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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
三章
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番外編 鳥籠ラプソディア ~side Louis~ 【5】

 復讐心がなくなった訳ではなかった。

 ヴァレンタイン侯爵家という安全で快適な籠の中で育ちながらも、クラインシュミット夫妻を殺した者をこの手で討ち取りたいという望みが消えることはなかった。

 しかし、そんな感情を見せればヴァレンタイン夫妻は悲しむだろう。ルイスは感情を封じ込めた。

 月日は流れ、十六歳の誕生日を迎えた日、ルイスは義父オーギュストと酒を飲んでいた。


「どうだ、美味いか?」

「……舌触りが柔らかいですね。香りも甘くて美味しいです」


 ルイスの誕生日である――施設に預けられた日――四月十四日に作られたという赤ワイン。食べ物の味は良く分からないが、父が用意してくれたものなのだ。これが美味しいものだと記憶に刻み込む。


「犬の名はどうするのだ?」

「エリーゼに付けて貰おうと思っています」

「あれの名付けの才能も褒められたものではないと思うがな」


 ヴァニーユ、マロンクリームという微妙な名前が続いているので、次はホイップかカスタードクリーム辺りがきそうだ。箱入り娘のエリーゼは浮き世離れしているところがあるが、これは酷いと侯爵は渋面を作った。

 けれど、彼が娘を可愛くて仕方ないと思っていることは分かる。

 ルイスが引き取られた時、侯爵夫人ヴィオレーヌの腹には既にエリーゼがいた。どちらの命も危ういかもしれないと囁かれていた。だからこそヴァレンタイン夫妻はルイスを引き取ったのかもしれない。

 七年前のあの日から、ルイスはヴァレンタイン家に居場所を見付けられない。


(オレがいなければ、この家族は……)


 葡萄酒を喉の奥に流し込みながら、ランプの明かりを黙って見つめる。

 年の割に落ち着いてしまっている息子を見て、侯爵はグラスをテーブルに置いた。


「お前は未だに己を恥じているのか」

「私は……自分の身に起きたことについて誰かを恨むつもりはありません。己の誇りを守るのなら、すぐに自害すれば良かったんですから……」


 命を断つことが怖くて、切り刻まれても生きていた。

 死が怖いなど愚かだ。人はいずれ死ぬ。遅いか早いかの違いだけなのに、七年前の自分は臆した。

 潔くない。醜い。汚らわしい。ルイスは自分自身を恥ずべき存在として呪っている。


「人間は誇りを殺してまで生きる意味などないのに、あの時の自分が嫌になります」

「お前が恥じる必要はない。恥ずべきは人間の尊厳を奪い取る社会体制なのだ」

「オーギュスト様……」

「また戻っているぞ」

「済みません……、お父様」


 紙のような真っ白な顔をして謝るルイスを見て、侯爵は悼むような眼差しをした。

 八歳の子供でなくとも人間は己の命を失うことを恐れる生き物だ。それでも物心付いた時から長生きはできないと言われ、自分の価値を低いところに置いているルイスは、その【価値のない命】を少しでも惜しんだ自分を許せないのだ。

 己の首を絞め続けている息子を侯爵は見ていられない様子だった。


「私を恨むか、ルイシス」

「何故、恨む必要があるのですか?」

「あの時、私とヴィオレはお前に罰を受けさせなかった」

「お二人は私を哀れんで下さったのですよね。恨むなんてそんな筋違いのことはしません」


 ヴァレンタイン夫妻を恨むのは見当違いだ。彼等はルイスを守ろうとしただけなのだ。

 だが、【親だからこそ子が悪いことをしたら罰を受けさせるべき】という思いが浮かび、ルイスはヴァレンタイン夫妻を未だに両親と思えない自分を嫌悪した。


「では、お前を地獄に突き落とした男はどうだ。恨むか?」

「何処の誰かも分からない人を恨みようがありません」

「そうだな。何処の誰か知っていたら、私が有りと有らゆる手段で八つ裂きにしてくれる」

「……お父様、時代錯誤ですからお止め下さい」


 気性の激しさから、生まれる時代を二代間違えたと言われる鉄血のオーギュストだ。

 屋敷に忍び込んだ逆賊を縛り上げ、釘を打った樽に放り込んで車に引かせようとしたという噂がある。彼が言ったからには打ち首も八つ裂きも必ず実行されるだろうとルイスは感じる。

