閑話 Croquer la Pomme 【5】
「馬子にも衣装なんて失礼なこと言って済みませんでした!」
四日振りに帰ってきたヴィンセントに対しクロエが初めに向けた言葉は謝罪だった。
普段通りの姿に戻ったヴィンセントは、その清らかな容貌からは掛け離れた禍々しい表情を浮かべる。
「折角忘れてたのにまた思い出させてくれるなんて君は僕に喧嘩売ってるわけ?」
「い、いえ……まさか……!」
凶器を出すほどに怒っていたというのに忘れていたという事実には驚いてしまう。
恐怖で顔を赤くしたり青くしたりしながらクロエは必死で首を振る。
「お忘れになっているとは思わなかったんです」
「僕は心の広い男だよ。でも、一度終わったことを蒸し返されるのは凄く嫌なんだ」
「ローゼンハインさんは良く昔のことを蒸し返すじゃないですか……」
「僕は別に良いの。人からされるのが嫌なの」
実にヴィンセントらしい理不尽さだった。
この男はどれだけ自分本位なのだろうか。傍迷惑な自己中心思考もここまでいくと、もう呆れるよりも感心するしかない。だが、今は感心するよりも非礼を詫びることが重要だ。クロエは深く頭を下げた。
「ローゼンハインさんが話を蒸し返されるのが嫌だということは良く分かりました。だけど、謝らないと私の気が済まないんです。この前は口が過ぎたと思っています。本当にごめんなさい」
「うわ、最近生意気だった家政婦がいきなり殊勝になると気持ち悪いんだけど。空から槍でも降ってきそうだよ」
髪を引っ張られ、暴言を浴びせられても仕方のないようなことをクロエはヴィンセントへ言った。分を弁えろと言われても仕方がない。
「まあ、僕としては君はあれくらいで良いんだよね。従順な子を甚振るよりも、生意気な子をあらゆる手を使って屈服させる方が楽しいし、虐め甲斐もあるっていうかさ。それに反抗的な子の方が嗜虐心も擽られるしね」
(……歪んでます、ローゼンハインさん……)
歪みない悪党振りに胸が生暖かくなったクロエだった。
重たい前髪越しに顔を見上げる。こんなに近くで向き合ってもクロエはヴィンセントが分からない。
見る角度によって緑にも黒にも映えるピーコックアイは優しさと冷たさを内包している。美しい人こそ残酷だと、クロエは先の事件で思い知った。
誰かが傍にいる時に会話を交わしたり向き合うことなら恐怖は感じないが、やはり一人でヴィンセントと向き合うのは怖い。
視線を逸らして謝罪をするのは失礼に感じて、クロエは懸命に視線を上げた。
「良いよ。僕も悪乗りしてからかいすぎたし、ちょっと大人げなかったよね」
ヴィンセントの言葉にクロエは思わず涙ぐむ。
人と人は話し合えば分かり合えるのかもしれない。例え何度裏切られても、諦めずに語り掛ければ気持ちは通じるのかもしれない。
(ローゼンハインさんだってきっと……)
しかし、ヴィンセントが聞き分けの良い時は何かがあるのだ。
クロエはそういうところは未だにさっぱり学習していなかった。
「そういえば、その紙手提げって何です?」
帰宅した直後、ヴィンセントがソファに放り投げていった紙手提げ袋の中身が気になったクロエは訊ねた。
「チョコレート」
「そ、そんなに貰ったんですか!?」
「これくらい普通だよ」
僻んだりする気持ちもなく、クロエは素直にヴィンセントが凄いと思った。
「今年はレヴィくんに何させようか本当に楽しみだなあ」
「は、はい……?」
「贈り物の数で勝者が敗者に三日間命令できるのがうちの決まりだよ」
本日、ヴィンセントの機嫌が良いのはレヴェリーを苛める内容を考えているからだ。
クロエはヴィンセントを信じた自分が莫迦だったと己を呪うしかなかった。
*☆*――*☆*――*☆*――*☆*――*☆*
キャラメル、アーモンド、ブランデー、マーマレイド。ショコラトルデーのチョコレートは、男たちがそれぞれ好きなものを入れて作ってみた。
クロエはまずレヴェリーに渡すことにした。
「レヴィくん、いつも有難う。これからも仲良くしてね」
「めっちゃ嬉しい! サンキュー!」
夕食後、恒例となった菓子攻めを受けていたレヴェリーは満面の笑みを返してくれた。
ただ、花を貰ったことには戸惑った様子で、枯らしてしまうからとダイニングテーブルの花瓶にチューリップを挿してしまった。
「一応お返し。いつもありがとな!」
「え……私に?」
「研究してるって言ったじゃん」
ショコラトルデーとはメッセージカードや花束を贈って感謝を伝える日だ。チョコレートと共に愛の告白をする為だけのイベントではない。
レヴェリーは雑誌や料理本で研究していたのだ。それほど手間暇を掛けたものを贈られて、クロエは胸がいっぱいになった。
