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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
三章
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番外編 鳥籠ラプソディア ~side Louis~ 【3】

※この話は流血表現が含まれます。閲覧にはご注意下さい。

 中層部上部【ロートレック】の青空の下、教会の鐘が高らかに響く。

 今日は珍しく晴れている。

 雲一つない空の色合いは優しい。視界に赤が染み付いているからか、空の青がとても美しく思えた。


「青空は久しぶりね。でも風が冷たいわ。風邪を引いたら大変だから窓は閉めましょうね」


 あれだけのことがありながら、美しいものを美しいと感じる心はまだ残っていた。漸く人間らしい受け答えができるようになってきたルイスの頭を撫でると、コーディネーターは窓を閉めた。

 事件から一週間が経った。

 一週間前のあの日――エレンを看取った後、ルイスはレヴェリーの元へ向かった。正直何も考えられないような状態だったが、ここで母の言葉を無視することはできないという思いだけで動いた。

 子供部屋の中でレヴェリーは倒れていた。腕と脇腹を刺されていて、木張りの床には血が広がっていた。


『……おま…………に、げろ……』


 腕を噛むことで意識を繋いでいたレヴェリーは、ルイスに逃げろと言った。

 痛みに喘ぐことしかできない自分を置いてこの場から逃げろと言うのだ。

 物心付いてからレヴェリーにとっての存在理由は弟を守ることだ。施設にいる時は勿論、引き取られてからも。普段は図々しいくらいの振る舞いをしながらも、いざという時は自分を犠牲にするところがある兄だった。

 ルイスは助けを呼ぼうとした。だがそれよりも早く、誰が呼んだのか警官がやってきて双子は保護され、レヴェリーは一命を取り留めた。

 現在二人は中層部にある施設で保護されている。そこはクラインシュミット家が関わっていた仕事の関連施設で、二人は事件で負った傷を癒やすことに専念していた。

 そんな生活でルイスはレヴェリーと離されている。

 命を取り留めたとはいえ、致命傷を負ったことには違いない。今のレヴェリーは普通の状態ではなかった。

 レヴェリーは精神安定剤と栄養剤を投与されて、寝台に横になっている。


『……赤い女が……金髪の…………』


 まだショック状態のレヴェリーは譫言のように赤い金髪の女がくるから逃げろと言うのだ。


「さ、お薬よ。これ飲んで横になって」


 ルイスも医師に薬を処方されている。薬を飲むと頭がぼんやりとして眠くなる。それは心地良い微睡みではなく、強制的な睡魔だ。

 肉や魚は血の色を思い出して吐いてしまうので、食事は殆ど取れず点滴で命を繋いでいる。眠りは薬による強制的なもの。ルイスは本人が思うよりもずっと弱っていた。


「これからどうなるんですか……?」

「大丈夫よ。きっと良いお父様とお母様が見付かるわ」


 コーディネーターはそう言うが、ルイスは新しい親が欲しい訳ではなかった。

 ルイスにとって親はクラインシュミット夫妻だけだ。それに離された兄の容態が気になり、自分だけが救われる訳にはいかないという思いもあった。


「さあ、眠りなさい。貴方は疲れているから不安になるの。眠って体力を取り戻さないと」

「……先生は……?」

「傍にいるから安心して」


 その答えを聞いて、ルイスは漸く瞼を下ろす。

 眠ると悪い夢を見る。独りは怖い。

 コーディネーターは施設の先生と同じで、仕事だから優しくしてくれるだけだ。そう分かっていても今は何でも良いから人のぬくもりに縋りたい気分だった。






 事件から四週間後、レヴェリーは【上】の関係者に、ルイスは新たな里親に引き取られることになった。

 まるであの事件を早くなかったことにしたいと言わんばかりの話の早さだった。

 里親の件はレヴェリーが【上】と取り引きをして決めたことだと、全てが決まってから知らされたルイスは混乱した。


「お菓子メーカーの【ヴァレンタイン社】は知っているわよね? そこの若社長のオーギュスト様。何でも夫人のヴィオレーヌ様はエレン様の遠縁の親戚だそうで、貴方のことを気にされているわ」


