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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
三章
43/208

番外編 鳥籠ラプソディア ~side Louis~ 【2】


「ヴィンスに復讐したいか?」


 投げ掛けられた問いはあまりにも直接的なものだった。

 装飾過多で回りくどい言い回しを好む貴族にしては、やはりエルフェは変わっている。この者の兄も遣り難い男だが、こちらも別の方向性で厄介だとルイスは感じる。


「貴方は許さないでしょう?」

「いや……、俺もあいつに言いたいことがない訳でもない」

「それはどういう意味ですか」


 聞き返されたエルフェは言いよどみ、口を噤む。そして切れ長の目をじっと細くした。

 鐘の音が止まり、北風だけが吹き付ける。


「あれは敵が多いからな。尻拭いをさせられるこちらの身にもなれということだ」


(明らかに嘘だ)


 あからさまだな、とルイスは心の中で呟いた。

 ルイスはエルフェが誤魔化す理由を考えた。


(あの噂はどうなのだろう)


 上官から聞いたことがある。ヴィンセントとエルフェ、そして【赤頭巾】の過去を。

 エルフェと【赤頭巾】が良い仲だったとか、実は【赤頭巾】はヴィンセントと付き合っていたのだとか。

 【赤頭巾】は他の男を選んだようなので結果的にエルフェとヴィンセントに勝ち負けはなかったのだろうが、口に出さないだけで互いに蟠りはあるのかもしれない。

 二人は【赤頭巾】が姿を消してから二十年近く会っていなかったとも聞く。

 そんな絶縁したも等しい二人がどうしてまた行動を共にしているのか。


(十年前の事件が関係しているのか?)


 ルイスも無関係ではない、十年前の事件。その頃から二人はまた組んで仕事をしているようだ、ならばその【理由】は何なのだろう。

 【上】は【下】との問題で民間に被害が出たとしても、反政府のテロリストの仕業として揉み消す。特別な理由がない限り被害者は生かさない。レヴェリーはクラインシュミットの養子という立場を慮られた結果だ。では、クロエはどうだろう。

 正直、生かす価値はない。下層部出身の娘など上層部にとっては犬猫以下だ。

 ルイスはここ一ヶ月で何となく感じたのだが、ヴィンセントのクロエに対する態度を見ていると、クロエは従僕というよりは虜囚のように見えてしまうのだ。


(……訊ける訳がない)


 ルイスは十年前の真相が知りたいと思えど、侯爵家の人間として再び藪を突く真似はできなかった。

 【十年前の事件】と言えば二つある。

 クロエとヴィンセントの間に起こった件。クラインシュミット惨殺の件。

 ルイスが知りたい十年前の真相はそのどちらもだ。そして、その真相を知る為に現在ルイスは皆を騙している。

 ルイスが一ヶ月半前に起こした騒ぎは演技だ。あの時の怒りも驚きも嘆きも全て。ヴィンセントを復讐相手として銃を向けたのは演技だった。


(オレの方が余程嘘吐きだ)


 ヴィンセントを犯人と疑うような発言をしてカマを掛けた。

 対象はレヴェリーとヴィンセント本人。身内を騙すような演技をしてまでもルイスが知りたかったのは、ヴィンセントが隠している真の【敵】は誰なのかということ。

 矛盾があるのだ。

 ヴィンセントは【敵】を既に討ったという。そしてその【敵】を男だと言ったが、事件当時レヴェリーは【金髪の赤い女】だと言ったのだ。

 今ではレヴェリーも記憶が曖昧になっているらしく、ヴィンセントの言うことを信用して【赤眼】と記憶しているようなので、ルイスもヴィンセントのその嘘に乗って騙された振りをしている。

