番外編 鳥籠ラプソディア ~side Louis~ 【4】
※この話は流血表現が含まれます。閲覧にはご注意下さい。
刻まれた傷が熱を持って安らかな眠りを妨げる。
苦しさに目蓋を開けると、そこには安らかな顔をして眠る美しい淑女の姿があった。
少女がぬいぐるみを抱いて眠るのと同じようなものなのか、アゼイリア夫人はルイスを離そうとしなかった。無体な振る舞いをしない日もそれは変わらず、傍にいることを執拗に迫った。
娼館の出であるコルセットの緩い女。既に女としての器官を失っていて、貴族に妻として迎えられたといっても妾同然の扱い。夫と他の妾に毒を盛り、晴れて自由となってからは金で買った愛で寂しさを埋める日々。強かな女。それが社交界で囁かれるアゼイリア夫人という人間だ。
強かというより弱い人なのだろうとルイスは思う。
アゼイリア夫人は、泣き笑いをして切り刻んでくるのだ。
そこには奇妙な性欲などは存在せず、どうにもならない寂しさを暴力としてぶつけるしかない、愛情に飢えた女の嘆きしか感じられない。彼女もある意味、残酷な人間に人生を狂わされた存在なのかもしれなかった。
ルイスはアゼイリア夫人に気付かれぬようにそうっと寝台を抜け出した。
最近はアゼイリア夫人もルイスが逃げないことを理解したのか、屋敷内を自由に歩き回ることを許した。金の鍵が掛けられた部屋を除いては何処へ入っても許される。
地下室を抜け出したルイスが向かったのは一階にある小広間だ。
小広間の天井は吹き抜けになっていて月光が燦々と降り注いでいる。アゼイリア子爵の趣味だったらしく、ルイスは空を見る為に良くここを訪れた。
床に横になるとタイルの冷たさが熱を奪ってくれた。半分微睡みながら空を見上げる。
人形に心などないのかもしれない。それでも空を見ることは嫌いではなかった。
「わたくしの宝物を見せてあげる」
好みのワインを手に入れたとのことで機嫌の良いアゼイリア夫人は、そんなことを言った。
ルイスが案内されたのは、開かずの金の鍵の部屋。絶対に入るなと命じられていたあの部屋だった。
その室内で目にしたのはずらりと並ぶ十二体の【人形】だった。
「……人形、ですか……?」
「そうよ、腐らないように中身は取り出して貰ったの。この子たちはいつまでも綺麗よ」
脳と臓物を取り出して防腐処理を施した人形は、かつては間違いなく人間であったものだ。
椅子に座らせられた人形にアゼイリア夫人は愛おしそうに触れる。
「この子が一番のお気に入りで、その子が二番のお気に入りだったのだけど、今はお前が一番よ」
アゼイリア夫人の瞳が暗い光を帯びてうっとりと笑う。
ルイスは背筋がぞっとするのを感じた。
「お前の席はここ。青いお洋服にサファイアを散りばめたクラウンなんてどうかしら? 素敵でしょう?」
「……………………」
「やっぱり白が良い? お前は容姿が華やかだからお洋服は落ち着いた色合いが良いと思うのだけど」
ずっと傍にいろと囁いたその舌の根も乾かない内に、アゼイリア夫人はルイスの死を語るのだ。
「ここに並ぶ際の衣装というなら黒が良いです」
「まあ、嫌だわ。黒なんて喪服みたいじゃない」
「死んでいるんだから喪服だろ」
「ルイシス? どうしたの?」
気持ちが悪い。
もう限界かもしれない。
心を止めることで正気を保ってきたけれど、今回ばかりは耐えられそうにない。
蜜のような闇に身を委ねて、どろりと目蓋を閉じた。
それからどれだけの時間が流れたのか、ゆっくりと目を開けると燭台の赤い光が飛び込んできた。
白いシーツにふわりと広がる黒いドレス。喪服を嫌いながらも黒しか身に着けないアゼイリア夫人。
施設から引き取られたばかりの頃は両親の間で眠っていたから、触れられるぬくもり自体は嫌いではない。だが、己に危害を加えてくる女の膝で見られる夢など高が知れている。
「お腹が空いてしまった?」
「いいえ」
「疲れてしまったの?」
「いいえ」
「一人は寂しい?」
「いいえ」
ゆっくりと起き上がり視線を合わせると、アゼイリア夫人は優しい眼差しでそっと微笑んだ。
「お前は弱みを見せないわね。氷のように冷たくて、人形のように従順。その癖、わたくしに服従した目はしない。そんなお前だからわたくしの一番のお気に入りなのよ」
「嬉しくないです」
「そう、そういうところ。今までの子供たちにはなかった」
現実と夢幻の間を彷徨う非現実的な表情に、最早ルイスは恐怖を覚えなかった。ただ哀れだと、悲しい人だと感じた。
伏せられた睫毛の影が蝶の羽ばたきのように揺れる。白い肌に映える黒髪がさらりと肩を滑る。腕が伸ばされ、冷たく無機質なものが首筋に触れる。瞬間的にルイスは身を引いた。
「……アゼイリア様……」
「そろそろ本物のお人形になりなさい?」
これまでにないほどに深く切り付けられた。ぼたぼたと血が落ちる。白いシーツに赤い染みができる。
どくどくと溢れてくる血の量に目眩がする。手が血で真っ赤に染まった。ルイスにとってその鉄錆の香りと生暖かい感触は五ヶ月前、両親を失った時に繋がるものだった。
アゼイリア夫人への同情半分、クラインシュミット夫妻への贖罪半分。ルイスは両親を救えなかったからからこそ、その罰を受けるような気持ちで折檻を受けていた。
「血を抜いて、内臓を食べて、薬に漬ければお前も皆とお揃い。もう寂しくないわ。ねえ、愛しい子供」
「………………っ」
「さあ、そこに座って。動くと綺麗に血が抜けないわ」
「従えません」
「どうして? わたくしに逆らってどうなるというの?」
殺されるのが怖いというよりは、その先が恐ろしい。こんな牢獄に囚われる子供がこれからも増えるというのが耐えられない。
蝶の羽根を毟る子供のように残酷に人の人生と心を潰す。捕らわれたら逃げ出せないここは蜘蛛の巣だ。
「お前はわたくしに従い、今の生活を守っていれば良いのよ」
(守る? 今更何を?)