 コーディネーターはヴァレンタイン夫妻がどのような人物なのかをルイスに詳しく説明した。


「明日お見えになるから今日は早めに休まないとね」

「分かりました。でもその前に兄に会わせてくれませんか」


 話を聞いた限りではヴァレンタイン夫妻はルイスに対する純粋な好意から里親になろうとしてくれている。

 だが、レヴェリーだけ上層部の人間に引き取られるとはどういうことだ。

 ルイスはレヴェリーと話をする時間を貰った。


「兄さんも一緒にいこう」

「ごめん、いけない」

「どうして」

「オレが犯人の顔を見ているから……オレがもう【死人】だから……」


 上層部はクラインシュミット惨殺事件の真相を闇に葬ろうとしていた。

 ルイスはレヴェリーが【上】と交わした契約など知らなかった。何故そんなことを言うのか分からなかった。


傍にいてよレステ・ア・コテ・ドゥ……」


 優しかった父と母も使用人たちも皆殺されて、ルイスに残っているものは兄の存在だけだ。兄と離されて一人だけ幸せになるくらいなら、自分も【死人】とやらになった方が良い。


「お……お前なんかもう弟じゃない! とっとと新しい親のとこに行けよッ!!」


 レヴェリーは吊り目がちな眼を鋭くし、声を荒げた。


永遠にさよならだ(アデュー)!」


 思い切り突き飛ばされて、その騒ぎを聞き付けてきた者に慌てて引き離されて。ルイスがレヴェリーの顔を見たのはこれが最後だった。






 夜空が綺麗だ。月や星を見ていると無心になれる。

 明日には自分が貰われていくかもしれないというのに、ルイスにはその実感がない。

 永遠にさよならだとレヴェリーは言った。あんな涙声で永遠の別れの挨拶をされても説得力がない。

 庇護がなくては生きられないような出来損ないの弟を救うべく、兄は犠牲になったのだろう。ルイスは理解した。

 自分の所為で皆不幸になる。こんな弱いばかりの身体の所為で皆に迷惑ばかり掛けて、本当に生きている価値がない。壊れ掛けの心でルイスは己の命を呪う。

 この世から消えてしまいたいとさえ願う。

 そんな時、その願いを聞き届けたかのように【悪魔】が舞い降りた。


「こんばんは。君がルイシス・クラインシュミットくん?」

「あんた、だれ?」


 暗がりで良くは分からないが、金髪の男だ。寝台から起き上がり改めて見たところでルイスははっとする。


「あんた……うちにいた奴だろ……」


 この顔は一度見たら忘れない。ひと月前のあの日、屋敷の敷地内で擦れ違った男だ。


「父さんと母さん殺したのってあんた? あんたじゃなかったから、他に誰か見た?」


 しかし、男はルイスの問いには答えず、代わりに嫣然と笑んだ。


「借金の形に内臓売り払わないといけないかと思っていたから、君みたいな孤児がいて助かったよ」


 次の瞬間、鳩尾に拳が叩き込まれ、衝撃で息が詰まったルイスはその場に崩れた。男はルイスを担ぎ上げ、開け放たれた二階の窓から飛び降りる。

 人間離れした身体能力を持つ男は足を挫くこともなく地面に着地し、そのまま歩き出す。


「……は……な、せ…………」

「ねえ、ルイシスくん。男に売られるのと女に売られるの、どっちが良い?」


 まるでチョコレートとキャンディのどちらが好きかというような気軽な問いだった。


「あはは、そんなに怯えないでよ。僕は温情ある人間だからね、薬漬けにもしないし男に売ることもしないよ」