 ルイスはレヴェリーやクロエでさえも騙している。

 ルイスにとってヴィンセントは【敵】を掠め取った存在ではなく、【敵】を庇うような敵同然の存在であり、同時に自分を地獄へ突き落とした存在だ。


「レイフェルさんは、明らかにしない方が良い真実はあると思いますか?」


 レヴェリーのように騙された方が幸せなのだろうかとルイスは訊ねた。


「隠されて良い真実はない。だが、知らない方が幸せなことはある」

「なら……レヴェリーもクロエさんも幸せですか」


 エルフェは答えない。その代わりにルイスの復讐心を駆り立てることを言い出す。


「悪いことは言わない。復讐なんて莫迦な真似は止めろ」

「オレだって復讐なんて意味がないことは理解しています。時として真実は伏せ、妥協することがヴァレンタインの人間として相応しい振る舞いだということも勿論」

「ならば――」

「だけど、オレの記憶が偽りを抱えて生きていくことを許さない」


 異議を唱える声を遮るルイスは醒めていた。

 もう泣き喚く年齢でもなければ、その気力すらもない。意識が暗い方へと沈んでゆき、闇に取り込まれそうになる。鉛を呑み込んだような心地だ。

 十年前のあの日からずっと苦しい。

 ルイスは父と母の無念を忘れることはできない。ルイスには復讐以外の生き方などない。


「生きていることが辛いか?」

「……どうなんでしょうね……」


 殺したいほど憎い相手が目の前にいながら、銃の引き金を引けない今の状態は確かに辛く苦しい。

 けれど、本当の意味でルイスを苛むのは十年が経とうとも色褪せない記憶だ。

 十年前に起きた事件。それは息をしていることすら苦痛に思うほどの絶望の記憶だ。



*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*



 義両親の結婚記念日を祝おうと計画し、秘密裏に計画を立てていたある冬の日。

 そこは緑豊かな庭を望むウッドデッキのサンルーム。中庭からの照り返しと、射し込む陽光で明るく照らされた子供部屋で兄弟は話し合っていた。


「ばあやに教えてもらってケーキ作ろう!」

「誕生日でもないのにケーキ?」

「ローソク五本立ててさあ」

「父さんは甘いもの嫌いだよ」


 兄の向こう見ずな発言に弟が冷静に突っ込むというのがこの兄弟の特徴だ。


「だったらおまえは何がいいと思う?」

「お金もないし、花とメッセージカードはどうだろ」

「花ぁ? それこそ高くならない?」

「それこそ、ばあやに庭の花を手折ってもらって花束を作るとか」


 この【アルケイディア】は構造上、植物が貴重だ。下層部の方では庶民のささやか贅沢として植物を育てることが流行っているが、上層部は機械化が進んでいる。

 そんな上層部でこの邸宅は少々異質かもしれない。

 季節の花々が咲き誇る庭に、機械化が中途半端で暮らし辛い家。子供部屋に吊された籠には文鳥もいた。


「レヴィ、ルイ~、何こそこそやってるのかな~?」


 カツカツとパンプスの踵を鳴らしてやってきたのは、淡い茶色の髪を背に流した女性だ。

 流行りのストライプ柄のドレスに身を包んだ彼女はクラインシュミット侯爵夫人エレン。兄弟を引き取ったクラインシュミット家の夫人であり、年若い彼女は兄弟にとっては母親というより年の離れた姉のような存在だった。


「まさか悪戯の計画? 書斎のタイルに油塗って父さんを転倒させる魂胆とか?」


 鳥籠の文鳥を餌で誘惑し、手の甲に招きながらエレンはブルーアイを細めた。


「ち、ちが! 勉強だよ!」

「レヴィが勉強? 益々怪しい」

「怪しくないって! ルイにシューリス語、教えてもらってたんだって」

「ルイ、本当?」

「本当だよ。兄さんのシューリス語は片言だから」


 結婚記念日を祝う計画などと本当のことを言えない二人は、子供らしい純白の笑顔で誤魔化した。


「父さんとキャッチボールしてくるー!」


 それでも尚も緩まぬ母の視線に根負けしたレヴェリーは早々に退散した。

 嘘が苦手なレヴェリーなりの賢明な判断だが、弟に全てを押し付けるのはいかがなものか。エレンの崩れぬ笑みに、もう全てを知られているような気分になりながらルイスは線引きとして笑みを消す。