これから殺されるというのに何が守るものがあると言うのだ。笑わせないで欲しい。
「どうせ守れやしないんだ。本当に大切なものなんて」
もう守りたいものはなかった。守りたかった家族はもう失ってしまった。
アゼイリア夫人に追い詰められたルイスは、暖炉上の壁に飾られているサーベルを掴む。
「ど、どうして? 綺麗なお洋服を毎日着せているし、美味しい食べ物も、素敵な宝石も与えているわ。何よりもわたくしの愛をあげているのに、お前は何が不満だというの……?」
「オレはあんたの人形じゃない」
人形じゃない。少なくともアゼイリア夫人の人形ではない。正真正銘の【人形】にはなりたくない。
ここで血を抜かれ、異形と成り果てるくらいならこのまま死ぬ。
ルイスがサーベルの切っ先を自身の喉に向けると、アゼイリア夫人は大きく首を振った。
「お前だけはずっと傍にいて。ずっとずっと一緒よ。素敵な宝石も、可愛いお洋服も何でも買ってあげる。ここは世界で一番素敵な楽園よ。ねえ、わたくしと一緒にずっと生きていきましょうよ。約束よ、わたくしの愛し子。ねえ、ねえ、ねえ……ずっとずっと一緒って約束したじゃない?」
喚き、半狂乱でナイフを振りかぶるアゼイリア夫人。そして――――。
「な……ん、で…………」
サーベルを伝って温かいものが掌に触れた。
生肉を刺し抜き、骨を断つ恐ろしい感触がしっかり残っていたが、己が何をしたのか分からなかった。
重たい音を立ててナイフが落ちる。
崩れる前に、微笑んだように見えたのは気の所為だろうか。ゆらりと傾ぐ身体はゆっくりと倒れた。
「アゼイリア様……!」
名を呼ぼうにも、通称しか知らない。そんな事実に今更気付いて殴れたような気持ちになる。
もうアゼイリア夫人はルイスに暴力を振るうことはない。その代わり、夢のような童話を口ずさむことはないし、夢を見るような黒曜石の双眸が開くこともない。
あれだけ憎んでいたのにどうして涙が止まらないのか。その理由の知れない涙に余計涙が出た。
ああ、人を殺してしまったからか。
きっと心が壊れてしまったのだ。そうでなければ涙を流すなんて可笑しい。ルイスはアゼイリア夫人の胸からサーベルを抜くと、それを床に置いて部屋を出た。
燭台を持って向かったのは、金の鍵の部屋だ。
ここに並ぶ彼等は何処から売られ、何処から買われてきたのだろう。どのように扱われ、どのように息を止めたのだろう。出来損ないの【人形】に彼等の無念が分かる訳もなかった。
ルイスは屋敷に火を放った。
部屋が炎に呑み込まれ、その赤い舌が廊下へ伸びるのを見届けてからアゼイリア夫人の元へ戻った。
やがてここも火に包み込まれるだろう。だが、ルイスはここから逃げることはできない。
この身が助かれば、クラインシュミット家の養子がアゼイリア子爵夫人を殺したということが世間に知れる。
ルイスはクラインシュミットの名に泥は塗ることはできない。この命はクラインシュミット夫妻に救われたもの。この身はクラインシュミット家のものだ。
「不様だ」
誇りを守るというのなら、最初からこうすれば良かった。見苦しく生にしがみ付くなんて潔くない。
ルイスはアゼイリア夫人を殺めたサーベルをもう一度手に取った。
「父さん……母さん……」
死んだら両親に会える、なんて甘い希望はなかった。
理由はどうであれ、人を殺めたこの身は死んでも天国の門を潜ることはできない。
「……兄さん……ごめんなさい……」
ならば、いっそ両親の敵に復讐でもして修羅となり果てる方が良かったかな。
そう思ったけれど、もう首を切った後だった。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
目が覚めたのは、白い部屋。
知らない場所で目覚めたルイスは自分が何なのか、どんな状況に置かれているのか分からなかった。
唇を動かしたはずなのに声が出ない。
喉が焼け付くように痛む。違和感がある。見ると管が直接、肺に空気を送り込んでいるようであった。
状況把握の為に辺りを見回すと、すぐ傍に人影があった。
