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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
三章
42/208

番外編 鳥籠ラプソディア ~side Louis~ 【1】

猫かぶりの灰かぶり 【2】直後の話になります。

 灰色の空の下、ディンドンと教会の鐘が響く。

 人も建物もひしめく繁華街を避けるように歩く路地に音を立てて突風が吹き込んでくる。

 鐘の音が掻き消える。

 六百年以上の歴史を持つ街並みは古い。建物が林立する街に縁取られ、切り取られたような灰色の空は酷く遠い。

 路地に響く二つの足音。紳士の身嗜みの基本的であるトップハット、手袋、そして黒い外套を身に着けている。

 外套の裾を翻して歩くエルフェの背に、ルイスは若干遅れて続く。

 寒さが最も厳しく、身に纏う衣を重ねることから衣更月の名がある二月の三日、ルイスはエルフェの提案によって上層部で行われる競技射撃の予選大会の観戦をしに出掛けた。

 今日予選が行われる上層部下部【フェレール】へ向かうには、【ロートレック】を経由する。当然、貴族の街を歩くなら然るべき格好をしなければならない。

 十二人兄弟の末子として生まれたエルフェは、親の期待も薄いその気楽な立場から何かとフランクだ。しかし、彼の正装を目にすると、やはり【本物】の貴族は違うと思わずにはいられない。


(所詮、偽物か)


 貴族に引き取られただけの孤児で、双子という半端な自分は、水面に映った偽物の月のようだと思う。

 卑下ではなく事実として。ルイスは自分の立場を理解しているから多くを望まない。


『己以外の人間にも己の未来にも希望も期待も持っていない高潔な魂は好みだ』


 【悪魔】の好みになるなど真っ平御免だが、そういう生き方が一番楽だと教えられるまでもなく理解した。

 何かに心を傾ければ、きっと失った時にまた傷付くだろう。何かを望めば望んだだけ現実に絶望する。だから、何も望まず求めない。【人形】のように生きるのがあの【悪魔】の言うように賢い生き方なのだろう。

 暗く冷たい冬は長い。吐く息は白く、雪がちらついている。

 ルイスは鉛のように重い身体をただ前へと押しやる。

 シャーベット状の雪が革靴に蹴散らされてじゃり、と音を立てる。

 吹き付ける風が雪を運んでくる。その一片が頬に落ち、冷たく溶ける。涙のように残った雫も背中から吹き付ける寒風が拭い去った。


「連れ出した身でこう言うのもなんだが、平気か?」

「貴方までオレを病人扱いするんですか」


 煩わしげな声でルイスは言うと、エルフェは眉を顰める。

 灰色とも水色ともつかない淡い色の目と視線が合うことを厭ったルイスは、子供のように顔を背けた。

 兄であるレヴェリーに言わせれば痩せ我慢。そして、手負いの獣。

 元々他人との関わりを望まないルイスが常以上に人を突き放すのは、気分が優れない時だ。弱った姿を見せたくないという草食動物の本能と、他人に迷惑を掛けたくないという人間的感情がそうさせる。


「ヴィンスと何かあったか?」

「何かされたのはオレではなく、彼女の方ですよ」






 珍しく晴天の空が広がる二月一日、ルイス、レヴェリー、そしてエルフェはエリーゼに茶会に招待された。

 クロエをヴィンセントと二人にすることはできないとレヴェリーは参加を渋ったのだが、彼女は気にするなと言った。

 そして案の定、事件は起こった。

 昼は笑顔で送り出してくれたクロエが夜帰ってみると明らかに泣き腫らした目で作り笑いを浮かべた。

 虐待を受けた子供の目だった。

 悪いのは加害者のはずなのに、自分が悪いのだと己を責めてしまうネグレクト被害者の目を施設育ちのルイスは知っている。それだけで衝撃的だったというのに、クロエは「紫陽花の鉢を壊してしまってごめんなさい」と怯えたように謝るのだ。

 レヴェリーは腫れ物のクロエをどうして良いか分からないようだし、エルフェは我関せずだ。ルイスはヴィンセントを問い詰めた。


「あの娘が傷付いたなら君の所為じゃないかなあ」

「どういう意味ですか」

「君が恰も【普通】の人間みたい振る舞っているから腹が立っちゃったんだ」

「【普通】を装うことの何が悪いんです」

「だって【普通】なんてつまらないだろう?」


 いかれている、と思った。

 八つ当たりをしたいなら苛立ちの対象に直接すれば良いものを、何故その矛先が他に向かうのだろう。

 いや、ヴィンセントは遣り方を熟知している。ルイスを傷付ける場合、自己価値の低い本人よりも周りを攻撃した方が効果的だと理解した上で行ったのだ。


「あんたは何様のつもりだ?」

「君たちのご主人様だよ。ああ、でもそうだな。あの娘がそんなに落ち込んでいるなら今後の雑務に支障が出るかもしれないね。どうしようか? 君が僕の言うことを聞くなら、慰めてきてやらないでもないけど?」


