差し出された毒林檎 【1】
※この話は暴力表現が含まれます。閲覧にはご注意下さい。
外は相変わらずの曇り空だが、ここには青空が広がっている。
人気のデートスポットであり、ブランドショップや飲食店が立ち並ぶトワイライト・ショッピングモール。ここは娯楽性重視の区画と、雑貨や日用品を扱う区画に分かれている。二月も終わりへと近付くある日の休日、クロエは同居人二人と共に買い物へきていた。
「付き合せて悪いな」
「いえ、荷物持ちなら任せて下さい! 私はお出掛けできて嬉しいです」
今日の買い出しはエルフェの用事だ。店の模様替えの為のテーブルクロスや造花など、かさばる買い物なのでクロエとレヴェリーが荷物持ちとして連行された。
「悪いと思うなら何か奢ってくれよなー」
「レヴィはメイフィールドのように少しは殊勝になれないのか」
「荷物持ちならルイを連れてくりゃ良かったじゃん」
「あいつは風邪を引いているだろう」
「何だよ、その差別。オレが風邪引いてようが熱あろうが扱き使う癖にさ」
「当たり前だろう。あいつはレヴィと違って侯爵から預かっている存在だ。もし何かあれば俺の首が飛ぶ」
「エルフェさんでもヴァレンタインの親父さんは怖いんだ……」
「俺とて人間だ。苦手なものの一つや二つ存在する」
「へー、でもやっぱり差別は良くねーと思うなー」
エルフェから受ける扱いが気に入らないレヴェリーは不満な顔をしていた。
「皆で買い物は楽しいよね。エルフェさんが一緒だと何だかお父さんと買い物しているみたいで……」
クロエはレヴェリーに自分の思いを伝えようとして、途中ではっと言葉を切る。
エルフェは二十代の子供などいるような年齢ではない。灰被り事件で優しくされたからだろうか、エルフェに対して父親を慕うような感情を抱いてしまっているクロエは、慌てて謝罪する。
ヴィンセントやエルフェはクロエの主人であって家族でも友人でもない。それなのにこういった感情を持ってしまうから、身の程を弁えろと疎まれる。
エルフェも呆れただろう。そうしてクロエが恐る恐る見上げると、予想通りの呆れ顔があった。
けれど、その彼の口から出たのは、あたたかみのある言葉だった。
「いや……、俺はあんたたちの保護者だからな」
自分はレヴェリーとクロエの保護者だから、親扱いを受けても構わないとエルフェは言った。
数瞬、面食らった顔をしたレヴェリーは憎まれ口を叩く。
「エルフェさんが親だったら学校公開日とか死ねるわ」
「安心しろ。俺は面倒事に参加しない」
「例え話だよ」
二人の会話を聞きながらクロエは自然と微笑む。
「買い物が済んだら何処かで一服していくか」
「オレ、ショコラ飲みたい」
「私も飲みたいです」
「ならばしっかり荷物持ちをしろ。奢ってやる」
二人が喜ぶ姿を見たエルフェは子供だなと言わんばかりの様子で、やれやれと肩を竦めた。
「やあこんにちは」
「待っていた」
運河沿いのカフェでショコラ・ショーを楽しんでいると、思いもよらない人物が姿を見せた。
赤毛の女性はクロエの隣の席に座る。
「メルシエさん、こんにちは」
「ああ、こんにちは」
ワインレッドのタイトなコートドレスを纏ったメルシエは、ボンネットを外して顔を露わにすると、猫のように微笑んだ。えくぼが何とも人懐っこい印象があり、クロエも釣られるように笑む。
「本日はご注文の品をお届けにあがりました、と」
給仕にアイスロイヤルミルクティーを頼んだメルシエは、手に下げていた紙袋を椅子に置く。
注文の品とは先日クロエが選んだ【ロセッティーナ】のティーセットだ。郵送すると言っていたものを自分の手で持ってくる辺りは丁寧な仕事をするメルシエらしい。
「わざわざ有難う御座います」
「他の客への配達もあったから序でだよ。……んで、レイ。これが妥当な金額。あとで通帳確認しなよ」
「分かった」
エルフェはメルシエから受け取った封筒をクロエに渡した。