 侯爵は家族を大切に思っているからこそ、自分たちに仇なす敵には容赦がない。

 気高い貴族らしい男。侯爵である父は、息子の自分と正反対の存在だ。

 家族という光の眩しさが辛くて仕方がない。

 首を切った時、ルイスは死んだのだ。ここにいるのは残り香のようなもの。凍て付いた心を内包する人形だ。

 人形らしく、皆が望むように生きることがルイスにできるただ一つのことだ。

 このままぬるま湯の中で生きてゆく。ヴァレンタイン夫妻が望む子供を演じながら生きていく。生きることがヴァレンタイン夫妻にできる唯一の孝行だ。

 けれど、そんなルイスに道を踏み外す切欠を与えたのは、忘れえぬ記憶から這い出した【悪魔】だった。


『ヴァレンタイン小侯爵、初めまして』


 再びあの金髪の悪魔と出逢わなければ、ルイスは復讐に生きることなどなかっただろう。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



「君、殺したんだってね? か弱い女性をサーベルで刺し殺したって聞いたよ」


 正気とは思えぬ共同生活が始まった日の夜、部屋を訪ねてきたヴィンセントは嬉々として語った。


「僕はさ、人間じゃないから人間を殺しても人道ってやつに反する訳じゃないんだよね。エルフェさんだって外法は狩るけど人間は殺さない。あの人は人間の犯罪者はいつも不殺で捕らえる。殺すのは外法だから、同族殺しと忌まれることもない。君は人間も、そして外法に対しても不殺を掲げているらしいね。でも、その実態はどうなの? 君は僕たち側に全く関係のない人間を殺めている立派な人殺しだ。それなのに不殺を掲げて普通の人間の振りをして生きているなんて笑っちゃうよ」


 鼠を甚振り殺す猫のような目をしてヴィンセントは笑った。

 ルイスにとってヴィンセントは、自分を地獄に突き落とした男だ。

 娼館に売り付けられ、そこで虫螻のような扱いを受け、壊れた女に人形として弄ばれた。その過去が否応なくよみがえり酷い目眩を感じたが、ルイスは壁に手を着いて倒れることだけは避ける。

 ここで弱みを見せれば悪魔に殺されるだけだ。


「君は僕と同じ人殺しだ」

「言われなくとも、分かっています」

「うーん、でも間違いだったかな」

「間違い……?」

「レヴィくんと君のどっちを売り払おうかと悩んで軟弱そうな君にしたけど、レヴィくんにすれば良かったよ。そうすれば心の弱い彼は勝手に壊れてくれて、図太い君のことはこっちで洗脳すれば良かったんだから」


 ヴィンセントの誤算は、あの環境下でルイスが発狂しなかったことだ。

 【金髪の赤い女】を【赤い眼の男】だとレヴェリーの記憶を操作したように、ヴィンセントは何が何でも十年前の事件の真相を隠したいらしい。


「ふ……ふざけるな。兄さんをこれ以上巻き込んだらオレはあんたをただじゃ置かない」

「【兄さん】、ね」


 指摘され、自分でも驚いた。

 苦い気持ちが心にじわりと広がり、ルイスは血が滲むほどに拳を握り締めた。

 レヴェリーにとってルイスが人質のように、ルイスにとってレヴェリーが人質だ。可笑しな真似をすればレヴェリーに危害を加えると、ヴィンセントは暗に言っている。


「お兄さんが嫌ならあの娘でも良いけど、さてどうしようか?」

「下衆が……」

「褒め言葉だよ」


 人質を取られたルイスは演技を続けながら生活をするしかなかった。

 それからの一ヶ月は猛省の日々だった。

 下手に復讐心を出せば、レヴェリーとクロエに危害が加えられかねない。何よりもヴァレンタイン侯爵がヴィンセントの首を刎ねる可能性がある。

 そのようなことをされれば真実は闇の中に沈む。それだけは避けねばならない。

 ルイスが復讐したいのは飽くまでも【金髪の赤い女】であって、ヴィンセントはどうでも良かったのだ。

 だが、彼が殺したいほどに恨んでも良い相手ということには違いない。そんな憎き存在が目の前にいながらも銃の引き金を引けない日々は苦しく、夢見も酷いものだった。


『ずっとずっとずっと一緒にいましょうね、わたくしの可愛い愛し子』


 寝ている時に触れられるのは堪えられない。窓のない部屋にいると、気が狂いそうになる。

 首を絞められる。

 撲たれ、蹴られ、口汚く罵られる。

 身体にナイフを突き立てられ、血を抜かれる。

 泣き笑いをしているアゼイリア夫人の顔が焼き付いている。


「――オレに触れるな(トゥスュ・モワ・パ)!」


 悪夢から覚め、銃を向けた先にはアゼイリア夫人とは似ても似つかない勿忘草色の大きな瞳があった。

 悲鳴を上げることができず、また瞬きすらもできない様子で佇んでいた。

 感じたのは殺意と恐怖、そして戸惑い。

 咄嗟のことに取り繕うことができず、随分みっともない姿を見せてしまったように思う。クロエは具合が悪いからだと取ってくれたようだが、そんなものではない。

 忘れられない過去が常に意識を苛み続けている。

 いつか周りにいる人間を傷付けてしまうかもしれない。そう思った瞬間だった。


 そしてその日、ルイスはまた罪を犯した。


 外法の命を狩った。

 これもある種の正当防衛か、不覚を取ったエルフェを仕留めようとする男を射殺した。

 父と母が殺された。助けられなかった。アゼイリア夫人を殺した。助けなかった。

 もう周りで誰かが傷付くのは嫌だった。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 どうしてこのような状況に陥ってしまったのだろうかと考える。