心配するように眉を顰めてこちらを覗き込む男女と目が合った瞬間、ルイスは気付いてしまう。
また死ねなかったのだ、と。
「どうしてですか!? 私は人を殺しました。裁かれなきゃならないんです……!」
療養の後、やっと声を取り戻したルイスは血の味がするほどに声を張り上げた。
無理心中を図ろうとした子爵夫人に抵抗しての正当防衛ということで罪を裁かれることがなかったルイスは、ヴァレンタイン侯爵夫妻の庇護下に置かれた。
あれは無理心中ではない。ルイスはそう強く主張したが、ヴァレンタイン夫妻は首を横に振った。
「お前は充分過ぎるほど辛い目に遭った。そんなお前を誰が裁けるというのだ」
「そうです。貴方は報われても良いのです。いいえ、報われるべきなのですよ」
「オーギュスト様、ヴィオレーヌ様!!」
プラチナブロンドの髪を品良く纏めた青年は長い手を伸ばし、宥めるようにルイスの頭を撫でた。
「アデルバート様とエレン様の愛し子。お前は幸せになりなさい」
「オーギュスト様……、私のことを哀れんで下さるのなら罰を受けさせて下さい……」
「わたくしたちと一緒に、二人の分まで生きていきましょう」
「ヴィオレーヌ様!」
暖かな腕に抱き締められようとも、母の腕に抱き締められた時のような安堵感はなかった。ただアゼイリア夫人と同じ【貴族の女】に触れられている事実に酷い目眩がした。
「……どうして……人を、殺したのに…………」
これではクラインシュミット夫妻を殺した奴と同じではないか。ルイスは慟哭するしかなかった。
侯爵家の跡取りとして成長しながらも、内面は年を重ねる毎に歪んでいった。
罪を犯しながらも裁かれないが故の苦痛がルイスの意識を苛んだ。
週に何度も酷い夢を見る。
クラインシュミットの両親が死んだ時のこと、兄に突き放された瞬間のこと、檻の中から見た世界の景色のこと、窓のない地下室での狂った日々のこと、そしてアゼイリア夫人を殺した時のこと。
目覚めた時、自分が正気である自信がない。いや、正気を貫く自信はあった。
こんな価値もない存在を引き取ってくれたヴァレンタイン夫妻を悲しませる訳にはいかない。不安定な心を彼等に見せられない。優しい人たちに迷惑を掛ける訳にはいかない。ルイスは【平気】と振る舞う為の笑みを、より精巧なものへと変えた。
「身体を冷やすと古傷が痛んでしまいますよ。暖かくして下さい」
「痛みませんよ、こんなもの」
貴族は着替えを使用人に手伝わせるものだというが、ルイスはそうしない。この傷は他人には見られたくないものだった。
「はあ……、貴方は自分のことに無頓着過ぎますねえ。それではいつか心が参ってしまわれますよ」
「そんなことありませんよ。こう見えても図太いんです」
ヴァレンタインの家に引き取られてすぐに従者として遣わされたジルベールには、この傷のことは知られてしまっている。弱みを知られていることから彼にはどうにも適わない思いがあるルイスは笑みを向けた。
笑みは線引き。己と他人の間に壁を作るもの。
普段ちっとも笑わないルイスが笑むのは人と距離を置く時だ。それを知る程度には付き合いも長くなったジルベールは一礼すると部屋を辞した。
ふと見上げると、空が狭い。
窓から望む空はまるで切り取られた絵のようだ。ルイスは息苦しさと目眩を感じて瞼を伏せる。
「おにいさま?」
ついぼうっとしてしまうと、すぐ隣から心配そうな声が掛けられた。
布張りの椅子に腰掛けた少女はビスクドールのような衣装を纏い、母親と同じ色の瞳を瞬かせる。
「……ああ、ごめん。ご本だったね。今日は何を読もうか?」
「あのね、エリーゼ、あおいとりがいいの!」
ここにいる自分は優しい振りをしているだけの【人形】だ。
汚れのない存在を騙している事実に罪悪感を覚えながら、ルイスはエリーゼに本を読んで聞かせる。
「ちるちるみちる~♪」
無邪気な笑顔を前にしても、ルイスは偽りではない微笑を浮かべることができない。
穿たれた氷の刃が心に刺さり、それが溶けてなくならない。心が凍って動かない。