 その子供らしからぬ態度を見たエレンは文鳥を籠の中に戻すと、先ほどまでレヴェリーがいた席に腰掛けた。


「……うん、もう熱はないわね。良かった」


 文鳥に触れていない方の手がルイスの薄茶色の髪を掻き上げ、額に触れる。

 その手は、優しくてあたたかい。

 ルイスは本当の両親がどんな人なのかは分からないが、このぬくもりは間違いなく親のものだと感じる。


「ねえ、母さんはどうして僕たちを貰ってくれたの?」


 引き取るならレヴェリーだけで良かったはず。それは実親にも言えることで、捨てるならルイスだけでも良かったはずなのだ。

 レヴェリーだけなら――出来損ないの弟などいなければ――もっと生き易かっただろう。それに、クラインシュミット夫妻もわざわざ施設から子供を引き取らずとも自子を持てば良かったはずだ。

 ルイスはいつも申し訳なく思って生きていた。


「急にどうしたの、ルイ」

「【子供は要らなかった】って聞いた」

「全く、あの人ったら貴方の前でデリカシーがないったら」


 エレンは驚いたように目を剥き、その後、静かに息を吐いた。


「大切な存在を作ることは弱さを持つことだと思っていたんだけど……。そうね、私は子供を諦めていたわ」


 淡い陽光が射すサンルームの空気は、蜂蜜の中の気泡のようにゆっくりくるくると回る。


「だったらどうして?」

「怖かったの。この家が国を管理する仕事に携わっているのは貴方も知っているわね? こういう仕事をやっていると恨まれるのよ。その恨みが直接、私たちにくるならまだ良いんだけど、そういうのは弱い存在に向かうの。だから私は赤ちゃんは作れない。クラインシュミット家の人間として、弱みを自ら作ることなんてできないもの」


 女の仕事であり、同時に幸せでもある子を持つことを放棄するとはいかほどの覚悟か。

 エレンの語り口はルイスが理解するかどうかよりも、自分に言い聞かせるようなものだった。


「でもね、貴方たちを見ていたら大切な存在を守りたいという気持ちが人を強くしてくれるのかなって思ったの。失うのを恐れているからって、意地張って独りで生きていくなんて人間はできないものね。だったら、怯えているより、強くなることの方が建設的かなって。……うん、少なくとも私はそう」

「……うん」

「あ……ごめんなさい。貴方には難しい話だったわね」

「ううん、分かる。特別なものを失すのは自分を見失うくらいに怖いだろうから……」


 執着して、それを失おうという時に自分がどうなるかが怖い。

 ルイスの世界はとても狭く、それを構成しているのは、兄と父と母――家族だ。その大切な家族を守るだけの力は、残念ながら今はない。だからこそ失う恐怖がより身近に感じられてしまうのだ。


「貴方はまだ子供よ。そんなことは分からなくて良いの」


 諦めないで欲しいとエレンは言った。

 エレンがレヴェリーよりもルイスを構ったのは彼が病弱だったのもあるが、病床で見てきた独特の世界から妙に老成してしまっているところを不安に思ったからだろう。


「子供っていうのは、今日のアフターヌーンティーのお菓子は何かなって考えるだけで良いの」


 レヴェリーのように屈託なく笑うことができないルイスは可愛げのない子供だと施設で言われた。

 施設では子供らしく生きてはこられなかった。他人の顔色を窺う術を身に付け、人に気に入られる振る舞いをするか、人を疑って掛かるようになるかのどちらしかなかった。


「貴方の人生(ラヴィ)はこれからなのよ。……ね、私の愛し子(モン・シェリ)


