筋縄ではいかない。だからこそ苦しめられているクロエは、スプーンの規則的な動きを見つめる。
会話が途切れることにも慣れてきた。
クロエは静寂自体は苦痛ではなく、寧ろ好ましく思うほどだ。必死で話題を探すのは、口を利かないことで他人に変だと思われたくないから。
けれど、彼と関わる時は静寂を楽しむくらいの余裕があった方が良いと理解したクロエは動じなかった。
「……ごめん」
「どうして謝るんです?」
「ここにきてから世話になってばかりの気がする」
「別に私のことは良いですよ」
不謹慎かもしれないが、こうしている時は言葉を交わすことを許されているように感じるのだ。
「貴方は他人のことより、もっと自分のことを考えて生きた方が良いんじゃないんですか?」
「オレは自分のことばかり考えて生きているつもりだよ」
「そうかな」
「そうだろ。復讐なんてどんな理由があったとしても、自分の気晴らしでしかないんだ」
復讐は死者を喜ばせる行為ではなく、己を喜ばせる行為だ。
敵討ちだ弔い合戦だと幾ら崇高な目的を掲げたところで、反社会的行為でしかない。醜い、自己中心的思想。そう理解しながらもルイスは止めることができない。
「オレは自分のことしか考えていないんだ」
己の首を絞めるようなルイスの言葉を聞くと、クロエは胸が痛くなる。
ルイスは思ったことをそのまま口に出す時があるので、クロエは色々な意味で心臓が痛い。素直なのか捻くれているのか分からない。不安定で曖昧だ。
クロエは俯く。すると、青いサテンのリボンと共に髪が流れ落ちてきた。
長い髪が肩に掛かり、リボンが視界の端で揺れる。腰ほどの長さのある髪が胸の前にくると邪魔でしかない。カップを持っているので背に払うこともできず、そのままでいると思わぬ言葉がぶつけられた。
「キミの髪……見事な蜂蜜色だけど、伸ばしているのか?」
「蜂蜜色って……?」
耳慣れない響きにクロエは首を傾げる。
「ゴールドというよりはオレンジが強いからそう思ったんだけど、気に障ったのなら済まない」
「い、いえ、気に障るなんてそんな……。寧ろ嬉しいです」
「嬉しい?」
「その、私……金髪って言われるのあまり好きじゃないんです」
「そうなんだ」
金髪というのはヴィンセントや継母のような、鈍い輝きを持つ髪色を言うのだ。金髪碧眼ということで事ある毎に悪口を言われた為に、クロエは容姿のことに触れられると条件反射として構えてしまう癖がある。
(はちみついろ)
だけど、呼び方一つなのにあまり嫌なものに感じなくなった。
物の美しさが分からないというルイスだからこそ、何かに例えることが多いのだろう。
本人は素っ気なく、既にその話題から興味を失っているようだったがクロエは嬉しい。
「……どうかした?」
感情がそのまま顔に表れてしまうクロエを、ルイスは訝るように見る。
彼が首を擡げると、少しだけ長めの髪が肩を滑り、耳許で空色の石が揺れる。まるでミルクティーの中で氷がきらきらと光っているようなそんな光景に、クロエは一瞬目を奪われた。
それから暫しの沈黙。
今にも奇特という言葉が投げ付けられそうな気がして、クロエは慌てて話を振った。
「そ……そういえば、この前の青薔薇は何という種類なんです?」
「ブルーヘブンという薔薇だよ」
「ブルーヘブン……」
「あれがどうかしたのか?」
「私、本当の青い薔薇って初めて見たんです」
ラプソディインブルー、ブルーバユー、ブルーシャトー、ブルーミルフィーユ、シャルルドゴール、ラブリーブルー、スターリングシルバー、ディオールエサンス……。青薔薇と呼ばれるものの多くは薔薇特有の赤みが抜け切らず、紫色をしたものが多い。
ブルーヘブンの透き通るような青白さは、他の青薔薇とは一線を画していた。
珍しいものなのかと訊ねてみると、流通数は少ないが、一般の花屋でも扱っているという答えが返ってきてクロエは驚いた。
「パープルレインとオンディーナの交配種だったと思う」
「オンディーナって半八重で紫色のですよね。わりと青みが強くて高価だったような……」
「花自体は強いけど、木を大きくするのに手間が掛かるから高価らしいよ」
「そうなんですか?」
「放っておいても枯れないから、必要以上に花が付いて木の方が育たないと聞いたことがある」
オンディーナには逞しい雰囲気がある。枝こそ細々と弱々しいが花がふっくらとしていて開ききった姿は圧巻だ。肉感的な妖艶さと言うと良いかもしれない。
「パープルレインってどういうの?」
「八重でボリュームがある香りが強い紫薔薇。切花用として出回っているからキミも見たことがあると思う」
「八重咲きで香りが強いというと……ラベンダー色で大人っぽいというか、結婚式とかで花束に使われるもの……?」
「そう、それ」
少し赤み掛かった妖艶なラベンダー色が美しいパープルレインは、ブルー系の甘く爽やかな香りで、ウエディングブーケなどにも用いられる。
「あれは華やかだから花束にすると素敵ですね。店ではブーケローズって呼んでいました」
「店?」
「ここにくる前、花屋で働いていたんです」
植物を育てることが好きで、将来は庭に林檎の木を植えるという夢があったクロエだ。
花屋の仕事も金髪碧眼のお蔭で得られたようなものだが、好きなことなので苦ではなかった。
(家の花、枯れちゃったんだよね)
林檎の森で事件に巻き込まれてから自宅に帰れなかったので、育てていた花は枯れてしまっただろう。
落ち込むクロエにルイスは幾分か柔らかい声で言う。
「花屋で働くなんてキミらしいね」
「私らしい、ですか?」
「空や花を綺麗だと言っていられるお目出度いキミらしいと思う」
「だからどうして貴方はそうやって余計な一言を……」
目出度いだとか、奇特だとか、ルイスはたまに失礼だ。
落ち込みも吹き飛んで、一言くらい言い返さないと気が済まない気分になったクロエは、ルイスに丁度良い言葉を思い付く。
「そういえば、綺麗な花には棘があるとか言いますよね」
「そういえば、あの青薔薇は棘まみれだったな」
慣れない嫌味を言ったところ、すかさず皮肉を返されてクロエは息を詰まらせる。
ルイスはそんなクロエの様子など意に介した風でもなく、丁度良い温度に冷めた紅茶を飲む。
「あの、それは私が棘まみれだと遠回しに言っているんですか……?」
「……別に」
「間がありましたけど」
「気の所為だよ」
ルイスはあの青薔薇をクロエに似ていると言ったのだ。それをわざわざ棘まみれというということは、クロエが棘まみれだと暗に言っているようなものだ。
(まあ、良いか)
この程度の皮肉の応酬なら可愛いものだ。
必要以上に切り返すと互いに気分も悪くなって収集がつかなくなってくるが、基本的にはクロエもルイスも温厚なのだ。飽くまでも言葉遊びの範疇だ。
やっと共通の話題が見付けられたことがクロエは嬉しい。
自分の好きなことが他人と共有できるのは良いことだ。どれだけ改めようとしても感情を素直に出してしまうクロエは微笑んでいたが、やはりルイスは理解し難いという様子だった。