「昨日クロエに味見してもらったから少しはまともになったと思うけど、不味かったらごめんな」
「レヴィくんが作ってくれたものなら嬉しいよ。本当に有難う」
チョコレート味のカップケーキだという贈り物をクロエは嬉しく受け取る。こちらを慮ってくれたというその気持ちが嬉しかった。
「エルフェさん、チョコレート作ってみました」
いつも有難う御座います、と恐縮しながらチョコレートを渡すクロエをエルフェは意外そうに見る。
薄氷色の双眸に見下されている感覚に、緊張感を味わいながらクロエはそっと顔を上げる。
「あの、受け取って下さいますか……?」
「ああ、貰おう。感謝する」
無愛想な返事だったが、受け取ってもらえた事実にクロエはほっとした。
「メイフィールド、入り用の物とはこれのことだったのか?」
「折角頂いたお金を下らないことに使って済みません」
生花は高級品だ。包装された一輪のカーネーションを見てエルフェは呆れ顔だった。
従僕の分際で金の無心をし、挙げ句に高級品を買ってきたクロエにエルフェはさぞや失望しただろう。クロエは咎めの言葉を待った。
暫しの沈黙の後、エルフェから返ってきたのは労りの言葉だった。
「これではあんたにやった意味がない」
「私がやりたくてやったことですから、私の為に使ったのと同じです。浮ついたことにお金を使って済みません。これからもっと頑張って働きますね」
エルフェとメルシエに恵んでもらった金はクロエの三ヶ月分の小遣いに相当する。
これからは寝坊や料理の失敗をしてエルフェに迷惑を掛けないようにしなければならない。
そうして決意を新たにするクロエに、エルフェは返礼の話をした。
「礼はチョコレートケーキで良いか?」
「え……っ、お返しなんてとんでもないです!」
「誠には誠を以て応えねばならん。仁とはそういうものだろう」
「いいえ、大袈裟ですよ!」
チョコレートで仁の道を説かれるは思いもしなかったクロエ。しかし、恐怖したのは別のことだ。
そのチョコレートケーキとは、ヴィンセントの余りものを使用するという噂の怨念チョコレートケーキのことだろう。ノエル前に聞いた話を覚えているクロエはざっと青冷めるが、エルフェはその理由に気付かない。
「しかし、借りをそのままにしておいては俺の気が済まん」
「じ、じゃあ、楽しみにしてます……」
ショコラトルデーの贈り物が【借り】とは大袈裟だ。
色々な意味でクロエはエルフェの前に平伏したい気分だった。
残るチョコレートと花は二つになり、クロエの緊張もピークだ。
残りの二人はレヴェリーとエルフェのように一筋縄ではいかない相手であり、自身をろくでなしや問題児と自覚している困った二人である。覚悟を決めてクロエは手前の部屋をまず訪ねた。
「君みたいな上から下まで平面女に夜這いされても嬉しくないし、鬱陶しくて殺したくなるんだけどなあ」
「まだ皆さん起きていますし、変な意味じゃありません」
「男の部屋に入り込むのに時間は関係ないじゃない。声を殺せば何だってできるよ」
他に誰がいようと関係ないという言葉には物騒なものが含まれている。
皆の前でも平気で殺せると暗に言われているようで、クロエは萎縮した。
「ショコラトルデーなのでどうぞ。ここに置いておきますね」
「へえ、僕に甘いもの寄越すなんて嫌がらせ?」
「お酒を使って甘くないようにしました。それに甘いものだけじゃありません」
「ダリアねえ。こんなことしても君の待遇は良くならないよ? この前、格上げしてあげたばかりだしね」
「媚びなんて売っていません。私は皆さんに感謝を伝えたかっただけです」
クロエが屹然と告げると、ヴィンセントは値踏みするような目をした。
それは猫が鼠を見付たような眼差し。ヴィンセントの目は瞳孔がはっきりしているので、夜闇の中で見るそれはぞっとするものがある。
クロエは扉を背に、いつでも逃げられるように構えた。
「君は【黙ってさえいれば】なんて思う相手に感謝する気持ちなんかあるんだ?」
「それは……だから、そういうことじゃないんです……」
「じゃあ、どういうつもり?」
「ローゼンハインさんは綺麗なのに、どうしてあんなお仕事をされているのかと思ってしまって……」
黙っていれば俳優でもしているように見えるのに、実態は凶器を手に嬉々として人を傷付ける悪党だ。
恵まれた容貌を持っているのにどうして。
あれは、日頃から感じている疑問がつい口に出てしまっただけなのだ。
もしクロエがヴィンセントほど恵まれた容姿をしていたら、どのような生まれでも人生を謳歌していると思う。
ヴィンセントにとっては人斬りが【面白いこと】なのかもしれないが、それは美しく生まれた者が謳歌すべき幸せな人生とは何かが違う。クロエがそんな思いを抱いて批難めいた視線を向けていると、ヴィンセントはくつくつと喉を鳴らした。