 温情ある人間という言葉が酷く胡散臭い。そもそも人を拉致するような人間がまともである訳がない。

 ルイスは離せと必死でもがいたが、子供の力で大人の手を逃れられる訳はなかった。


「さて、見せ物小屋と娼館のどちらに連れて行こう。最近はご婦人たちの間で侍童の交換なんて流行っているからなあ。やっぱり娼館の方が高く買い取ってくれるよね」


 ルイスは男が何を言っているのか理解できない。

 子供の頭で理解できる世界はとても狭い。けれど、漠然とろくでもないことをさせられると察する。


「……売るの……?」

「うん。親にも捨てられたような価値なしの君が、僕の命を助けられるんだ。感謝して欲しいな」


 自分本位極まりない答えだった。


「病気持ちってことがばれると価値下がるかな。ということで、大人しく眠っていてね」


 首筋に手刀が落とされる。衝撃によって脳震盪が引き起こされ、今度こそルイスは意識を失った。


「×××××ミラでどうだ?」


 ぼんやりとした意識の中で男たちの話を聞く。


「整形も染色もしていない天然の紫眼ですよ。そんな端金で売る訳ないでしょう」


 紫色の目が珍しいのは施設にいる頃から知っていた。

 兄は赤みが強く、弟は青みが強い紫眼。光の加減によってとても気味の悪い色に映るらしく、喧嘩などをすると「化け物だから捨てられたんだろ」と悪口が返ってきたものだ。そして「お前が出来損なっているから兄と共に捨てられたんじゃないか」と。


「では、この額では?」

「これを売ればそちらには莫大な儲けが入るでしょう。これは原石だし磨かなきゃ価値も低いでしょうけど、その分を差し引いてもこれくらいは貰わなきゃ」

「分かった。それで良いだろう」


 そうして商談が終わる。金髪の男は「人の命って高く売れるんだね、有難う」と言ってルイスの頭を一度撫で、去った。

 それからが地獄の始まりだった。

 身体を清められ、香油を塗られ、髪を梳られ、煌びやかな衣装を着せられ、檻の中の椅子に鎖で繋がれた。大人しくするのは、刃向かえば折檻されるのが分かっているから。衣服で隠れる腕や背は青痣と、皮膚が破れた痕とで埋め尽くされていた。

 これでも初めは抵抗した。逃げようともした。けれど、傷が増えるだけだと分かったから次第に止めた。


「まあ、アメジストの瞳なんて素敵なお人形」

「でも高いね。これで天然の金髪ならこの倍を出しても良いのに」


 人形を買いにきた好事家たちは紫色の瞳に興味を持ったが、金髪ではないということですぐに飛び付く者はいなかった。

 檻の中から見る世界は酷く歪で、汚いものだけに満たされているようだった。

 これ以上の屈辱を受ける前に死んでしまいたいとルイスは願う。しかし、ある日とうとう買い手が見付かる。


「わたくしのところへきなさい?」


 ブルネットの髪を胸に流した妙齢の女性は、檻の外からじいっと視線を注いできた。

 目の動きが何処か正常ではなく、ルイスは恐怖を覚えたが、奴隷に拒否権などはなかった。


(もう……どうだって……)


 人間は弱い者を傷付けるだけだ。人間なんてものは自分のことしか考えていなくて、自分より弱い相手には悪魔のように残酷になれる生き物だ。檻に容れられてから買い手が付くまでの二週間で人間の醜さを知ったルイスは、これから始まる本当の絶望など知らず自暴自棄に目を閉じた。