「一応聞く。あんたはオレに何をさせたい?」

「君が十年前に教わった面白いことをあの娘にしてみせて。勿論、僕の見ている前で」


 甘い菓子を強請る子供のように目をきらきらさせてヴィンセントは言う。

 天使の彫像のような容貌の男から吐き出される下劣極まりない発言に、烈しい嫌悪感が湧く。

 だが、ヴィンセントの素晴らしいまでの悪趣味振りについて、ルイスは怒りよりも諦めの方が強かった。


「……もう良い。時間の無駄だ」


 ルイスはこれでも先の事件のことを猛省している。銃を抜かないのもその為だ。

 そうしてルイスが踵を返そうとすると、ヴィンセントは悪意によって呼び止めた。


「何で? 君としてもそこそこ楽しいんじゃない? それとも醜女の泣き顔なんて興味ない?」

「あんたとの蟠りが溶けたとしても、別の意味で傷付いたら何にもならないだろ」

「ああ、そんなことか。でもそれで良いんだよ」

「そんなこと……?」

「僕が楽しめればそんなことはどうでも良い。価値なし人間が他人様に貢献できるなんて良いことじゃない」

「…………どうして……」

「うん?」

「どうしてあんたは分からないんだ……? あんたが平気でも、平気じゃないと思う人間はいるんだ」


 【死ね】という言葉を投げ付けられて、耐えられる人と、本当に命を絶ってしまう人がいるように、人によって物事の感じ方は違うのだ。


「それが人間の振りだって言ってるんだよ」

「今はオレの話じゃない。あんたのことを言っている」


 ルイスが言い返すとヴィンセントはピーコックアイを細めた。それは哀れみ嘆くような目だ。


「……僕はね、人間がどうすれば壊れるのかが知りたいんだ」


 常軌を逸した言葉は、憎悪と執念に塗れた低い響き。


「物を作る時に強度試験をするだろう? それと同じだよ。僕は直接的に手を加えなくとも悪意で……どれくらいの絶望で人間が壊れるのか見てみたい」

「いかれてる」

「そうだね。でも僕は人間じゃないから【普通】を求められても困るよ」


 ヴィンセント・ローゼンハインは外法だ。

 仲間を裏切り、自分の同胞たる外法を狩っている享楽主義者。悪名高い同族殺し。彼は自分の命を繋ぐ為に外法狩りをしていると聞いた。

 ルイスはヴィンセントが理解できない。自分の生の為に他人の生を奪う神経が分からない。


「あんたの話には付いていけない……」


 もうこの件に関してヴィンセントに関わりたくなかった。ルイスは今度こそ部屋の扉に手を掛ける。


「ねえ、ルイスくん。高がこんなことで心を乱していたら、君はすぐに死んじゃうよ」


 安静に心穏やかに過ごせと医者からは言われている。

 心を乱して発作を起こせば寿命が縮む。これは物の例えでも冗談などでもなく、ヴィンセントと関わることはルイスの寿命を縮めることだ。






 その後、部屋に戻って何度か時計の針が一周しても眠気が訪れることはなかった。

 夜風に当たろうと開け放たれたままの窓辺に行く。

 冷たい風が頬を撫でる。

 どれだけ寒くても窓を開けて眠るのは空気の流れのない狭い部屋にいると、密室に閉じ込められているようで気が可笑しくなりそうなのだ。

 閉所恐怖症のようなものだ。双子の兄すらも知らないルイスだけの記憶が夜毎意識を苛む。


(無価値か)