「あんたの給金だ。確認しろ」
「は、はあ……。失礼します……」
何故、突然給金など支払われるのだろう。クロエは頭が疑問だらけになる。
その異様な分厚さから心配になったクロエは封筒の中身を確認した。
「こんなに貰えません!」
「良いんだよ。あんたの日々の働き分を計算した額だから」
「え……?」
「住み込みの家政婦の場合、日当は1,500ミラだ。それを五ヶ月分でこれくらい。それから日々の食費とか諸々のことを引いて160,000ミラ。どうかな?」
メルシエは商人らしい慣れた手付きで電卓に打ち込んでゆく。表示された額を見てクロエは目眩がした。
その金額はクロエのような庶民であれば、十月は生活できるという額だ。
家政婦とは凄い仕事だ。一日で稼ぐ金額が花屋で貰っていた給金の倍だ。妥当な給金と言われても、これだけの額を纏めて寄越されたクロエは焦りを感じる。
「あんたの身分は従僕ではなく家政婦だ。今後、給金は支払わせて貰う」
「うんうん。あたしも、こういう中年が食器に金注ぎ込んでにやにやしてるより、女の子が好きもの買ってにこにこしてくれていた方が嬉しいからねー。少しぱーっと使っちゃいなよ」
中年というのは四十から五十代を指す言葉だ。クロエが首を傾げると、エルフェは苦虫を噛んだような顔をしてメルシエを睨んだ。
「メル、余計なことを言うな」
「はいはい。もしかして青年って言われたかった?」
「……いや」
エルフェが大人しく引いたのを見てメルシエはにんまりと唇を曲げる。
犬と猫が喧嘩をして猫が勝った、とクロエは感じた。
「青年っていうのは十代後半からのことだよ。まあ、レヴィはまだまだ少年って感じだけど」
「誰がチビだよ。去年より一センチ伸びたんだからな!」
「はいはい、分かったから騒がないの。そうやってぎゃーぎゃー喚くところからしてガキっぽいよ。大人に見られたいならもっと落ち着きを持たないとね」
「うっせーよ、おばさん!」
「おばさんだけど何か?」
「うわ、嫌味が通じねえ……」
メルシエは母親のようだ。エルフェが父親で、レヴェリーを息子と考えると良い親子だ。
いっそ家族になってしまえば丁度良いのではと思ってしまったが、三者から全力否定を受けることになりそうなので、クロエはその不埒な考えを心の奥にそっと仕舞った。
「エルフェさん、メルシエさん。済みません、有難う御座います」
「俺があんたたちの面倒を看るのは二十歳までだ。野垂れ死にしないように金は貯めておけ」
給金は払うが無駄遣いはするな、ということだった。
二十歳までというのはレヴェリーのことで、借金のあるクロエが解放されることはないのだろう。けれど、最低限の人権は守ろうとしてくれている。その事実に胸が一杯になったクロエは、エルフェとメルシエに深く頭を下げた。
(好きなものを買う、かあ……)
エルフェとレヴェリーを先に帰し、一人ショッピングモールを見ることになったクロエは悩む。
クロエはあまり物欲はない。欲しいものと言われても、普段着を何点か欲しいと思う程度。それもお洒落をしたいという欲というよりは、暖を取る意味でだ。
従僕生活が始まる前に揃えた秋物の服で過ごしていたので、流石に冷えた。
この時期ならもう春物が出ているので冬物は比較的安く買える。そうしてブティックを見ていたクロエは、衣装が展示されたウィンドウの前で足を止めた。
(うわあ、綺麗なグリーン)
ライムグリーンというのだろうか。春らしい鮮やかな色合いのカットソーは、先ほど購入したホワイトのフレアスカートと合わせたら素敵だろう。
花屋で働いていた時は高級品を扱うということで身形もきちんとしていたのだが、従僕生活が始まってからは実用性を考えた動き易い服装しかしていなかった。
久々にこういう格好をしてみても良いだろうか。クロエは試着室へ向かった。
その夜のこと。