「メイフィールドさん、人は顔の作りじゃないんだよ。顔よりも肌の色とか髪や目の色の方が重要なんだ」
「え……?」
「売ると高いのは金髪碧眼とか紫眼。アルビノもマニアには受ける。でも、僕みたいな眼球は価値がない」
見る角度によって黒や緑に色を変えるピーコックアイは人間のものでも人形のものでもない。それはヴィンセントの魅力の一つでもあるので、クロエも本人がその魅力を自負しているものと思っていた。
「美しくなければ生きている意味なんてないのに様はないよね」
「ローゼンハインさん……」
金髪碧眼の癖につまらない顔をして、とヴィンセントに言われたことがある。もし彼が自分の目の色にコンプレックスを持っているとすれば、恵まれた色彩を持ちながらもそれを活かせないクロエは腹立たしい存在なのかもしれない。
ヴィンセントにも人間らしい悩みがあるのかと、クロエは期待のようなものを持って視線を上げた。
しかし、そこにあるのは変わらない美しくも残酷な悪魔の顔だ。
「僕は別に悲観はしてないよ。君みたいにぐずぐず俯いて生きるほど自分に自信がなくもない。それにこの顔のお蔭で女の子が沢山寄ってくるから楽しませて貰ってるしね」
「……そう、ですか」
そうしてうなだれたクロエに、ヴィンセントは機嫌が良い時の声でこう訊ねた。
「お返しはどうしよう? そこから好きなチョコレートでも持ってく?」
「要りませんよ……」
クロエは疲れた気持ちで首を横に振った。
他の女性の気持ちが込められたチョコレートを食べられるほどクロエは心が逞しくはない。謹んで遠慮する。
「うーん、だったら一晩中偽りの愛でも囁いてあげようか?」
「そ、それはもっと要りません……!」
偽りでもそんなことをされれば心臓が止まる。
ときめきより恐怖で心臓が壊れると思ったクロエは、ドアノブに手を掛けた。そんな生娘をからかうのが楽しいのかヴィンセントは笑っているので、クロエは疲れを感じる。
「というか、君、興味ないよね?」
思い掛けない問いに、クロエは首を傾げた。その拍子に肩に乗っていた髪がさらりと落ちる。
「少なくともエルフェさんとレヴィくんには興味ないのは分かるよ。君たちはなんだか家族みたいだし」
「安心して下さい。私はローゼンハインさんにも興味ありません」
本能的に恐怖を感じる相手に浮ついた興味など抱ける訳がない。
メルシエの言う可愛い駄目男の範疇を軽々と飛び越しているヴィンセントをクロエはじっと睨む。
「ふうん……? じゃあルイスくんは?」
「あの人はそういう以前の問題です」
会話がまともに成立しないのにどうしろというのだ。ヴィンセントはクロエがエルフェとレヴェリーに興味がないと言ったが、クロエからするとヴィンセントとルイスの方が問題だ。問題が有りすぎて興味を抱きようがない。
そうきっと。絶対に。
妙なことを決め付けられて腹が立ったクロエは「有り得ない」と心の中で呟いた。
「恋も知らない一生なんて、つまらない顔に似合ったつまらない人生だね」
「私は一生従僕なんですよね。もう人生が決まっているんですから、そういうこと言わないでくれませんか」
「そうだね。君の価値は僕たちに使われてこそ発揮されるものだから、余計なことは考えなくて良いよ」
哀れな娘だ、と。
恋を知らないまま老いてゆくことを嘲笑うようにヴィンセントは冷たい声で吐き捨てた。
ショコラトルデーなのに何故こうも苦い気持ちになるのだろう。廊下に出たクロエは思わず溜め息が出る。
早く用事を済ませてしまおう。そうして隣の部屋をノックしようとしてクロエは気が付く。
(そうだ、あの人まだ帰ってきてないんだ)
挨拶もなく別れた為に、クロエはルイスがいつ帰ってくるのかを訊いていなかった。
(……ううん、訊かなくて良かったかもしれない)
ルイスは製菓業界トップの【ヴァレンタイン社】の人間だ。企業戦略によるこの手のイベントを、最も冷めた目で見ている存在だろう。
部屋に置いていくことはしない。そして、もし明日帰ってきたとしても渡さない方が良い。
辛辣に突き返される、若しくは黙殺されるのがありありと想像できる。ヴィンセントに胸を抉られた後でそのようなことをされれば、クロエは立ち直れる自信がない。
(うん、やめよう!)
身の置き場が何処にもなく、何処にも居場所が見付け出せない。己の価値が分からない。彼はこの自分と少しだけ似たところのある人なのではないか。そんな勝手な思いがあるからか、クロエはルイスに突き放されると辛く感じる。
火取虫ではないのだ。自ら氷雪の吹き荒ぶ中に飛び込んで凍り付く趣味はない。