 まるで子守歌のような滴るような甘い声が紡ぐ。

 人として謳歌すべき人生はこれからだという言葉がルイスの胸に印象的に留まった。






 人は幸せになる為に生まれてくるのだと教会の司祭は語った。

 それを偽善者の言葉だとルイスは今まで否定してきたが、両親に語られると具合が違う。

 クラインシュミット夫妻は善人でも偽善者でもない。裏社会で名の通る悪の貴族だ。そのような人間の良さも悪さも持つ両親の言葉だからこそ、胸に響く。

 ルイスは幸せというものについてを考え、その結果、父と母が笑っていて兄が傍にいることが自分の幸せだという答えに行き着いた。

 家族の幸せが即ち己の幸せ。家族が喜んでくれれば、自分も嬉しい。

 そうしてルイスは兄と共に両親の結婚記念日を祝う計画を進めていたが、望んだ両親の笑顔を見ることはなかった。

 あの日、レヴェリーからいつもの待ちぼうけを食らい、何故か胸騒ぎを感じてルイスは家に戻った。

 家は異様な空気に満ちていた。

 白いタイルに血痕が点々と落ちている。

 ルイスは血痕を辿るように廊下を突き抜け、一際酷い血臭を発している部屋へ入る。

 その中の光景を見た瞬間、胃がひっくり返りそうになった。気持ち悪さに却って頭の芯が冷たく冷静になるような気さえした。

 シャンデリアに明るく照らされた大広間は、鮮血で凄惨な模様に染め上げられている。

 使用人たちの死体が転がるその中で、ルイスはクラインシュミット夫妻が折り重なるように倒れているのを発見した。


「とうさ、ん……かあさん……」


 主人を守ろうとしたのだろう使用人と、妻を守ろうとしたのだろう夫。そうして守られたエレンがいた。

 エレンは夫であるアデルバートの首を押さえるようにしてうなだれていた。

 皆に守られた己を呪うように、夫を救えなかった無念を嘆くように泣いていたエレンは顔を上げる。


「ルイ……」


 ルイスの姿を見止めた瞬間、ガラス細工のように虚ろだった瞳に感情が戻る。エレンは立ち上がろうとした。その瞬間、まるで何かの堰が切れたように大量の血を吐いてその場に倒れた。

 駆け寄ったルイスはうつ伏せに倒れたエレンを見て息を呑む。

 守られた訳ではなかった。エレンのドレスは返り血に汚れているのではなかった。

 ドレスの胸元の汚れは少しずつ吐いた血が染みたもの。そして、血を吐くほどの致命傷が背中にあった。

 か細い息をする度に傷口からは血が溢れ出てくる。止血をしようにも傷の範囲が広くてどうにもならない。

 成す術もない様子で名を呼ぶことしかできない息子に、母は微笑み掛ける。


「……よかった…………あなた……ぶ……じで…………」

「な、なんで……」

「わたし……父さん……守れ、なかっ……たの……」


 エレンは困ったように眉を下げると、手を伸ばした。ルイスは躊躇いなくその手を掴んだ。

 優しくあたたかい手が、今はただ冷たい。


「…………レヴィ…………に、いるの…………」


 途切れ途切れに、聞き取れないほどに小さな声でレヴェリーが子供部屋にいることを告げたエレンは、もう息をすることさえ苦しいというように喘ぎ、咳き込み、唇を赤く濡らした。


「わかった、わかったから……!」


 もう喋らないでとルイスは懇願することしかできなかった。

 悴むほどに寒かった。

 熱い血が冷えていく。血の熱と共に身体の熱も消えていく。血で滑って手が上手く握れない。

 ふと、手を握り返す力が強くなった。長い睫毛に縁取られた二つの瞳がルイスをじっと見上げる。


「……わた、しの……可愛い…………」

「かあさん……?」


 私の可愛い愛し子。幼子をあやすようなその言葉がエレンの最期となった。

 実際の死は物語であるような綺麗なものではない。

 冷たくて、暗くて、生々しい。悲し過ぎて涙も出ない。何も考えられない。


「アデルさん……エレンさん…………」


 施設から引き取られたばかりの頃に呼んでいた名を口ずさむ。

 警戒して心を開こうとしないルイスをエレンは私の愛し子と言って抱き締めた。レヴェリーを引き寄せたアデルバートは、そんな二人ごと抱え込んだ。

 向けられたことのない愛情とぬくもりに戸惑う初めの一年。他人を親と呼ぶことと距離感に悩んだ二年目。そして、両親に甘えることに心地良さを感じた三年目。


「……父さん、母さん」


 白く冷たくなっていくばかりのエレンの手を、ルイスはそっと床に戻した。

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