「何この雑巾みたいなの」
「バニーちゃんです」
ヴィンセントが耳を掴んで持ち上げたのは、淡い黄色が可愛らしいうさぎのヌイグルミだ。
「君くらいの年頃の娘が人形なんて買うんだ? 幼稚だね」
「部屋が寂しいんです」
一人で眠るのが怖いという子供染みたことは言わない。けれど、たまに無性に寂しくなるのだ。
今も昔もクロエには心の中の本音を打ち明けられる友人がいない。施設の先生や兄弟たちに囲まれていても何処か孤独で、寂しかった。そういう気持ちを紛らわす為にヌイグルミを買っでも良いはずだ。
「人形しか友達がいない女か。寂しいね」
「ローゼンハインさんに迷惑は掛けていませんよね」
「つまらない辛気臭い顔した娘を見ているだけでこっちは迷惑してるんだけど」
存在自体が有害、と言わんばかりの言い様にクロエは息を呑んだ。
「君ってどうしてそういう薄暗い顔しかできないのかな。自分の不幸に酔ってるとか? それとも君はそんなつまらない顔しかできない人生こそを好んでいるわけ?」
冷笑を滲ませた声が耳許で響く。クロエは押し黙る。
しかし、それは僅かな間のこと。ヴィンセントに髪を引っ張り上げられてクロエは悲鳴を上げた。
「は、離して下さい! 怒りますよ……!」
「あはは、また撲ってみる? 僕としては面白いから良いけど、今度は反撃しちゃうかもなあ」
反撃の内容が恐ろしくてクロエは抵抗を止める。するとヴィンセントは失望を窺わせる暗い目をして、頭一つほど下にあるクロエの顔を見下した。
「折角の金髪碧眼も宝の持ち腐れだね」
離す前に一度強く引かれる。クロエの顔が苦痛に歪むのを愉快そうに見た後、ヴィンセントは興が削がれたというように去った。
クロエは殴られたような気分になる。
(……な、なんな……の……)
乱れた髪を押さえながらクロエは暫し放心する。あまりに強く引っ張られたので髪の毛が切れた。
とても痛かった。散らばった髪の毛をのろのろと集めたクロエは溜め息をつく。家政婦に格上げされたからといって待遇が良くなった訳ではなかった。寧ろ今まで以上にヴィンセントの目が冷たく感じられて、クロエは弱るしかない。
「つまらない顔……」
鏡を見てみようと考えて、止める。自分の顔を眺めても虚しくなるだけだ。
母親譲りの金髪碧眼。美人とは言えない平凡な顔。
自慢して良いはずの金髪も碧眼もクロエにとっては大きな苦痛でしかない。青い瞳は一重瞼の所為でぱっとしない。髪は毛先がカールしてしまう癖があるので、雨の日は酷いことになる。
金髪碧眼の癖に。そんな言葉を何度投げ付けられたことか。
クロエは金髪碧眼が嫌いだ。自分自身が嫌いだ。それをあのように華やかな容姿のヴィンセントから指摘されたのでは卑屈になりたくもなる。
(綺麗な人には分からないんだろうな)
自分の色彩への嫌悪から鏡を叩き割りたくなる衝動など、ここで暮らす男性たちは分からないだろう。
人間離れした美貌を持つヴィンセントとエルフェも、人間という範囲で恵まれた容姿をしているルイスとレヴェリーにもきっと分からない。
(こんな風じゃ駄目だよ)
容姿は磨きようだ。自信がなくて俯いているから酷くもなる。髪や瞳の濃淡はあれど、同じ顔をした母はあんなに美人だった。それはきっと己に自信があったからだ。
ヴィンセントの中傷に屈してなるものか。あのような輩はこちらが真に受けるから付け上がるのだ。
この半年間、虐げ続けられた所為で自己否定も行き着くところまで到達してしまったクロエは、もう半分自棄になって開き直り始めている。それが良いことなのか悪いことなのかは分からないが、少なくとも泣かずに済んでいるのだから、クロエにとっては【良いこと】だ。
「うん、大丈夫」
何があっても大丈夫だ。自分は頑張れる。泣いてばかりいたあの頃の自分から変わらなければ駄目だ。
クロエは強張った握り拳をゆっくりと開くと、立ち上がった。