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林檎の木の下で  作者: 瑠樺
三章
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閑話 Croquer la Pomme 【6】

 このようなことがあっても良いのだろうか。この世の中でこんなことが許されても良いというのだろうか。

 誰か止める者はいないのか。仁の道を説いてくれる者は何処かにいないのか。

 クロエは逃げ出したい衝動に駆られながらも、従僕として与えられた仕事に取り掛かる。


(……夢に見そう……)


 綺麗に装飾されたチョコレートがゴミのように落ちてゆく。

 これからこのチョコレートはフードプロセッサーで粉々に砕かれる。砕かれたチョコレートは一度鍋で溶かされ、裏漉しして不純物を取り除かれる。そしてパティシエの手によって新たな命を吹き込まれ、チョコレートケーキに生まれ変わるのだ。

 クロエは悪魔に騙された女性たちの悲しみが籠もったチョコレートケーキを食したくはない。


「作業は順調に進んでいるようだね」


 チョコレートをフードプロセッサーに投下するクロエをヴィンセントは満足顔で見守っている。黒さがなくて却って禍々しいような歪んだ笑みを浮かべ、クロエを監視している。


「でもさあ、僕みたいな美形は何しても許されるから人生得してるよね」

「自分で言わないで下さい。私はローゼンハインさんを許せないことばかりなんですけど」

「何か言った?」

「空耳じゃないですか?」


 もう軽蔑も底辺に辿り着いた。これ以上失望しようがなくなったら、あまり怖くもなくなった。今はひたすら不愉快だ。

 何故クロエがこれほどまでに歪んでしまったかというと、原因はヴィンセントにある。

 ヴィンセントはクロエが贈ったチョコレートをその他大勢の処分品と混ぜて、砕けと命じてきたのだ。折角の花も何の嫌がらせなのか、雪の中に植えられていてすっかり萎れてしまった。

 朝一で雪の中に突き立てられた赤いダリアの花を見た時は、クロエも唖然とした。


(大人げない人だとは分かっていたけど……)


 子供の嫌がらせでももっとまともなことをするだろうとクロエは呆れる。チョコレートだってそうだ。

 己の手で処分させられるとは思いもしなかった。処分するにしても、せめて一つくらいは手を付けてくれても良いではないか。


「お一つだけでも食べて下さいませんか?」

「嫌だよ。毒盛られていたら怖いしね」

「わ……私は、そんなことしません!」

「分からないなあ。最近の君は生意気だから信用ならないよ。まあ、元から信用してないけどね」


 もう涙も出ない。代わりに笑えてきた。

 人間は想像を絶する事態に遭遇した時、心の均衡を保つ為に笑う。今のクロエはその状態に近い。


「あの、チョコレートケーキは召し上がるんですよね?」

「何で?」

「だってあの【エルフェさんのケーキ】ですよ? 甘いもの嫌いのローゼンハインさんだって【エルフェさんのケーキ】なら食べられますよね」

「うん、エルフェさんのケーキなら食べられるよ。でも、折角のエルフェさんのケーキだけど、僕は特別に君に譲ってあげようと思うんだ。僕も主人としてたまには使用人を労わないとね。それにしても、エルフェさんのケーキを食べられるなんて君は恵まれた使用人だよねえ」