「双子人形なんて飾ったら映えそうだわ。ねえ、お兄さんの名前は? 今は何処にいるの?」

「………………」

「答えて」

「………………」

「答えなさい!」


 パン、と乾いた音が地下室に響く。

 撲たれた頬を押さえるでもなく、ルイスはそのまま真っ直ぐ女を見上げた。


「ああ、ごめんなさい。お顔に傷が付いたら大変ね。わたくしはお前を愛しているわ。もう撲ったりもしない。だからずっと一緒よ。良いわね、私の愛し子」


 社交界ではアゼイリア子爵夫人と呼ばれる彼女は、アゼイリア子爵の妻で現在は未亡人である。

 若くして未亡人となった彼女は夫の死後、その相続した財産を使って己の寂しさを埋めようとした。

 初めの頃は屋敷に男を招き入れ、次第に人形を買うようになり、そうして犠牲となったのが罪もない少年たちだった。


「お前はずうっとわたくしの傍にいてね」


 虐げられ続けた所為で感覚が麻痺しているルイスは、発作的に殴ったり蹴ったり首を絞めたりされなければ、比較的人間らしい生活をさせられている方だと思えていた。

 けれど、アゼイリア夫人には特異な性癖がある。

 ナイフで相手の身体を傷付けて、そこから流れる血を舐るという血液嗜好症(ヘマトフィリア)の気があった。

 顔と利き手以外の上半身のあらゆるところを傷付けられ、血を啜られる感触は想像を絶するものだった。


「お前は綺麗ね。成長が楽しみだわ」


 アゼイリア夫人の烙印のような声を聞きながら、ルイスは心が壊れていく音を聞いた。

 いや、自ら心を殺していった。

 好みの味ではないものを食べさせられて吐いてしまうと殴られた。だから味覚を殺した。ナイフの刃が肌を滑る感覚は耐え難いものだったが、拒んだところで毎夜訪れるのだ。だから痛みに慣れることにした。

 無理やり耳に通されたピアスの宝石も高価なものだろうが、ルイスはその価値が分からない。

 価値があるものとされる定義が分からない。気付けば、何にも価値が感じられなくなっていた。


「……雪だ……」


 ある日、久々に外に連れ出されると一面が銀世界だった。

 鎖で地下室に繋がれている為、外の空気に触れるのは久々だ。つい自分の置かれている立場を忘れて雪に触れてしまう。

 雪は昔から好きだった。

 白くて冷たくて柔らかくて、何よりも綺麗だ。そんな潔いほどに純白なものに憧れを持っていた。

 ルイスは空の青と雪の白が好きだ。その両方が美しい冬が好きだった。けれど――――。

 空や雪を美しいと感じる、高がそのようなことで動く心があってはこの先辛いだけだ。

 地下室に閉じ込められたまま生涯を終えるだろうこの身に何かを感じる心など、不要だ。

 ルイスは唯一残っていた、ものの美しさを感じる心を殺すことにした。

 空の青も、雪の白も、吹き付ける風の優しさも、触れた雪の冷たさも、冬の陽射しの暖かさも。必死でそれ等を愛しく思う心を殺そうとした。


(もう、価値なんてない……)


 春は薄桃色の花弁の舞う森を家族で散歩した。繋いだ手のぬくもりと、風の甘さが胸を満たした。

 夏は体調を崩してしまうことが多く、母の剥いてくれた柑橘の果物で熱を冷ます毎日。病の辛さ半分、父や兄よりも多く母を独占できることが少しだけ嬉しかった。

 秋は赤い葉の舞う並木道を通って、父と演劇を観にいった。尊敬する父の話に付いていけるように歴史や音楽を勉強をした。褒められると誇らしかった。

 冬は純白に染まった庭で指先の感覚がなくなるまで雪遊びをした。胸の手術をするまでは外で遊ぶことなどできなかったから、初めて兄と共に駆け回ることができて楽しかった。

 ――――恵まれた、恵まれ過ぎた人生(ラヴィ)だった。


「お前は氷のようね」


(そうだ、価値なんてないんだ)


 価値のないこの身に似ているというのなら、その冬の象徴である雪も価値がないものだろう。

 呪うようなアゼイリア夫人の言葉に自らの言葉を重ね、心を殺した。

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