 普通はあれだけ突き放されれば避けるようになる。だというのに、この少女は何なのか。

 突き放せば挑戦を受けてやるとばかりの目をして切り返してくるし、人のことを風変わりと言い出す。

 撲った際に彼女の中で変なスイッチでも入ってしまったのか、クロエはあの日から少々お節介だ。ルイスは対応に困っていた。

 他人なら優しい振りをして誤魔化せる。敵なら辛辣な態度で突き放せば良い。そう思ってきたルイスだが、クロエにはそのどちらもいまいち通用しなかった。


「痛くないんですか?」

「痛くない」

「痩せ我慢とかではなく、本当に?」

「本当にだよ」


 痛覚があるかないかを訊かれれば勿論あると答える。ルイスだって痛みくらいは感じている。


「強いんですね」

「本当に強かったらこんな怪我はしていない」

「どうしてそういうこと言うんですか……」


 あの一件からクロエはルイスに気を遣わなくなった反面で、丁寧語を使って距離を置くようになった。

 流石に嫌われたな、と感じる。

 だが、それで良い。嫌われていた方が良い。人殺しに関われば不幸になる。そうでなくてもルイスは生まれた時から周りを迷惑を掛け、不幸にしてきた。


(オレは彼女に関わるべきじゃない)


 この少女のことはあまり傷付けたくないと思う。

 あんな傷を負いながらも闇に負けず、健気に生きている。不用意に関わってその花を枯らせたくはない。

 ヴィンセントに言われるまでもなく、人形に心などない。花を慈しむことなどできないのだ。


「また曇りですね」

「そうだね。雪が降るんじゃないかな」

「じゃあ、また雪遊びができますね」

「雪遊びならレヴィとやってきなよ」

「寒いのが好きなら混ざってくれたって良いじゃないですか」

「オレは別に寒いのは好きじゃない。風変わりなキミと一緒にしないでくれるかな」

「ま、また言いましたね……」


 そろそろ会話を諦めて部屋から去ってくれないだろうかと、暗に気持ちを込めて言った。

 けれど、クロエは聞き流してしまう。


「貴方の好きな季節っていつですか?」

「……キミはどの季節が好きなんだ?」


 自分のことを答えるのを億劫に感じて、ルイスは質問を返す。


「うーん……春かな。あ、でも全部好きかもしれません」

「それはどうして?」

「春は太陽が気持ちが良いし、林檎の花が咲くから好きです。暑いのは苦手だけど、夏の空は綺麗。秋は美味しいものが沢山ありますね。それに冬は星が沢山見えて、雪も降るから好きです」


 ルイスがかつては愛しいと思えたものをクロエは当たり前のように語る。

 空模様を嬉しそうに語れる能天気な娘。温室で純粋培養された苦労知らず。そんなことは決してない。

 辛い経験をしながらもクロエは生きている。笑顔を忘れないように己を叱咤しながら精一杯生きている。確かに闇を持っているはずなのに歪んでいない。そんな違いを見せ付けられるとルイスは居た堪れなくなる。


「そんなことを楽しめるキミが羨ましい」


 嫌味ではなく、本当に羨ましい。


「だ、だから私は奇特じゃないですから!」

「分かってる。風変わりなんだろ」

「な……っ」

「他には奇妙や奇矯という言い方もあるけど、奇特の方が耳触りは良いと思う」

「意外と根に持つんですね、貴方」


 ルイスは【普通の人間】を演じる人形だ。ヴァレンタインの家族も、社交場で知り合った友人も、職場での同僚も騙してきた。復讐という目的を遂げ、己の頭を撃ち抜くまで、ルイスは人を騙して生きていかねばならない。

 辛いとは感じない。ただ、たまに虚しくなる時がある。

 それでもこの命はクラインシュミット夫妻に救われたものなのだから、彼等の為に使うのが筋だ。

 喪った空虚を埋めるだけの人生。それは人形に誂え向きの生だ。

 ここは鳥籠(カージュ)でも(カジョー)でもなく、牢獄(カショ)

 色褪せた世界の空から、ちらちらとまた雪が降り始めた。

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