「な…………」

「素晴らしい主に仕えられてメイフィールドさんは幸せ者だなあ。羨ましいくらいだよ」


 どす黒い笑みに、クロエは胃が縮むのを感じた。

 クロエはそうして絞られた胃の更に奥の腹の底から湧き上がってくるどす黒いものを必死で呑み下し、顔に愛想笑いを張り付けた。


「あの……では、美味しい紅茶を淹れますので付き合ってくれませんか……?」

「あはは、なんで僕が君なんかに付き合わなきゃならないわけ? 使用人らしく立場弁えなよ」

「そうですか、残念です。本当に」


 どす黒い影を背負って微笑み合うクロエとヴィンセントだった。






「何だよこれ!? めっちゃ恥ずいんだけど!?」


 夕暮れ時のリビングに少年の絶叫が響く。

 声の主はこの世の終わりのような顔をして鏡を見つめていた。


「前髪くらい良いじゃない。一週間で戻せるんでしょう?」

「オレは前髪が命なの!」


 可愛らしいヘアピンで前髪を横に分けられたレヴェリーは鏡の前で動けないでいる。目は血走り、唇からは色が消えている。身体も小刻みに震えていた。

 何故こうなったかというと、ショコラトルデーの勝負の勝者であるヴィンセントが、敗者であるレヴェリーに「鬱陶しい前髪を切れ」と命じたからだ。

 しかし、それはあまりに理不尽だとクロエとエルフェが止め、妥協案として一週間ヘアピンで前髪を横に纏めることになった。


「こんなんで店に出るくらいなら死んだ方がマシだ……!」


 オレは誇りを守って死ぬ、と今にも血迷いそうなレヴェリーをクロエは必死で止める。


「レヴィくん落ち着いて。レヴィくんは前髪があってもなくても可愛いと思うよ」

「可愛いとか言われたくねーよっ!」

「え、ええと……それにちょっと大人っぽく見えるよ。前髪を整えると幼い印象が消えるよね」

「幼い? オレって幼いとか思われてんの!?」


 レヴェリーの肩を掴んで宥めようとしたところ掴み返され、失言に気付いたクロエは焦る。


「だ、大丈夫! レヴィくんが私より誕生日早いの知ってるし、それに私より身長高いじゃない!」

「クロエより低かったら男として生きてる意味ねーよ!」


 クロエはジャイルズ人の平均よりも小柄な体格だ。そんな女性に励まされても、励ましになるどころか哀れみだとレヴェリーは嘆いた。


(どうしよ……)


 クロエがヴィンセントに抗議しようか考え始めた時、ある意味レヴェリーを動かすのが上手い人物が帰宅した。

 中庭に通じる戸口から入ってくるルイスにクロエは声を掛ける。


「お帰りなさい」

「……ただいま」


 自分の家でもないのに「ただいま」と言うものなのかと考えている様子で、複雑そうな声だった。

 そんなルイスはすぐに【それ】を見付ける。


「レヴィ、それ何? 女物の髪留めを着ける趣味があったのか?」


 面妖な趣味を持つ片割れへの軽蔑と、理解の範疇を越えたものを見た恐怖でルイスの声のトーンが落ちている。


「ば、罰ゲーム……。チョコレートの数負けた……」

「そうなんだ……」


 ルイスは見るに堪えないものを見てしまったように視線を逸らし、嘆息した。


「そのブリザードな反応、一番堪えるぞ……? 笑えよ……いっそ笑ってくれよ……!?」


 いっそ笑ってくれたら開き直ることもできた。それなのにクロエもルイスも腫れ物を触るような扱いをするものだから、繊細なレヴェリーは傷口に塩を塗り込まれている。

 変わり果てた兄を見つめる弟の瞳には沈痛な色はないが、それでも幾許かの肉親の情は存在するのか、ルイスは絶望の淵にいるレヴェリーにこんなことを言った。


「レヴィはその方が利発そうに見えるよ」

「利発?」

「前髪がないと雰囲気がさっぱりして賢そうに見える。それならオレも【兄さん】だって認めても良いかな」

「ほ、本当か? また兄ちゃんのこと【兄さん】って呼んでくれる? 昔のこと許してくれる?」

「……考えとくよ」


 それで大丈夫なのかとクロエが恐る恐るレヴェリーを見やると、意外にも満更でもない様子だった。

 機嫌を良くしたレヴェリーは店の片付けを手伝ってくると、弾む足取りでリビングを去った。


「乗せるの上手いですね……」

「あんなにうるさく喚かれたら近所迷惑だ」


 流石は血を分けた兄弟というところか。何だかんだでルイスが一番レヴェリーを宥めるのが上手い。レヴェリーが落ち込んだ際は慰めるより、褒めて煽てて惑わせた方が良いのだとクロエは学んだ。


「そういえば、この前エリーゼちゃんに会いましたよ」

「エリーゼに?」

「ディヤマン通りでお母様と一緒に」

「ああ、あの日か。キミと話せたから喜んでいたのか」


 あの日はエリーゼの機嫌が良かったらしく、ルイスは疑問に思ったのだという。

 彼女の機嫌が良かったのは兄と過ごせたからだろうとクロエは思いながらも、それは口にしない。


「お母様、綺麗な方ですね。ドレスも素敵でした」

「……そう」


 以降、途切れる会話。

 クロエは何か話題がないかと探すが食べ物や天候のことしか話題がない。先日、取り付く島もなく切り捨てられたことが堪えているので逃げ腰になる。

 すると、そんなクロエにルイスはあるものを差し出した。


「これをキミに」


 黒いショップバッグを渡され、クロエは目を瞬かせる。


「あの、これは? 私、何かお使い頼みました?」

「ショコラトルデーの贈り物。チョコレートワインならキミも飲めると思ったんだ」


 いつも有難う、と渡されたのは青い花とラッピングされたワインボトルだった。

 ボトルよりも釘付けになったのは青い花だ。


「これ……薔薇……?」


 花弁の多い花の青のような白のような淡い色は、太陽が沈み月が昇る前の空のような優しく溶けた色。その蒼白さと頼りない樹形の儚さに、思わず庇護欲を掻き立てられるような薔薇だ。