 【あの日】もヴィンセントはそう言った。無価値なお前が人の役に立てるのだから感謝しろ、と。

 ルイスは過去を思い出す度に闇に取り込まれそうになる。いっそ身を任せてしまえば楽になるのだろうかと思わないでもない。けれど、その先が怖いから留まれている。

 ぐるぐると終わりの見えない思考に釣られるように気分も悪くなっていく。

 中庭に出て気分でも変えよう。そう考えて一階に下りたルイスは肝を冷やすことになる。

 深夜、何とはなしに起きて、階段の裏に蹲っている長髪の女性と遭遇すれば誰だってぎょっとする。


「何をしているんだ」


 なるべく刺々しくならないように注意して、ルイスはクロエに訊ねた。


「……ええと……」

「階段下に座り込んで夜を明かす趣味がある訳じゃないだろ」

「その……離れの扉に鍵掛けられちゃって、帰れなくて」


 泣くに泣けないという様子でクロエは肩を落とした。

 ルイスは呆れた。あの【悪魔】は何処まで子供染みた嫌がらせをしているのだろう。こんな場所で夜を明かそうとしているクロエもクロエだ。

 そういう意味をたっぷり込めて何故と問うと、リビングで明かりを点けて起きていては一階に私室を持つエルフェやレヴェリーに迷惑になると配慮した結果らしかった。


「レイフェルさんに言えば何とかしてくれるんじゃないか」

「うん……でももう遅いし、ローゼンハインさんが怒ったのは私の所為だから、勝手なことしない方が良いかなって……」


 それに、ここなら星明かりが入ってきて明るいから平気。

 そう語るクロエは家から閉め出されることに慣れているように見えた。


「確かに明るいね」


 小さな窓から望める、雲のない空。星と月が眩しいほどに明るい夜だ。

 あんなことがなくとも目が冴えるはずだと感じたルイスは、そのまま階段に腰を下ろした。


「ルイスくん……?」


 並んで喋るほど親しい訳ではない。けれど、全くの他人という訳でもないから離れて座る。


「キミの所為じゃないよ」

「え……?」

「あいつが機嫌悪いのはオレの所為で、キミへの態度はとばっちりだから反省する必要はない」


 謝るのは寧ろこちらの方だと詫びるルイスの言葉にクロエは慌てる。


「そ、そんなこと……! 図々しいことを言ったの私だし、悪いのは私だよ」

「図々しいこと?」

「……紫陽花……欲しいって」


 心から恥じている様子でクロエは小さく言った。

 ルイスは内心首を傾げる。


「そんな言葉、聞いていないけど」

「あれ……?」

「オレがキミにあげたいと思ったからあげた。それだけだ」

「そ、そうだっけ……」


 図々しいことなど何もないのだと伝え、安心させようとしたのだが、クロエは何故か口籠ってしまった。

 また口調が刺々しくなってしまったのだろうかとルイスは考える。だが、クロエを絶句させたのは主にその言い回しの所為だ。

 ルイスは紫陽花のことを考える。

 冬の淑女(マダム・イヴェール)、春の天使スプリング・エンジェル。そんな名を持つ冬紫陽花は、その瞳の色から紫陽花の君と呼ばれる義母と義妹に贈ろうと、馴染みの花屋に用意させたものだ。

 それをクロエに譲ったのは哀れんだから。悪い言葉で言えば、同情したのだ。

 クロエは虜囚だ。許可がなければ外出することすら叶わず、雑用ばかりをして過ごす毎日。

 狭い鳥籠のような場所に閉じ込められて扱き使われる奴隷の悲しい気持ちは痛いほど分かる。


「ねえ、お茶会は楽しかった?」


 ルイスに物事を楽しむ感情などない。だから、代わりの答えを唇に乗せる。


「レヴィとレイフェルさんが犬と戯れて楽しそうだった」

「そういえば犬飼っているんだよね。マロンクリームちゃんとエクレールちゃんとティラミスちゃん」


 クロエはレヴェリーから聞いたらしい名を口ずさんでいき、その途中でこんなことを訊ねてきた。


「訊いて良いことか分からないんだけど、犬の名前って……」

「あれはエリーゼが付けたものだよ」


 やはりネーミングセンスを疑われていたらしい。ルイスは頭が痛くなる。

 菓子に執着しているレヴェリーとエルフェですら唖然とした名前だ。喜んでいるのはエリーゼだけだった。

 ヴァレンタインの別宅には十三匹の犬がいる。十年前、ルイスを案じてヴァレンタイン夫妻は手を尽くした。ルイスの許可がなければ誰も立ち入ることができないティーサロンを築き、記念日の度に犬を贈った。

 最初の三匹はルイスが名を付けたが、エリーゼの物心が付いてからは彼女に任せている。

 シャルロット、ガナッシュ、エクレール、ティラミス、ミルフィーユ、クラフティ、マドレーヌ、オランジェット、ヴァニーユ、マロンクリーム、カスタード、フロレンティーナ・シュニッテン、ガレット・デ・ロワ。エリーゼのネーミングセンスも相当なもので、年々増える犬の名前は凄いことになった。


「そっか、エリーゼちゃんが付けたんだ。可愛いな」

「そうかな……」

「エリーゼちゃんってイチゴの乗ったチョコレートケーキみたいでしょ? そういう名前を付けるのもエリーゼちゃんらしいというか……。あ、勿論変な意味じゃなくて可愛いって意味だよ」


 ヴァレンタイン夫妻も閉口したエリーゼのセンスを、クロエは可愛いと言う。

 だが、あれは可愛いというのではなく、世間知らずで浮き世離れしているというのではないだろうか。


(毒気がない)


 クロエは少々、毒気が足りないようにルイスは感じてしまった。

 だからこそあの人見知りの気があるエリーゼもクロエに懐く素振りがあるのだろうが、これでは本当にヴィンセントに虐め倒されてしまいそうだ。

 かといってクロエに報復を勧める気になれないルイスは、エリーゼからの言伝を告げることにした。


「エリーゼが次に茶会を開いた時はキミにもきて欲しいと言っていた」

「わ、私が!? 私がお屋敷にお邪魔するのは……」

「別宅はあまり人もいないから大丈夫だよ」


 エリーゼが常に傍に置いているのは主治医ジルベールと、身辺警護兼侍女のビアンカくらいだ。人の多い場所が苦手なようなクロエも、別宅ならあまり気を遣わなくて済むだろう。


「うん、じゃあ次はお邪魔させて貰うね」


 先程より幾許か明るくなった声。

 けれど、どうせ朝になればまたヴィンセントに虐められて萎んでしまうのだろうなと、ルイスは冷たく考えた。

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