 思わず見上げると、今度は夜空のような色と出会った。


「どうしてです……?」

青薔薇(ブルーヘブン)がキミに似ているから」


 耳に届いたのは女心を擽る甘い美声。

 そのような気障な台詞を顔色一つ変えず言えることにも驚いたが、クロエはまず言いたい。


「……なんで……なんで貴方は今頃帰ってくるんです!? ミキサー掛けちゃったじゃないですか!」

「ミキサー?」

「フードプロセッサーです! チョコレート砕いちゃったんです!!」


 ルイスの為に作ったチョコレートは、ヴィンセントのチョコレートと共に木っ端微塵で今は鍋の中だ。

 贈り物を貰った嬉しさよりも、お返しができない虚しさの方が遥かに強い。


「良く分からないんだけど、花が気に食わなかったのなら謝る」

「あの、だから花じゃなくて……」

「ならワインか。好みを知らなかったとはいえ、勝手にごめん。シャンパンに変えてこようか」

「だ……だから、違うんですってば!」


 嬉しい。花は嬉しい。一輪でも凄く嬉しい。例え野の花だったとしても嬉しくないはずがない。

 だが、間が悪い。昨日の今日でこれはない。


「ちょっとメイフィールドさん、奇声上げるの止めてくれない? うるさいよ」

「ローゼンハインさんは黙ってて下さい!」

「うわ、切れてるし」


 クロエだって叫びたくもなる。

 企業戦略によるイベントに興味がなさそうだからと処分したのに、どうしてこの人はこういうことをするのだ。自分の軽率な行動と、彼の読めない振る舞いに泣きたくなってきた。

 打ち震えるクロエの横までやってきたヴィンセントは、テーブルの上のボトルを見て僅かに目を見開いた。


「へえ、チョコレートワインなんて珍しいもの良く手に入れたね。探すの大変だったんじゃない?」

「造酒関係の知り合いがいただけですよ」

「飲んでみたいなあ」

「その人にあげたものですから、そちらから許可をもらって下さい」


 酒好きとしてチョコレートワインに興味があるのか、ヴィンセントはワインを狙っていた。

 チョコレートを処分するような人にあげるものかとクロエが睨み上げると、ヴィンセントは意地悪く笑んだ。


「二度ダメージ受けたって顔してるね。好い気味だ」

「ローゼンハインさんにだけは言われたくありません……」


 一度目の致命的なダメージを与えてくれた男が何を言っているのだ。

 昨晩、酷い攻撃を受けたからクロエは自暴自棄になっていたというのに、ヴィンセントはまるで罪の意識を感じていない様子だ。


「大体さあ、四股なんてできる訳がないんだよ。せめて二股にしないと」

「私はそういうつもりじゃありません!」


 今回の贈り物は感謝のつもりだと――誰にも興味はないのだと――言ったはずだ。

 クロエが必死でヴィンセントに抗議をしていると、今度は横からとんでもない言葉が突き刺さる。


「キミはそんなことしているのか」

「はい!?」

「オレはキミが何処で何をしようが構わないけど、自分の安売りは止めた方が良いと思う」

「だから貴方はどうして人の言葉をそのまま受け取るんです? 安売りして誰が買います……?」

「世の中にはキミみたいな奇特な人もいるよ」

「貴方、私に何か恨みでもあるんですか」

「キミこそどうして人の発言を一々歪めて受け取るんだ」

「元はといえば誰の所為ですか。貴方たちの所為ですよ!?」

「え、僕も入るの? 責任転嫁は止めて欲しいなあ」


 もう嫌だ。この二人に関わって胃が痛くなったり心臓が痛くなったりするのは嫌だ。

 クロエは今日はもうこの二人に関わり合いになりたくないと距離を取る。


「チョコレートワイン一緒に空けるくらいしたら? 女の子の怨みは怖いよ?」

「良く分かりませんが、先輩だけには言われたくありません」


 問題が発生しても仲裁してやらないと決めて、クロエは逃げるようにその場を去った。






 中庭を突っ切って向かったのは離れだ。

 一人になりたい時は自室に戻るに限る。

 むかついた気分も冷めやらぬまま、クロエは青薔薇を一輪挿しに挿した。そこには既に二輪の花がある。

 捨てられた赤いダリアと、渡せなかった紫の薔薇。そして、貰った青の薔薇。

 華やかな赤に、高貴な紫に、儚げな青。

 統一感の欠片もない一輪挿しの様子に、クロエは思わず溜め息をついてしまう。色々なものが入り乱れたその様子は砕かれて混ぜられたチョコレートと同じようで、またクロエの心の中とも何処か似ていた。

 自分の存在価値が分からず、不安で仕様がないなら恋愛をしてみれば良いとある医者が言った。

 けれど、あの二人だけは絶対にない。あって堪るかと思う。

 何も知らぬ女がヴィンセントのような悪党に惚れて火傷をするように、ルイスに触れた女は凍り付きそうだ。火傷や凍傷を負うのはクロエは嫌だ。そもそも、二人に特別な感情を抱くのは絶対に有り得ないと思う。

 クロエが愛する平凡から二人は遠い位置にいる。自ら災厄に近付いてはそれこそ火取虫だ。

 けれども。

 憎めなかったり、放っておけなかったり。相手が悪い男だと分かっているのに彼等に構ってしまう辺りで、クロエはもう泥沼に足を踏み入れているに等しい。


「もう懲り懲り」


 苦い、とても苦いショコラトルデーだった。

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